いろはカルタのページ 


芥川龍之介といろは短歌



 学生の頃読んだ芥川龍之介の『侏儒の言葉』のなかに、少し気にかかる次のような一節があった。



「いろは」短歌

われわれの生活に欠くべからざる思想はあるいは「いろは」短歌に尽きているかもしれない。

 わずかこれだけの文だが、当時の私は「いろは短歌」を知らなかったので、わかるはずはなかった。わかるはずはないが、「生活に欠くべからざる思想は……に尽きているかもしれない」となると、やはり気になった。

 やがて、いろは短歌がいろはカルタの異称と知った後も、芥川の言葉がいろはカルタを指すと確信するまでには、相当な年月を要した。というのも、「いろは短歌」は、他に「いろは歌」(俗に弘法大師が作ったといわれる)や「いろは教訓歌」(とでもいうべきもの)をさすこともあり、コンテクストの上からも若干疑問が残っていたからである。

 まず、少なくとも私のなかでは、芥川といろはカルタのイメージがなかなか結びつかない。芥川といえば、欧米の文学に通じたインテリで、辛辣なその知性と庶民的ないろはカルタの世界はかなりの隔たりがある。しかもこの短章、それぞれ「死」と「運命」と題されたアフォリズムに挟まれている。ある文庫の注釈が無常思想のいろは歌をさすとしたのも、アナロジーとしては理解できないではない。直観的にはいろはカルタに違いないと思いながら、このことにふれようとすると、いつもこの注釈が気にかかって逡巡していた。

 その迷いがようやくふっきれたのは、ともにいろはカルタを素材とした、露伴の「東西伊呂波短歌評釈」(明治42年)と川田孝吉の『いろは短歌教育はなし』(明治23年)を目にし、いろはカルタの意の「いろは短歌」が芥川の幼少期に広く通用していたことを確認した後である。

 「いろは短歌」=「いろはカルタ」として、この短文を素直に読み直してみると、この部分は文章にあまりひねったところがなく、ただ正直に感想を述べているように思われる。事実そのものが知識人にとっては相当な皮肉なので、格別修辞にこる必要はなかったのかもしれず、また、「いろは短歌」という言葉がすでに消えつつあり、意識的にその語を選んだのかとも思う。あまりにも言葉少なだから、あえて解説すると、文学だの思想だのとこむずかしいことを並べてみても、生きていく上で必要な思想は、あるいは子どもの頃遊んだ(安手の)いろはカルタに尽きているのではないか、ということであろう。

 いろはカルタの思想性については、鶴見俊輔の調査によって、庶民の思考の指針として教育勅語に劣らぬ力を発揮したことが指摘されている。勅語の一元的、体系的な価値観に対し、カルタは多元的、非体系的で、庶民の気楽さを裏付けるものだ、というのである(『環境芸術論』)。芥川がほぼ同様のことを感じていたとしてもおかしくない、と私は考えている。

 少し前の話になるが、ことわざ研究会で96年に「'96 TOKYO 国際ことわざフォーラム」を開催した折りに、記念品として明治時代のかるたを復刻した。これは読み札、絵札がボール紙一枚にそれぞれ木版で刷られているもので、色調はいささか俗悪、判ズレや欠けも見られ、なるほど、いかにも「庶民の子どもがお年玉で買うカルタ」という感じである。年代的にも、日露戦争前後から一枚もののかるたは廃れたというから、芥川が幼少期に親しんでいた「いろは短歌」とは、恐らくこのようなものだったのであろう。

(初出:ことわざ研究会会報『ことわざ』第26号、1995年11月)

 いろはカルタ 



漱石といろはカルタ


「いろはカルタ」を卒論のテーマにしたいので、参考文献を教えてほしい、と未知の女子大生からメールが届いたのは、師走に入ってからだったろうか。特に研究しているわけではないがと断った上で、私は、復刊されたばかりの森田誠吾『いろはかるた噺』(ちくま学芸文庫)を勧めた。手堅い入門書であり、文章もさすがに読ませるものがある(森田氏は直木賞作家)。もう一冊、古本屋で手に入れるしかないが、『別冊太陽 No.9』の「いろはかるた」(74年、これは図版が豊富だ)も挙げておいた。

 お屠蘇気分の三が日、所在なく寝ころがって古い文庫本を何冊か眺めているうちに、偶然にも「いろは歌留多」の文字が目に入ったのは、件のメールが伏線になっていたのかもしれない。その少し先を引用してみよう。

「みんな目が早いのにこのお父さんいっこうにとれません。ただ『へをひって』という札と『あたまかくして』という札との二枚きりがお得意で、それを自分の前にならべて睨(にら)めっこしていますが、それさえよく子供たちにぬかれて凱歌をあげられておりました。」
 明治も末に近い時期の、どこにでもありそうな微笑ましい風景だが、この「お父さん」とは夏目漱石、回想するのは鏡子夫人である(『漱石の思い出』)。こんなときの文豪は、まったくの好々爺で、他愛がなかったという。この本は十年ほど前に一度読んだはずだが、いまにして思えば、当時はカルタにさほどの関心がなく、ちょっと笑って、それきり忘れてしまったのだろう。

 しかし、いま改めてこの一節を見ると、さまざまなことを考えさせられる。たとえば、なぜ、子供たちのほうが目が早いのだろうか。常識的にいえば、漱石が手加減した可能性も皆無ではないが、経験的にいえば、絵で取る子供が、字に目が行く大人より手が早いこともある。しかも、得意な札が「へをひって」と「あたまかくして」となると、まるで小さな子供である。この2枚は、ちょっと品のないユーモラスな構図で、幼い子が最初によく覚える札の部類に入るのではないだろうか。

 慶応三年生まれの漱石は、ひょっとすると、幼時にいろはカルタで遊んだことがなかったのではないか、と私は考えた。もしこの仮説が正しいとすると、漱石だけの特殊事情があったのか、明治初期の混乱期のゆえか、あるいは東京でも必ずしもいろはカルタが十分に普及していなかったのか。疑問はふくらんでいく。

 いろはカルタの研究では、森田誠吾『昔 いろはかるた』(求龍堂、70年)と鈴木棠三『今昔いろはかるた』(錦正社、73年)の二書が定評があり、これらによってカルタの伝来からいろはカルタの成立・変遷までがおおよそ跡づけられたといえよう。個々の句(ことわざ)の解釈も相当なレベルで追究されている。

 とはいえ、いろはカルタの普及度や日本人に与えた影響の大きさに比して、その研究は決して十分ではないだろう。たとえば、漱石から発した私の疑問に答えてくれるような実証的研究は見当たらないのである。子どもが遊ぶ安価なおもちゃであったために、古いものがほとんど残っていないことなど、研究の障害も確かに大きい。しかし、現物はわずかでも、国民的規模で普及したものだけに、さまざまな痕跡があちこちにあるはずである。メンコなどが好事家の収集だけでなく、児童文化史としても研究されているのに較べ、いろはカルタの研究は未だその必要性が十分に認識されていないのではないか。

 それでもこの数年、幸いなことに、いろはカルタ研究に新たな展開を予感させる報告がいくつか続いている。ことわざ絵の収集家として知られる時田昌瑞氏(ことわざ研究会会員)は、自ら収集したカルタのほか、落書や浮世絵などにも着目し、1.上方系・江戸系と「異なる系統」のカルタがあったのではないか、2.いろはカルタが「子供の遊具の範囲」を超えるのではないか、などの新説を提起した(「ことわざといろはカルタ」、『ことわざ学入門』遊戯社所収など)。また、野地真奈美氏(同)の社会史的アプローチ(会報32号)や、業界の内側から見た奥野伸夫氏(奥野かるた店店主)のお話(97年1月ことわざ研究会例会)も、たいへん興味深いものがあった。こうした地道な研究の積み重ねが、やがて大きな実を結ぶことにつながるのではないかと思う。

 ちなみに、本年(99年)のことわざフォーラムでは、「ことわざと遊び」がテーマになるという。これを契機に、いろはカルタが世界的視野でとらえられ、研究がいっそう深められることを期待したい。

(ことわざ研究会会報「ことわざ」37号、99年1月)

 いろはカルタ 


いろはカルタの「仕掛け」


 いろはカルタには、誰にでも何かしら思い出があり、自分なりのイメージがすぐに浮かぶことだろう。実際に遊んだ経験があるから、「いろはカルタ」とか「犬棒」の一言で十分にイメージが喚起されるといってよい。昭和二十年代の雪国に育った私の場合は、繭玉や鏡餅、福笑いといった正月の風物とともに、石炭ストーブをたいた暖かい部屋で、年長者にカルタを読むことをせがんだ幼い日や、やや長じて百人一首に憧れながら、今度は読む側に回って年下の者たちを遊ばせた場面が甦ってくる。

 もちろん、その時のカルタなど残っていないし、カルタの文句もいちいち憶えてはいない。だから、犬棒の文句をそらで言う自信などないが、復刻された「明治いろはかるた」を見ると、たいていは馴染みがあり、「貧乏暇なし」「骨折り損のくたびれ儲け」など、日常口にするものも少なくない。絵札も、そうそうこんなふうだったというものが多いのに驚いた。「論より証拠」の藁人形(子どもの頃は意味などわからなかった)や「頭かくして尻かくさず」「目の上のたんこぶ」のユーモラスな図柄など、構図は間違いなくこれだと思うものがある。どうやらいろはカルタは、記憶の奥深いところに視覚的残像とともに確かに残っているようである。

 ところで、このカルタの文句、「犬も歩けば棒に当たる」「論より証拠」「花より団子」……と並べてみると、すべてことわざである。理屈をいえば、いろはカルタとは、本来、いろは譬喩(たとえ)カルタ(この場合、「たとえ」は「もののたとえ」、つまり、ことわざの意)なのだから当たり前ということになるが、改めて指摘されなければ、気づかないのがむしろふつうだろう。かくいう私自身、ことわざの研究に携わるまでは、いろはカルタとことわざを結び付けて考えたことはなかったように思う。カルタを買い与える親の多くも、昔ながらの正月の遊びを教えようとか、文字を覚えさせようという意識は多少あるにしても、ことわざをどうこうしようとは思いもしないのではないだろうか。

 では、子どもたちはどうか。カルタを与えられた子どもの反応について、後藤明生は次のように書いていた。

「子供たちは、いろは歌留多をすぐにおぼえた。『律儀者の子だくさん』とは何か?(中略)『子は三界の首枷』とは何か? 暫くはややうるさく質問していたようであるが、やがて絵札と頭文字をおぼえ込んでじまうや、最早やそんな意味などどうでもよくなったらしい。ことばの意味などと無関係に、丸暗記して片端から取りはじめたのである。当然といえば当然の話だろう。

(後藤明生『不思議な手招き』)

 子どもたちは、結局、意味などあまり考えずに繰り返し遊び、繰り返し遊ぶことによって文句(つまり、ことわざ)を覚えてしまう。やがて大人になって、私がそうだったように、カルタとの関係などまったく忘れて、そのなかのことわざを使うことになるのだろう。

 そうしてみると、いろはカルタはことわざからできているにもかかわらず、与える大人も遊ぶ子どもほとんどことわざを意識していないわけである。これは、ちょっと奇妙な話だが、ここに、いろはカルタという遊びの注目すべき仕掛けがあるのではなかろうか。

 「世渡りの知恵はあるいは『いろは短歌』に尽きているのではあるまいか」とは、芥川龍之介の言であった(『侏儒の言葉』)。この場合の「いろは短歌」はいろはカルタの異称である。芥川の言葉はあまりに短いので、私なりに補足すると、文学だの思想だのと、いろいろむずかしいことを並べ立ててみても、結局、世の中を渡っていくために必要な知恵は、子どものころ遊んだいろはカルタに尽きているのではないか、ということであろう。

 芥川は、おそらくカルタの文句をことわざと意識していたろうが、ことわざ一般に解消せず、「いろは短歌」とした。つまりは、近代的な教育や教養ではなく、さりとて伝統的な世俗の知恵(ことわざ)一般でもなく、具体的に安価で誰もが遊んだことのあるカルタを評価せざるを得ないと感じたのであろう。いくぶん投げやりな表現だが、いろはカルタの抽象的内容(文句)だけでなく、形態を含む内容が気にかかっていたように思われる。

 すでに多くの人によって指摘されているように、いろはカルタには一貫した価値観や教育的配慮があるわけではなく、きわめて雑多な内容で、幼児向けにはどうかと思われるものもないではない。「論より証拠」の合理主義、「旅は道連れ世は情け」の楽観論があるかと思えば、「貧乏ひまなし」「背に腹はかえられない」という現実論、「年寄りの冷水」「知らぬが仏」という辛辣な批評もある。江戸期のものだから封建的と思うのは早計で「老いては子に従え」とくるし、「縁は異なもの味なもの」「文はやりたし書く手はもたず」と粋なものもある。ただし、「屁をひって……」の尾籠さはご愛嬌だが、「律儀者の子だくさん」のように、説明しようとするといささか語弊のあるものも出てくる。しかし、なまじ教育的配慮などせずに、雑多なものをいわば世の中の縮図としてトータルに放り出したところに「世渡りの知恵」が見出されるゆえんがあろう。

 このいろはカルタの形態を含めた思想性については、戦争中も庶民の思考の指針として教育勅語に劣らぬ力を発揮したことが鶴見俊輔の調査によって明らかにされている。鶴見は、カルタのバラバラな形に着目し、勅語の一元的、体系的な価値観に対し、カルタは多元的、非体系的で、庶民の気楽な精神構造に対応するもの、と分析している(『限界芸術論』)。この指摘は、今日の視点から見ても鋭く十分に説得力があり、芥川の直観を具体的にわかりやすく解明したものとみることもできよう。ついでに言えば、この分析に鶴見が「ことわざ」という語を用いていない点も興味深い。

 『明治いろはかるた』(遊戯社)を手にすると、まずは極彩色の派手さに目を奪われる。そして明治の子どもたちにならって、紙を裏打ちし、一枚ずつ切り離してみると、絵札の多くがことわざの単なる図解ではなく、立派な戯画であり、今日のマンガにもつながっていることに気づくだろう。ことわざの図像表現は、ヨーロッパの民衆版画などにも見られるが、これだけカラフルで、バラエティに富んだ構図は卓抜である。また、西洋のカルタ(トランプ)にはさまざまに意匠を凝らしたものが数多くあるが、ことわざと結び付いた例はごく稀で、ことに内容的にゲーム自体がことわざと融合した例は見当たらないようである。いろはカルタの場合は、国民的規模で親しまれ、ことわざとほとんど意識しない遊びのなかで、ことわざを目と耳から身につける「仕掛け」になっているのだから、じつに楽しい。ことわざ研究の観点からすると、まさに世界に誇るべきユニークな庶民の文化財といっても過言ではないだろう。

 もっとも、「仕掛け」といっても、仕掛人がいて意図的に作り上げたというより、西洋伝来のカルタという形態に日本人のことわざ好きが作用し、浮世絵の技法やさまざまな偶然が重なった結果である。そして、ほとんど誰もいろはカルタの価値など問題にせず、正月に遊んではやがて捨てられていくのも、「仕掛け」という観点からすると、なかなかよくできていると、私は思う。

(1996年執筆、未発表)

 いろはカルタ 


宮城道雄の童謡〈いろはかるた〉



 発端は、昨年 (2015年)の暮れにネットで古本を検索していて、「いろはかるた」という童謡のSPレコードを見つけたことです。葛原しげる作詞・宮城道雄作曲で、唄は宮城芳子、昭和8年の録音です。値段も手頃だったので、即決で購入しました。
 しかし、レコードが送られてきて、いざ聴こうとすると、今どきSPを再生できる蓄音機が容易に見つかりません。私は小学校に入る前にゼンマイ式の蓄音機で遊んだ記憶があるんですが、考えてみると、ずいぶん昔のことになり、みんなとっくに処分しているんですね。その後の経過もいろいろありましたが、ともかく〈いろはかるた〉を聴いてみましょう。

 −−〈いろはかるた〉(唄・宮城芳子)再生 −−

 いいですね、素直な、 やさしい旋律で。芳子さんは道雄の養女で、22歳で夭折された方ですが、録音当時11歳くらい。少女らしい無邪気な歌声が可愛らしく、繰り返される前奏と間奏も印象的です。

 さて、この童謡から〈いろはかるた〉のどんなことが見えてくるか、歌詞をご覧ください。短い曲ですが、私は三つのことに注目しました。
 まず、「雨の降る日は何して遊ぼう」と歌い出しています。〈いろはかるた〉は、お正月と結びつきが強いのですが、一番の歌詞を見ると、お正月だけではないことがよくわかります。私は、漱石の大正元年の日記を思い出しました。8月3日(漱石は前日から鎌倉に海水浴に来ています)の記述に、「小宮とまる。純一飯を十一杯食つて腹がくるしいといふ。いろはがるたをとる。源平でジヤンケンをやる。」とあります。
〈いろはかるた〉は、お正月にかぎらず、雨の日でも夜でも遊べて、遠出するときも携帯に便利です。しかもルールが簡単で、誰でもすぐ遊べ、特に子どもと遊ぶと、とても楽しいゲームなのです。

 次に、二番の歌詞を見ると、「鬼に金棒、花より団子……〈いろはかるた〉で覚えた文句」とあります。葛原が短い歌詞の中で、いろはかるたの文句を自然な形で、全体で六つも取り入れていることに感心しますが、唄をよく聴くと、芳子さんは〈いろはがるた〉と濁音、それも「がるた」と鼻濁音で発音しています。
 このように濁音になるのは、「連濁」といわれる現象で、二つの語が結合して一つになるとき、後ろの語の語頭の清音が濁音になることです。たとえば、「春」と「かすみ」が結びつくと、「はるがすみ」になりますね。「いろは」と「かるた」で、「いろはがるた」というわけです。ただし、連濁は100 パーセントそうなるとか、そうしなければいけない、ということではありません。結合の度合いもあれば、個人差や地域差もあって、日本語を母語とする人の場合、自然にそう発音しやすいということでしょう。また、日本語は、おおむね発音や表記に関して寛容で、伝統的に濁音でも濁点をふらなくてもよかったのです。この曲の場合も、レーベルを確認すると、タイトルに濁点はありませんが、中では「いろはがるた」と歌っているわけで、音源ならでは資料性があるといってよいでしょう。ちなみに、同じ曲を三好英司という演歌歌手が昭和51年に歌っていますが、そこでは「いろはかるた」と清音で発音しているのも興味深いですね。

 三番目に注目したのは、三番の歌詞の最後が、「今日も始めは散らしで取ろう」となっていることです。この「散らし」は、お寿司ではなく、〈いろはかるた〉のいちばんふつうの遊び方で、絵札を散らして並べ、取った枚数を競う個人戦です。葛原が、歌詞の最後に遊び方まで入れ、かるたに誘っているのは見事なものです。私たちも、このお話の後で「始めは散らしで取る」ことにしましょう。

 なお、遊び方は、散らしだけではありません。大正8年の国語読本(国定教科書)の「かるた取り」をコピーしておきましたので、ご覧ください。
 その最後のほうに「それから 又 二くみ に 分れて、何べんも 取つて あそびました。」とあります。この二組に分かれて遊ぶやり方を「源平」あるいは「紅白」といいます。2〜4人でチームを組んで競う団体戦で、札は各チーム24枚をそれぞれ分けて、きちんとそろえて並べます。今回は、この「紅白」でも遊んでみることにしましょう。

(第3回〈いろはかるたを楽しむ会〉のお話、2016年5月8日、於・浜離宮庭園。※前半のたとえかるたの部分は省略した)

 いろはカルタ 


「たとへかるた」の流行と衰退


 この小論は、第11回ことわざフォーラム(1999年10月30日、於・明治大学)のワークショップで発表した内容のレジメである。紙面の制約もあって、説明不足の点があるので、後日、補筆の予定だが、いまは基本的にそのまま掲載する。「たとへかるた」とは、「いろはかるた」の先駆形態で、「いろはかるた」は「いろはたとへかるた」ともいった。この場合の「たとへ」は「ことわざ」の意である。
 なお、邦楽全般については谷垣内和子氏のご協力を得ることができ、新内および芝居については竹内道敬氏のご教示を得たことを記して、両氏に感謝の意を表したい。

 鈴木棠三『今昔いろはカルタ』や森田誠吾『昔いろはかるた』に代表される従来の「たとへかるた」の研究は、現存する数少ない「たとへかるた」の文句や形式、画風などを主としていろはカルタと比較検討するものであった。これらは、今後の研究の基礎をなす貴重なものだが、「たとへかるた」がいつ頃、どのように発展し、どのように遊ばれ、またなぜ衰退したかなどについては、必ずしも明らかではない。ここでは、浮世絵や文学などの資料を通じ、新たな視角から「たとへかるた」を探り、その実態に迫ってみたい。


一枚の浮世絵から
 タイトルに「流行」という言葉を使ったが、はたして「たとへかるた」は流行したのだろうか。私は、溪斎英泉の浮世絵(「当世好物八契」のなかの1枚、文政6[1823]年?)から、おそらく当時の江戸で、ある程度流行したのではないかと考えた。この絵は、「いろはかるた」あるいは「かるた」と呼ばれてきたが、よく見ると、絵札に「ちごくのさたも金しだい」「あみたのひかりも〔銭しだい〕」などとあり、まさしく「たとへかるた」ではないか。ここで注意したいのは、この「かるた」が当時の先端を行く美女たちの好物の一つとされていることである。
 他の「好物」を見てみると、三味線、芝居、反物、短冊、拳酒、草双紙などがあるが、たとえば「三味線」には、撥と撥入れ、新内の稽古本仕立ての人情本『(浦里時次郎)明烏後正夢』、「芝居」には、中村座の「新役者附」と「絵本番付」を配する凝りようである(ワークショップではここで新内「明烏夢泡雪」などを鑑賞した)。「かるた」も玄人受けする当時先端のファッションとみるべきであろう。

文学のなかの「たとへかるた」
「たとへかるた」がある種の流行であったとすれば、どこかにその痕跡が残っているはずである。浮世絵には他の例が容易に見つからないので、文学へ目を転じてみよう。
 時代を文政初期、当時先端のファッションが出てくる作家に絞った。その結果、辿り着いたのが種彦の合巻『傾城盛衰記』(『続帝国文庫 柳亭種彦短篇傑作集』所収)で、武州恋ケ窪の廓、神崎屋で梶原屋源太が傾城の梅ケ枝や新造たちとともに「たとへかるた」で遊ぶ場面が出てくる。さらに文政4年(1821)刊の版本を見ると、国直によって遊びの場面ばかりか絵札の一枚一枚までリアルに描かれた画期的な資料であることが判明した(図版参照)。
 やや長くなるが、以下にこの資料を引用したい(原本は基本的にひらがなで書かれていて、翻字してもすこぶる読みにくいので、『続帝国文庫』を参照し、これに修正を加えた)。

「何とまア三味線はやめにして禿の薫が持て居る此たとへがるたを取て皆で遊んでみやらぬか一番勝が帯。ちりめん。呉服屋へ取にやりや負た者は額へ紙はらせて置て笑ふぞや
と下には忠太が当惑の心も知らずに二階の手すりへ打もたれたる源太が機嫌
「それはよかろ
と新造千鳥。白梅。早梅始めとし。かをる。色香の二人の禿芸子まじりに件のかるたおし並べて寄こぞり
「さア上の句は源太さんおまへ読んで下さんせ
と渡せば梅が枝そばへすり寄り
「あなたのお国の父さんが御大病との今の知らせ妾は気が気で御座んせぬ夫にまア其様にうかうか遊んで御座んして
と云を押さえて
「アゝ何の捨て置きや 己を連れ帰らうとあれや忠太奴が皆うそじや 尤もお年はよられたれど己よりは却つてお丈夫薬ぎらひ灸すへず朝寺参りに七ツから小袖二ツに胴着も召さずあさづけを奥歯でがりがり元日には家例ぢやと閏年には十三切のざう煮を今でもおかゝしなされず己に漸々十上の女房を持ってびくともなされぬ何急病が起るものか 夫とも己が邪魔になり帰れと云なら帰つてやらう
と少しひぞりてかるたを取り上げ
ちかしきなかにかきをゆえ
「おや源さんと太夫さんのちやうど間に御座んした
源「次に何だ とをいがはなのか なるほど帰るがよからうか
と云を梅が枝ふつゝりとつめつてわざと素知らぬ顔
源「あゝ痛い わがみつめつてひとのいたさをしれ
「それ白梅さんのそばにある
源「己が太夫に遇た様に鼻毛をぬかれぬ用心しや ぬすびとのひまはあれどまもりてのひまはない
梅「お国には美しいおかみさんが有事を しらぬがほとけは妾が取つておきやんせう
源「何のそんな者があらう、そしてまアつきもない時云出した やぶからぼう
梅「かほるが取つてしまふた程にうかうかせずとさア後を
源「そんなにせかずともよいではないかそれ かべにむま ぴんぴんするは面白い間夫ができたに違ひはない。なう、かほる
梅「何のその子がなにを知つて
源「はてそこが ひざともだんかふぢや
梅「いへいへ妾は
源「ねみゝにみず
梅「神さんかけて間夫狂ひをしたおぼえはござんせぬ
源「それがほんの せつないときのかみだのみ
「あれ白梅さん、妾が先へ手をかけたを
「いへいへ妾
と奪合ふ千鳥
あらさふものはなかからとれ
「ほい二枚ながら取られたか、それから何だ おにのにやうぼにやきじんがなると云ので思ひ出したあの遣り手のお欲めはどんな亭主を持つであらう
にたものはふうふ
「あゝもし今廊下を通つたはおよくどんでござんした
源「南無三 ひとごといはゞめじろおけ
梅「にくいくちではあるはいな
源「そのついでに にくまれこよにはびこるはどこにある
「あい妾が取りやんした、さアその後は
源「だますにてなし 梅が枝とはうらはらだ
「そりやまた何故いな
源「はて太夫はだますに手が有るものと云のが耳へさはつてか
梅「いつ妾がだましましたか、さアそれを聞きやんせう
源「はて傾城はだますが商売 手練手管になれたのを手が有ると云ふわい、もし
云はれてぐつと癇癪の差し込む手先に取る胸ぐら
梅「ゑゝおまへは
と振り回され
源「また持病が起つたな、これ此かるたに書いたとほり たんきはそんきぢや、静かに云へ
梅「妾はや短気でござんす。そのかはり主のやうに悪性はしやんせぬ
源「何で己が悪性した
梅「あれまアあんなしらじらしい
と味なことから起つた口説
「もう堪忍が
と気早の源太かるたを取つて打ちつくれば二階の障子の内よりもかるたはみだれてばらばらと下に忠太が呆然と思案にくるる膝元へそこに三枚かしこに五枚
  

 この資料から、とりあえず次のことが指摘できよう。
(1)文政3年(1820)頃、江戸では「たとへかるた」が流行の先端にあった。
(2)この「たとへかるた」は取札に絵があり、ことわざの全文が刷り込まれている。
 そのほか、洗練されたデザインや「いろはかるた」との遊び方の違い、ことわざの多様さなど、新たな発見も多いが、紙幅の関係で省略する。

上方の「たとへかるた」
 これまで述べてきた「たとへかるた」の流行は江戸(関東)の話だが、上方ではどうだったろうか。
 暁鐘成『小倉百首類題話』(文政6[1823]、「咄本大系」15巻所収)には、歌がるたより諺(たとへ)がるたの方が面白いという田舎出の下女が登場し、「論語やミの論語しらず、紙に鉄砲、寺から砂糖屋へ」と間違いを連発して笑いを誘う。この咄本は、当時の上方で「たとへかるた」が田舎の庶民にまで普及していたことを物語っているといえよう。
 ところで、禿氏祐祥による明和3年(1766)大坂での「たとへかるた」への言及と私が確認した『大増書籍目録』の「たとへかるた」五十枚(版元は京都)については、会報40号に述べた。その後、『享保以後大阪出版書籍目録』(昭和11年)で次のものを確認できたので、挙げておこう。「劇評たとへかるた」(明和3年出願)、「後編たとへかるた」(同)「たとへかるた大全」(上の句、下の句各百枚。明和8年出願) これらのタイトルによって、上方では明和以前から各種「たとへかるた」が製作され、ある程度流通していた状況が窺える。

流行と衰退の原因
 では、なぜ「たとへかるた」が流行し、また衰退したのか。上方でかなり普及していた「たとへかるた」が江戸で流行した背景には、ちょうどその頃、同じ「たとへかるた」でも形態に変化があり、取り札に絵が入って、遊びに加わる者全員がことわざを絵とともに楽しめるようになったことが大きいのではなかろうか(表参照)。百人一首の影響下から完全に脱し、デザインの洗練なども相まって、花柳界から流行したものであろう。

かるた
年代
読み札
取り札
百人一首(古形)
江戸初期〜中期
上の句 + 絵
下の句
たとへ五十句かるた(岩本)
享保(-1735)以前?
上の句 + 絵
下の句
たとへ百句かるた(日本民芸館)
宝暦〜明和(-1771)?
上の句
たとへ五十句かるた(鈴木)
明和〜寛政(-1812)?
上の句※+ 絵
下の句※
たとへかるた(傾城盛衰記)
文政3年(1820)
(全句)
全句 + 絵
いろはかるた
?
全句
頭字 + 絵

※ 仮名表記に漢字表記が添えられている(鈴木棠三『今昔いろはカルタ』参照)

 とはいえ、「たとへかるた」の痕跡があまりに少ないことは、流行が一部にとどまり、また短期間に終わったことを推測させる。その衰退の原因は、いうまでもなく、「いろはかるた」の登場にあった。粋な「たとへかるた」は、子ども用の「いろはかるた」の爆発的な普及の前に敗れ去ったといってよい。
「いろはかるた」の定着年代については未だ定説がないが、以上の考察および『日用心法鈔』の図版(天保11年[1840]、多田敏捷『おもちゃ博物館5 カルタ・トランプ』所収)などから、上方では文化頃、江戸でも文政末期にまで遡るのではないかと考えている。

(初出=「第11回ことわざフォーラム」プログラム、ことわざ研究会、1999年)

 いろはカルタ 


加賀の庶民文化を伝える一枚刷り


 99年の夏の終わり頃だったか、インターネットで金沢の古書店の目録に「いろはカルタ貼り混ぜ」とあるのを目にした。いったいどんなものか、タイトルだけでは見当がつかないので、問い合わせたところ、早速、メールで画像を送ってくれた。便利なものである。画像がかなりラフで、細部まではわからないが、1枚刷りの錦絵で、これまで見たことのないものと判断し、ともかく注文してみた。

 届いてみると、なかなかきれいな刷りで、いろはカルタがそれぞれ38×27ミリほどのサイズに克明に描かれ、「い」から「京」まで、すべてそろっている。文句を見ると、大まかには「犬棒」(江戸)系が多いが、上方系のものや、どちらにも入っていないものも混じっている。予想した以上に珍しい、ちょっとした拾いものであった(以下の画像は、カラーが部分図、モノクロが全体図である)。

 その文句をいろは順に並べ、犬棒系(黒)・上方系(青)・その他(赤)に色分けしてみよう。


いぬもあるけばぼうにあたる
ろんごよみのろんごしらず
はなよりだんご
にくまれ子くににはゞかる
ほとけのかをもさんど
とうふにかすがへ
ちこくさたもかねしだい
りちぎものゝ子だくさん
ぬす人のひるね
るいはともをよぶ
をぶつた子よりだいた子
わらふかどにはふくきたる
かれきもやまのにぎやかし
よしのずいからてんじやうのぞく
たまにきす
れうやくくちににかし
そうりやうのじんろく
つんぼのはやみゝ



ねんにはねんをいれ
なくつらへはち
らくあればくあり
むまのみみにかせ
うじよりそだち
ゐのはたのちやわん
のどもとすぐればあつさわするゝ
おにゝかなぼう
くらへどもあじわいしらず
やぶからぼう
まかぬたねははへぬ
けんかすぎてのぼうちきり
ふみをやるにもかくてはもたぬ
ころばぬさきのつゑ
えてにほをあげ
ていしゆのすきなあかゑぼし
あいたくちにもち
さんべんまわつてたばこにしよ
きからおちたさる
ゆだんたいてき
めくらのかきのぞき
みからでたさび
しわんぼうのかきのたね
ゑんはいなもの
ひざともたんこう
もときにまさるうらきなし
   せにはらはかへられぬ
   すいがみをくう
   京のゆめ大坂のゆめ

 いろはカルタは上方系と江戸系に大別されるとするのが定説だが、このカルタは、どう位置づければよいのだろうか。(時田昌瑞氏は、上方系と江戸系と異なる系統のものがあったとの説をたてている。「ことわざといろはカルタ」、ことわざ研究会編『ことわざ学入門』所収)

 その前に、錦絵に描かれた「いろはカルタ」が実在したかどうか、という問題もある。古書店主の言によると、錦絵は金沢近辺のコレクターの旧蔵品で、幕末頃のものではないかという。刊記があるわけではないから、断定は困難であるが、旧所蔵者が金沢周辺にいたことや、紙・刷り、全体の雰囲気などからすると、幕末頃、加賀で作られた錦絵という蓋然性は高いだろう(「かれきもやまのにぎやかし」には、地方色が感じられるが、加賀特有のものかどうか、ご存じの方のご教示を得たい)。ただ、そうだとしても、このカルタが実際に作られ、使われていたかとなると、即断はできない。たとえば、粋人が大枚をはたき、あたかもすべて実物があるかのように絵師に描かせ、錦絵にしたてることもないとはいえない。

 こうした疑問に答えを出すには、残念ながら判断材料が足りない。しかし、これだけ一枚一枚きっちり描かれ、それぞれデザイン的にもしっかりしていることから、実物と無関係とも思われない。たとえば、「ひざともたんこう」(膝とも談合)の絵札は、「たとへかるたの流行と衰退」で引用した図版(『傾城盛衰記』)と構図が基本的に同じであり、あるいは、いろはカルタに先行する「たとへかるた」を直接継承するものも一部含まれているのかもしれない。

 いずれにせよ、さまざまなことを考えさせる錦絵であり、今後のいろはカルタ研究に大きな示唆を与えてくれるものといえるのではないだろうか。

(2000年12月)

 いろはカルタ