最初に書いてくれたのが、ステンドグラスのアーティストで、“右脳で画を描く”ワープショップを主宰するクリスティン・ニュートンさん。英文によるオリジナル(1998年)です。いまのところ原文のみですが、拙訳があるので、近く掲載の予定です。
その後も何人かの方に原稿をお願いしたのですが、書いていただけないことのほうが多かったのはやむをえません。なにしろ、まったくのボランティアで、誰が読んでくれるかわからない私的なメディアなのですから。
それでも、2004年夏、久しぶりに新たなページが加わりました。韓国からの留学生で、ことわざの比較研究に熱心に取り組んでいる鄭芝淑さん(名古屋大学大学院国際言語文化研究科)の「ことわざミニマムとことわざスペクトル」----フレッシュで、力のこもったエッセイをぜひご一読ください。
私たちは、何かを比較することを意識的、無意識的に常に行って生活している。久しぶりに会った甥や姪が大きくなったとか、父や母が歳を取ったと感じるのは、同じ個体について今と以前とを比べた結果である。だれだれが頭がいいとか親切だとか思ったり、買い物に行って気に入った服を選ぶのは、同じ種類の多くのものを比べ合わせて下す判断である。私たちが周囲の事象を認識するとき、何らかの意味で比較・対照という作用が関わっていると言ってもいいのではないかと思われる。それほど、比較するということは私たちにとって日常的で当たり前のことであるので、それが場合によっては非常に難しいということに気付かないでいる。私が日本と韓国のことわざの比較対照研究というテーマを掲げて名古屋大学大学院の博士後期課程に入学したときも、比較ということに対してこれとほとんど変わらない素朴な考え方しか持っていなかった。韓国にも日本にもことわざはたくさんある。だから、両国のことわざを一生懸命に勉強すれば、比較は自然にできるようになる。それを着実に積み重ねていけば博士論文にふさわしい分量になるだろう、ぐらいにしか考えていなかった。いまから考えると恥ずかしくなるほど幼稚な考えであった。
ことわざに限らず、言語現象について比較対照することが非常に難しい作業であると知ったのは、指導教授の担当する「日韓英対照言語学」の講義に出席してからである。その講義の冒頭で教授は次のようなことを力説された。
このことを教授はその後何度も講義中に繰り返されたのだが、科学的研究の条件について考えてみたこともなかった私にとっては、大きなショックだった。教授の言われたことを自分の研究テーマである日韓のことわざに関する対照研究に当てはめてみると、研究対象は日本と韓国のことわざであり、研究目的は両国のことわざの類似点と相違点を明らかにすることである、ということはすぐ言える。しかし、どのような方法論でアプローチするかということになると、まったく見当が付かなかった。いろいろと先行研究を読んでみたが、個別言語のことわざ研究については様々なアプローチ法が試みられていても、私が関心を寄せている「比較ことわざ研究」については方法論と言えるものを見つけることができなかった。ぜんぜん手がかりがつかめないまま二年近くが過ぎてしまった。
手がかりをつかむまでに長い時間がかかったが、答えは、意外なほど簡単なことであった。指導教授との面談で、方法論が見つからなくて困っていると話すと、それでは発想を変えて、わからないのは方法論だけかという視点から考え直してみてはどうかとおっしゃった。すると、議論しているうちに、それまでまったく疑いもしなかった研究対象そのものが明確にされていないということに気付いたのである。と言うと、どうしてと首を傾げる人がいるかもしれない。韓国にも日本にもたくさんのことわざがある。それを比べるだけのことではないかと思われるかもしれない。実際、私もそう思い続けていた。そこに落とし穴があったのである。方法論にばかり気を取られていて比較の対象を規定することの重要さについて考えることがなかった。もう少し正確な言い方をすれば、対象・方法論・目的が互いに密接に関連しあっていることに気付かなかった。目的によって方法論が異なるように、対象に規定のしかたに応じて方法論が異なる、あるいは対象の規定が方法論の重要な部分でもあり得るということを考えなかった。
韓国のことわざ、日本のことわざといっても、その認知度、重みがみな同じというわけではない。誰でも知っている基本的なものから、ごく少数のことわざ研究者にしか知られていない特殊なものまで、ことわざの認知度は様々である。対象を規定するというのは、そのような重みの異なることわざのうちどの部分を対象とするかということである。比較の対象とすることわざ群をどのように選定するかで、比較対照の結果があいまいになったり無意味になったりする。適当に選んだことわざ群を比較したのでは、対照結果は恣意的であり説得力を欠く恐れがある。導き出したい結果に好都合な例ばかりを選んで結果を導き出すという循環論に陥る危険性があるからである。意味のある対照結果を引き出すための最低条件として、比較されることわざ群は同等の重み付けをもったものでなければならない。この条件を満たさない限り、いくら綿密な比較対照を行っても導かれる分析結果は説得力を欠いている。
韓国と日本の数多くのことわざに対して、どのように認知度・重要度の重み付け、ランク付けをするか。これが私の博士論文構想の出発点となった。同等な重み付けのことわざを選定する一番簡便な方法は、ことわざ辞典に頼ることである。かりに、比較の対象としたいことわざの数をよく知られたもの500個であるとする。この場合、韓国と日本で編纂されていることわざ辞典のうち500件程度を収録したものを選び比較の対象とする、という方法である。しかし、この方法は受け入れることはできない。500件のことわざは編纂者の主観の産物であって、よく知られた500個のことわざを忠実に反映しているという保証がないからである。別な編纂者が選ぶ500個とは部分的にしか一致しないはずである。しかも、当然のことであるが韓国と日本とで編纂者が異なるから、二重の意味で比較対象としての適格性を欠いている。このような既存のリストを適当に活用するのではなく、何か客観的な手順で重み付けをしなくては、説得力のある比較を行うことはできない。
ことわざの重みを別な形で考えてみよう。ことわざはどの言語のものであっても、よく知られたものとそうでないものに二分されるのではなく、非常によく知られているもの、よく知られたものからあまり知られていないもの、ほとんど知られていないものまで、連続的・階層的に存在している。いわば、ことわざのスペクトルを成していると考えられる。光のスペクトルは水平的、あるいは垂直的に示されるが、ことわざスペクトルは、最もよく知られたものを核とする同心円状の階層を成していると考えるとわかりやすい。核の部分から外に向かうほど認知度・重要度の低いことわざが含まれると考えるのである。日本と韓国のことわざについて同じ基準でこのようなことわざスペクトルを規定することができれば、客観的な比較対照ができるのではないか。目的に応じて日韓のことわざスペクトルの対応する部分を切り取り比較の対象とすれば、説得力のある結論を引き出せるのではないか。これが、私が構想している博士論文の骨子である。
ことわざスペクトルを規定するための様々な方法を検討してみた。種々のアンケート調査による方法、用例調査による方法などを試験的に試みたが、博士論文執筆という時間的制約を考えた場合、こうした方法はいずれも補助的な手段として活用することはできるけれども、ことわざスペクトル規定のための決定的な方法にはなり得ないと考えざるを得ない。今のところ最も有望な方法と考えられるのは、韓国と日本で出版されている各種のことわざ辞典やことわざ集を資料として重み付けを与えるという方法である。いま詳しく述べる余裕はないが、この方法は、少し見方を変えれば、どの言語のことわざについても適用可能な一般的な方法論にまでレベルアップできるのではないかと考えている。そうすれば、「比較ことわざ学」という学問領域が可能になるのではないか、というような夢も描いている。これに関しては、機会を改めて述べたいと思う。
年と数ヶ月が経過したが、ようやくことわざスペクトルの規定が一応終わりかけている。まだまだ、試験的、暫定的なものでしかないが、今後は、その応用面について現在考えていることを実行に移し、比較ことわざ学の道具として有用であるかどうかを検討する予定である。その過程で、さまざまな不備が見つかると思われるが、その結果を踏まえてことわざスペクトル分析の精密化を図りたいと思っている。
先日、このホームページの主宰者からインターネット上に公開されている「ことわざミニマム」(paremiological minimum)に関する海外研究論文Wolfgang Mieder(以下、ミーダーとする)の “Paremiological Minimum and Cultural Literacy”の抜粋を紹介していただいた。その冒頭に、「ことわざ及びことわざ的表現に関する最近の理論的研究は、主として言語学的な指向性を持ってなされており、特に、比較対照的基盤に立って、ことわざの構造的、意味論的側面を強調している」とあり、また「ことわざミニマム」というキーワードが非常に印象的で、自分の研究に大きな示唆を得ることができるのではないかと、期待しながら読み始めた。その結果、自分自身の研究構想を明確にする上で期待をはるかに超える刺激を受けた。
抜粋しか読んでおらず私の英語力には自信がないので誤解があるかもしれないことを覚悟で言えば、「ことわざミニマム」は私の目指している「ことわざスペクトル」のコア(中核)の部分に相当する。と言っても、ミニマムがスペクトルの単なる部分に過ぎないと言うのではない。もともと、両者は目的が異なる。前者は、「文化リテラシー」の尺度の一つとしてことわざのうち最も常識的な部分を確定しようとするものであり、比較という視点はない。あるとしても、比較することによって共通部分を明らかにするという視点だけである。一方、ことわざスペクトルは比較という視点から生じた概念である。異なることわざ群の間の共通点ばかりでなく、相違点を明らかにしようという視点によるものである。したがって、ことわざミニマムはことわざスペクトルのコア部分に相当すると言っても、けっして同等ではない。両者の関係をもっと正確に述べるならば、ミニマムはスペクトルのコアとその周辺部分から、文化リテラシーを規定するための有用性という基準に基づいて選び出されるべきものである。具体的に言えば、かりに100件のことわざミニマムを規定する場合、ことわざスペクトルの中心部分200件とか300件の中から、その社会の常識として知っているべきと判断されるものを選ぶのが最も適切な方法ではないかと考えられる。他の言語のことわざミニマムとの比較を前提としない限り、各言語毎、各社会毎に独自の基準で選択されても問題はない。ミーダー論文では、ことわざミニマムの規定のしかたについて具体的な提案はなされていない。大規模なアンケート調査や用例調査の必要を述べているだけである。それよりもっと実際的な方法として、ことわざスペクトルの概念が利用できるのではないかと思われるがどうであろうか。
ことわざミニマムの用途として、ミーダーはじめ多くのことわざ学者が外国人のための言語教育への応用を考えているようである。それについて、感慨深い経験がある。昨年、韓国で開かれた学会で発表した際、ことわざスペクトル(その頃は順位付けことわざリストと呼んでいた)の利用法の一つとして、その中心部分は外国人向けの韓国語教育に応用することができると述べたところ、「そんなものがどうして韓国語教育に必要なのか」と質問いや批判されて、あまりの意外さにことばを失うほど当惑したことがある。ミーダー論文を読んで自分の考えたことが、決して「そんなもの」ではなかったと確信できた。
I have asked this question to a number of people and they invariably look shocked and say they have never even thought about it, much less noticed it. Maybe it's something like falling asleep. Can you be consciously aware of the moment you fall asleep? If you try to be, you probably won't be able to fall asleep at all.
It seems to be a point where one leaves the daily, logical consciousness of the so-called "left brain" and enters another timeless realm, of the "right brain" or the alpha state, or maybe the mysterious "unconscious". Is it one realm, or many? Where do we go when we no longer hear our surrounding environment? What kind of occasions bring on this state of obliviousness?
Maybe you are riding your bicycle or driving your car, and suddenly realize that you have arrived in front of your home completely oblivious to all of the scenery you passed along the way. Or maybe you are lost in daydreams on the train and fail to hear the announcement for your station.
As an artist, I have been quite familiar with this state. Many times, I start drawing and don't return to the "real world" for an hour or two. It seems to be a state of relaxed concentration where many creative ideas emerge. One wanders in a silent, timeless space free from stress or worry. Maybe the road is being repaired outside your window, but you don't even hear it, unless it happens to suddenly stop.
Once I was drawing with a group of people and when we stopped, they all complained about how noisy the construction work had been. I was quite surprised to hear them say that, because I'd been completely unaware of any construction work.
Many times I have told my drawing or design students to take a break, but they don't hear a word I say. They are lost in their own world, and quite happy there. Their eyes are intently focused on what they are drawing, so it isn't that their senses are weak, They can hear perfectly well under normal circumstances. If I push them to take a break, they may become angry, because they don't want to be disturbed. It's a sensitive state.
Once in a class someone's mobile phone rang. Some of the students became very angry at the owner of the phone, while others didn't seem to hear it at all. Even the owner of the phone didn't hear it at first.
I know many creative people, myself included, who prefer to work at night, sometimes until sunrise. In the deepness of night, there are no distractions to break the state, the mind can roam where it will, unencumbered by social duties and obligations. There are no telephone calls to shatter the blissful silence. The darkness erases the sense of passing time. There is deep silence inside and out. The ideas flow freely, unencumbered.
Are we really in control of our mind and our senses? How is it that our eyes and ears sometimes choose not to see or hear? Scientifically, it seems, the purpose of our ears is not only to hear. There is a part of the ear called the "vestibule" which means "room", and which is responsible for controlling our balance, coordination, muscle tone, as well as, the muscles of our eyes. Maybe this is a clue. The vestibule relays all the information to the brain which has been gathered by the senses. Could it be that when the brain is so busy gathering information, the ear forgets that it is meant to hear sounds?
There is one experience which has occured repeatedly. When I am teaching drawing, I show the students how to draw their hand a certain way called contour drawing, where one only looks at the object being drawn and not at the paper. As I begin to draw the fingers, they start out rather large with not very much detail. Soon, even though I may be surrounded by 30 or more students, I can't speak any more, the drawing becomes much more detailed. Then, I forget the students completely, I don't hear a sound, and the part of the drawing I am working on at that point, is extremely small and detailed as though I'm looking through a microscope. Finally, someone shakes my shoulder and says, "It's been 15 minutes", since I've learned from past experience to appoint someone as a "wake-up call". It always takes a few minutes to come back mentally. I feel as though I've been so far away.