競馬場を訪れる皆様、および競馬に興味を持たれている方へのお願い。 〜 ちょっとだけ配慮してやってください 〜


 動物は臆病な存在です。
 それは、ほとんどの動物たちが未知のものや大きなものから身を守るための知恵として
 「逃げる」という手段を採っていることからもわかると思います。
 馬はもともと秀でていたと思われる「逃げる」という技術に磨きをかけ、速いスピードを長い距離で持続させられる能力を持ちました。
 より確実に逃げるために敵を見つけるための視界は広くなり、耳は敏感になり、ほんの少しの異常でも反応できる注意深さを備えたのです。

 云い替えればそれは、他の動物よりもさらに臆病になったと云えるでしょう。

 現在、競走馬として競馬場を走っているのは、ほとんどがサラブレッドです。
 それは、三大始祖と呼ばれるアラブ馬を源として、人為的な品種改良で生まれた存在です。

 愛玩動物であれば主人に忠実に、あるいは見栄えを良くするために。
 食用動物であればより早く成長するように、あるいはより多くの肉が獲れるように。
 そういった人間の都合で改造された動物たちと同様、サラブレッドたちは「より速く走れるように」改造された動物です。
 結果、かれらはスピードを得ましたが、引き換えとしてあまりに脆い脚を背負うことになりました。
 改造はされていますが他の部分には全く手がつけられていないので、馬の持つ本来の「臆病さ」はもちろんそのままです。
 かれらは好奇心は旺盛ですが、突然で、かつ未知なものにひどく怯えます。

 例えば大きな布が風になびくだけでかれらは驚きます。何かわからないけれども大きなものが突然現れたら、かれらは怯えます。
 また、音にも敏感です。動物にとって音は何かの存在を示すサインであり、それがどんな音でも未知のものであれば怯えます。
 光にも敏感です。目に映るすべてのものは太陽光の反射で見えています。反射してきた光が視神経を刺激するのです。
 しかし、直接太陽のような強い光を見れば、それが単なる光であるとわかっている人間ですら目をそむけたくなるでしょう。
 そして、馬にとっては突然の強い光は異常な刺激に他なりません。

 人間怯えても、理性で我慢することができます。
 熊は怯えれば自らが恃む両手と口で襲いかかります。
 犬は怯えれば武器である歯を剥き出しにして、あらん限りの声で吼えます。
 馬は……逃げるしかありません。

 しかし、競馬場は柵で囲まれた逃げ道のない場所です。
 どこまで逃げても「見慣れぬもの」がかれらの視界から去ることはありません。
 ――犬や猫ですら、脅かせばしばらく家の中を走り回るでしょう?
 500キログラムの体重と200mを10秒そこそこで駆け抜ける脚力を持ったサラブレッドが、全力で逃げ回るのです。
 危険きわまりありません。馬は人の身長くらい軽く飛び越える脚力を持つ動物です(障害競技による日本記録は187センチです)。
 かれらは普段は1mくらいの高さの柵があればあえて越えようとはしませんが、パニックになれば別です。
 競馬場の柵くらいなら飛び越えて、暴走した軽自動車が突っ込んでくるかもしれないのです。

 また、「馬力」という単位が知られているように、馬の力はとても強いです。
 乗馬をした事のある人ならばみなさんご存知のことだと思いますが、馬1頭の力は人間の力でどうこうできるものではありません。
 かれらが全力を出せば、私たち人間はあっという間に振り切られてしまうでしょう。
 振り切られるだけならまだいいですが、引きずられる、蹴り飛ばされるなんてことになれば、確実に命にかかわります。

 そして、馬自身の脚は「速く走る」ために作られており、急な方向転換をしただけで腱を傷めたり、
 ちょっとした窪みに踏み入れるだけで骨折してしまったりする、非常にあえかなものでもあるのです。
 「ガラスの脚」なんて表現を耳にしたこともあるでしょう。弱いもの、という意味なのはたいていの人が意識していますが、
 それが同時に「取り返しのつかないもの」をあらわしていることはあまり知られていません。
 もしかすると、最初に云い出した人も意識していなかったかもしれませんが、ガラスでつくられたものは
 割れてしまえば元に戻ることはありません。同じように、馬の脚も骨折すれば、かなり高い確立で元に戻すことができないのです。

 骨は添え木を当ててじっとしていればいつかはくっつきます。
 それは人間と変わりませんが、まず馬は自重を3本の足で長時間支えることができません。
 重さに耐え切れず、健康だったほかの脚のひづめが割れたり、腐ってしまったりするのです。
 寝かせておくこともできません。
 元来立って寝る動物であるかれらは床ずれしやすく、長い治療期間の間、じっと寝ていることは不可能なのです。
 何より、かれらは「骨折だからじっとしていよう」という理性を持ち合わせていません。

 だから、馬は骨折した場合、かなりの高い確率で安楽死が採られます。

 最後に、かれらは競馬場で勝ち抜くことができなければ、生き残ることができません。
 大レースを勝てば一頭で広々とした放牧場を独占し、種牡馬として老衰で死ぬまで面倒を見てもらえるのに、
 勝てないほとんどのサラブレッドは引退後に馬肉となって 家畜の飼料となっているのが一般的な事実なのです。
 (サラブレッドの肉は脂肪分が削ぎ落とされているためにパサパサで、人間の食料としてはあまり採用されていないようです)
 前述したように馬は臆病かつ敏感な動物ですから、ほんの少しの刺激で混乱します。
 無用に発汗し、体力を失い、個体差はありますがたいていの馬はその後しばらく周囲の出来事に敏感になり、集中できなくなるでしょう。
 夏の怪談特集の特番を見た後、なんとなく闇が怖くなる、あの感覚をイメージしてもらえばわかると思います。
 そんな状態で全力を出しきって走ることは難しいでしょうし、そうなれば負ける確率も高くなるでしょう。

 繰り返しますが、サラブレッドは人間の都合で作りかえられた、馬であって馬ではない、サラブレッドという動物です
 (学術上はどうだか知りませんがね)。
 尊大な言い方かもしれませんが、こうなったら人間が面倒を見るしかない動物でしょう。
 愛玩用に生産され、野生で生きていけない一部の犬のように、責任を持つべき動物。
 サラブレッドとして競争を勝ち抜くことでしか生き抜くことができない存在。
 だからこそ、生産にも携わらず、かれらの余生にも関わっていない我々は、
 せめてかれらが競馬場で実力を発揮できるようにしてあげるべきです。

 だから、競馬場を訪れようという皆さんには「こんなことに注意して欲しい」というお願いがあります。

 ・競馬場、特にパドック周辺では大きな音を出さない。
 ・パドックや本場馬で写真を撮る際にはフラッシュをたかない。
 ・スタート前、ファンファーレにあわせて手拍子などしない。
 ・ゴール前など、馬の目につくところで馬券ゴミ等紙ふぶきを撒き散らかさない。

 かれら競走馬の一つのいのちを、ヒトの心無きわざで失うことがありませんように。

梓みきお/6.Oct.2001    

梓