ナイル河の水を飲んだ者は、遠く離れていっても、やがていつかナイル河畔に戻ってくる。
本当にそうかといわれると、厳密には、そうはいえまい。戻ってくる場合もあろうが、常識的には戻らない場合のほうがはるかに多いと思われる。俗信と言ってしまえばそれまでだが、この種の伝承は他の地域にも見られ、次のような類例が知られている。
「北の水を飲んだ者は必ずまた戻ってくる」(アメリカインディアン)
「ダンボビツァ川の水を飲んだ者はもう一度飲みにやって来る」(ルーマニア)
「ウルバリの水を飲んだ人は、もう一度飲みたくなる」(バスク語)
こうした類例を見ると、そこには、地域をこえて何か共通の心理が働いていることも確かだろう。
まず旅人の側から見れば、かつて水は、時には生死を左右しかねないものであり、現代でも水の印象がその土地の印象に直結することがめずらしくない。うまい水はよき思い出につながり、水のまずい所にはとても暮らす気になれない。「水が合う」とか「合わない」という表現もあるように、水は端的に風土を象徴するのである。
逆に、地元の人間から見れば、水は郷土の誇りであり、その水を飲んだ異邦人が、長い年月を経て再び訪れれば、強い印象が残り、そこに何か神秘的な力を感じ取るのも当然のことかもしれない。
(初出:「朝日新聞」日曜版、2001年1月7日)
舌を使って人に尋ねさえすれば、遠いキエフまでも行き着くことができる。道だけでなく、わからないことがあれば、人に質問してみるがよいということになる。旅の場面で使われるとはかぎらないが、旅とかかわりの深い表現である。
「キエフ」は、現在のウクライナ共和国の首都だが、最初のロシア人国家である「キエフのルーシ」が建設された地で、古くは「ロシアの都市の母」と呼ばれていた。
この国は、十世紀末にロシアで最初にキリスト教を受け入れ、ソフィア大寺院やペチェルスカヤ大修道院が建設された。やがて、ロシア中から信者が巡礼に訪れる地となり、実際に初めての旅でも、行き会う人に尋ねながら旅をすれば、必ず行き着ける都市となったという。
このことわざは、こうした歴史や地理を背景として、ひろくロシア中で使われるようになったものと思われる。
ちなみに、ウクライナ語とロシア語は、同じスラブ系の言語で、おおまかにいうと、関西弁と関東弁程度の違いだから、互いにおおよそは通じ合うという。
ウクライナは、気候が温和で、肥沃な黒土地帯と草原が広がり、「小ロシア」とか「南ロシア」とも呼ばれてきた。ウクライナ人は、性格的には純朴で、人情に厚く、感情的でロマンチックと評されている。かつては、タタール人の支配を逃れ、自由な生活をおくるコサックたちが活躍する地でもあった。
(初出:同上、2001年1月28日)
遠いところからやって来た者は、とかく巧みな嘘をつくものである。フランス語のことわざで、だから、とりあえず用心してかかれ、ということになろう。
スペイン語では「道のりが遠いほど、嘘は大きい」といい、ペルシャ語には、さらにはっきりと旅に関連づけて、「世界を見てきた者は多くの嘘をつく」とするものもある。
確かに、遠い国から来た人が嘘をつくのは、近隣の人同士よりも簡単だろう。地元ならすぐに馬脚をあらわすことも、遠く離れていると、本当かどうか確かめようがない。嘘かどうかわからないわけだから、誇張や脚色も思いのままで、おもしろい話にしたてやすいことになる。
逆に、話を聞く立場からすると、この種の嘘にはあまり実害がない。自分の利害に直接かかわらなければ、おもしろい話ほど耳を傾けやすいといえる。
今日のように、交通や通信手段の発達していなかった時代、たまたま訪れる遠来の旅人や商人の話は、貴重な情報源であり、民衆の楽しみでもあったのだろう。各国の民話のなかには、「ほら吹き男爵」のように、旅行者の荒唐無稽なホラ話も大いに楽しんでいた痕跡も残されている。
冒頭のことわざも、遠来の人の話をすべて否定するのではなく、一方で嘘が多いからあまり本気にするなと警告しながら、やはりどこか楽しみにしているふしが感じられる。
(初出:同上、2001年2月11日)
女性とともに旅するときは、女性を気づかい、決して急いではならない。イタリアのことわざである。
古いことわざだから、旅も徒歩、とすれば、まず脚力の差が問題だろう。男性のペースで先を急げば、やがて女性はついていけなくなる。歩けなくなった女性を道連れに、旅を続けるのはほとんど無理な話だろう。ならば、最初から女性に合わせて旅するほかはないのである。
時代が下り、徒歩から馬車、鉄道、さらには自動車や航空機の時代になっても、基本は変わらない。同行者に体力差があれば、ハードな行程は避けるのは、むしろ当然ともいえる。
しかし、ことわざが老人や子どもではなく、「女性」だけを挙げているところに注目したい。体力の差よりも、男と女では、時間の感覚が違うのではなかろうか。たとえば朝の化粧や街中でのショッピング----あらかじめスケジュールを決めていても、男の思いどおりになりはしない。そんなとき、せかすのは最低で、へたをすると、ひじ鉄を食らうことになる。もちろん、これはどちらがいいとか悪いとかいう問題ではないが……。
ところで、このことわざを教えてくれたフィレンツェ出身の女子大生は、イタリアには女嫌いのことわざが多いという。われわれが抱く女たらしのイタリア男のイメージとは逆だ。そして、「このことわざが真実だったことは認めるけど、いまじゃ女よりぐずな男も結構いるんじゃない」と言って、くすりと笑った。
(初出:同上、2001年2月18日)
異国あるいは異民族の居住地に行けば、当然のことながら、母語は通じない。その土地の人々が何を言っているか理解できなければ、はじめから危険を冒すことになりかねず、自分の意志表示ができなければ、とんだ誤解を生むかわかりはしない。だから、まずその土地のことばを知っておくことが、身の安全につながることになる。レバノンのアラビア語のことわざである。
レバノンは面積が岐阜県ほどの小さな国だが、レバノン人はフェニキア人の末裔とされ、古代から国際貿易の表舞台で活躍してきた。
住民はアラブ系が多いが、古くからクルド、アルメニア、トルコなどの少数民族も居住し、また国外に居住するレバノン人も多い。生活レベルで異文化と接することの多い国で、ことわざにも実感がこもっているといえよう。
ところで、わが国のことわざや慣用表現を振り返ると、「言わぬが花」、「言わぬは言うにまさる」、「以心伝心」など、積極的コミュニケーションにほど遠いものが多く、しかも、外国語はほとんど視野に入っていない。強いてあげると、「チンプンカンプン」や「ぺらぺら」といった皮相なもので、彼我の異文化体験の歴史的相違を痛感させられる。
海外旅行に出かけることは簡単になったが、ことばが通じなければ、危険と隣り合わせであることを、あらためて肝に銘じておきたい。
(初出:同上、2001年3月11日)
旅に出るときは、できるかぎり身軽にして、余計なものは持たないがよい。眉毛も抜けというのは、むろん、化粧のためではない。身体の一部で、しかもとても軽い眉毛をわざと引き合いに出して、旅装はなるべく軽くし、最低限必要なもの以外は持つなということを強調している。韓国のことわざである。
旅に出るとなると、途中の食事や天候のことも考えて、あれこれ準備しているうちに、いつのまにか荷物がふくらんでくる。目的地に知り合いがいれば手土産も持ちたいし、昔は、どうせ行くなら、誰それに届けてくれと荷物を託されることも多かった。
しかし、最初は元気に出立しても、時がたつに連れ、ずっしりと肩に荷がくいこんでくる。こんなことなら、最初からもっと身軽にしておけばよかったと後悔しても、捨てるに捨てられない……。
かつて韓国では、交通事情のよくないところが多く、隣の町まで行くにも徒歩で山や峠をいくつも越えなくてはならないことが珍しくなかった。わらじを何足も背中にぶら下げて、ひたすら歩いたというから、誇張表現も実感をもって受け止められる素地があったのだろう。
今日では、道路が整備され、マイカーも普及して、旅の苦労は昔話になった。それでも、韓国の友人によると、車にむやみに荷物を積み込む人などに、いまもこのたとえを用いて注意することがあるという。
(初出:同上、2001年3月18日)
旅の楽しさは、目的地に到着することよりも、見知らぬ土地の風景や食事、未知の人々との出会いにわくわくしながら、旅する道中にある。英語で、比較的よく使われることわざである。
もちろん、道中すべて思いどおり、よいことばかりというわけにはいかない。ひどい食事、思いがけない事故など、時には不愉快なことや辛いこともあろう。しかし、旅には、そうしたことを割り引いてもなお、理屈ぬきに期待に胸ふくらませ、生き生きとさせてくれる何かがあるのではなかろうか。
そう考えてみると、近年、国内旅行の人気がいまひとつふるわないのも、不況のせいばかりではない気がしてくる。トンネルばかりの新幹線、景色の見えない高速道路、どこでも同じような食事など、道中の楽しみをさまたげる条件がいささか多すぎるようだ。旅の楽しみからすると、交通の高速化やマニュアル化されたサービスは、手放しでは喜べないのである。
ところで、このことわざは、旅にかぎらず使われ、比喩的には、目標を達成することよりも、その目標に至るプロセスを楽しむがよい、という意味になる。たとえば、大学卒の免状を得ることよりも、悔いのない、充実した大学生活を楽しみなさい、ということになろう。
『チャタレイ夫人の恋人』で知られる英国の作家、D・H・ロレンスは、このことわざを引きながら、「恋愛はまさに旅することだ」と述べていた。
(初出:同上、2001年4月8日)
これまで知らなかった人でも、たまたま出会って親しく言葉を交わせば、兄弟も同然である。沖縄のことわざで、地元では「イチャリバ、チョーデー」と発音する。いまもよく使われる表現のひとつで、「何の隔てがあるか」(ヌーフィダティヌ アガ)と続けることもあるという(仲村優子『黄金言葉』)。
一昨年の暮れ、所用で初めて沖縄に旅し、たまたま最初に耳にしたウチナーグチ(沖縄語)のことわざがこれだった。遠くからわざわざ来た人に出会ったのだから、歓迎するのは当然、というニュアンスである。
沖縄文化に強い関心をいだいてはいても、残された短い滞在期間に何が可能か、皆目見当がつかなかった私だったが、このことわざには大いに勇気づけられた。そうだ、せっかくの機会だから、伝統文化にかかわる人々をできるだけ訪ね、話を聞かせていただこうと思い立ったのである。
幸いなことに、紹介者にも恵まれ、照屋林助さんや仲村優子さんなど、多くの方々にお会いすることができ、伝統芸能やことわざについて貴重なお話をうかがうことができた。そして、夜ともなれば泡盛が入り、酔うほどに島唄が出て、ウチナーグチが飛び交うなかで、私はこのことわざの意味を何度も実感した。
遠来の客を歓迎する気風は、全国各地にあるだろう。しかし、これほど開放的かつ親しみのこもった表現を私は知らない。もちろん、旅人に限らず使われるものだが、旅人にはことのほか印象深い表現である。
(初出:同上、2001年4月15日)
旅の道連れに恵まれ、楽しい会話がはずめば、長い道中も短く感じられる。旅が徒歩から馬車や船の時代になり、さらに汽車や自動車、飛行機が登場しても、基本的に変わらない心理といえよう。
ドイツのことわざだが、オランダなどにもほぼ同じ表現があり、イギリスやイタリアでは、「陽気な道連れは馬車と同じ」という。徒歩の旅でも、馬車に乗っているように快適、かつ早く感じられたものだろう。
この旅のおしゃべりの相手は、もともと気心の知れた同行者でも、たまたま道連れになった見知らぬ人でもよい。旧知の間柄でも、じっくり話をする機会はなかなかないし、日常生活から離れた解放感もあって、いつも以上に話がはずむ。
また、旅で出会った初対面の人の話にも、強く興味をひかれることがある。生きてきた世界が違い、話が新鮮だから、想像力がかきたてられるのである。一人で黙っていたのでは、苦しかったり退屈だったりする道中も、すっかり楽しいものになり、心は別の世界へトリップできるといってよい。
偶然、近くに座ったことから、思いがけず話がはずみ、機内(車内)のアナウンスでわれに返ると、目的地はすぐそこ。あわてて別れの挨拶を交わした経験が、あなたにもあるのではないだろうか。まさに一期一会で、名前も聞かずに別れても、心地よい旅の余韻が残る。
(初出:同上、5月13日)
門出に月が出ていると、幸先がよい。モロッコのことわざだが、アラブ圏に共通する文化的な背景抜きには、理解しがたい表現である。
今日の日本では、夜だからといって真っ暗になるところはかなり稀だ。どこにでも街路灯があり、車のライトもあるから、天の川さえはっきり見えないところも多い。かつては「いつも月夜に米の飯」が庶民の夢だったが、夜道の月明かりのありがたさなど、忘れられている。
しかし、それにしても、なぜ、月が出ると幸先がよくなるのだろう。旅は夜にするものなのだろうか。
アラブ文化圏は砂漠と密接なかかわりがある。月夜、砂漠とくれば、私たちは「月の砂漠をはーるばると……」という童謡「月の砂漠」を思い浮かべる。
童謡の作詞者(加藤まさを)はまったくの想像で書いたといわれるが、細部は別として、砂漠のキャラバン(昔はラクダ、いまはトラック)が月夜に行動するのは確かなようだ。日中は五十度を越えるから、夜明け前に出発し、真昼はじっと休憩するという。穏やかな月夜のうちに旅程をかせぎたいのは当然だろう。
イスラム諸国の国旗には、イスラム教の象徴として三日月が描かれたものが多い。アラブの過酷な自然のなかでは、太陽は手におえない存在であり、月こそ美しいものの代表なのだ。イスラム暦が太陰暦なのも、季節感の乏しい地域では、むしろ実用的なのかもしれない。
(初出:同上、5月20日)
人間の性格は、旅に出ると、よくわかる。誰かと旅行したとき、同行者の意外な面を目にした経験が、あなたにもあるのではないだろうか。日ごろおっとりとした人が、じつはせっかちだったり、偉そうな人がまるで頼りない姿をさらけ出したりする。旅は、ふだん表に現れない本性まで明らかにしてしまうのである。
イランなどで使われるペルシャ語のことわざだが、文化の違いを超えて、私たちにも十分納得できる表現といえよう。
旅に出ると、まず日常生活のしがらみがなくなる。仕事や家事など、毎日の繰り返しをする必要がない。人間関係も、長い年月積み重ねられたものではなく、未知の人々との新しい関係だ。
同時に、旅には、思いどおりにならないことも多い。綿密に計画を立てていても天候の急変、その他もろもろの問題が起こり得る。しかも、実際にトラブルに直面したとき、日頃の地位ややり方は通用しないのが、むしろふつうだ。
つまり、旅には、よかれ悪しかれ、いつもは抑えられていた本性(自我)が突出する条件がそろっているわけである。
とはいえ、見えなかった性格が表れること自体、必ずしも悪いことではない。他人のアラが見えてがっかりすることもあろうが、意外な長所を発見し、見直すこともある。いや、他人のことだけではない。旅は、自分の知らない自分を発見する、またとない機会でもあるのだ。
(初出:同上、6月10日)
旅慣れた人は、どこそこへ行ったらどの宿と決めていて、気まぐれに他の宿にに泊まったりしない。逆に、そういう客のついているよい宿は、なじみ客を大切にして、むやみにサービスを変えたりしないものである。
中国のことわざで、「3年」は具体的な年数ではなく、象徴的に、長い間というぐらいの意味だという(田中清一郎『中国の俗諺』)。
旅行者の立場からすると、商用でも観光や保養でも、それなりに疲れて到着するから、宿はゆったり休めることが第一だろう。食事や眺めなどもよいに越したことはないが、これは財布とも相談しなくてはなるまい。何度も訪れる地となれば、嫌なところは避け、一流とはかぎらないが、おのずから気の休まるところが定宿となっていく。
しかし、宿のほうが、こうした客をいつも大切にするかというと、案外むずかしい。たまにしか来ない古い客よりも派手に金を使う新たな客を歓迎したり、昔ながらの雰囲気よりも最新流行のものを取り入れ、人目を引こうとするところも多い。従業員も替わるから、いちいち客をおぼえていないのも無理はないともいえよう。とはいえ、それでは「よい宿」とはいえないわけである。
人と人の長い付き合いを大切にする中国人らしいことわざである。
(初出:同上、6月17日)
ことわざには、「人を見たら泥棒と思え」と「渡る世間に鬼はない」のように相反する見方をするものがある。「旅は道連れ」のように、旅の同行者を評価することわざは世界的に数多いが、この英語のことわざは、実質的にこれを否定し、一人旅のメリットを強調する。
考えてみると、道連れに恵まれた旅は楽しいに違いないが、いつも気の合う者同士で行けるとはかぎらない。また、日頃は仲がよいつもりでも、旅に出て四六時中行動をともにして、はじめて深刻な相違に気づく場合もある。
そこまで極端でないにしても、同行者を気づかい、ある程度行動が制約されることはいなめない。美術館で、じっくり鑑賞したいと思っても、相手がつまらなそうな顔をしていれば、早めに切り上げるのも人情。朝寝坊がいれば、はらはらしながら時計を見ることにもなる。
そんな思いをするくらいなら、最初から一人がよい、という考え方もあるわけだ。すべてマイペースでいける。だから、「最も早く旅する」こともできようが、この表現はことわざ特有の誇張で、ポイントは一人旅の気楽さにあるといえよう。気ままな一人旅に出る人は、少数派とはいえ、昔からいたのである。
でも、やっぱり「旅は道連れ」、だれかと一緒がよいという人は、もちろんそれでよい。どちらが正しいという問題ではなく、選ぶのは、あなた自身である。
(初出:同上、7月8日)
このことわざ、もちろん、文字どおり「死ね」という意味ではない。死ぬ前にナポリをぜひ訪れなさい、それくらいナポリの風景はすばらしい、という反語表現である。英語から入って、日本でもよく知られているが、さらにその源は、イタリア語にある。
ナポリは、イタリアのベスビオ火山を望む風光明媚な港湾都市で、古くからナポリ王国の首都として栄えていた。旅行者の多くが、ほとんど異口同音に、現地を訪れてことわざの意味がわかった、と言うぐらいだから、ナポリの美しさが並外れていることは間違いない。
しかし、それにしても、この表現、日本でもほとんどの人が知っているのは、なぜだろうか。どこで覚えたか定かではないが、ナポリというと思い出す人が多いのである。この印象の強さは、簡潔な反語表現で、しかもインパクトの強い「死ね」という語を使っているせいではないか、と私は思う。
ことわざの由来については、ナポリが衛生状態の悪い過密都市で、出かけるときは覚悟をきめよ、という皮肉が込められていたとする説もある。だが、知り合いのイタリア人に尋ねると、要するにお国自慢ですよ、とあっさり言われた。
誰が、どんなつもりで言いだしたか、よくわからないが、とにかくインパクト抜群なので、観光都市ナポリにとって、いわば不滅のキャッチコピーとなっている。
(初出:同上、7月15日)
三人で旅をすると、年下の者がいつも貧乏くじを引く。何かにつけて年上の2人のために、用を足さなくてはならないのである。
中国のことわざだが、日本でも俗に「三人旅の一人乞食」といい、3人で旅をすると、長幼の序は別として、誰かがわりをくうことを認めている。旅仲間3人がみな同じように仲良くするのは、案外、むずかしいことのようだ。
ちなみに、英語にも「二人なら仲間、三人は仲間じゃない」ということわざがある。こちらは旅とかぎらず、むしろ日常の付き合い(特に男女間の)に使われるが、3人の人間関係のむずかしさという意味では、共通するといってよい。
では、なぜ3人になると、急にややこしいことになるのだろう。日本の古いことわざに「三人寄れば公界」(公界は公的な場所の意)という表現があるが、一対一の関係以外に第三者が登場し、規模は小さいが、いわば一つの社会ができるせいではなかろうか。長幼の序のように社会的秩序が持ち込まれたり、他の人と比較して嫉妬や劣等感など、さまざまな感情も生まれるわけだ。
とはいえ、世の中には、仲良し3人組で旅に出る人もいれば、「三人寄れば文殊の知恵」ということもある。3人旅を問題視することわざも、とかくそうなりがちという警告と受けとめ、ほどほどの気配りをすれば、楽しい旅のヒントにできるのではないか。
(初出:同上、8月5日)
たとえ権力者や金持ちであっても、旅に出てしまえば貧しい存在となる。他国に行くと、富や地位にもの言わせようとしても、おのずから限度があり、思うにまかせないことが多い。まして庶民なら、旅の苦難ははじめから当然、ということになろう。
アフリカのスワヒリ語のことわざで、素朴だが、印象深い表現となっている。
スワヒリ語はバンツー系の言語で、ビクトリア湖に面したケニア、ウガンダ、タンザニアの3国のほか、近隣のルワンダ、ブルンジ、コンゴ(旧ザイール)などでも使われる。イスラム教の影響が大きく、ここで「王様」と訳した語もアラビア語起源の「スルタン」である。
ちなみに、スワヒリ語には、「旅人は不信心者」ということわざもある。イスラム教徒は、1日5回、メッカに向かって礼拝をすることが重要な義務であり、また、豚肉はもちろんのこと、異教徒がほふった肉類も口にしてはならない。しかし、旅に出ると環境が大きく変わり、戒律どおりにいかない場合も出てくる。彼らにとっては、こうしたことも旅の大きな苦難となるのだろう。
ところで、どの宗教を信仰しているか尋ねられると、日本人には、「無宗教」と答える人が少なからずいる。しかし、不用意にこうした答え方をすると、キリスト教やイスラム教の国々では、神を否定する者という、たいへんな誤解を生む恐れがある。心しておきたい。
(初出:同上、8月12日)
「寝てばかりいる賢人」というのは、文字どおり寝てばかりいる怠け者のことではなく、どこかに定住し、本を読んだり瞑想したりしている知識人のことだろう。同義のことわざに、「ざぶとんに穴をあけた賢人より多くを周遊した愚人」という表現もある。そんな賢人よりも、あちこち旅して放浪する愚人のほうがよいとする、モンゴルのことわざである。
日本の伝統的価値観からは、いささか理解しがたい論理かもしれない。「かわいい子には旅をさせよ」で、世間の風に当たり、経験を積むことの必要性は認めても、定住と放浪のどちらかといえば、もちろん、定住。というより、そもそも「放浪」など思いもよらないのである。
しかし、遊牧を生業とする草原の民、モンゴル人にとっては、家畜を連れてのきわめて広範囲な放浪こそ、生活そのものであった。伝統的住居ゲル自体、移動を前提とし、木製の枠にフェルトをかぶせた円形のテントである。
土地の選定や天候の判断を誤れば、家畜ばかりか人間にとっても、生死にかかわるから、放浪も決して気楽なものではない。机上の学問などとはくらべものにならない、真剣勝負である。移動する者こそ偉大で、「移動そのものを人生の経験と同義にとらえるのが、遊牧民の精神的風土というもの」と、モンゴル民族研究者は指摘している(小長谷有紀『モンゴル風物詩』)。
(初出:同上、9月2日)
ここで「長旅」と訳した語は、商用の長旅とも、徴兵されての遠征とも解釈できるという。そうした細かい考証を別にすれば、現代の日本人にも、すんなり受け入れられる表現であろう。
しかし、このことわざ、じつは紀元前3千年紀の、つまり、いまから4千年以上も昔のシュメール文明のものである。シュメール人は、メソポタミア南部(現在のイラク南西部)に住み、都市国家を建設し、くさび形文字を作ったことで知られている。
この気の遠くなるような、はるか昔に、彼らは粘土板にことわざや格言を数多く書き残していた。世界最古のことわざ集といってよいだろう。約千句が現存し、アメリカのゴードンらの忍耐強い研究によって整理され、現代語訳も刊行されている。
ちなみに、その現代語訳を拾い読みすると、今日では理解しがたいものも多いが、次のような表現もある。
「薬味があるときは肉がなく、肉があるときは薬味がない」「貧乏人は弱い」「浪費癖のある妻はあらゆる悪霊より恐ろしい」
こうしたことわざに接すると、メソポタミア人が急に身近な存在に感じられるのではないだろうか。
話が旅からそれたようだが、粘土板のことわざを介して、4千年の時空を超え、古代人の心の一端にふれる「旅」も、時には悪くない。
(初出:同上、9月9日)
旅から戻ったら、どんなものでもよいからみやげを持って、あいさつに行かなくてはならない。イラクのことわざで、旅に出ると、帰りにみやげ物が欠かせないのは、日本だけの話ではないようだ。「持っていけ」というのだから、家族ではなく知人や親類など、日頃から付き合いのある人々であろう。
しかし、みやげがないと、どうも落ち着かないのは、なぜだろうか。
以前、みやげをもらったり、餞別を受け取っていれば、義理ということもある。だが、何ももらっていない相手でも、手ぶらで顔を合わせるのは、少し気が引ける。あくまで旅先で手に入れたもの……それがなければ、せめて写真ぐらいは持っていきたいのである。
結局のところ、旅が単なる空間の移動ではないことを、私たちが直観的に知っているせいだろう。どんなに長距離でも通勤や通学では旅にならず、日常の世界から離れてこそ、旅なのである。
旅から日常の生活に戻るのは、いわば別世界からの帰還だから、節目のあいさつは欠かせない。そして、そのとき、待っていた者は、「石ころ」でもよいから、日常とは別の世界をかいま見ることのできる何かを期待しているのである。
(初出:同上、9月30日)
当たり前のことを言っているようだが、辛辣な皮肉を込めた表現である。ことわざのなかの動物はたいてい人間をさす。この場合も例外ではない。つまり、あの人はライン河を越え、洗練された文化に接してきたはずだが、戻ってみれば何の変わりもなかった、ということになる。ドイツのほか、アイスランドなどでも使われることわざである。
ライン河を越えると、その先にはベルギーやフランス。文化的に華やかな先進国だが、かつては、渡り鳥ならぬ庶民が容易に出かけられる地ではなかった。
これには、次のような類例がある。
「獣はローマまで行っても獣のまま戻る」(フランス、スペイン)
「ロバはメッカまで行ってもロバのまま戻る」(アフガニスタン)
一見、旅の成果を否定するように見えるが、その背景には、むしろ旅の体験を高く評価する伝統があった。異国で見聞をひろめてきた人々は尊重され、敬意がはらわれてきた。高く評価するからこそ、その体験を生かせない者には、厳しい批判が向けられたものであろう。
そこには、異国に旅した者に対する多少のやっかみもあろうが、経歴や箔に惑わされず、人物を見ようとする庶民の目が感じられる。
(初出:同上、10月7日)
この「ゆっくり」は、「そーっと」とか「静かに」と訳すこともできる。ロシアのことわざで、近隣のリトアニアなどにも類似の表現が認められる。
やたらに急ぐのがよくないことは、誰にでもわかる。しかし、「ゆっくり行くほど」といわれると、ちょっと首をかしげたくなるのではないだろうか。
この表現、撞着語法と呼ばれるもので、わざわざ矛盾した言い方をして聞く人の注意を引きつけている。「ん?」と思わせれば、成功なのだ。ことわざに特徴的な表現法のひとつで、日本のことわざにも、「負けるが勝ち」や「急がばまわれ」などの例がある。
それにしても、実際に「ゆっくり行くほど」といえるのだろうか。ヒントは、「行く」という単語に隠されていた。ロシア語では、同じ「行く」でも、歩いていくのと馬や乗物で行くのでは別な単語を使い、この場合は後者である。つまり、もともと乗馬や馬車で行くことを想定したことわざなのだ
なるほど馬なら、最初から全速力で駆りたてたのでは、むやみに疲れさせ、やがて乗りつぶすことになりかねない。
今日では、旅とかぎらずさまざまな事柄について、あわてずに着実に行うことがよい結果に結びつく意で、比喩的に使われている。しかし、そのルーツをたどれば、騎馬民族の体験にもとづく旅の知恵であったといえよう。
(初出:同上、10月21日)
「いちばん高い山は」と聞かれると、小学生でもチョモランマ(エベレスト)と答える。しかし、今日のように客観的データがない時代には、国により、人により、さまざまな答えが返ってきたに違いない。世界の民話には、二つの山が高さを競い合う話もよくある。
セルビアのことわざは、「いちばん高い山は敷居だ」という。
うーむ、なるほど、確かにと、ちょっぴり出無精な私は感心する。旅に出たいという願望はあっても、実行に移そうとするといろいろな問題が出てくる。つい二の足を踏んでしまうのだ。
出かけていくか、家にとどまるか。「敷居」が「いちばん高い山」となるゆえんだろう。(日本語で「敷居が高い」という場合と逆で、家のなかから敷居をとらえている点も興味深い。)
このことわざ、なぞなぞのように、まず「いちばん高い山は」と具体的な話と思わせておき、次に「敷居」と意表を突く。聞いているほうは、そこではじめて比喩的な表現であることにと気づき、しかも内容的には、なるほどと納得させられる。なかなか高度なレトリックだ。
ことわざとなぞなぞはかなり近い関係にあり、ドイツやデンマークには「旅人にとっていちばん重い荷は……」という古いことわざもある。後半は「空の(軽い)財布」。なるほど、ごもっとも。
(初出:同上、11月4日)
旅をすると、活力がよみがえり、本当に生きていることが実感できる。デンマークやドイツで使われ、ことわざといってもよい表現だが、デンマークの童話作家、アンデルセンの名言とされる。
貧しい靴職人の息子として生まれたアンデルセンは、幼いときに父を亡くし、14歳で単身都のコペンハーゲンに出た。苦難のなかで多くの人と出会い、その好意や援助のもとで詩人・作家として名をなす生涯は、「みにくいアヒルの子」や「即興詩人」をほうふつとさせる。
とはいえ、アンデルセンの自伝を読むと、単純なサクセスストーリーではなく、孤独のうちに苦悩する素顔がうかがわれる。十分な教育を受けなかった彼は、綴りの誤りなどを批判され、何度も自信を失いかけた。また、恋はいつも成就せず、憧れの女性はみな去っていく。
そんな失意のとき、彼はイタリアなどへ旅に出た。旅のなかで生きる喜びを感じ、創作への意欲を取り戻していく。旅は、取材のためではなく、材料を成熟させ、表現するための新鮮な気持ちをもたらすものであった。
鉄道も十分発達していなかった時代に、アンデルセンは、生涯になんと30回近く外国旅行に出たという。
旅には、確かに傷心をいやし、新たなエネルギーをもたらしてくれる不思議な力がある。
旅することは生きること----旅好きにはたまらない、実感のこもったことばといえる。
(初出:同上、11月25日)
「降りだした雨は止み、来た客は帰る」という。シベリアのブリヤート族のことわざで、雨や客とかぎらず、何事にも終わりがあることのたとえともなる。
旅も、むろん例外ではない。どんなに遠いところへ行こうと、また、どんなに長い期間であろうと、いつか終わりがやってくる。
思い返せば、印象的な旅の一コマ一コマ----美しい景色、人との出会い、見慣れぬ風俗、不思議な音や香りなど----が走馬灯のように甦ってくる。そんなとき人は浦島太郎ではないが、「月日のたつのは夢のうち」であることを実感する。つまり、日常生活とはまったく違う時間の流れのなかにいたことに気づくのだ。
そして、無事故郷に戻り、わが家に帰りついたとき、おそらく、誰もが理屈抜きにほっとするのではないだろうか。何でもないことのようだが、人も風景も変わりなく、あるべきものがあるべきところにあり、心身ともに安らぐことができる。
「東へ行こうが、西へ行こうが、わが家がいちばん」
ドイツや英米で使われるこのことわざは、簡潔な表現で韻を踏み、旅から帰ったときの安堵感をよく表していて、印象深い(英、East, west, home's best.)。
これは、どこにも出かけずに、わが家がいちばんよいという消極的マイホーム主義ではないだろう。遠いところへ出かけ、すばらしいところも十分に体験して上で、あらためて発見するわが町、わが家のよさだ、と私は思う
(初出:同上、12月16日)
「碁勢弓力」(ごせいゆみぢから)ということわざがある。三五〇年ほど前に俳諧の参考書として編まれた『毛吹草』にも出てくるから、おそらくは室町時代から通用していたものであろう。
弓のことはまったく知らないが、やたらに腕力があるからといって、弓を引くのが上手とはかぎらない。むしろ、弓力としか言いようのない独得のものがあるということのようだ。碁の場合も同じことで、棋力には、社会的な地位や頭の良し悪しなどとは、また別の要素があるということになる。うろおぼえだが、古川柳の「あの××が本因坊に石二つ」も同じココロだろう。
誰が名付けたか知らないが、「碁星」(私の通う碁会所)は「碁勢」に通じ、碁会所に通う棋力自慢の紳士淑女諸氏の顔を思い浮かべるにつけ、なかなか味わい深いネーミングと感じている。
三三四五五八----と言われても、なぞなぞのようで、ピンと来ないかもしれない。答えを明かすと、中手で取りきるまでの手数を示すもので、三目中手なら三手、四目中手なら五手、五目中手なら八手ということである。もちろん、外駄目は詰まっていると仮定し、相手も最善手で応じるものとする。また、途中で当たりになる手(たとえば四目中手の三目め)は、相手は打ち上げるしかなく、駄目を詰めるゆとりがなので、手数に入れない。ちょっとわかりにくいかもしれないが、盤上で並べてみれば簡単に確かめることができる。この公式を使うと、攻め合いになったときに、いちいち読まなくても、これに外駄目を加えれば結果がすぐわかるので、覚えておいて損はないだろう。
ところで、江戸後期の俗語やことわざを集めた『俚言集覧』(太田全斎編)によると、当時はよく「五目中手の十三手」と言ったようだ。全斎は、「棋客の常言、しかれども十三手にあらず」と注釈している。「十三手」と言ったのは、厳密な意味ではなく、「渡り八目」や「ポン抜き三十目」と同様に、大まかな感じを示したもので、外駄目もあるから、攻め合いになると相当手が長くてたいへんだということであろう。
実際、五目中手に仕留めたつもりが、よくよく見ると、手が長すぎて逆に取られていた苦い経験が、あなたにもあるのではないだろうか。
かつて中国では、琴棋書画は四芸ともいわれ、士君子(立派な人物)に必須のたしなみとされていた。「琴」は楽器の演奏、「棋」はいうまでもなく囲碁、「書」は書道、「画」は絵を描くことである。日本にも、遅くとも平安時代には教養ある人々の間でよく知られ、盛んに行われていたことは、源氏物語絵巻などに窺われる。
その後、武家社会になると、四芸をたしなむ風潮は薄れ、「文武両道」が前面に出てくる。徳川家康が碁を好み、幕府も囲碁将棋の宗家を保護したことは確かだが、徳川時代には、琴棋書画は個々に楽しまれることはあっても、身につけるべき教養ではなくなっていた。さらに近代に入ると、「和魂洋才」で、もっぱら実用的な知識が重んじられたから、琴棋書画といわれても、ぴんとこない人が多いのは無理もないだろう。
しかし、この四文字熟語、よく見ると、いずれも右脳をよく使うものばかりである。社会の指導的立場に立つ人々に、政治経済の知識(これは左脳ををよく使う)を持つことは当然の前提として、さらに右脳を使う雅なたしなみが求められていたこと(芸術関係のものに加え、囲碁を含めたのは先見性もある)は、中国文化の奥深さを感じさせる。そう考えると、むやみに忙しく、言葉だけの「ゆとり」が横行する現代にあって、見直してよい言葉ではないかという気がしている。
「岡目八目」とは、当事者よりも傍で見ている者の方が事態を冷静に判断できるということで、いまでもよく使われる表現である。これは、碁会所に通う人なら、間違いなく囲碁から出たものと直感的にわかるだろう。というのも、碁は打って面白いだけでなく、他人の打つのを見ているのもなかなか楽しく、脇で見ている人も多いことをよく知ってるせいである。この「岡目」の楽しみは、碁を打たない人には、なかなか理解しにくいようだ(確かに、パチンコや麻雀では「岡目」は面白くない)。
もちろん、横合いからあれこれ口を出すのは、ルール違反。対局者から助言を求められても、まともに答えないのが礼儀というものだろう(うっかり答えた結果、大勢が決まってしまい、気まずい思いをした経験が私にはある)。
「八目」は、辞書によっては「(対局者より)八目先まで読める」などともっともらしく書いてあるが、そう簡単にいつも八目多く読めるものではない。「八」は具体的な数ではなく、多いことを示す象徴的な数とみて、「多くの手が読める」(手数より多くの選択肢)ぐらいに解しておきたい。
ところで、英語にも Lookers-on see most of the game.(はたで見ている者にはゲームの大勢が見える)という「岡目八目」そっくりのことわざがある。当事者は迷い、むしろ局外者が冷静な判断をくだせることが多いのは、洋の東西を問わないから、比喩的な意味や用法はおおむね変わらない。ただし、英語のことわざの発想のもとになった「ゲーム」は、ラグビーなどの屋外のチームプレーのようである。
仕事がら古い辞書やことわざ集を見る機会がある。明治後期にことわざを集めた『日本俚諺大全』を見ていたら、偶然、この表現に出くわした。「四隅」の間違い?と諸兄も思われたのではないだろうか。私も初耳、えっ、それじゃ俺なんか打てないよ、と思いながら、半信半疑で他の辞典を調べると、ちゃんと出ていて、江戸時代(一七九七年)の『諺苑』ということわざ集にまで遡ることができた。となると、やはり江戸時代から巷間で言われていたことは間違いなさそうだ。
しかし、念のため、同じ『諺苑』で「四隅」を調べると、「四隅とられて碁を打つな」もまた収録されている。いったい、どっちなんだ、と言いたくなるが、そう言われていたという意味では、どちらも本当なのだろう。隅を重視し、初心者はまずは教えられたとおりに打つのが基本とされた時代である。「三隅」というのも、一理あったと言うべきだろう。しかし、「四隅」もあるということは、上級者ともなると、三隅取られたぐらいでは動じなかったということだろう。
とはいえ、当時の碁会所は「宇宙流」は、到底、受け入れ難かったに違いない。W氏の「五の五」などは、たぶん、年のせいで目が悪くなったと思われるのがオチか。
「碁星」もそうだが、たいていの碁会所には、将棋盤の一つや二つは備えられている。碁を打つ人は、レベルはともかく、ほとんど将棋も指せるから、何番か打った後で「碁に負けたら将棋で勝て」とばかりに、将棋で勝負するのもそれほど珍しい光景ではない。碁会所に出入りする人なら、その辺は説明抜きにわかることだろう。
『岩波ことわざ辞典』(時田昌瑞著)では、「碁で負けたら将棋で勝て」を見出しにして、「一つのことで負けたら別のことで勝てばよいということ」と解説している。しかし、この表現がふつう比喩的に使われるものかどうか、やや疑問である。江戸も後期になると、碁会所があり、また銭湯などでも二階に碁盤や将棋盤を置くところが少なくなかったというから、むしろ実際に碁の勝負の後で口にすることが多かったのではないかと、愚考する。同書の「実際の使用例は少ないようだ」というのも、いささか納得しがたいところだ。
ところで、理屈の上では、「将棋で負けたら碁で勝て」でもよさそうだが、実際にはまずそうはならない。時間のかかる碁の後で、比較的短時間で決着する将棋ならやる気も起きるが、逆は、勝負事の心理として不自然なのである。ただし、将棋のプロとなると話は別で、碁の愛好家も多く、将棋の後で気分転換に打つこともあるという。
ちなみに、前出の時田氏とは旧知の間柄なので、今度会う時には、中年からの碁会所通いを勧めようかと思っている。
にもかかわらず親しくお話しいただけるようになったのは、奇妙な話だが、全共闘運動のさなか、露文研究室での「団交」がきっかけだった。私は、いま思えば生意気そのもの、左翼用語が飛び交う中で『我と汝』の思想家ブーバーを引用し、研究室内がモノとモノのような死んだ関係に陥っていると断じた。先生もかつて論文の中にブーバーを引いていたから、あるいはそんなことが機縁になったのかもしれない。数日後、たまたま学外で出会ったとき、開口一番、「君が北村君だったのですか」と言われた。先生は同じ小樽出身で、私が大学に入ったとき、母から息子をよろしくという手紙を受け取っていたという。そのうち当人からも挨拶があると思っていたら、四年後の「団交」の席が事実上初めての出会いとなったのだった。そんなことから、折ふし酒杯を傾けながらお話を伺うことになった。シニカルな語り口のなかに温かみがあり、文芸理論に関しては鋭いものがあった。「大学の時代は終わったね」と、ぽつりとおっしゃったのも印象深い。
やがて大学から叩き出された私は、校正や編集に従事し、翻訳も手がける。否応なく辞書を手にする生活のなかで、冒頭の一言が時おり脳裏をかすめた。ひたすら辞書に忠実に訳したのでは、死んだ翻訳になる……。そこから、翻訳と意識せずに、すっとその世界へ入っていける文章をめざすことになった。
とはいえ、本当にその一言と向かい合うのは、三十代に入って『世界ことわざ辞典』を構想した頃からである。ことわざは、短い文句だが、時に自他の行動を決定づけるほど強いインパクトを持つ。ところが、これを五十音やABC順に並べると、とたんに力を失ってしまう。資料が蓄積されるほど、先が見えなくなる苦しい日々が続いた。
当初、「辞書の言葉は……」と言われたとき、辞典を執筆する立場になろうとは思いもよらないことであった。しかし、自ら引き受けた課題は自ら解決するしかない。ぎりぎりの状況のなかで私が出した答えは、ことわざを思い浮かべるときの思考に沿った独自の配列であった。構想から刊行まで九年の歳月が流れていた。
辞典を上梓したことは大きな区切りとなったが、ことわざの世界への新たな出発点ともなった。生き生きとしたことわざを求めて、私は書物の外へ飛び出して多くの人々に出会い、同時に、すでに故人となられた先生との対話をいまも続けている。
(初出:『悠』、2000年5月号)
文学作品というと、なにか俗世間とはかけ離れた抽象的なもののように思われがちだが、ドストエフスキイにとっては、文字どおり生活上の死活問題であった。期日に追われながら必死に原稿を書こうとするドストエフスキイと表面は好意的に装いながら裏で画策するステルロフスキイのドラマはまことに壮絶であるが、突き放した見方をすれば、登場人物が世界的文豪であることを除けば、資本主義社会ではそれほど珍しい光景ではない。
そこで、作家は友人たちに勧められて速記者を雇い、口述筆記に取りかかる。ものを書くということはすぐれて知的な活動であるが、同時に肉体的な作業を伴うから、後者のいわば省力化・効率化を図ったわけである。当時のロシアで速記を民間で用いたのはドストエフスキイが最も早い部類に属する。
結果は、ドストエフスキイの見事な勝利であった。『賭博者』はわずか27日で書き上げられ、違約金の恐怖から抜け出したばかりでなく、若く聡明な速記者アンナの愛まで勝ち得たのだった。この恋の物語はあまりにも有名であり、アンナ夫人自身の『回想』や『日記』にもあるから、とりたてて付け加えることは何もない。ただ、口述筆記という方法がドストエフスキイ作品にどのような影響を及ぼしたか、は気にかかる。
グロスマンは「仕事のテンポが予想以上に速かったことがこの『一青年の手記』(『賭博者』)全体の構成にすこぶるよい結果をもたらし、構成に緊迫感の高揚と興味で読者をひっぱってゆく力を与えることになった」(『ドストエフスキイ』)と書いているが、きわめて常識的な、換言すれば、なんら具体的分析に裏付けられていない印象批評というべきであろう。
アンナは、最初の筆記を読みあげた際に、最初の言葉からさえぎられ「ルーレッテンブルグ」などと言うはずがないとドストエフスキイに言われても、ていねいに反論して作家に誤りを認めさせる女性であり、私には単にスピードがもたらす効果だけしか影響を及ぼさなかったとは思えない。
ちなみに、たまたま私は、学生時代にアルバイトで、W先生がジイドの翻訳を口述するのを筆記したことがある(ただし、速記ではない)。先生は、稀にではあるが、訳語がしっくりしないときに、私に話しかけ、感想を求められることがあった。そのわずかな経験からも、筆記者はただ一人の聴衆として口述者に微妙な影を投げかけることがあり得ると思う。まして、アンナは作家の愛する女性である。彼女の生きた反応が作家に影響しないわけがないというのが、私の推論である。『日記』の解説によれば、アンナは従来の速記記号だけでなく、独自に記号を作り出していたという。彼女はドストエフスキイ以外のところで仕事をしたことはないから、意図的ではないが、最初の文体分析者でもあったわけである。
時は移り、技術はおそるべき進歩を示し、いまや著述家たちはワープロに向かう時代となった。しかし、ワープロは鏡に過ぎず、アンナのような存在にはなり得ないというのが、私の実感である。
(初出:『ドストエーフスキイの会会報』91号、1985年9月)
そんな貧乏性のさえない中年男にも、たまには幸運の女神が微笑むことがあるようだ。ふだん版画などまったく置いていない某書店で、複製画と呼ぶのもどうかと思われるほど粗悪な、百円単位のバラ売りのものに混じって、一枚だけ明らかに異質の、品のよい「百福図」があった。暁斎との関わりについては前にも書いたので繰り返さないが、確かに見覚えのある署名があり、木版特有の表面の凸凹からして、一目で本物とわかった。さっそく大枚ならぬ小銭をはたいて購入したことはいうまでもない。
この「百福図」の特徴は、裁縫や育児から茶の湯、生け花まで、女性の生活文化全般を描き、市井のユーモアにあふれながら、しかもほのかな気品を漂わせていることであろう。
仕事に疲れたときなど、ふと思い出して眺めると、おおどかな筆致と淡い色彩に、いつのまにかふんわりと心がなごんでくる。江戸の庶民文化の質の高さを実感させてくれる私の「宝物」である。
(初出:『暁斎』46号、1992年3月)
一つは、「無料の泉の水は飲むな」というトルコのことわざである。
私たち日本人は、水は基本的に無料だと思っていた。飲食店に入れば、頼まなくてもお冷やかお茶が出てくるのが当たり前だ。山野へ出ても、湧き水があれば、ふつうはただで飲める。
しかし、このトルコのことわざは、私たちが当たり前と思っていることが、世界では必ずしも通用しないこと、いや、まったく逆の場合もあることを教えてくれる。考えてみれば、良質の水がふんだんにあり、ほとんど無料で飲めるなどという地域は、世界的にはむしろ稀なのかもしれない。
飲用水が貴重な地域では、無料の水なら質が悪くても文句はいえない。逆に、無料でうまい水となれば、与える側に何か魂胆があってのことと疑ってかかることにもなる。
ことわざの比喩的な意味は、ただで提供されるものは避けよ、ということで、日本語の表現では、「ただ酒は飲むな」や「ただほど高いものはない」に通じよう。
もう一つは、アラビア語の「ナイルの水を飲んだ者はナイルに戻ってくる」ということわざである。
この場合、水を飲むのは、地元の人ではなく、旅行者もしくは遠隔地の出身者で、異邦人といってよいだろう。実際に、ナイル河の水を飲んで去っていった異邦人が、再びナイル河畔に戻ってくるのかというと、そうはいえまい。戻ってくる場合もあろうが、常識的には、戻らない場合のほうがはるかに多いだろう。
にもかかわらず、「ナイルに戻ってくる」と言い切るところに、このことわざの不思議な魅力を感じた。
そして、その後、ヨーロッパのことわざを見ていて、次のような類例があることに気づく。
「ダンボビツァ川の水を飲んだ者はもう一度飲みにやって来る」(ルーマニア)
「ウルバリの水を飲んだ人は、もう一度飲みたくなる」(スペイン[バスク語])
さらに、北アメリカのインディアンにも、「北の水を飲んだ者は必ずまた戻ってくる」という表現あることを知って、私は、単なる俗信ではなく、地域や文化の違いをこえて、何か人類に共通の心理が作用しているのではないかと考えるようになった。
水を飲む異邦人の側から見れば、かつて水は、時には生死を左右しかねない大切なものであった。現代でも、水がその土地の印象に直結することがめずらしくない。うまい水はよい思い出につながるが、水がまずければ、とてもその土地に暮らす気にはならない。「水が合う」とか「合わない」という表現もあるように、水は端的に風土を象徴するのである。
逆に、地元の人間から見れば、水は郷土の誇りであり、その水を飲んだ異邦人が、長い年月を経て再び訪れると、強い印象が残り、そこに何か神秘的な力を感じ取るのも当然なことかもしれない。
時は移り、今日では、水は原則ただという日本人の常識は大きく揺らいでいる。コンビニには内外の“名水”が並び、お金を出して水を買うことに抵抗を感じない若者がふえているようだ。
しかし、遠くの“名水”の背後で、足元の“水”が忘れられていないだろうか。そして、いつのまにか自然がそこなわれ、郷土の誇りも失われていくように感じるのは、私だけだろうか。
(初出:『FRONT』2006年11月号、2006年11月)