ことわざのページ 


後の祭り考



 さる夏の日、郷里小樽の町はずれにある古寺を訪ね、五百羅漢を拝観する機会を得た。子どもの頃以来、三十数年ぶりのことで、周囲の変貌ぶりや改築された本堂のオートメ化されたアナウンスにも驚いたが、無名の匠による五百羅漢像の生き生きとした姿にあらためて感嘆した。

 カメラを持ってくればよかったと思ったが、家に戻るわけにもいかず、後の祭りとあきらめて、せいぜい脳裏にその光景を焼き付けようと努めた。目を大きく見開く者、呵々大笑する者、黙想する者……そこには単に顔立ちや表情、しぐさの違いばかりでなく、人間そのものの多様さが確かにとらえられており、格別な信仰心のない私にも、作者の優しい目とおおらかな仏の教えが感じられた。日本のことわざには「仏の顔も三度」「地獄で仏」「寺から里へ」など、仏教文化の影響が明らかに認められるものがあるが、それ以外にも、どこか人間観の共通するものが少なくないように思う。

 ところで、私がなにげなく用いた「後の祭り」ということわざは、日常よく使われるものだが、「後の祭り」が具体的に何をさすかとなると、じつのところ、よくわからないものがある。学者の間でも諸説あって、大まかにいうと、祭りの翌日とする説、祭りのすんだ後の山車とする説、死後の祭りとする説、の三つに分かれていた。いずれもその説を裏付ける用例がないのが難点だが、たまたま漱石の「野分」を読み返していたところ、次のような一節が目にとまった。

「桜の落葉もがさがさに反り返って、反り返ったまま吹く風に誘われて行く。水気のないものには未練も執着もない。飄々としてわが行末を覚束ない風に任せて平気なのは、死んだ後の祭りに、から騒ぎにはしゃぐ了見かも知れぬ」。

 この例だけでにわかに断定はできないが、死後の祭り説を補強するものとみて差し支えないのではあるまいか。日頃、気軽に使っている「後の祭り」にも、広い意味では仏教文化に裏付けられた無常観と関わりがあるような気がしてならないのである。

(初出:「大法輪」第59巻(平成四年)第12号、大法輪閣)

 ことわざ 


見ざる言わざる聞かざる



 他人の悪いところを見たり、言ったり、聞いたりしない、ということである。人はとかく他人のよくないところに関心を抱きがちだが、他人のことをむやみに詮索したり、無責任に噂し合うことは、恥ずべきことに違いないから、わかっていても知らんふりすることも時には必要であろう。

 このように、よい意味に取れば、このことわざはプライバシーや人権の尊重につながり、よき社会生活のモラルになると思われるかもれない。だが、実際には、後難を恐れて(あるいは単に面倒だからと)他人の悪事を見て見ぬふりをするような、どちらかというと感心しない場合に、むしろよく使われるのではなかろうか。確かに、厄介なことに巻き込まれたくないという気持ちもわからないではない。現代人は何しろ忙しいのである。しかし、事なかれ主義が高じ、小さな悪事を見逃すことに慣れっこになった結果、第三者に重大な被害が及ぶことも傍観し、間接的に悪に加担しかねないところがあるといわなくてはならない。したがって、この表現自体、必ずしも肯定的に使われるとは限らないことに注意したい。

 ところで、このことわざを聞いただけで三猿の像をイメージする人も多いだろう。否定の「ざる」と「猿」を掛けて、三猿に作ることは広く知られている。古くは、江戸時代に盛んに造られた庚申塚の石塔に刻まれ、今日では土産物のグッズなどにも作られている。庚申は、訓読みすれば「かのえさる」で、その日に神道では猿田彦、仏教なら帝釈天(たいしゃくてん)または青面金剛(しょうめんこんごう)を祭り、かつては一晩中寝ずに起きていて昔話などをする風習があった。青面金剛も猿の顔で表されることが多かったようである。

 三猿の像は、猿が生息していないヨーロッパなどにも古くから広く存在しているが、日本のものとの影響関係はいまのところ不明である。日本の場合、ことわざと三猿の像のどちらが先かも、じつはよくわかっていない。(こんなに身近なことでも、じつはよくわからないことが多いのだ。)

 ちなみに、英語にも同じような表現があり、See no evil, hear no evil, speak no evil.(悪しきことを見ざれ、聞かざれ、言わざれ)という。言葉の上では、日本語のもののように直接猿と関連するわけではないが、やはり三猿の像を連想することも多いようだ。

(1999年1月,未発表)

 ことわざ 


ことわざのトリビア--二階から目薬--



 二月の初午の日、飛鳥山の渋沢記念館から十分たらずで行ける王子稲荷の縁日をのぞいてみた。
 ふだんはひっそりとした三〇〇メートルほどの参道の両側にぎっしりと露店が並び、久しぶりに大勢の子どもたちが押し寄せている。初午の主役は昔から子どもたちだ。露店の中身は、江戸凧など江戸情緒も残るが、韓国のチジミやトルコ風ドネルケバブ(回転焼肉)など、国際化の波も押し寄せている。そんななか、私の目をひいたのは「へぇボタン」であった。

「へぇボタン」といってもぴんとこないかもしれないが、テレビの「トリビアの泉」に登場する小道具である。この番組の出演者たちは、「アリはどんな高いところから落ちても死なない」とか「忠犬ハチ公は野犬狩りで何度もつかまった」などという、たいへん興味深いが、知ったからといって役に立たない知識(トリビア)を聞いて、感心すると、その度合いに応じてこのボタンをガチャガチャと何度も押す。その結果が数値(単位は「へぇ」)で表されるところが、みそといってよい。
 番組では、最初にちょっと浮かぬ顔をしたタモリが、「人間は、無意味な知識を知ることに喜びを見出す唯一の動物である」というアシモフのことばを引用する。私は、これを聞くたびに、なるほどと思い、同時に「そのトリビアがなかなか一筋縄では手に負えない」などと、心のなかでつぶやく。というのも、私の専門とすることわざ研究の分野で、幾度となくトリビアの重要性と扱いにくさを思い知らされているからである。

二階から目薬
 「二階から目薬」という、江戸時代からよく知られたことわざがある。しかし、ことわざが使われはじめた当時の目薬がどんなものだったか、となると、まさにトリビアといってよいだろう。
 「二階から目薬」と聞いたとき、ほとんどの人は、無意識に現代の液体の目薬をイメージして理解する。目薬を持ち上げ、顔を仰向けにして上から一滴たらすのだが、うまく目に入らないこともあって、他の人にさしてもらう場合も少なくないだろう。現実に二階からさすはずはないが、そういう場面を想像すると、何度やってもうまくいかなくて、どうにももどかしい思いをするに違いない。『広辞苑』が「思うように届かないこと、効果のおぼつかないこと、迂遠なことのたとえ」としているのは、十分納得できる記述である。

 ところが、江戸時代には「目薬といっても軟膏の塗り薬」で、二階から目薬は「無理な相談です」とする説がある(森田誠吾『いろはかるた噺』)。ことわざの意味も「出来ないこと、してみても無駄なこと」だ、と森田氏はいう。
 さらに、傍証として上方のカルタの絵柄(図1)が示され、「二階から手を伸ばしているほうが、転げ落ちそうです」と評した上で、用例として「百二十里あちらの恋は、二階から目薬」(「男作五雁金」)も挙げられている。
 これらは、必ずしも明快な傍証とはいえないが、「軟膏の塗り薬」を前提にすると、そう受け取るほかなさそうにも思われてくる。トリビアの威力である。

江嶋家の「いろはたとへ」
 当時の目薬が軟膏だったのは事実のようだから、テレビならこれで終りで、いっせいにへぇボタンを押すことになるのだが、私にはどこか腑に落ちないところが残った。理屈の上では森田氏のいうとおりだが、江戸後期に大田全斎(一七五九−一八二九)が、このことわざを「迂遠ノ喩ナリ」としている点が気にかかったのだった。  やがていつもの雑事にまぎれ、このトリビアのことはすっかり忘れていたのだが、最近、インターネットで公開された今治藩の江嶋家文書(愛媛大学図書館所蔵)を見ているうちに、思い出す機会がやってきた。
 その文書は、「いろはたとへ」と題され、幕末の世相や人物を上方のいろはカルタの文句に見立てたものである。
 いくつか項目を拾ってみると、

 い 一寸先はやみのよ  此頃の御時勢
 ろ 論語読の論語知らず  林大学
 へ へたの長だんぎ  江戸
 と 豆腐にかすがい  公武の御縁組

といったぐあいで、林大学頭は湯島の学問所のトップ、公武の御縁組は皇女和宮の降嫁のことだから、なかなか辛辣な批評だが、どうやら作者は尊皇攘夷派にシンパシーを感じているようだ。そんななかに、次の一項も出てきた。

 に 二階から目薬  鍋島公

 鍋島公は鍋島直正。窮乏した藩政を改革し、長崎砲台の増築や反射炉の建設、大砲製造などのほか、産業の育成や人材の登用も積極的に進めた、当時の佐賀藩主である。しかし、改革的ではあるが、倒幕に賛成しなかったというから、作者にとっては「迂遠な」策の推進者と感じられたのではないだろうか。少なくとも「不可能」や「無駄」なことをする人物ではないように、私には思われる。
 そうなると、このことわざと軟膏の目薬との関係が、あらためて気にかかってくる。

古川柳とメグスリノキ
 そんな折り、就寝時の睡眠薬代わりにしていた『柳多留拾遺』で、次の句に出会った。

 惚れていた突き目へ乳のはしり過(拾二9)

 古川柳は、私のような素人にはなかなかむずかしく、クスリと笑えるものもあるが、考えてもよくわからないものが多く,いつのまにか寝入ってしまう。
 この句も、ふだんなら首をひねっただけで終わるところだが、見過ごさなかったのは、やはり目薬が気になっていたせいだろう。どうやら江戸時代には、突き目には乳が効くという俗信があったらしく、惚れた女に突き目と称して乳をさしてもらおうとしたら、勢いよく出すぎたという情景のようだ。

 翌日、粕谷宏紀編『新編川柳大辞典』を参照してみると、「乳」の項に、目に塵が入ったり突き目をしたときに、女性の乳を目にさしてもらうと治るという俗信があったとして、「目にたのむ乳から味に道がつき」などの句が引用されていた。乳はいわば目薬代わりに使われていたことになる。
 ちなみに、日本だけに自生するというメグスリノキ(カエデ科の落葉樹)も、樹皮や葉を煎じて目を洗う(服用することもある)と眼病に効くことから、名づけられたと聞く。考えてみると、目にやさしいのは液体だから、目薬の基本はやはり液体なのではないだろうか。
 とはいえ、これもまた素人の直感にすぎないから、出発点にはなっても、結論とするのは早計である。

三種類ある目薬
 私は、眼科の歴史について少し勉強してみることにした。図書館で調べると、江戸時代には、馬島流などの眼科はあったが、一般には十分な治療が受けられずに失明する人が多かったこと、現代の目薬の先駆となったのは、宣教医ヘボンに習って岸田吟光が売り出した〈精綺水〉であることなどがわかってきた。しかし、なかなか私の疑問にストレートに答えてくれる本には行き着かない。

 そこで、あらためて百科事典の目薬の項を開いてみると、まず一口に目薬といっても、〈点眼剤〉(目にさす目薬)、〈洗眼剤〉(ホウ酸水溶液など、目を洗うもの)、〈眼軟膏〉(結膜嚢に適用する軟膏)の三種があることが説明されている。しかも、点眼剤を使う場合は、容器の先がまぶたにふれて汚染しないように、一定の距離で点眼しなければならない、との注意書きつきだ。  残念ながら、江戸時代の薬には言及していないが、まさに目からウロコの思いがした。まず、目薬にはっきりとした種類の違いがあることは、まったく考えていなかった。それに、一定の距離、つまり、少し離れて点眼する薬だからこそ、「二階から目薬」のおかしみも成立するのではないか。はじめから直接つける軟膏では、わざわざ二階を持ち出す意味がないのである。
 江戸時代にも、素朴な形にせよ、目薬には前述の三種があった可能性を考えなくてはならないだろう。

貝殻に入っていた目薬
 当時も眼科医が用いた〈眼軟膏〉、メグスリノキの〈洗眼剤〉があったことは間違いない。だが、〈点眼剤〉はあったのだろうか。もちろん、乳は、比喩的にはともかく、目薬のうちに数えるわけにはいかない。
 さて、このような目薬が、オーソドックスな眼科学史や薬学史のなかに容易に見出せないことは、すでに経験ずみだから、少し視点を変えることにした。ことわざという卑俗なジャンルに登場する目薬は、庶民に縁遠い眼科医のものであるよりも、売薬などの民間薬の可能性が高いと見当をつけたのである。

 図書館で関連書を見ていくと、はたして、江戸中期に京都の井上清兵衛が売り出した目薬が流行性の眼病に効き、評判になったという記述が出てきた(鈴木昶『江戸の医療風俗事典』)。平賀源内が激賞したといわれるこの薬は、巾着状の紅絹に包まれ、蛤に入れて売られたという。炉甘石の微粉末を主とし、梅肉、竜脳、蜂蜜、氷砂糖などを配合したものというから、一種の軟膏だろうが、直接目につけるわけではない。盃などの水に紅絹ごと浸して、その浸出液を用いるとのこと。
  私は、蛤に民俗的な象徴性を感じるとともに、蛤を用いて目薬をさしている図をどこかで見たような気がしてきた。

灯台下暗し
 帰宅して、さっそく手元にある本や図版のコピーにあたってみると、何のことはない、あっさり「いろはだとへ智恵の字廻」(大阪府立中之島図書館所蔵)のなかに出てきた(図2)。上方のいろはカルタを双六にしたてもので、その「にかいからめぐすり」にあったのだから、世話はない。灯台下暗しである。
 その後、参天製薬のホームページを見ていて、江戸時代に神社仏閣で売られていた軟膏状の目薬も、布で包んで水に浸し、洗眼したり、点眼したという説明も目にした。これで、江戸時代にも点眼剤に相当するものがあったことは、明らかになったといえよう。

 結論として、「江戸時代の目薬は軟膏であった」というのは、よいとしても、「これを水に浸し、浸出液で点眼することもよく行われた」と付け加えるべきであろう。
 以上、私なりに苦心して到達したトリビアであるが、これが何へぇに値するものか、私にはまったく見当がつかない。

(初出:『青淵』2004年5月号)

 ことわざ 


帆影七里



 ※HPでは、図1および図2を掲載していないが、主旨はおわかりいただけるかと思う。後日、時間のある時に掲載したい。

日本海に浮かぶファンネル
 いまから三十数年も前、北海道の小樽からフェリーで福井県の敦賀へ向かっていたときのことである。
 デッキのベンチで文庫本を読んでいると、いきなりブォーと低音の汽笛が鳴り響いた。海を見回すと、左舷の前方から船が近づいてくる。巨大なファンネル(煙突)二本が目につく特徴的な貨物船だった。一服するうちに思いのほか早く接近してきて、すれ違いざま汽笛を鳴らして遠ざかっていった。
 再び本を手にして、しばらく小説に没頭する。そのうち疲れてきて、きりのよいところで気分を変えようと立ち上がった。そして、ふと後方に目をやると、水平線の彼方に先ほどの船のものとおぼしきファンネル二本がくっきり見えていた。
 滅多に見かけない蜃気楼のような光景だが、私は少し首をひねっただけで、また本を読み続けたのではないかと思う。夏の終わりの穏やかな夕刻で、日本海は湖のように凪いでいた。

柳田国男の「帆かげ三里」
 それから七〜八年後、すでに三十を過ぎていた私は、ようやく世界のことわざを研究する決意を固め、翻訳に従事するかたわら、関連文献を手あたりしだいに読みあさっていた。そんななかで、柳田国男が子ども向けに書いた『なぞとことわざ』を読み、次のような一節に出会うことになる。

「帆かげ三里ということわざは、九州南部の島々に行われているが、これなどは私たちににもよい知識である。三里を離れると船は帆だけしか見えなくなるという。
 別にまた、船かげ三里、帆かげ七里という人もあるが、このほうは全く見えなくなってしまう距離をいうのだから、二つはどちらもあやまりではないのである。」

 これらのことわざは、初めて目にしたものだが、ことわざには珍しい数理的表現で、強く印象に残った。同時に脳裏には、すっかり忘れていた日本海の水平線上の光景が甦ってきた。思い返すと、たしかファンネルだけで、船体は見えなかった気がする。だからこそ、蜃気楼のように奇異に感じ、記憶の深部に残っていたのではないか。
 ことわざを文字どおりに受け取ると三里以上へだたっていれば、船体が見えなくても不思議ではないことになる。昔の帆掛け船と現代の大型貨物船ではスケールがまるで違うから、もちろん、同一視するわけにはいかない。しかし、具体的な数値は違ってくるだろうが、原理としては同じことだろう、と直感的に思った。

広重の帆掛け船とことわざ
 遠ざかっていく船を岸辺から見ていると、その姿は徐々に小さくなり、最後には見えなくなる。しかし、決して同じ形のままどんどん小さくなっていき、最後は点になって消えるというわけではない。
 最初は船全体が見えているのだが、いつのまにか船体は消え、ブリッジやマスト(あるいは煙突)だけが見え、さらにその上端だけが見えることになる(逆に船が近づくときは、まず船のいちばん高い部分が見え、徐々に下のほうまで見えてくる)。
 なぜ、そういう現象がおきるのか。理屈をいえば、地球がまるいから、ということになる。しかし、そんな知識はなくとも、こうした現象がおきることは、海辺に住む人々や船人には古くから認識されていたに違いない。
 浮世絵にも、遠い水平線上の船の帆だけを描いた例があり、広重は「相州江之島弁才天開帳参詣群集之図」(図1)のほか、東海道五十三次の荒井や桑名でも同様の光景を描いている。
 ことわざは、やはりこうした視覚的認識をベースにしているが、そこにとどまらず、船や帆の見え方と距離の関係を具体的に示している点で、注目に値しよう。ただし、ことわざの常として、結論のみ提示され、根拠は明示されていないのは致し方ない。

数理的検証
 ことわざには、柳田の紹介したもののほか、「帆影八里船端三里」、「船形三里帆形七里」、「船すがた三里帆すがた九里」などの表現もある。地域も九州ばかりでなく、瀬戸内や東北でも使われていたようだ。
 数値は、三里が共通するものの、七里は八里にも九里にもなるから、おおざっぱなものだが、広く流布しているところをみると、経験則としてある程度の妥当性があるのかもしれない。
 私は、単行本の執筆を頼まれたのを機に、これらのことわざの数値を数理的に検証することにした。ことわざに向かって三角関数を振り回すなど、野暮な話だから、ごくかいつまんでその顛末を説明しておこう。
 地球は球体であるため、視力がどんなによくても、地上の人間から見える範囲は限られている。海抜0メートルのものが見える限界点Pは、視点Eの高さによって決まり、Pを通る接線が水平線となる(図2参照)。
 ことわざは、条件をいっさい示していないので、船の喫水線からの高さと帆の高さを設定し、視点の高さを変動させて、これに対応するAS間の距離をパソコンで算出してみた。
 詳細は省くが、私の計算では、船端三里なら帆影六里ぐらいが妥当というところであった。もちろん、条件の設定しだいで数値は変わるから、「帆影七里船端三里」もまんざら見当違いではない。経験から割り出し、語呂よく覚えやすいものにすれば、こんなものかもしれないというのが、そのときの結論だった(拙著『ことわざの雑学』)。

船長(ふなおさ)日記
 数理的な分析をした後で気になったのは、これらのことわざを私自身が実際に耳にしていないことだった。個々のことわざの意味や用法を研究する上で、用例は欠かせないものだが、先人の業績を見ても、解説はあるが用例のないものばかりである。自分の分析がどこか地に足がついていない感じが残るのも、やむをえないことであった。
 ところが、拙文を書いてから二十数年を経て、その生きた用例に出会うのだから、不思議なものである。
 昨夏、あることわざを調べるうち、ジョン万次郎の『漂客談奇』(『日本庶民生活史料集成』第五巻所収)を読むことになった。結果は残念ながら空振りだったが、借り出したついでに他の漂流記を拾い読みし、『船長日記』の件(くだん) のことわざにたまたま行き着いたのだった。偶然の発見だが、このまま忘れ去るのは惜しい気がして、少し書き留めておく。
 文化十年(一八一三)十一月、尾州名古屋の督乗丸(千二百石積み)は江戸へ城米を回送した帰途、遠州御前崎沖で遭難し、太平洋を漂流する。一年四カ月という想像を絶する長期間の漂流で、乗組員十四名のうち一人は三宅島付近で海中に転落し、十名が船中で病死。生き残ったのはわずか3名だったという。
 ロサンゼルス西南海上でイギリス船に救助されるのだが、その直前の場面から引用してみよう(現代仮名づかいに改め、難読の漢字はかっこ内に読み仮名を示したり、仮名に書き換えた)。

「とやかくする程に、夜明はなれて見れば、西南のかたにあたりて、唐船とおぼしくて、二本檣(はしら)にて帆数あまた掛たる大船壹艘西より東の方へ走り行くを見付たり、其へだたる事およそ三里斗(ばかり)と見ゆ。」

 船頭の重吉が語ったことばを池田寛親という武士が筆記したものだが、ここで注釈が加えられている。

「帆影七里船かけ三里というがさだまりにて、三里迄は船見ゆるものなり、それより遠ざかれは、帆斗ならでは見えず、帆も、七里より遠くへだたりたるは見えず、それも凪たる時の事なり。しけにて浪高き時は、いと間近き船だに浪にかくれて見えぬなりとぞ。」

 重吉になぜ三里ばかりといえるのか尋ね、その答を要約したものであろう。この後、再び重吉の語りが続く。

「重吉思うに、そなたの船、帆を懸たるたにあれ程に見ゆるを、こなたの船は帆なけれは目にかゝるまじと思い靡(なびき)をあぐる、船は行違いなり、又こりを取、金毘羅を拝し、あの船へつけて給いと、深く祈念する程に、かの船姿替り、こなたへねじむく様子なれば、あら嬉しや、あの船より目にかゝりて助に来るならん」

 重吉は人並み外れた精神力の持ち主で、いつも冷静に他の乗組員を励まし続け、的確な判断をくだしていた。異国船を目にしたときも、ことわざを思い浮かべ距離の見当をつけたばかりでなく、相手からどう見えるか、とっさに想像力を働かせ、帆に代わる靡(助け船を求めるために、菰などを竿の先に付けたもの)を上げたのだった。
 その後、神仏に祈念したわけで、もしも喜んでばかりいて、打つべき手を打たなければ、神仏にも見放されかねないところであった。

 重吉はその場でことわざを口にしたわけではない。しかし、口にしなくても、想起することによって適切な判断をくだした優れた“用例" といえるのではないか、と思う。
 また、私の分析は、無意識のうちに視点を地上に置いていたが、ことわざが船上から他の船を見て使われることがむしろ主な用法とわかったのも大きな収穫であった。

(初出:「青淵」2010年2月号)

 ことわざ 


ことわざの偏在と異和感



 “ことわざ”という概念は、果して民族や言語の相違を越えて共通するものであろうか。私は、多少のニュアンスの差は別として、おおむね共通するものと考えており、そうした立場から『世界ことわざ辞典』(東京堂出版)を上梓した。しかし、これに関連してなお未解決の問題があることは否定できず、執筆中に気にかかっていた問題点を二三書き留め、今後の課題としておきたい。

 まず、ことわざは元来、旧大陸のもので、新大陸にはなかったとする人類学者ボースの説がある(ローブはさらに、ことわざは主として旧大陸の牧畜民とその近隣の農民のものであると修正した)。厳密な判断を下すだけの材料は持ち合わせていないが、アメリカ・インディアンの部族によってことわざが極端に少ないものがあるのは確かなようだ。また、新大陸ならぬわが国のアイヌ民族のことわざ資料がほとんど見当たらないことも気になるところである。

 ちなみに、あるアイヌの老女は、早川昇の問いに「諺のことを同族言葉でどう言ったかは、人によってロウエンケと言ったのだと言うお方もありますが、ハッキリしませんね」と答え、次の二つのことわざを挙げていた(早川昇『アイヌの民俗』岩崎美術社)。「心・しぐさの良くない者とは、決して一緒に遊ぶんではない」、「泥棒すりゃ、おっかないもんだよ。盗みは決してするな」(日本語訳のみ引用)。アイヌの女性と結婚したネフスキーが、八重山のことわざを記録しながら、アイヌのことわざについて何も残していない(?)のも、やはり不思議な気がする。

 また、ローレンス・A・ボーディの「アカン族のことわざの言語」という論文を見ると、西アフリカのアカン族(ガーナおよびコート・ジボアールに住む)のことわざでは、修辞的ないし詩的要素が特に重視され、英語の「時を得た一針は九針を省く」、「正直は最善の策」、「まさかの時の友が真の友」といったことわざのアカン語訳を見ても、ことわざとは感じられないという。そうなると、「多少のニュアンスの差」の範囲といえるかどうか、微妙なところである。

 ところで、私たち日本人が西欧のことわざを読む場合にも、いくぶん異和感があることは確かで、抽象的かつ教訓的な印象を抱くことが多いようだ。印象には個人差があり、また、対象となることわざの選択の問題もあるから、比較も容易ではないが、ことわざに対する彼我のイメージの違いがあるようにも思われる。詳しく論じている余裕はないが、日本人は音もさることながら、視覚的にイメージを喚起するものをことわざらしい優れた表現と感じているのではないだろうか。

 もっとも、これを日本人だけの特色と考えるのは早計であろう。「たとえ」がことわざの異称であるように、「ことわざ」と「比喩」が同一の語で表される言語は少なくないし、事実、視覚的イメージを喚起するすぐれた表現が世界各地に数多く見出されるのである。

 外国というと欧米を思い浮かべるような時代は、とうに過ぎ去っている。ことわざの比較も英語と比較しただけでは不十分なことは、いうまでもない。日本のことわざ研究も、国際的な比較研究の成果を生かして行なう段階に来ているのではなかろうか。

(初出:「ことわざ研究会会報」第5号 1987年11月)

 ことわざ 


ロシアのことわざ



 ロシアのことわざについて書いたらどうか、と某出版社に勧められたのは、ずいぶん前のことだった。一時、大いにやる気になって書き出したのだが、悪い癖で、そのうち雑事に紛れて、結局、約束を果たせなかった。2〜3年で担当者は退社し、アメリカに行ったのである。それでも、ときどき思い出しては断片的に書き足し、いつか本にすることを夢見ている。以下は、そのなかからの抜粋。


湯気で骨は折れない

Par kostej ne lomit.

 とても暑い日だとか暑い部屋にいるとき、あるいはむやみに着込んでいるときなどに、それでも特に不都合や不快と感じないことをいう。暑いことは暑いが、暑さは別に害にならない、というわけである。
 北国の人々は、長年の習慣で、冬の室内は薄着でも快適なくらい十分な暖房をする。
 それにしても、なぜ「湯気」が出てくるのだろうか、と読者は疑問に思われるに違いない。実はこの「湯気」、風呂の湯気といっても、日本式の風呂や西洋式のバスではなく、大まかな言い方をすれば、サウナ式の風呂の蒸気である。
 昔からロシア人はなかなかの風呂好きで、西欧人のようにただ体を洗うためではなく、また、日本人のように湯船にゆっくりとつかるためでもなく、この湯気に当たることを大いに楽しみにしている。伝統的なロシアの蒸し風呂では、焼けた石の上に熱湯を注いで、その猛烈な湯気を浴びながら、白樺の若枝で体を叩くのである。このマッサージは、風邪に効くばかりでなく、体調を整える上で最高のものとされている。


山と山は出会えないが人と人は出会う

Gora s goroj ne skhoditsja, a chelovek s chelovekom sojdetjsa.

 しばらく会わなかった人と偶然出会ったときや、逆に今度いつ会えるかわからない別離の場面でよく使われる。日本語でいえば、「ひさしぶりですね」とか「またいつかお会いしましょう」ということになるが、単なる挨拶ではなく、思いがけず会えた喜び、あるいはいつになるかわからないが、ぜひお会いしたい(いつか必ず会える)という気持ちが込められている。また、離ればなれになっている友人や恋人たちに対して使えば、慰めの言葉ともなる。
 「ねえ、アンナ・グリゴーリエヴナ、私が何を考えているかおわかりですか。こんなに親しくなって、毎日会うのを楽しみにし、会えばいつも会話がはずんだのに、小説が出来上がると、私たちはお終いなのでしょうか。とても残念で、あなたが来なくなると、本当に寂しくなるでしょう。どこかでまた会えるのでしょうか」と切り出したのは後に世界的文豪として知られるドストエフスキイであった。告白された相手のアンナは、当時きわめて珍しかった速記者で、まだ二十歳という若さである。やはり同じ思いであった彼女は、どぎまぎしながら次のように答えたという。
「でも、山と山は出会えないが人と人はいつか出会える、と申しますわ」
 じつは、このことわざ、ロシア独自のものではなく、ヨーロッパからアフリカにかけて類例のあるものだが、これほど印象に残る用例を私は知らない。先妻と死別していた文豪が二十五歳年下のアンナと再婚したのは、出会いからわずか三ヵ月後の一八六六年二月のことであった。


愛は強いても得られない

Nasiljno mil ne budesh.

 誰かを好きになったからといって、その人が自分を愛するように強制するわけにはいかないし、逆に誰かに好かれたからといって、もともと嫌いな相手はやはり嫌いで、どうにも仕方がない。
 当たり前のようだが、日本では、せいぜい「イヤなものはイヤ」という程度で、類似のことわざは見当たらない。男女の愛をめぐる心理に日本もロシアも変わりはないと思うのだが、ことわざにまでなっているのは、ロシアが昔から恋愛の自由をかなり認めた社会だったせいか。
 チェーホフの戯曲『三人姉妹』では、末娘のイリーナに惚れた二等大尉、ソリョーヌイが愛を告白して拒まれ、次のようにいう。「初めてあなたへの愛を口にして、私はまるで地球ではなく、別世界にいるようだ。だが、どっちみち同じさ。もちろん、愛は強いても得られないのだから……」
 この一見ものわかりのよさそうな科白の後、ソリョーヌイは「ただし、幸運な競争相手の存在は断じて許さない」といい、最後には、イリーナの許婚者トゥゼンバッハ男爵を決闘で倒してしまう。わかってはいても諦めきれない男である。
 モスクワの貧民街ヒートロフカを描いたゴーリキーの戯曲『どん底』では、木賃宿の若い女房ワシリーサが、かつて思いを寄せながら、いまは妹のナターシャに傾いたペーペルを相手に同じことわざを引く。「何を話せっていうの。愛は強いても得られないし……私は哀れみを乞うたりするたちじゃないわ。とにかく、本当のことを言ってくれてありがとう。」
 諦めのよい女である。もっとも、この女、男を妹に譲った上に、金は出すから何とか亭主を始末してくれと持ちかけるのだから、感心してばかりもいられないのだが。


 ことわざ 


囲碁とことわざ



(本稿は、第13回ことわざフォーラム[2001年11月10日]の研究報告要旨をHP用に一部修正したものである。当日は、会場でことわざ研究会会員の木内氏と碁星会員の佐野氏に実際に碁を打っていただきながら、報告した。なお、囲碁に関しては、このHPの「エッセイ」欄にも囲碁関連のことわざ等にふれた「囲碁エッセイ」があるので、ご参照いただければ幸いである。)

  囲碁(碁)に関しては、専門の出版社もあり、多数の書籍が出版されていて、囲碁の格言にふれてプロが書いたものも何冊かある。私は「下手の横好き」のアマだが、趣味の囲碁とことわざの関わりについて、囲碁の専門家とは別の言語表現の観点からアプローチしてみたい。

囲碁の世界
  囲碁は、19路の碁盤の交点に交互に黒と白の石を自由に並べていき、最後に囲んだ地(面積)の大きさを競うゲームである。その特色は、抽象的な図形性と数理的な結果という異質な二面性にあるのではないか、と私は思う。これは、将棋と比較するとわかりやすい。まず第一に、将棋の駒がそれぞれ名称と機能が別個に与えられているのに対し、碁石はどれも同じで、特別なものはない。将棋では自陣と敵陣の境界が明確なのに対し、碁にははじめから明確な境界線はない。また、勝敗も、将棋が敵の王将を取る(詰める)ことで決まるのに対し、碁は敵陣と自陣の地の大きさの差で決まる(もちろん、途中で「投げる」(敗北を認める)こともできる)。大石を取られても、必ずしも負けるわけではなく、持碁(地の大きさが同じで、引分け)という場合もある。

囲碁とその用語
  囲碁には、上述のように、一面で抽象的な図形性が特色であり、理詰めではなく、「(形の)感覚で打つ」側面がある。「右脳を働かせる(活性化させる)ゲーム」といってもよい。しかし、戦いの跡を分析したり、技法を伝えようとすると、当然のことながら、ことばを用いなくてはならない。形や作戦などに名称を付したり、形容詞や動詞も必要となる。
  そこで使われることばの多くは一般の用語を比喩的に用いるもので、「地」「手」のほか、「目」「帽子」「厚い」「薄い」「付ける」「はねる」「切る」「飛ぶ」「這う」「寄せる」「活かす」など数多くある。石を取り合う勝負という側面もあるので、「切りちがえ」「殺す」「いじめる」といった物騒なものも少くない。明らかに将棋から出た「桂馬」もよく打たれる。もちろん、すべて類推が利くわけではないから、「持碁」や「征(しちょう)」、「劫」「セキ」などの特殊な専門用語も出てくる。
  逆に、「布石」「定石」「駄目(を押す)」「先手(を取る)」のように、少数ながら囲碁の用語から一般に使われるようになったと思われる例もある。

技法の定形表現
「帽子に桂馬」「つけにははねよ」「切りちがい一方のびよ」「二目の頭は見ずはねよ」「一間飛びに悪手なし」「左右同形中央に手あり」など、定形化した表現も多く、特に初心者を教える際にはよく使われる。これらは、長い間の経験から引き出された戦いの技法や判断の基準であり、おおむね否定できないものだから、ことわざというより格言に近いものがある。(もっとも最近見た囲碁関係の英語のホームページ〔複数〕では、これらを Go Proverbs と表現している。)
  とはいえ、ていねいに見ていくと、ことわざ的要素も皆無ではない。「石飛んでその碁に勝てず」と俗信とからめ、マナーを教えるもの、「目あり目なしは唐の攻め合い」と表現に工夫を加えたものもあり、後者には「目あり目なしも時によりけり」と打ち返すこともある。また、「取ろう取ろうが取られのもと」「負け碁の打ちよさ」のように心理に踏み込むものも、ほとんどことわざと言ってよいだろう。「五目中手の十三手」や「渡り八目」などの数は、合理的な計算というより、象徴的なもので、ことわざに出てくる用法と同じである。

囲碁に関することわざ
  以上は主として囲碁の技法に関するもので、いわば囲碁内部の表現であるが、盤上から少し離れ、いわば外から見ると、はっきりことわざと言える表現が多くなる。
  まず同じ「棋」の字を用いる勝負事の将棋との関連では、次のようなものがある。  「将棋は早馬の如く碁は牛の如し」「碁に負けたら将棋で勝て」「碁が強ければ将棋にも強い」
 しかし、儒教の影響か、一般的には、次のように否定的なものが目につく。
 「碁を打つより田を打て」「碁打ちは親の死に目に逢わず」「碁打ちに時なし」「碁打ち、俳諧、小泥棒」
  肯定的なものでは、中国伝来の「琴棋書画」があるが、ことわざとは言いがたい。ニュートラルなものでは「碁勢弓力」、一般にもひろまったものとして「相碁井目」や「岡目八目」がある。

碁で使われることわざ・軽口
  このほか、対局中に「下手の何とやら」とか「二度あることは三度ある」「三度目の正直」など一般的なことわざが使われることもある。そのなかで、「金持ち喧嘩せず」は、形勢がきわめてよく、小競り合いをしないときによく使われ、通常の用法より多いのではないかと思われる。
  また、最近はあまり耳にしないが、次のような軽口もかつてはよく使われた。
「ここに手洗う手水鉢」「草加越谷千住の先よ」「弱った魚(まいった狸)は目でわかる」

ことわざの全体像を求めて
  囲碁の言語表現を概観してきたが、以上の分析は決して好事家的な関心によるものではないことに注意していただきたい。こうした個別の領域での言語表現の構造を明らかにすることは、ことわざの全体像を探求する上で、多くのヒントと仮説をもたらすのではないか、と考えている。

初出=「第13回ことわざフォーラム」プログラム(2000年11月)

 ことわざ 


近代教育とことわざ



 教育のなかで、ことわざの果たす役割はきわめて大きなものがあった。かつては、家庭内はもちろん、地域や職場でも折りにふれ、ことわざで教えられ諭された経験が誰にでもあったといってよい。

 ことわざの内容は、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」といった実用的な経験則から、「人のふり見てわがふり直せ」などの社会生活の知恵、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のような人間心理の洞察、さらには「渡る世間に鬼はない」など世界観にかかわるものまで、きわめて多岐にわたっている。したがって、ことわざを一般的に論じることはむずかしいが、長い年月にわたって生活のなかで取捨選択されてきただけに、庶民が真実と感じ、共感してきたもので、言語表現としても印象深いものが多いのはたしかである。
 その特色は、ことわざと類似する格言と比べてみると、わかりやすいだろう。たとえば、論語に由来する「己の欲せざるところを人に施すなかれ」は、ことわざでは「わが身をつねって人の痛さを知れ」に相当しよう。両者は論理的に同一とみなせるが、前者が一般的・抽象的であるのに対して、後者は具体的・比喩的で、様式は大きく異なっている。また、前者が由緒正しく、いわば上から権威でかくあるべしというのに対して、後者は誰が言いだしたかわからず権威とは無縁であるが、子どもにもわかりやすく、内側から共感を引き出す。しかも、ことわざの場合は、「渡る世間に鬼はない」といいながら、「人を見たら泥棒と思え」という複眼的な思考で、結論は一つと限らず、格言の建前に対し、状況に応じた本音の側面も大きい。また、時には「百日の説法屁一つ」のように、猥雑だが、格言には望むべくもないユーモラスかつ強烈な批判精神が顔を出す。両者の生命力を比較したら、「作物と雑草」くらいの差があるとした先人の指摘ももっともなこととうなずけるのではないか。
 ところで、教育のなかで大きな役割を占めていたことわざであるが、このところ(といっても二十年ほど前から)耳にすることが少なくなってきていることは否定できない。その原因は、直接には、核家族化の進行とテレビやケータイによるコミュニケーションの空洞化の影響が大きいと思われるが、根本的には、文化的にもっと深いレベルの問題がありそうである。

 その一方で、教育そのものも行き詰まってきており、そこで、ことわざを見直そうとする動きが出てくるのは、ある意味で当然のことであろう。これは、ことわざ研究の立場からも歓迎すべきことのようだが、率直に言って、現行の教育、とりわけ学校教育の枠組みのなかで、ことわざだけを見直すことがはたして可能か、という疑問も残る。近代の学校教育は、戦前と戦後の違いはあっても、基本的に一元的な価値観に基づき、上から抽象的な「真理」を教え込もうとし、方言は排除し、笑いも抑圧してきた。まさしく格言の世界である。そうした文化的土壌のなかに、一部のことわざを切り花のように持ち込んでみても、その雑草のような生命力が生かされるとは思えないのである。
 ことわざは具体的なものであり、個々のことわざからその知恵に学ぶことが大切なのは、いうまでもない。とはいえ、それ以上に学ぶべきは、個々のことわざの背後にある、現実をあるがままにとらえられる多元的で、柔軟な思考であり、ユーモラスで、おおらか、かつ鋭敏な言語感覚であろう。これらは近代教育がともすれば忘却し、しばしば抑圧してきたものだから、ことわざに学ぶことは、近代教育そのものを根底から問い直すことと不可分なのではないだろうか。

初出=『教育と医学』2004年8月号(慶應大学出版会)

 ことわざ 


ことわざ教育の出発点



 一昨年から今春まで、「ことわざの世界」をテーマに大学で講義を行う機会に恵まれた。自分なりに研究は続けていても、教壇に立とうとは思いもしなかったし、通年でことわざを取り上げた授業はおそらく日本で初めてだから、試行錯誤の連続で、学生諸君には迷惑をかけたのではないかと危惧している。しかし、幸いことに予想以上に受講生が集まり、小教室から大教室に移動する一幕もあって、現代の若者がことわざにかなりの関心を持っていることを確認できた。
 授業の折りに、これまでどんなときにことわざと接してきたか、アンケートをとると、多くの場合、まず挙げられるのが幼時のマンガ(TVアニメを含む)と高校生のときの受験勉強である。家族などとの会話を挙げる学生は少数派で、自然に身につけるよりも知識として学習する比重が大きいことになる。ことわざに対する関心は比較的高いものの、かつてのように生活のなかでよく耳にし、少しずつ自分でも口にしていくことはなかなか難しくなっているようだ。
 ことわざ本来の口承という観点からすると、危機的な状況といわざるをえないが、背景には核家族化の進行や少子化、地域コミュニティの崩壊などの社会的歴史的要因があるから、いたずらに嘆いてみても容易に事態が変わらないことも確かである。家庭や地域でのコミュニケーションのなかで、ことわざが活性化することが望ましいのはいうまでもないが、同時に、若者たちが現実にことわざに接することの多いマスメディアや教育のなかでも、ことわざを意識的に見直し、活かしていく努力が必要な段階にさしかかっているのかもしれない。
 とはいえ、国語教育のなかで、ことわざがどのように位置づけられてきたか顧みると、なぜか影が薄く、慣用表現の一部として故事熟語の付録のように教えるのがせいぜいだった気がする。もちろん、ことわざは文学作品にも登場するから、必要に応じて説明されることはあるが、ことわざのテクストと意味のみをセットにして事足れりとするのは、テレビのクイズ並のレベルで、言語感覚を豊かにする教育とはほとんど無縁であろう。
 では、そうした現実のなかで、いま何が可能だろうか。僣越ながら、まず国語教育に携わる方々がことわざにじっくりと接し、その魅力を具体的に感じ取ることが出発点なのではないか、と私は考えている。ここでは、その一助として、一見ありふれた表現を素材に、ことわざの魅力に迫るヒントを少し書いてみることにしよう。

わが身つねって人の痛さを知れ
「人のふり見てわがふり直せ」などとともに、誰もが幼い頃に何度も耳にして育った表現であろう。幼児でも十分にわかることわざで、大人のいうことをなかなか聞かない子にも大きな説得力を持っている。格言なら「己の欲せざるところを人に施すなかれ」(論語)というところだが、後者はある程度の素養がなければ理解できず、高校生でもすんなりとは理解できないかもしれない。また、漢文の読み下しという点を割り引いても、後者は抽象的で、かくあるべしと上から説諭する響きがあるのには対し、ことわざのほうは身近な比喩を用い、内側から共感を引き出し、納得させることが大きな特色である。

あばたもえくぼ
 いうまでもなく、相手に好意を抱き惚れこんでしまうと、欠点さえも美点に感じられてしまうことのたとえである。逆に、嫌悪感を持つと、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という心理が働くことになる。
 ことわざというと、すぐにも道徳的教訓を引き出そうとする人もいるが、この表現は、教訓や善悪の判断以前に、ある局面における人間の心理を鋭く指摘したものといえよう。こうした心理は条件しだいで誰にでも働くもので、ことわざは長年にわたる人間の心理観察の結晶ともいえる側面を持っている。さらに、この場合、簡潔な比喩表現であることに加え、誇張することによっていっそうユーモラスな批評にもなっている。

なくて七癖
 自分では癖などないと思っている人でも、傍から見れば七つぐらいはあるものだ。誰にだって癖はあるのだから、他人の癖に対しても寛容な態度で接するがよいということにもなろう。
 この表現が比喩でないことは明らかだが、実際に必ず七つ以上あるというわけでもない。とすると、この「七」は、具体的な数というより象徴的な数と考えるべきだろう。一つや二つでなく、多くのということだが、むやみに多くはない微妙な領域の象徴である。他にも、「石の上にも三年」、「傍目八目」など、ことわざには多くの象徴的な数が登場し、それぞれ興味深い。
 また、「なくて」と「七」で頭韻をそろえ、音韻として印象に残り、記憶しやすい形になっていることにも注目したい。ことわざはきわめて簡潔なものであるが、だからといって修辞的には決して単純ではない。

灯台もと暗し
 周囲を明るくする灯台のすぐ下がほの暗いことから、自分の身近なことが案外わからないことをたとえていう。  これは、船の安全のために港や岬に設置される灯台の話ではない。昔、菜種油などに火を灯した照明器具のことで、直下に台の部分の影が生じて暗くなるものであった。現代では使われないから、ローソクの燭台やランプを思い浮かべてもよいだろう。しかし、海の灯台は、もともと船に位置を知らせるために遠方を照らすものだから、すぐ側が暗いのは当たり前で、イメージがずれてしまう。ことわざの表現は三層からなり、表層の言語表現と深層の論理の間に中層の民俗(生活文化といってもよい)が介在する。民俗は、同じ社会のなかでは当然のこととして了解されているが、時代を隔てたり、文化や価値観が異なる社会では、容易に理解されず見落とされやすい。「灯台」はその一つの例であろう。

二兎を追う者は一兎をも得ず
 一度に二匹の兎を追いかけると、一匹も捕らえられない。二つの目標を同時に追求しようとすると、いずれも失敗に終わりかねないことのたとえである。日常の会話では、兎は一匹二匹(一羽二羽)と数え、一兎二兎という言い方はしないが、このことわざの場合は、文字を見ればすぐに了解でき、漢字文化の特色が生かされている。
 漢文を読み下した表現のようで、何となく中国起源という気もするが、じつは西洋のことわざの翻訳である。英語では、If you run after two hares you will catch neither.だが、ヨーロッパの多くの言語に共通することわざで、英語以外にオランダ語やフランス語などから入ってきた可能性もあろう。ことわざというと日本の伝統文化にストレートに結び付けがちだが、ことわざ自体には、民族や言語の壁を越えていくインタナショナルな側面があることも押さえておきたい。
 明治初期から急速に普及し、いまでは旧来の「虻蜂とらず」に取ってかわったといってよいが、なぜ後者が衰退したかも興味深いテーマである。

渡る世間に鬼はない/人を見たら泥棒と思え
 世の中は意地の悪い人や無情な人ばかりでなく、思いがけないところで親切な人や心の通う人に出会うものである。「渡る世間に鬼はない」は、そうしたときに感慨を込めて使われることが多く、一種の誇張表現といえる。文字どおり世間に悪い人はいないということではないが、性善説に通じるものがあるのは確かだ。しかし、その一方で、ことわざは「人を見たら泥棒と思え」ともいう。こちらは性悪説に傾いているといえよう。
 このほか、ことわざには、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と「君子危うきに近寄らず」、「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」などのように、相反する二つのものが併存することが少なくない。このように矛盾することわざの存在をどうとらえらたらよいのだろうか。
 一つの考え方は、それぞれケースが違い、必ずしも矛盾ではないとするもの。たとえば、「人を見たら泥棒と思え」は見ず知らずの他人を相手にするときで、一般的命題ではないと考えるものである。しかし、たしかにそれぞれ用法に微妙な違いがあり、矛盾するとはかぎらないとしても、同じケースでどちらのことわざを選ぶか、迷うことも多い。むしろ、ことわざは複眼的で、いくつもの選択肢を用意していると捉えるほうが妥当だろう。何とかの一つ覚えでは、刻々と変わる多様な状況に太刀打ちできないのである。

夜目遠目笠の内
 最後に、ポピュラーではないが、私好みの表現を一つ引いた。
 夜見ると、遠くから見ると、笠をかぶっているところを見ると、いずれもいっそう美しく見える意である。何がかといえば、もちろん、女性。しかし、女性と明示せず、美しく見えるともいわずに、ただ名詞を三つ並べるだけで、十分に風情があり、印象深い。潁原退蔵氏は、これを引きながら、ことわざを余情の文学と評したが、日本人の言語感覚と美意識の粋が確かにここにあるのではないだろうか。ことわざは単なる慣用表現ではなく、口承文芸であり、ことわざを使うものがテキストを改変することも可能な集団文芸であって、時に鑑賞に値するレベルにまで達するといえよう。

 以上、八つのことわざを取り上げ、簡単にコメントを加えてみた。ささやかな探求ではあるが、テクストと意味のセットだけでは捉えられない、ことわざの世界の広さと深さを実感していただければ、まことに幸いである。

初出=『国語教室』86号(2007年11月、大修館書店)

 ことわざ 


俚言集覧の成立と増補過程



(本稿は『俚言集覧 自筆稿本版』(クレス出版、1993年)の解説論文として書いたものだが、枚数が多いので、冒頭部分と結論部分のみ収録した。途中A5判9頁分をカットし、注も省略している。)

 『俚言集覧』は、石川雅望編『雅言集覧』、谷川士清編『和訓栞』とともに江戸時代の代表的国語辞書として知られ、三大辞書(あるいは、これに荒木田盛員編『鸚鵡抄』を加えて四大辞書)の一つといわれる。とはいえ、これらはそれぞれ性格を異にし、『雅言集覧』はいわば古典の雅言索引に簡単な語釈を加えたもの、『和訓栞』は古語・雅言のほか俗語・方言を含む比較的標準的な国語辞典であるのに対し、『俚言集覧』は雅語・古語も含むが、俚諺・俗語を主とする点が大きな特色である。特に『雅言集覧』とは、雅と俗という書名の示すとおり(後述するように『俚言集覧』という書名は、前者に対比して後人が付したと思われる)、前者が用例とその出典を一つ一つ挙げるのに対し、「一々出處ヲ據授セズ」とし、さらに「鄙俗ヲ先トシテ雅馴ヲ後トシ輓今ヲ主トシテ上古ヲ賓トセリ」(凡例)とした点で、きわめて対照的である。その意味では、方言辞典の先駆とされる越谷吾山編『物類称呼』(安永4〔1775〕年)に通じるものがあり、両書が江戸時代の二大口語辞書といわれるのもうなずけよう。

 注意しなければならないのは、一口に「江戸時代の」といっても、成立は確かに江戸期でも、刊行や流布の状況は各書まちまちで、『鸚鵡抄』を除く他書がいずれも少なくとも江戸期に刊行を開始されたのに対し、『俚言集覧』は明治まで未刊のまま稿本として残されていたことである。本書が井上頼圀・近藤瓶城によって増補・改編され、『増補俚言集覧』として活版により刊行されたのは、明治32〜33年のことであった。『増補俚言集覧』はひろく世に迎えられ、国語・国文学のみならず歴史や民俗その他きわめて広範な分野で、近世研究に必須の参考文献として利用されてきたことはいまさらいうまでもない。戦後も何度か復刻され、歴史的資料というより、今日にいたるもなお現役の辞典として利用されていることは特筆に値するが、その結果、『俚言集覧』といえば一般にこの活字本『増補俚言集覧』をさすことになり、国会図書館古典籍資料室に伝わる稿本は半ば忘れられた存在となっていた。

 百科事典や専門辞典の類で「俚言集覧」の項を引くと、「二十六巻九冊」とするものが少なくないが、これは先行書の誤りをそのまま踏襲したもののようだ。また『日本国語大辞典』など、出典を『俚言集覧』としながら活字本をそのまま引くものも多い。もっとも稿本を利用しようとすると、自ら国会図書館を訪れ、膨大かつ検索の容易ならざる稿本と格闘するほかはないから、時間その他の制約もあり、一概に非難するわけにもいかない。手近なところでじっくりと読める自筆稿本影印版刊行の意義ははなはだ大きいといえよう。

〔以下、書誌的事項、活字本との異同について記述し、書名、編著者、成立について考察するが、ここでは省略〕

 これまでの考察をまとめると、本書は太田全斎が著したものに村田了阿、移山らが増補し、最終的に移山の所蔵するところとなったと推定される。
 こうした増補の過程は、凡例の末尾にも「此集親戚僚友許多ノ人ノ口ニ出ルモノヲ采ルトイヘトモ聞トコロハ愚ヒトリノ耳ノミ一人ノ耳聞コト博カラズ数人ノ口言コト尽サズ不博ノ耳ヲ以テ不尽ノ言ヲ聞ニ其繁多カクノ如シ若四方ノ言万郷ノ語ヲ輯メハ五車軸ヲ折ルヘシ豈一人ノ枚挙スル所ナランヤ然リトイヘドモ亦繁キヲ厭ハズ毎部空行ヲ存シ同臭ノ人ノ音ヲ嗣ンコトヲ冀フ」と述べられているように、むしろ全斎自身望むところであった。その点でも本書はきわめてユニークなもので、いわば開かれた編集をめざした先駆的辞書であったといえよう。その背景には、全斎と同じ福山藩の伊沢蘭軒や北条霞亭、菅茶山ばかりでなく、山東京伝、柳亭種彦、山崎美成、司馬江漢、近藤重蔵ら当時の知識人との交友関係があった。さらに了阿やその知人たちとも交流し、そのなかに移山もいたのではなかろうか。

 そうした執筆・増補の過程を経た本書の場合、何をもって成立とするかむずかしいが、まず全斎がいったん浄書した後、増補を加えながらも「引書目録」を編んだ時点で、いちおうの成立をみたとしよう。その年代は、前記『北条氏直時分諺留』の記述からすると、近藤重蔵が書物奉行となった文化5(1808)年以降となる。全斎の職務や他の著作との関係で見ると、『漢呉音図』が成り、忙しい職務から解放され年寄格となった文化末または文政初年であろうか。そして、おそらく北条霞亭が福山藩に出仕した文政2(1819)年以降の数年間に内容的にいっそう充実し、移山・了阿らの協力を得て増補を重ねたものであろう。

 全斎没後は最終的に移山のものとなるが、嘉永初年まで書き継がれており、内容の雑駁さはともかく、全斎以外の手になる平仮名の見出し(全斎は『諺苑』以来、見出しを片仮名で表記したと思われる)や他筆の書き込みの量を見ただけでも、本書の完成を後人に託した全斎の意図は一応成功したといえるのではなかろうか。

 その後、本書は文久年間に質入れされたり転売されたりするうち一部が失われ、所蔵印が物語るように幾多の変遷を経て、今日の姿となり、今回の影印版刊行により最も原形に近い形で甦ることとなったわけである。

(初出=『俚言集覧 自筆稿本版』第11巻、クレス出版、1993年)

 ことわざ 


ことわざ研究の風土と新しい風



 5月の風は、東京都心部でも、暑からず寒からず、若葉の緑とともにちょっぴり心地よい。国際フォーラムの会場を下見し、そよ風に吹かれながらベンチで談笑したとき、誰いうともなく、今年は日本のことわざ論の再検討が課題ですね、という話になった。

 ひとしきり話がはずんだ後、では何から始めるか、何かきっかけがあればやりやすい、ということになり、やがて私にお鉢が回ってきた。そこで、即座に引き受けたのは、一杯のジョッキと何よりも心地よい風のせいだったかもしれない。

ラフスケッチ
 ともあれ、まずは議論の叩き台として、私なりに日本のことわざ研究のラフスケッチを試みることにしよう。ラフスケッチから始めるのは、スペースの制約もあるが、最初からディテール(細部)にこだわるよりもむしろ効率的で、木と森の関係を見失わない工夫とみていただきたい。

 江戸時代以前はさておくとして、日本で唯一系統的になされてきたのが、柳田国男を頂点とする民俗学による研究である。民俗学の研究項目の一つとしてことわざを取り上げ、長年にわたり多くの人々が各地でことわざを収集してきたことの意義は、計り知れないものがあろう。市町村史などの形で残るその成果は、今後ともことわざ研究の基礎資料として不可欠のものであることは疑いない。

 とはいえ、それだけ多くの人々が関わりながら、ことわざの理論的研究となると、率直に言って、柳田以後これという成果が見られないのはなぜだろうか。

 柳田のことわざ武器説(ことわざの最初の用途は戦闘の場で発揮され、その後、教戒に転用されるようになったとする)は、世界的にもなかなかユニークなもので、ことわざの機能、あるいは笑いや共同体との関係に関して鋭い洞察を含んでいるといえよう。しかし、この説を素直に読み返してみると、着想は面白いが、論理的には説得力に欠けると言わざるを得ない。比喩的に武器というなら、常識的に了解できようが、戦闘の場で文字どおり武器として使われたとし、しかもそれが歴史的に最初の段階であったとなると、よほどの裏付けを示さない限り、到底納得できるものではない。彼自身認めているように、これは仮説であり、その後もなんら実証されることはなかったのである。

 にもかかわらず、柳田説は、民俗学の祖の説であるだけに、民俗学のなかでほとんど検証されることもなく、ア・プリオリに前提とされてきた、と門外漢の目には映る。これは、柳田以後の民俗学でことわざに関しさしたる成果がないことと無関係ではあるまい。

 ユニークな発想という点では、折口信夫の神授の詞章説も見逃せない。下からの歌、上からのことわざという魅力的なシェーマが提示され、国語・国文学の研究者の一部には相当な影響を与えている。しかし、折口の場合は、残念ながら柳田以上に実証性に欠ける。というのも、柳田はまだいろいろなことわざを引いて自説を補強しようとしたが、折口は具体的にことわざを挙げることがほとんどないのである。わずかに「風俗諺」にふれているが、これは今日のことわざにつながるものかどうか、かなり疑問がある。ヤマトことばの「ことわざ」と中国伝来の「諺」の意味・用法の異同と合わせて、改めて検証すべきものと思う。総じて折口説は一種天才のひらめきであり、その文体と相まって強い牽引力を持っているが、あくまで一つのアイディアであり、それだけで論理的に成立するものではない。

 では柳田や折口の説は意味がないのかというと、そうではない。そこに含まれる鋭い洞察は大いに参考にすべきだし、大胆な仮説についてもきっちり検証すべきだろう。また、何より学ぶべきは、そうした大胆な仮説を展開する彼らの構想力だと思う。

 学問的に柳田・折口に連なる鈴木棠三は、ひろくことわざ資料を渉猟し、地方にも視野をひろげて『故事ことわざ辞典』を編纂したが、ことわざの理論的解明に関しては、明確なものを残さなかった。その他、民俗学の辞典などでは、柳田説と折口説の折衷をはかる記述も見られるが、仮説の検証ぬきに折衷するのは理解に苦しむ。師の説に権威を認め、無条件に擁護する姿勢は、日本人の心情として落ち着きがよいのだろうが、学問的でないことはいうまでもない。

 ところで、柳田や折口ほど一般には知られていないが、長くことわざを研究し、先駆的業績を残した国文学者が二人いる。一人は、近世文学が専門で、『諺語大辞典』を編纂し『俗諺論』を著した藤井乙男。もう一人は上代文学が専門で、『日本のことわざ』を著した金子武雄である。ともにことわざをこよなく愛し、ことわざのさまざまな相貌を具体的に明らかにしてくれた。非合理な思考を排した点も共通し、派手ではないが、十分に説得力あることわざ論を展開したといえよう。彼らは、ことわざ研究に関しては孤立した存在で、柳田や折口のような後継者がいなかったが、研究のレベルは高度で、実証的である。特に金子には、ことわざを批評の始原とする独自のことわざの構想がある。

現状と今後の課題
 以上の先達の業績に加えて、現代のさまざまな研究があるわけだが、内容的に注目すべきものとして庄司和晃の論理発見説(ないし感性的論理説)とそれに基づく創作ことわざの実践をまず挙げなくてはならない。詳しい紹介は省くが、庄司は従来の研究とは無縁だった初等教育の実戦から、ことわざの論理的側面を見事にとらえてみせた。そして、ことわざを伝承から創造へとコペルニクス的に展開し、その影響はしだいにひろがろうとしている。

 さらに、社会調査のフィールドワークにことわざを積極的に取り込もうとする穴田義孝の“グランド・セオリー”、国際的視野から『ことわざのレトリック』を追求する武田勝昭の論もある。私自身は、比喩の問題からことわざと視覚的論理、右脳理論との関連に注目してきた。その他、研究会の例会やシンポジウムの場で、さまざまな視点から多くの問題提起がなされていることも付記しておこう。

 ただ、多くの議論が先人の業績を正面から問い直すことなく進められてきたことも事実である。それは、個別には必ずしも非難すべきことではないが、全体として、先人のさまざまな指摘や着想、仮説を整理し、具体的に検証すべき段階にすでに来ているのではないか、と記録破りの猛暑のなかで考えている。

初出=ことわざ研究会会報「ことわざ」25号(95年8月)

 ことわざ 


ことわざの全体像とミニマムの選定



 ことわざは、私たちのごく身近にあるのだが、その全体像となると、容易につかみがたいものがある。少し前のことわざ研究会会報に「群盲……」を引いて、ことわざ研究のたとえとした一文があり、言いえて妙と感心した覚えがある。
 ある表現を具体的に挙げて、ことわざかどうかを問うと、人によって結論は違っても、比較的はっきりした反応が返ってくる。しかし、ことわざとは何か、とあらためて問われると、専門の研究者でも答えに窮してしまうのである。

 武田勝昭によると、海外でも事情はあまり変わらない(「ことわざの言語学」、『ことわざ学入門』所収)。ことわざ研究の泰斗、ミーダーは、アンケートによって一般人のことわざの定義の最大公約数を「短い知恵の文である」としたという。これはこれで意味のあることだが、「短い文」と「知恵」の間には語のレベルに大きな落差があり、その知恵とは何かと、改めて問いたくなる。
 また、ノリックは、成句やなぞなぞなどの隣接ジャンルと対比しつつ、ことわざの属性を数え上げ、すべての属性をそなえたものをことわざと認める方法をとったという。武田が言うように、いわば、定義という正面作戦を避け、搦手から迫ったものである。 じつをいうと、私も、むしろ定義からこぼれ落ちるところにことわざの魅力があるのではないかと考え、「搦手」の多変量解析の手法によって分析を試みたことがある(「ことわざとは何か」、『言語』96年7月号)。ここでは再論しないが、ノリックの分析とも重なるものがあり、大いに興味を抱いた。

 ノリックの論文を読むと、「会話的」、「伝統的」、「定形」など11項目を属性として挙げているのだが、注目すべきは、そのうちの3項(比喩的、韻律、ユーモア)を「任意」としていることである。これは、いったい何を意味するのだろうか。特色でありながら必須ではない−−定義的発想とは、まったく相いれないものである。彼は、それ以上特に問題にしていないが、ここに何か手がかりがあるのではないか、と私は考える。
 たとえはよくないが、「群盲」の場合も、個々の観察が決して誤りなのではない。ただ、自分の感じ取ったものを絶対化し、他者の見解を取り込むだけの想像力に欠けていることが問題であろう。つまり、ことわざの全体像は容易に見えないことを前提にして、見解の異なるものを統合できるモデル(仮説)を提示することが重要なのではないだろうか。

 それも、むろん、簡単にはいかないが、ノリックやミーダーの苦心のアプローチは、重要なヒントであろう。これに、私自身『世界ことわざ辞典』執筆に際し難渋した分類の問題----主題だけでは分類できないこと----を考え合わせると、ことわざの世界は、どうやら単一の原理で把握できるものではなく、二元的なものなのではないか、と思われてくる(相反することわざが多数存在することもこれと関連するのかもしれない)。

 さてこの先は、図解など用いて、わかりやすい形でモデル化したいのだが、恣意的な夢に終わらせないためには、残念ながら基礎的資料が不足している。特に、私たちの母語である日本語について、研究者の間で論議の基礎にできるミニマムのことわざを選定することが急務と考えている。

初出=ことわざ研究会会報「ことわざ」42号(2000年2月)

 ことわざ 


情報化の波とことわざ研究の未来



『ことわざ資料叢書』(クレス出版)の刊行準備も最終段階に入った2002年春、「琉球俗語」に落丁らしき部分が見つかり、いささか慌てたことがあった。なにしろ写本で、ページの表記がない上に、原本はハワイ大学マノア校の所蔵である。ハワイ大学図書館日本文庫のバゼル山本登紀子さんとはすでにメールのやりとりをしていたが、問題が問題だけにメールや電話による確認では心もとない。そこで、メールとともに、前後のページのコピーを航空便で送り、確認をお願いした。2週間ぐらいは時間がかかることを覚悟の上である。
 翌朝、私はいつものようにコーヒーを飲みながらメールをチェックしていて、思わず「おっ」と感嘆の声をあげた。バゼルさんからの返信、それも原本の画像付きである。これで、原本の段階での脱落が明らかとなり、決着がついた。私は、バゼルさんの、権威主義とは無縁の迅速な対応に心から感謝するとともに、時代の流れをあらためて感じた。

時代の波
 思い返してみると、「情報化」「国際化」といった時代の波は、ことわざ研究というきわめて地味な分野にも着実に押し寄せてきていた。研究会発足の1985年前後にはワープロが広く普及し始め、96年の国際ことわざフォーラムの頃からメールやホームページなど、インターネットの利用が当たり前になってきた。さらに近年は、国内の図書館の情報公開も急速に進展し、国会図書館は明治期の図書を全点ネットで公開しようとしている。
 こうした時代の流れは、狭小なアカデミズムの枠にとらわれず、ことわざの資料を収集・公開し、国際的視野から開かれた研究をめざしてきたことわざ研究会にとって、大いに歓迎すべきものであろう。
 事実、インターネットを利用することによって内外の交流が発展し、明治期のことわざ教育の指導書など、新資料の発見も相次ぎ、これらを踏まえた研究がしだいに行われるようになってきた。国籍を問わず、ホームページを通じて新たに参加した会員も多い。もはやインターネットなしの研究は考えられない状況といっても過言ではない。

研究の質的転換
 インターネットに象徴される情報システムの普及は、単に便利な道具が出てきたというだけではなく、必然的に研究の質的な転換をもたらすだろう、と私は考えている。文献を囲い込む閉鎖的なアカデミズムから誰でも利用できるデータベースへ、専門家のみが操る特殊言語の世界から現にことわざを使っている人々との対話へと----私たちの関心は、研究者のものではないことわざにあるのだから、当然といえば当然のことだが、理念だけではなく、日常的に実現していく可能性が大きく開けてきた。研究会では、ことわざを日常生活の文脈のなかでとらえ、芸能や図像表現に注目してきたが、映像や音声の領域もこれまで以上にカバーしやすくなっている。
 研究は、個人的な営為というよりも、連合的な共同研究の色彩を帯びてくるだろう。個人の独創的研究は、もちろん高く評価すべきだが、データを共有する共同作業が基本的な前提となるのではないだろうか(研究とは、本来そういうものなのだが、ここでも理念にとどまらないものになる)。データを提供し合う共同研究者の役割は大きく、これを評価するシステムも必要になる。

新たな情報格差とことわざ研究会の役割
 情報システムの急激な発展と情報の氾濫は、他方で、目に見えにくい情報の格差をもたらしていることも見逃せない。まずネットにアクセスできるかどうかというハードルがある。アクセスしても、検索にはさまざまな制約があり、素人にも使いやすいとは言いがたい。また、ことわざの信頼できるデータベースは、残念ながら、まだ構築されていない。さらに研究成果を発信しようとすると、新たな問題が出てくる。個人の努力にゆだねるのではなく、研究会として取り組むべき課題も少なくないのではないか、と思う。

初出=ことわざ研究会会報「たとえ艸」54号(2003年4月)

 ことわざ 


『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)第2版によせて



 日本のことわざ辞典は、他国にくらべ出版点数がかなり多く、しかもこの傾向が1970年代から続いている点で世界的にも注目に値しよう。さほど目立たないが、ロングセラーになっているものもいくつかあるようだ。また、辞典とかぎらず、ことわざ関連書まで含めると、研究者でも収集しきれないほど、さまざまな本が毎年新たに刊行されている。
 なぜ、このような現象がこれほど長期間にわたって続いているのか。その主な下地として思い当たるのは、次の二つの要因である。まず第一に、日本の庶民がもともとことわざ好きであること。江戸時代には、日常生活で口にするだけでなく、雑俳や流行り歌・芝居に取り込んだり(逆にその文句をことわざにしたり)、ことわざを絵にして楽しみ、「いろはかるた」ということわざを用いた国民的な遊戯を生み出すことにもなった。
  次に、時代はくだるが、高度成長の時代に都市化や核家族化が急速に進み、ことわざが生き生きと使われる場が狭まったことの影響も大きい。ことわざの伝承は、家庭・地域・職場──つまり、庶民生活のあらゆる場面で、ほとんど文字を介さずにこれを耳にし、口にすることによってなされてきたが、そうした場が徐々に失われた結果、ことわざに対する関心は70年代以降しだいに書籍に向かわざるをえなくなったのではないだろうか。

 このように分析すると、今日の日本の読者は、ことわざに根強い関心を持ち、単に意味がわかればよいというのではなく(もちろん、それで十分とする読者も多かろうが)、用法を含めて、論理的にも感覚的にも納得できる内容を潜在的に求めていると推定して、そう見当外れではないだろう。
 では、ことわざ辞典や関連書は、読者のこうした期待にどれほど応えてきたか、となると、いささか心許ない。前述のように、出版点数としては十分なものがあり、それぞれ工夫したものも散見されるが、ことわざ研究の観点からすると、残念ながら内容的にはまだ不十分といわざるをえないのである。
 ことわざの多くは比喩表現であり、表層のことばの裏に深層の比喩的な意味が込められている。多くの辞典は後者の比喩的な意味のみを記述するが、その記述の根拠となると、どうも他の辞典の受け売りであったり、執筆者の単なる主観のようだったりして、いまひとつ信頼できないところが残る。ことわざの比喩は、多くの人の口にのぼり親しまれる表現であることが重要な条件だから、独りよがりの解釈は論外であろう。また、「犬も歩けば棒に当たる」のように、ことわざの本文だけではなかなか解釈しきれないものもあり、用例があってはじめて意味が明確になるものが少なくないことを強調しておきたい。

 中規模以上の辞典では、用例を収録するものが多くなるが、せっかく用例があっても、歴史的なものをごく短く引用して終わっていて、もったいないと思うこともしばしばである。これは、おそらく国語辞典の単語中心の記述にならったもので、初出例としては重要だが、ことわざは使われる状況と密接に結びついており、誰が、どのような場面で使っているか、文脈がわかる引用(当然、ある程度の長さが必要となる)でなければ、用法はもちろん、意味さえ確定できないことがむしろふつうなのである。そして、ことわざを使うためには、古例よりも近現代の用例が重要であることも付言しておきたい。
 さらに、ことわざには表層と深層の二層だけでなく、表層の背後(中層)には民俗(庶民の生活文化)があり、いわば三層構造をなしていることも無視できない。再び「犬も歩けば棒に当たる」を例にとると、「犬」が歴史的にどのような意味で使われてきたか(ペットではなく、下賤の者をさした)を考慮に入れなければ、なぜ、懸命に生きているうちには幸運に巡り合うこともあるという意味になるのか、なかなか納得できないのである。

 さて、このように既存のことわざ辞典を批判的に検討していくと、逆に、そのレベルを超える辞典の編纂がどれほど困難であるかも、おぼろげながらおわかりいただけよう。ことわざ辞典の編纂には膨大な研究の蓄積が必要であり、現代にあっては、日本語のことわざ辞典にも国際的な視野が欠かせず、途方もない企てになるに違いない。
 じつをいうと、さまざまな経緯があって、私はその無謀ともいえる試みにあえて挑戦し、多くの方々のご協力を得て、五年がかりで『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館)を上梓したばかりである。辞典の評価は、むろん他の方にゆだねるしかないが、太田全斎や藤井乙男などの先達の業績に導かれ、現代のことわざ研究の恩恵をこうむりながら、新たな方向をめざす機会を与えられたことに、いまあらためて深く感謝している。

(初出=『図書新聞』2012年4月21日号)

 ことわざ 


ことわざの衰退と再生

−再解釈と新たな越境の可能性−



   今日の日本でことわざが衰退していることは、多くの人々(特に高齢者)が実感しているところでしょう。私自身も幼時の記憶をたどると、ことわざが現在よりもよく使われ、使われる表現ももっと多様で、生き生きとしていた印象があります。

 ことわざが以前ほど使われなくなったのは、なぜでしょうか。表現自体が古くなり、しだいに使われなくなってきたという常識的説明は、少し違うのではないかと思います。そうした側面があることも事実ですが、これは途方もなく長いことわざの歴史のなかで個別には常にあり得ることで、一般的には、その一方で時代に合わせて改変されたり、新陳代謝による新たな表現が生まれてきたといえるでしょう。問題は、むしろことわざが使われる場が、おそらく1960年代からいちじるしく減少したことで、方言の衰退とほぼ並行しています(背景には、高度成長によるコミュニティの崩壊/核家族化の進行とマスコミなどの文化的画一主義があります)。その結果、当然のことながら、生きたことわざに自然な形で接する機会が激減し、若者は受験勉強でことわざを知る本末転倒の状況となりました。テレビでは、ことわざをクイズにする光景がよく見られますが、テキストと「意味」のセットでは、ことわざは昆虫の標本のように死んでいます。  とはいえ、あるいは、だからこそというべきかもしれませんが、ことわざに対する関心や期待は、漠然とした形ですが、静かに高まろうとしていると、私には感じられます。そして、その根底には現代文明の行き詰まりに対する不安があるのではないでしょうか。

情けは人のためならず
 では、そうした期待にことわざは応えられるのでしょうか? ことわざで何でも解決するかのような過大評価は、いわば贔屓の引き倒しで、感心しません。しかし、ことわざが現代社会の諸問題の解決につながるヒントを与えてくれるのではないか、と思われる事例があるのも確かなので、ここでは、論議のために、そのいくつかを紹介しましょう。  最初に取り上げるのは、大阪大学の発達心理学の研究グループが保育園児の行動を観察して、「情けは人のためならず」を実証した研究*です。このことわざは、(若者が)正しく理解していない例としてよく引かれてきましたが、それ自体が正しいかどうかはほとんど問われないままでした。この研究は、人類史的な視野からその正当性を科学的に実証したという意味できわめてユニークであり、高く評価できます。ポイントは、単純な因果応報説ではなく、「巡りめぐって」ということわざの趣旨を生かし、園児の親切な行為を見ていた周囲の園児に着目し、観察したことです。ことわざ研究の観点からすると、古くからのことわざが今日的に“再解釈”されたといってよいでしょう。

 “再解釈”は、ことわざの歴史のなかで従来からある程度繰り返されており、たとえば、「老いては子に従え」は、江戸時代に「三従の教え」から離れ、むしろ男性に向けて使われるようになりました。また、「犬も歩けば棒に当たる」、「由らしむべし知らしむべからず」などは、“再解釈”により規範主義的解釈から脱して、新たな批判的意味を獲得した表現といえます。「二度あることは三度ある」も、リスク管理の視点を導入し視野を広めることによって、根拠不明の俗信から日常生活の、否、それだけでなく文明史的にも重要な指針の役割を果たす可能性があります。

ヌチドゥ宝/天から役目なしに降ろされたものは何一つない
 もう一つ、私が注目しているのは新たな“越境”の可能性です。日本の文化は、古くは中国文化の、近代には西洋文化の大きな影響を受け、ことわざの領域でも多くの表現を受容してきました。ことわざは、ある言語文化の粋であるとともに、言語や民族を越えて浸透するインタナショナルな性質を併せ持っていますが、従来の越境は、基本的に先進文化からの流入というベクトルでなされてきたといってよいでしょう。

 これに対し、比較的近年に耳にすることが多くなった「ヌチドゥ宝」は、ウチナーグチ(沖縄のことば)の黄金言葉(クガニクトゥバ、ことわざ)で、琉球国最後の尚泰王の琉歌に由来するともいわれます。また、「天から役目なしに降ろされたものは何一つない」は、アイヌのことわざとされ、人間だけの話ではなく生き物すべてを視野にいれているところがユニークで、今後日本語のなかに定着する可能性があるものです(萱野茂は『世界ことわざ大事典』にこの表現を収録し、池澤夏樹の『静かな大地』では2カ所で登場しています)。ここで示した二つの例が従来の越境のベクトルと異なることは、誰の目にも明らかでしょう。「先進→後進」という枠を取り払い、時空を越える新たな“越境”に、私はことわざの新たな可能性を感じています。

 今回のフォーラムでの「ことわざを編む」のような試みも、こうした“再解釈”と新たな“越境”の可能性を視野に入れて積み重ねられていくことを期待しています。

初出=「ことわざフォーラム2013 ことわざと現代社会」プログラム(2013年11月16日)

*注は省略しました。

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