「久米村」(クニンダ)國場家の興りと盛衰

王姓。
久米村における王姓の歴史は万暦年間にさかのぼる。
同門中の大宗・國場家の家譜(写し)によると、元祖の王立思について次のように記してある。
「嘉靖三十年〔1551〕三月三日生、万暦二十八年(1600)十二月二日、柔遠駅にて卒す。
享年五十。
遺骨は故郷の地に葬った。
立思は福建州府龍渓県人なり。
万暦十九年(1591)、聖旨を奉じて始めて中山に還し、三十六姓を補う。
国王から唐栄に宅を賜い、これに居す。
王姓の元祖・立思の渡来は、家譜の記録に依れば(三十六を補う)とあり、衰微する久米村の強化が目的だったようだ。
とすれば、このあと万暦三十五年(1607)の久米村の強化、すなわち阮毛二姓の琉球渡来より、立思の渡来は十六年も早い時期の出来事ということになる。
相次ぐ中国からの渡来の背景には、十六世紀中期からの久米村の衰微があつたといわれる。
そこで「三十六姓の欠を補う」「唐栄の欠を補う」移入政策が図られた。
それは特に薩摩の進貢貿易経営と深く関連した政策だったとも指摘されている。
この移入策は嘉靖年間から康熈年間にわたって何度となくあったようだ。
富島壮英氏の論文「久米三十六姓とは何か」の中に、久米村の家譜から拾い上げた移入者の一覧表がる。
これによると、まず、嘉靖年間(1522―66)に鄭肇祚と蔡宗貴。
万暦十九年に王立思と阮明。
同三十五年に阮國と毛國鼎。
同三十八年、蔡纏・同四十五年、陳華。
万暦初期頃、梁守徳と林世重〔万暦三年〕。
崇禎年間、周文郁。
順冶二年、孫良秀。
同五年、楊明州。
同十三年、曾志美と程泰祚。
康熙八年、魏瑞麟。
李栄生〔推定〕。
これらの人々が移入、久米村の強化が図られたといわれる。
ただし、全員が中国からの帰化人というわけではない。
中国の文学、音語、あるいは航海術などに精通していた首里、那覇の出身者も含まれていた。
とはいえ、久米村の歴史は三十六姓に始まり、その後も中国から帰化した人々が中心になっている。
同じ中国からの帰化でも、家譜や「球陽」などの記録に見える「聖旨を奉じて中山に還す」、いわゆる琉球国から正式に招かれた帰化人と、そうでなく漂着して帰化した者があったといわれる。
今も久米村に残る「ナガリトーンチュ」〔漂着の唐人〕という呼称はこの漂着者を表わした言葉という。
王姓は阮毛二姓よりも早く、「聖旨を奉じて」渡来、後に大宗の國場家(堂号・三槐堂)は里之子家となり、総理唐栄司(久米村総役)の人材も輩出、久米村有数の門中となっている。
琉球の歴史で活躍現在、同門中は大宗の國場家から「小渡」「新崎」「上運天」「仲宗根」「知名」「山田」「比嘉」「久高」「名嘉真」「大田」「伊計」「古波津」の各分家が誕生。県内各地で子孫が繁栄している。
一九八二年十月、戦後の門中会を結成、戦前の槐王会の呼称を再会して組織的活動を開始した。
門中会長の那覇市松尾二・一六・三一、國場世保氏〈七十二歳〉は「戦前は門中活動も盛んだった。
戦後になってしばらく活動が途絶え門中の人たちの交流も疎遠の傾向にあった。
門中会を再建する意味で、「王姓門中会」(槐王会)の結成となった」と語る。
当面の最大の課題は、大宗家継承の一件。
というのは、同門中は元祖の立思から現在の人たちまで十三から十四世を数えるが、太宗・國場家の十二世・必達は女子一人のみをもうけたため、慣例にしたがって甥を養子に入れて家統を継いだが、早逝したため跡目がいまだ決まっていない。
國場家の御拝領の屋敷は今も久米大通りに残っており、ここには位牌があり、先祖が祭られている。
「大宗家の継承をきちんとさせたい」というのが、同門中の人たちの切実な願いでもある。
王立思から始まる同門中は、久米村における歴史のなかで、秀でた人材を輩出、多くの功績を残したというが、残念な事に大宗の國場家、分家の多くが家譜を沖縄戦で焼失、詳細については知ることができない。  
それでも、元祖の立思、三世の明佐、四世の可法、九世の丕烈などについての家譜の写しが残っている。
このほか、「歴史宝案」「球陽」「中山世譜」などいくつかの資料に同門中の人物が登場しており、これらが貴重な記録となっている。
この史料に基づいて同門中の分家筋にあたる那覇市田原一八、小渡清孝氏(四十三歳)自筆版の「久米村・王姓門中の由来と発展」と題する冊子、それに「王姓世系之全図」を刊行している。
これを見れば、王姓の歴史の大略が分かる。
執筆にあたった小渡氏は「王姓の人物は家譜以外に、たとえば琉球王府の外交文書および文案を集成した「歴代宝案」(一四二四〜一八六七)その外の歴史史料に出てくる。
これらの史料が冊子をまとめるのに役立った」と語る これだけの史料に王姓の人物が登場するということは、それだけ王姓の人物が久米村のみならず、琉球の歴史で活躍したことを物語っている。
元祖・立思から時代が下って、王姓は「久米村の王姓」の確固たる地位を築くこととなる。
それも、遠い先のことではなかった。
三世の明佐が久米村最高の紫金大夫の位にのぼり、総理唐栄司に任じられた。
とはいえ、明佐の時代にはまだ門中の形態を整えていない。
そのことは、元祖立思(その弟の立威は不明)、二世の克善、三世の明佐はともに、遺骨は故郷の竜渓県に帰したとの考え方にもみられる(昭和六年、王姓宗家は中国の故地を訪ね、遺骨を琉球に持ち帰って葬っている)。
四世の可法も長史司の位に登り、 父の明佐と同様に久米村の指導的な役割を果たしたが、分家の誕生をみたのは五世の時代に至ってからである。
可法は三男をもうけている。
長男は保之で、父の跡目となった。
三男の裕之は王姓初めての分家となり、このあと、次々と分家の誕生をみる。
五世の時代、分家が誕生、小渡氏の作成した「王姓世系之全図」から分家の誕生をみると、まず五世の裕之(名嘉真家)の系統から「小渡」「仲宗根」の二家。
六世國鳳の次男・成勳(新崎家)から 「知名」「久高」「宮城」「大田」の各家。
同じく國鳳の五男・崇達から「上運天」が誕生している。
また、本家筋から「山田」、分家には「古波津」の各家があった。
これらをみると、王姓が大宗家と分家から成る門中の形態を整えたのは、五世の時代からで、そのご、分家が続々と誕生、七〜十世の時代には相当の広がりをみている。
そして、同門中から紫金大夫の位に登った人物を拾いあげてみると、まず三世の明佐・國場親方(総理唐栄司)、八世の士淳・知名親方(同)、九世の丕烈・國場親方(同)、十世の兼才などがいる。
瀬底島の土帝君に掲げてあった篇額「厚徳」は夫丕烈書の一つである。
このほか、国場家十一世の掌政は「久米崇聖会」の創立者の一人で、法人移行後、最初の理事長となつた人物である。
元祖・立思の子孫は久米村を定住の地として、門中の基礎を固めていくが、その過程で外の門中同様、田舎下りする人達も多く出た。
現在、屋取へ下りた人たちが具志川、石川両市のほか、各地に定住している。
槐王会は久米村の子孫、これら田舎下りした子孫を含めて結成。
門中の再建と新たな歴史を歩み出している。
そして、今若い層の中に、自らの門中史にたいする興味も芽生えつつあり、小渡氏を中心に勉強会がひらかれている。
メンバーは二十〜四十歳の人達 十人、先祖の歴史だけでなく、久米村史、琉球史における王姓の果たした役割等について勉強している。
将来、元祖の故郷を訪問したいというのが夢。
そして、ここにも、王姓門中の新たな歴史の息吹が感じられた。   
門中風土記より転写。
(この門中風土記は沖縄タイムス記者多和田真介氏の執筆に依るものであり1986.7.17.に沖縄タイムス社より発刊されたものであります。)
東京在住國場家は大正十三年、大阪府堺市に移転、内地での歴史をスタートさせた。
國場長富・マエノ。の間に功一・功得・功三と外に二女をもうけた。
功一(幹夫)・マカト(馨代)。の間に修(継生),昇、覚、康子、和,健司(故人)が生まれる。
継生・里子。昇・孝子。覚・絢子。と各々家庭を持つ。
我々十四世の子どもたちも成人して、社会人として活躍している。
那覇久米村三十六姓 王立思十五世孫 として益々その輪を広げ発展する事を願ってやまない。
2004.04.12.