少女小説における続編の法則

 あるいは金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』について

 結論からいうと「いきなりあれから10年たちました」「何も変わっていません」というのが正解です。

 桃子ちゃんは「作家」になんかなりませんでした。恋愛はしたかもしれないけれどドラマはなく、従って結婚もありませんでした。桃子ちゃんは何者にもならなかったのです。大学院浪人した後横滑りにフリーター生活に突入して、モラトリアムというよりは今の生活を全面肯定であくびしながら相変わらず穏やかな日々を送っているのです。

 「いきなりあれから10年たちました」「何も変わっていません」というところから始まる「正編のない続編少女小説」というものもあって、私はそれは高野文子の『るきさん』だと思っています。女子二人の友情物語というのも近似値。ただこちらの女子二人はボケとつっこみという役割を担ってはいます。

 『るきさん』のラストには、るきさんがイタリアへ引っ越してしまう(引っ越しても彼女は何も変わらないというオチがつくにせよ)という急展開がありましたが、『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』はそういった展開も展望もなく、ただ何となくフェイドアウトしていきます。

 花子ちゃんは(大方の読者の予想通り)編集者になって一旦は共同生活をしていたアパートから離れたものの、また舞い戻ってきました。伯母さんも相変わらずです。もう一人、アパートに住んでいるおばさんも合わせて、四人はぺちゃくちゃと援助交際について一章半も、本当にただぺちゃくちゃとくっちゃべっているだけなのです。

 母親の再婚と弟の結婚という外側のドラマを何となくやり過ごしつつも、勤めている塾がなくなるらしいのでどうしよっかなーと思っている桃子ちゃんは、身の振り方を決めようとしているわけではなく、未来は空白なままです。

 そんなわけで『小春日和』続編は「ある特定の女子」の生き方をなぞることを回避しました。読者としてもこの続編に異論はあんまりないはずです。というのは、女の子は大学を出て勤めるにせよしないにせよ、「自分は何者か」っていう問いには「私は私」と答えるものなので。

 『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』の幸福感は、いしいひさいちのライフワーク『バイトくん』によく似ています。風呂なし四畳半万年床で日なったぼっこしながら暮らしている万年貧乏大学生を主人公に続くこのシリーズの単行本のオビに、「こんな風に日に当たりながら沢山の年月を過ごしてきたけれど、いつまでこのままでいられるんだろうなあ」といった趣旨のアオリを見た時には不覚にも涙が出そうになったものです。

 多分女子は、えんえんと終わらないお茶会を開くことによって割といつでも外側の時間を止められるように出来ている生き物です。30才まではそれでやれるにしろ、40代はどうなるのかなあと、桃子ちゃんと同い年の私は考えます。それとも、この続編がまた用意されているのでしょうか?

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