Dancer in the dark(2000) ラス・フォン・トリアー監督 試写感想

 さて、今年公開の目玉の一つであるラス・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。主演がビョークでカンヌ受賞作で『CUT』が特集を組んで大絶賛。それだけで革新保守の人達はもう大喜びだよね!なんて意地悪なことは言わなくても、大絶賛モードで日本でも迎えられるだろうことは間違いなしだと思います。

 だから、ここで私が述べるような意見は感涙の向こうで泡のごとく消えていくこと必至。(←なんて書くと意地悪だと思われるけれど、そうじゃないのよ、決して。きっとみんな大好きだよね。ということを言いたい)でも、今回はかなりひっそりとつぶやいておきたい。

 ビョーク演じるヒロインは、チェコスロバキアからアメリカに出稼ぎに来ている一児の母。実はかなりの弱視でもうすぐ失明する運命にある。遺伝から同じ病気を抱えている息子の手術代を捻出するために、昼となく夜となく働いているが、日に日に目が悪くなり、白昼夢に襲われるという設定。

 息子の手術代が盗まれるところからドラマが急展開していく様はスリリングで面白いし、二時間半の長丁場をを飽きさせないだけの演出力ではあると思う。しかし、映画としての評価は個人の嗜好に譲るとしても、私は「ミュージカル映画」として、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を認めるわけにはいかない。

 ビョークがミュージカルの熱烈な支持者ということで、彼女の白昼夢がミュージカルになるという発想そのものは悪くない。目が見えなくなって自転車に乗ることが困難になったビョーグが線路沿いに歩き、彼女に思いを寄せるピーター・ストーメアに目のことを指摘されて、「これ以上何を見ろというの、私は全てを見たのに」という歌から、貨物車のダンサー達が踊り始めるシークエンスは、本来なら素晴らしいミュージカル・シーンになっただろう。

 ひどいのは、カメラがほとんどそのダンス・シークエンスを捉えなかったこと。

 ミュージカル映画のダンス・シーンの基本はノー・トリミング、ノー・カットだ。アステアの映画を観たことがある人なら、あっさりと彼の全体像を捉えてほとんど固定されたかのような画面をすぐに思い出せることだろう。ところが、これはカメラ・ワークの神業で、彼の動きにぴったりと吸いついて軽やかに舞っている結果なのだ。

 あるいは、ダンサー達の人間コラージュを俯瞰で撮ったバズビー・バクレーの群舞シーン。ミュージカル映画における「カメラ・ワーク」というのはそういうものを指しているはず。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ではカメラはダンスを無視して縦横無尽に動く。手持ち、8ミリ、16ミリといった複数の種類のカメラを併用し、激しくカット割がなされ、クローズ・アップが多用される。その結果として、ジョエル・グレイが披露した見事なタップダンスは無惨にもズタズタに引き裂かれ、目も当てられない状態になってしまった。

 全てのダンス・シーンがそう。いくら振り付けが素晴らしく、発想が豊かでも観客にはまるで全体像が伝わらない。ダンスが見えない。こんなもんが新しい撮り方だというならふざけんな。

 撮影者は名人ロビン・ミュラーということになっているが、実際にはほとんどのシーンでラス・フォン・トリアーがカメラを操っていたとのこと。彼のエゴイスティックな視点は、ミュージカルを分かっていない人のものだ。その証拠が以下のコメント。

 「ジーン・ケリーや「ウェスト・サイド物語」などの例外もあるけれど、多くのミュージカルはただ楽しませるためのエンターテインメント作品としてしか存在していない。私はそこにより多くの要素を取り入れることが出来ると思ったんだ」

 うわー、すっげー傲慢。ハリウッドでミュージカル最盛期だった時代は、観客にとって夢を見ることがいかに困難な時期だったことか。一時の気休めの夢物語では足らなかったはずなのに。ラス・フォン・トリアーにとって、MGMミュージカルのハッピーエンドは安易な現実逃避にしか映らないのだろう。

 確かに、現実は夢物語とは違う。しかし、果たして現実と真実は同じものだろうか? 視力を失いつつもミュージカル映画を観ようとする、最も絶望的な状況下で「マイ・フェイバリット・シングス」を歌うヒロインにとって、真実は何よりも歌とダンスであるはずなのだ。(劇中でビョークが出ている素人劇団のミュージカルが『サウンド・オブ・ミュージック』だってのも何か別の思惑がありそうでいやーん。あれが反ナチ映画だから?)

 なのに、ラス・フォン・トリアーは歌とダンスを小道具だとしか思っていない。歌とダンスで魂を語ろうとするなんて愚かだ。歌とダンスは魂そのものなのに。

 「不愉快な現実」を二重に提示されながら、「しょせんは夢に過ぎない」といわれてダンスに酔えるだろうか? 彼が官能を拒否して観客の引きつれを狙ったのなら、それは成功している。

 現実のシビアーなドラマから、ミュージカル・シーンに至るまでの仕掛けも下手くそ。工場の機械音や鉛筆が紙の上を滑る音がビョークには音楽に聞こえるんだけれど、マジックへの働きかけが希薄で積み重ねも乱暴なために、トリアー監督が嫌ったはずの「唐突に歌い踊り始める不自然さ」を強調した形になっている。

 ラスト近くでカトリーヌ・ドヌーヴにいらん小芝居させるくらいならば、あの小道具だっていくらでも上手に使えたのにねえ。

 そうそう、カトリーヌ・ドヌーヴはひどいですよ、『インドシナ』の時とさほど変わらないメイクと髪のセットで「工場の優しい先輩」をやってるんだから。最初の案では黒人の三十五才の女性だったのに、ドヌーヴが出たいってんで、役を書き換えたんだって。本当にひどーい!でもどうせ歌って踊らせるならばジャック・ドゥミにリスペクトを払ってもっとまともに撮って欲しかった‥。(『ロシュフォールの恋人達』は来年一月イメージ・フォーラムで再映)

 代わりにデヴィッド・モースと、『ファーゴ』等のコーエン兄弟作でお馴染み(それとも『アルマゲドン』の変なロシア人っていった方が話が早いの?)ピーター・ストーメアは好演。モースは決して悪人ではないのに魂の脆弱さ故にビョークを犠牲にしてしまうある種の雛形を悲しく体現、ストーメアはビョーグに純情を捧げて泣かせます。あと、女性看守を演じたジョブハン・ファロンという女優が素晴らしい。

 そして、好みかどうかはおいといて、ビョーク自身は大変に魅力的。ただ、彼女のキャラクターの上にトリアー監督が築こうとしている「無垢な魂のために受難者となる女性」っていう像が私は好きじゃない。一見切実なようでいて、スケール感乏しい!と思ってしまう。『奇跡の海』といい、あなたそれ好きだよね。でもさ、「誰かが自分のために死んでくれるなんてことを期待するのは、精神における最大の堕落」と思ってしまう。

 ところで、試写にはプレスだけではなく、仕事の絡みでチケットをもらったらしきスーツのおじさまがたもちらほらいたけれど、その内の一組が映画終了後に交わしていた会話が面白かった。いわく、「あの主人公は弱視で失明しかかっているっていう話なんだろ? 遺伝性でそんな病気があったか?」侃々諤々。そうね、弱視遺伝って確かにあるけれど、遺伝で途中で失明って多分ない。ということは、ミュージカル・シーンよりはるかに「シビアなリアリズム」であるはずのドラマの方が嘘臭いってこと?

 そんな訳で、「歌があればどのような状況下でも魂は自由」ということを訴えるラストも私にはかなり白々しかったのだけれども、メッセージ自体は軽んじるようなものではないし、あんまりミュージカルに思い入れがなければ充分に堪能することは出来るとは思う。観て無駄はないし。でも、「魂の自由」を謳ったミュージカルとしては、ひょっとして『サウス・パーク』の方が良質じゃない?

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