試写会備忘録

トラフィック

 メキシコとアメリカをつなぐ麻薬ルートを中軸に、三つの物語が渾然一体となって展開するソダーバーグの意欲作。観終わった瞬間は、「去年の『マグノリア』今年の『トラフィック』」と思った。時間が経った今ではまたちょっと感想が違うんだけれども、それでも見逃さざるべき作品には違いがないと思ってる。

 物語の三つのパートの色調を変えるという発想はいかにもで最初はちょっとハナにつくが、話の混乱を防ぐためと考えれば許せる。そういった欠点さえも突出することなく、映画の一部として受け入れられるところが勝利。

 とにかく、メキシコ・パートが素晴らしすぎて!シンジケードと通じている上層部にスポイルされる市井の警官の物語が、何も別にカリカチュアではなく現実であることを知っているだけに!(←メキシコ育ちだから)

 出てくるメキシコ俳優全員が素晴らしい。一瞬カメオ出演のサルマ・ハエック(どんなに小さくてもメキシカン・スパニッシュを喋る役を演じる機会を彼女が見逃すはずがない)も、彼女らしい華やかさと根性入ったところを遺憾なく発揮。登場人物たちが物語に溶け込んでいるというよりも、彼らの佇まいそのものが物語なのだ。その代表選手がベニチオ・デル・トロであることには文句がない。ただ怒っているのではなく、嘆いているのでもなく、諦観しているのでもない、もろさも熱さもいっしょくたになったようなあの不思議な表情。彼はもはやスポット的に力を発するというよりも、二十年後のポジションまで見据えられるようなスケールの大きい存在になった。

 内部情報提供の交換条件として「俺は公園のグラウンドにライトが欲しいんだ。そうすれば夜でも野球が出来るから」とFBIに言うシーン。こうしたヒューマニズムは台詞の言語がメキシカン・スパニッシュでなかったら、リアリティを失ったことだろう。

 それに対してキャサリン・ゼダ・ジョーンズとマイケル・ダグラス主演のパートは少し損をしているが、前者はガラにあった役ならゼダ・ジョーンズも光ることを証明したし、黒人とラテン系の二人の刑事が健闘。後者では『エリン・ブロコヴィッチ』で培った情報処理能力は遺憾なく発揮されている。麻薬に溺れる娘を演じたエリカ・クリスチャンセンも好演。例えば『レクイエム・フォー・ドリーム』のジェニファー・コネリーに比べると、危うげのないあっさりとした描写の演技にとどめているが、その匙加減を逆に買いたい。『レクイエム』のように個人の悲劇として閉塞するのではなく、もっと開かれた問題としてドラッグを取り扱った映画なのだから。

 「開かれた問題」なんていうと、「社会的意義として」の重要作だと間違えられちゃいそうだけれども、それはちょっと違う。八十年代だったら「多重」九十年代だったら「複元」という方式で語られたであろう物語を、パート割りしながらも「ひとつの物語」として展開したこの映画の在り方こそが、ここで提示されている問題のひとつの解答になっているのである。

 それは「パーソナルであることとパブリックであることは実は同じスタンスなのだ」ということではないだろうか。複雑に入り組んだプロットを編み上げるその集中力の背後にあるものは、ただの正義とか大義名分ではない。この世界で展開されている物語に、「あなた」は常に存在しているのである。「すぐそばに麻薬はありますよ」という政府広告的な意味ではなく。

 「自分VS.世界」という構図に既に意義はない。もはや客観的であることは何の意味も持たない。麻薬撲滅の指揮官としてマイケル・ダグラスが使命されている横で、彼の娘がまったく個人的に麻薬の世界に堕ちていく。そこで堕ちているは「あなた」なのである。「ウィー・アー・ノット・アローン」的なシンパシーじゃなくて。

 社会のシステムに入り込んだ麻薬をすっかり洗い出すことなどできない。全ての心から闇を排除できないのと同じだ。ラストに描かれている勝利も敗北も全ては途中経過に過ぎない。だけれど、だからこそ今日を生き抜く戦いに意義があることを映画は謳う。デル・トロは夜の公園を照らしたのだから。

 ゴールデン・ウィークに映画を一本、と考えているのなら迷わずこれを観ることをお勧めします。

パンフレット→ソダーバーグ復活の軌跡

スーベニール→水に溶ける人形

リファランス→『フレンチ・コネクション』

シーズン・チケット

 アル中暴力オヤジ、彼から逃げ回り子供を連れて住所を転々とする母親、そしてヤク中の姉という家族構成で、本人も登校拒否(というか義務教育放棄)の少年が、明らかに頭の弱い中卒デブの友達と彼が盗んできた犬と共に、ニューキャッスルの地元サッカー・チームのホーム・グラウンドでのシーズン・チケットを得るために一生懸命努力する物語。手段は万引きと詐欺と空き巣。

 何だか健気で貧乏な少年がひたむきに頑張るお話であるかのような宣伝がされていますが、正しいのは「貧乏」ということだけです。『リトル・ダンサー』のような感動の物語を期待していった人は戸惑うかもしれません。サイバラ理恵子の『ぼくんち』みたいな内容だと思ってくれれば間違いないです。親はなくとも子供は立派に憎たらしく育つ。主演の少年の面構えはビリー・エリオット少年よりも好みですけれどね。

 少し間違えるとウェットになりそうな話を、痛快だけどちょっとせつないくらいにとどめておいたマーク・ハーマン、さすがに『ブラス!』の監督です。手腕は確か。「望むような形でチケットは手に入らなかったけれど‥」という原作とは違うオチも、映画のカタルシスを考慮してのことでしょう。後味が悪い話なんて、貧乏ならいくらもバリエーションがあるんでこれで正解だと思います。きっちりボーイズ・ブラボー。

 マイケル・ナイマンのテーマ曲は他のサントラのラインナップからすると浮いている感じだけれども、ナイマンってサッカー・ファンとしても有名なんですよね。それが狙いなのか。スウィング・アウト・シスターの「You are always on my mind」とジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」の使い方はちょっと泣けます。そんな訳で、サッカー・ファンの男子諸君に是非観ることをお勧めします。

パンフレット→ニューキャッスル・ユナイテッドVS.サンダーランドのフーリガン武勇伝

スーベニール→紙コップの「世界一うまい紅茶」

リファランス→『さらば青春の光』

ベレジーナ

 実際に起きている政治事件とリンクして、本国では大ヒットしたダニエル・シュミットのブラック・コメディ。

 イリーナはスイスに出稼ぎに来ている気のいいロシア娼婦。スイスはすっごく素敵な国でヨーデルも大好き!絶対に永住権を得て、家族を全員呼び寄せるの、と今日もせっせと仕事に励む。彼女を気に入って指名してくれるのはみんな「えらい人」ばかり。縛られたり踏まれたりお芝居したりヒール舐めたりするのが好きないい人達で、セックスなんかほとんどしないのよ、紳士だから!でも最近、私の身元を預かってくれている教授とブティックの支配人さんが「えらい人」が喋った話を記憶して来いっていうの。イリーナはヨーデル覚えるだけでいっぱいいっぱいなのに。面倒だから、たまたまテレビに出ていた銀行の人を「アノ人、ワルイ人ネ」って指さしてみたら当たってたみたいで、教授は大出世。それはいいけれど、アンタ、私の永住権はドウナッタアルヨ!‥というところから、怒濤の展開が待っています。

 もうシネフィルの皆様が喜びそうなブニュエルのオマージュっぷりがすごいです。イリーナが政治家達に頼まれる(強要されるという言い方は似合わないで、嬉々としてやってくれる)プレイは、『昼顔』と『小間使いの日記』でお馴染みのものばかり。

 コール・ガール元締めのブティック女主人を演じるのはジェラルディン・チャップリンですが、彼女はカルロス・サウラ夫人だった時に、『ペパーミント・フラッペ』という『欲望のあいまいな対象』のサウラによるリメイク作品に主演しているので、そのことを踏んでのピックアップでしょう。私的には、「いつもパーカー・ポージィ見るたびに誰かに似てるナーと思っていたんだけれど、彼女かあ」ということが分かったという意味で、有り難かったです。(何が?)

 でも肝は主演のエレナ・パノーヴァ。いかにもブニュエルが好みそうなむっちりロシア美女ですが、ブニュエルだとお人形さんとして冷たく機能させるところを、「うっかり」に任せて大反撃。「あら、このヒモ何かしら」って、ひっぱってみたらクーデター発生!周囲はみんな死んじゃっているんだけれど、イヤーン私のせい?ってオチがさいこう!重大な事が起きてる間中気絶してるし!ハリウッドでリメイクの際はヘザー・グラハム主演希望。

 本来はコメディなんか撮れない人が、最後までやり通しただけでも立派な後半二十分を観るためにだけでも、是非観ることをお勧めします。

パンフレット→スイス国立博物館拷問器具展示室案内

スーベニール→秘密結社の電話番号入りの軍帽

リファランス→『テレフォン』

ふたりの人魚

 上海に住んでいる「僕」はビデオの出張撮影が仕事。人魚ショーに出ていたメイメイに一目惚れしてしまう。付き合い始めても、謎めいた彼女は自分のことを明かそうとしない。そんなある日、彼女が自分の恋人ムーダンだと主張する男・マーダーが現れる。ムーダンは「次に会う時、私は人魚になっている」と言って彼の前から姿を消したのだ。複雑に絡み合う過去と現在、果たして二人が恋をした人魚の正体は?

 本当ならば、鏡に「愛しているなら私を捜して」というメッセージなんて、ぷぷーってところですが、正直言ってかなりやられました。表だっては恥ずかしくていえないけれども、心の中でこそっと★印つけとく。

 こんなセンチメンタルな物語も、上海という都市を舞台にした時に切実なものとなる。(それにしても、かつての社会主義国の都市というのはみんな似ているのね。寒そうなホーチミン)ウォン・カーウァイの作品の中では決して出来が いいとはいえない『天使の涙』が、それでもラストに「今ここにしか存在しえない」消滅しつつある香港という都市の悲しみを如実に表したように、エドワード・ヤンが『恋愛時代』で急速に膨れ上がっていく台北の経済への不安を、どうにか社会人になったものの自分の立場を持て余している若者たちに託したように、なし崩しに何かが消え去っていく引き潮の中にいて、かつ自分たちを縛り付ける枠組みだけは強固に残る上海で、愛すら流れていく時間に爪痕さえ残せないことを語るこの悲恋物語はしみるのだ。

 だからムーダンがマーダーともう一度出会って、「私を連れて帰って」と言った時、かつて夢見たものを取り戻すために二人は破滅するしかなかったのだし、今まで徹底的に傍観者だった「僕」が自分のストーリーを始めるためには、一度瞳を閉じて世界を閉め出さなければならないので、物語は消滅してしまうのだ。

 「一人称カメラ」って発想は好きじゃないのだけれども、この映画の場合はかなり有効。ムーダンとマーダーの恋物語を追う視点になった時、カメラが誰の主観か分からなくなって混乱させるところのクラクラ感とか。「カメラが女優に恋している」というよりも、「視姦している」という感じ。メイメイが楽屋で人魚の衣装に着替えるところをとらえたピーピング・トム的ショットとか、狙いは分かりやすいけれどドキドキしますよ。

 そのカメラに応えるヒロインのジュウ・シュンがまた、めちゃめちゃエロでロリなんですよ!(チャン・ツィーの場合は「ロリでエロ」、微妙に違う)ムーダンを演じている時なんか、おさげ髪にあずき色のジャージなのに、下着は黒だよ! マーダーに見張られて放尿するシーンとか、指なめる時に唾液が糸を引くのを執拗に撮っているところとか、ある種の嗜好の人たちは総討ちだと思います。

 日本にもこうしたタイプの女優はいるのだけれども、何故だかみんな石井活人の映画に出ているという印象がある。

 春なのに冷たい雨が降る暗い昼間、偶然入った映画館。そんなシチュエーションでこの映画に出会って欲しい。是非、観ることをお勧めします。

パンフレット→人魚伝説の発生と経過、上海の都市事情

スーベニール→人魚バービー、赤い薔薇の入れ墨シール、ズブロッカ

リファランス→『めまい』『視線のエロス』

アメリカン・サイコ

 アメリカではあまりのショック描写にフェミニズム団体の抗議運動が勃発、等々の事件を引き起こしたブラッド・イーストン・エリスのサイコ・ホラー小説の映画化作品。バブル絶頂期のNY、ウォール街に勤め、全てに満ち足りた生活を送るパトリック・ベイトマンは人知れず狂気に苛まれていた。彼はストレス解消に、ホームレスや娼婦、行きずりの人々をせっせと殺すのだが‥‥。

 メアリー・ハロンは女性的な視点で、この原作に隠されたブラック・ユーモアをすくい出そうとしているが、あらかじめ解釈がなされてショッキングなシーンの緩和剤となっているため、パーソナルな狂気など食い尽くしてしまう真の「時代の恐怖」がラストに浮かび上がってこない。(実際、殺人の描写なんてソフトなもんですよ)

 余計なモノローグなどを入れず、主人公を突き放してドキュメンタリー・タッチで撮った方がよかった。こういう時こそ出番だドグマ、と一瞬思ったけれど、『ハイスクール白書』のアレクサンダー・ペインに撮らせた方が神経を逆なでするコメディの傑作になりそうだ。彼らがその実力を最大限に引き出したリーズ・ウィザースプーンも出ていることだし。

 クリスチャン・ベールは監督の意図を組んで、「犠牲者としての主人公」をどっぷり演じているので痛快な感じはないが、それでもいっぱいいっぱい頑張ってはいる。

 とはいえ、名刺やレストランの予約をめぐるシーンは笑えるし、主人公がヒューイ・ルイス&ザ・ニュースやフィル・コリンズのCD解説をする時の薄っぺらさ、娼婦と三つどもえでセックスしながら鏡に向かってポーズを取ってみせるところの気味悪さは充分買える。何より、冒頭シーンにデッド・オア・アライブの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」がかかる映画に悪い映画はない。(例:ウェディング・シンガー)

 そうかー、WKってロバート・ロンゴ2001だー、などとナウなトレンドと80年代風俗のクロッシングを確認するために、是非観ることをお勧めします。

パンフレット→ブラッド・イーストン・エリス、映画版への解答

スーベニール→特製名刺

リファランス→『ファイトクラブ』『ウェディング・シンガー』


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