だめライつれづれ。



「人兎伝による山月記」

 残月の光を頼りに林中の草地を通っていったとき、果たして一匹の猛虎が草むらの中から

躍り出た。虎は、あわや自分に躍りかかるかと見えたが、僕はたちまち身を翻して、草むらに

隠れた。 「危ないところだった」。繰り返しつぶやくうちに急に涙がこみ上げてきた。

 ここは中国、河南省内郷県の西。一年前には日本にいた。その頃人生で最も楽しいと言わ

れている時期の後半にさしかかっていた僕は、中島敦の「山月記」に触れ、李徴はまさに自分

だと思った。海を渡り、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと

目を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中

からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けていくうちに、

いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を掴んで走っていた。何か

体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えていった。気が付くと、手先や肘

の辺りに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると既に兎と

なっていた。

 どうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、自分は茫然とした。しかし、なぜこんなこと

になったのだろう。

 「山月記」に触れたとき、李徴の自尊心は自分にも相通じるるところがある、と思った。が、今

になって考えてみると、自尊心というのは誰にでもあるのではないだろうか。その形態や大小

はいづれにせよ、「プライド」をもたないものはいない。それがどのような自尊心なのか、それも

さして重要なことではないように思われる。自尊心は、いづれも、自尊心だ。なぜこんな運命に

なったのか。考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。 人間であったとき、自

分はあふれる情報の中にいた。情報化社会という世界の中で人間は、本来自分達が操るため

に生み出したはずであった情報に操られ始めていた。それらの情報は次第に人間の感情まで

も支配するようになり、一方で人間は自分の性情を簡単にコントロールできるようになってしま

った。猛獣であったはずの自己の性情、そして欲望は、現代社会において、兎になった。

 本来虎となって兎を追い回すはずだったものが、今、兎となり、虎から逃げ、恐れている。現

代社会においても、科学技術や世界の進歩は、外面の利便、強さのみを追求し、内面の弱さ

の助長を無視した。 その結果、本来人間のあるべき姿、状況を全く逆のものにしてしまってい

る気がしてならない。

 獣に追われ、草むらに身を隠しながら、この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのに、誰一人と

して解ってくれるものはいない。いや、こちらを見ることさえしない。ちょうど人間だった頃、その

ような内面をだれも見ようとせず、無視していたように。僕の毛皮の濡れたのも、夜露のためだ

けではない。

 辺りの暗さが増してきた。僕にとってだけでなく、現代社会のすべての人々にとって、これか

らが最も危険なときであり、月が沈み日が昇る明日があるかどうかの、最も重要な時なのだ。

 僕は草の茂みから道の上に躍り出て、明るく光る月を仰いで、またすぐにもとの草むらに躍り

入って、再びその姿を見せなかった。


 【オリジナル出典】 中島 敦 「山月記」 → 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp


 「トロンボーンとは何ですか。」という質問に対して、どれだけの人が正しい解答を示すことが

できるだろうか。

 「楽器でしょ」という答を出す人はたくさんいるのではないか。しかし、実際に絵を描いてみて

下さい、というと、おや、正答者はやや減るのではないだろうか。

 トロンボーン。それは皆の中に知識としてそういうものが「ある」ことは知っている。そしてそ

れを実際に見て確かめることもできる。

 誰もがその存在を知っていて、自分の中で過去に必ず確実にその姿を確立しているもの。そ

して変わることが無いもの。世の中の「物」はほとんどがそうであろう。

 その中で、こんな不思議な物があることを見つけた。―――誰もがその存在は知っているの

に、実物を見たことがないもの。なのに全ての人々の頭の中に明確なイメージが出来上がっ

ているもの―――

 かつて大統領の不倫疑惑に揺れたホワイトハウス。渦中のクリントン大統領の赤裸々な調

書がインターネットで公開された。その内容も驚くべきものであったが私はその驚きの内容の

中にその「あるもの」を見つけた。

―――核ボタン。

まわりの人に「核ボタンってどういう物?」と聞いてみた。

「引き出しを開けると出てくる」「大きな机に赤いスタートボタン」「透明防御ケース入り」「側近

が持ってくる」「暗証番号をキーボードで入れると扉が開いて出てくる」「リモコン式アンテナ付

き」「上から下りてくる」「大統領しか知らない隠し扉の中にボタンだけある小さな部屋」・・・

 「核ボタンは....」と語り始めると、他の者が「それは違う」と割って入る。「隠し扉があってな、

その場所は大統領しか知らないんだよ」と、まるで実話でみたことがあるかのように語るので

ある。

 その共通点は、「ボタンが赤い」「一つだけで、押せば勝手に目標へ飛んでいく」

 確かめたい。でもそれは叶わない。この気持ちはどうすればいいんだろう?

 そんなときは興味を他に移すしかない。じゃあ心理テストへ応用しよう。核ボタンの位置はき

っと自分の秘密の隠し場所に一致するんじゃないか・・・。

 大切な人に、ちょっとしてみたい質問かもしれない。

 電話ボックスに何人まで入ることができるか、という実験が行われていました。・・・せいぜい

4人か?・・・いや2人でもきついか・・・?とか、想像は膨らみますが、これがまた、結構入ること

ができるんです。色々なところから集まってきた様々な人たちがすっごく一生懸命になって必

死に入ると、8〜10人も入ることができるんです。もう、きっと中では大変な騒ぎなんでしょう。

 それがですよ、その実験に参加した人たちを1時間程ある部屋に集めて、しばらく自由にお話

しする時間を設けるんです。で、もう一度同じ実験をするんです。そう、電話ボックスに何人まで

入れるかってやつを。するとなんということでしょう、4人しか入れないんですよ、どんなに頑張っ

ても。5人目は踏み込めないんです、場所がなくて。何が起こったんだ? って不思議に思うじ

ゃあないですか。だって電話ボックスは変わってないんですよ。じゃあこの1時間の間に何があ

ったんだ・・・、って。

 そうなんです。この1時間の間に、「赤の他人」が、「知り合い」になってしまったんです。これ

ってものすごく大きな変化なんです。さっきまで10人も入ることができた電話ボックスに4人しか

入れなくなっちゃうくらいに。赤の他人だった1時間前までは、一緒に電話ボックスに入ってい

たほかの人たちのことを「人」ではなく「物」だと思ってた、ってことなんですよ。1時間後に初め

て生まれたものは、「知り合いであるという理由による思いやり」だったんですよ。これ、すごく

大変なことだと思うんです。知り合いになると人は他人に対して優しい気持ちになれる、なんて

心温まる話ではないんです。問題は1時間前なんです。「人」を「物」だと思って押しのけていた

電話ボックスの中の自分、なんです。知り合いであれば到底し得ない酷いことを、赤の他人で

あれば何の躊躇もなくできてしまう、という人間の性質について、なんです。人は多かれ少な

かれそういう傾向を持っていると思うんです。そう考えると、自分がどうしようもなく情けない人

間だっていう気持ちになっちゃうんですけど、正直なところ、万人に対して思いやりをもって優し

く接することって、かなり難しいことだと思うんです。本当の思いやりって何だろう、とか。

 こういうことは日常生活にも転がっているんです。道を歩いていても、電車に乗っていても、運

転をしていても・・・。

 世の中、知らない人の方が圧倒的に多いんです、当たり前ですけど。全員に、とはいいませ

ん。それは無理です。でも、少しでも多くの人に、知り合いと同じ様な接し方ができればなあ、

って最近思います。自分がこんなことをしてるこの人と、もし知り合いだったら・・・、とか、もしこ

こで自分がしたことによってひどい迷惑を受けるのが知り合いのだれだれだったら・・・、とか。き

っと、絶対そんなことはできなくなっちゃう、ってことがたくさんあるんです。それが無理でも、せ

めて時々思い出して考えるべきです、今の自分の「思いやり」の基準で自分の目の前にいるた

くさんの人と一緒に電話ボックスに入ったら、いったい何人まで入れてしまうのか、を。