試写会備忘録

センター・ステージ

 ジョディはバレエダンサーとして決定的な欠点を持つにも関わらず、奇跡的に名門バレエ団「アメリカン・バレエ・カンパニー」の学校に合格。バレエ学校では、テクニックは抜群なのに教師に反抗的なため煙たがられているエヴァ、エリートのモーリーン、ジョディに好意を抱くチャーリーらと一緒になる。

 バレエ団のレッスンでの不出来からコンプレックスに陥ったジョディは、町のダンス教室に息抜きに出かけるが、偶然一緒になったバレエ団のプリンシパル・クーパーと一夜を共にすることに‥有頂天になるジョディだが本来はそれどころじゃない、バレエ団への登竜門となる卒業公演が迫っていた‥。

 話としてはベタだけれども、きちんと撮ればいくらでも光った作品だとは思う。しかし、監督のニコラス・ハイトナーはバレエもニューヨークも門外漢と見えて、肝心なポイントを全部外している。

 黒人のエヴァが反抗的な理由をはっきりさせないのでただやみくもに見えるし、母の過大な期待に押し潰されそうになって、土壇場で卒業公演を降りるモーリーンとエヴァの和解シーンがないと、主役交代劇の経過が不可解。プリンシパルは練習生を喰ってしまった挙げ句ポイするイヤなヤツにしか見えないので、最後に彼が独立して新しいバレエ団を作るときの、ジョディの行動に説得力がない。プリンシパルのクーパーを演じるイーサン・スティーフルと練習生のサッシャ・ラッディッキーが実は同じバレエ団でほぼ同期のため、差異が出ないのも苦しい。脚本家とキャスティング・ディレクターは『スワン』『ダンシング・ヒーロー』を読んで出直し。

 第一、ジョディが最後まで、自らの欠点である「バッド・フィート」を直さないのが気にくわないんですよ。基礎が出来ていないのに、「このままの自分が好き」っていうのは何事ですか!メインの練習から外されて、バーレッスンばっかりやっていたら驚異的に成長・「でも私は正統派プリマというよりは個性派」っていうのなら、まだ納得がいきます。ダンスが分かっていない人がダンス映画を撮るとろくなことがないんだから。

 またダメなのはダンスの撮り方!(最近、こればっかいってるみたい)町のダンス教室で男女が同じ振り付けで踊るところは、カメラをフィックスにして正面からロングで撮って見せるのが正解。少なくともボブ・フォッシーならそうする。メインの男子ダンサーたちが全員プリンシパル級(元フィギュアチャンピオンのイリア・クーラック含む)なのに対し、素人に毛が生えた程度の女子群の踊りをカバーするためとはいえ、アップが多すぎる。決して上手い踊り手ではない主演のアマンダ・シェルが、それでも果敢にドゥーブルを入れてピルエットを披露する卒業公演ハイライトは当然、全体像をとらえてあげるべきなのに!

 ついでに、ラストの卒業公演で披露する創作バレエは客をなめすぎ。何ですか、ありゃ。その点だけは『リトル・ダンサー』のラストを見習うべきです。

 それでも、アップに結い上げた女の子たちが思い思いの方法で新しいトウ・シューズを慣らしていくシーンなどは、バレエ映画らしい風俗だし、イーサン・スティーフィルがバランシンの『スターズ・アンド・ストライプス』を踊るシーンは多少はまともに撮ってあるので、バレエ・ファンには観に行くことをお勧めします。

パンフレット→ニューヨーク・バレエ・スクール案内

スーベニール→有名バレリーナのサイン入り古トウシューズ

リファランス→『フェイム』

リトル・ニッキー

 自分の父親である地獄の大魔王の支配下にいることに耐えられなくなって、地上に這い出て悪さをしでかした兄貴悪魔を連れ戻すべく、悪魔のくせにイジメられっこで気弱で心優しい弟がいざ地上へ!というコメディ。お供は字幕では関西弁を喋っている犬と、ヘビ・メタおたく二人組と売れないゲイの演劇人。

 現代のジェームス・スチュワート(と勝手に呼んでる)アダム・サンドラーが悪魔の役なんて?と思いきや、案の定心優しき三男坊の役。野心的な長男、乱暴な次男より家臣と父に愛されているという、時代劇でよくある設定。でも優しいんじゃ悪魔は失格じゃ‥と思ったら、地獄というのは悪いことをした人を罰するためにあるのであって、つまりはそこを司る悪魔というのも正義のひとつの形であるという解釈が面白い。

 そして他の主演作と同じく、やっぱりこの作品も「無垢な主人公が都会へ行って利用されそうになるが、結果的に無垢であるが故に救われる」という、一連のフランク・キャプラ作品の現代バージョンなのである。地獄よりニューヨークの方が恐い。これで、ますますサンドラー主演の『オペラ・ハット』リメイクが楽しみになりました。

 いつものスティーブ・ブシェーミのゲスト出演がない代わり、その穴を埋めるが如くキラ星のように豪華カメオが次々出演。サタデー・ナイト・クラブの面々はもちろん、個人的にはヘンリー・ウィンクラーとクリント・ハワードが嬉しかった。ようするにこれって実はロン・ハワードの『ラブ・イン・ニューヨーク』へのオマージュだよね!ってことで。

 メガネ娘ヒロインと一緒に空を飛んでしまうなんていう、今、他のスターでは決して出来ないようなスウィートネスも健在。それと同時に、すっごい悪趣味のメーターが振り切れているような数々のギャグもあるので、観客は大いに混乱したことでしょう。

 しかし、この映画の肝は何といっても、リース・ウィザースプーンですよ!もうさいこう!自分の役割を心得まくっている女。対ハーベイ・カイテルで完璧に食ってましたからね。
 残念ながらもうロードショーは終わってしまったみたいだから、二番館でかかっているのを見つけて、是非観ることをお勧めします。

パンフレット→実際のパンフレットにもプレスシートと同じくみのわあつおの詳細な解説がついたので、いいものになったんじゃないでしょうか

スーベニール→ミント・シュエップス 『ポパイズ』のフライド・チキン

リファランス→『ビルとテッドの地獄旅行』

クイルズ

・シャトラントの精神病院で晩年を暮らすマルキ・ド・サド

・人権派の神父と、サドの精神世界に憧れて「ジュスティーヌ」出版を手伝う洗濯女のマドレーヌ。「ジュスティーヌ」の作者がサドだということに感づいたナポレオンは、スパルタのコラール博士をシャトラントに送り込む

・サドは抵抗する。羽ペンを取り上げられたらシーツに赤ワインで、部屋の全てを取り上げられたら血で自分の服に、裸に剥かれたら精神病者の口伝えで、舌を抜かれたらウンコで壁に書きつづる‥何をって?現実感が今ひとつ乏しいポルノ‥(というのが、高校時代に読んだサドの感想だった)

・ジェフリー・ラッシュのサドは「人生かけてひとつの冗談をやっている」、アンディー・カウフマン的な人間に見えます。別に見たくないオール・ヌードの披露

・だから、サドが本来ならばその体現者ではならないはずの「人間の精神の危うさ」は、若手二人の熱演によってのみ、立ち現れる。

・自分の奥底になる何か暗いものから逃げるために、自分に鞭を打ち、ストイックにならざるをえない神父のホアキン・フェニッックス。もちろん、自分を追いつめれば追いつめるほど、暗部が暴かれていくのは予想通り。

・表現の自由とその中で遊ぶことの危険と責任を請け負うのは、マドレーヌ役のケイト・ウィンスレット。『乙女の祈り』以来、最もいきいきした彼女か見られて満足。やっぱ悪の要素がないとこの人はダメ。それにしても、仰向けになったところのおっぱいボリュームは驚異

・マイケル・ケイン演じるコラール博士の幼妻をやったアメリア・ウォーナーがよい。実は映画ではあんまり見ることが出来ないロリータの反撃!をかましてくれます。それと、オープニングで首を切られる女優の恍惚とした表情がすごくて、この瞬間だけ隠微な歓びを感じます

・昔「夜想」とか読んでいたあなたに観ることをお勧めします

パンフレット→六本木の女王様アンケート

スーベニール→ペニスの置物

リファランス→『マン・オン・ザ・ムーン』

彼女を見ればわかること

・ロサンゼルス郊外・サンバレーで暮らす五人の女性たち、五つの物語

・ロケ地がここで、少しずつ五人の関係がリンクしているといえば、『マグノリア』を思い出さない方が嘘。これは「カエルが降らないマグノリア」。五人を結ぶ絆はもっとはかなく頼りない。画面の隅を肘を抱えて通り過ぎるメキシコ人女性だけ。その女性が自殺しているのを、登場人物のひとりが見つけることからお話は始まる。

・たった一人で年老いた母を介護する女医、妻子持ちの恋人の子供を中絶することに決めた銀行マネジャー、ハンディキャップの男性に恋心が芽生えるシングル・マザー、死にゆく同性の恋人を看取る占い師、恋愛に奔放でセクシーな盲目の女性‥

・タイトルは反語的。「彼女を見れば分かることは、本当に彼女がどう生きているかなんて誰にも分かりっこないということだ」という意味。

・映画自体の作りもどこか反語的。まるでノー・ギミックで撮っているかのように感じさせる、あまりに自然な映像は手持ちカメラを効果的に使った技巧的なものであり、よく練られたとしか思えない女優たちの演技は、驚くほど短いスケジュールの中、ほぼ一発勝負でなされたものである

・女性マネージャーに自分の結婚指輪を渡すホームレスの女性と、ひどくセクシーに見える(一歩間違えるグロテスクな設定なのに、ロドリコ・ガルシアうまい!)ハンディキャップの男性は、いかにもアメリカ短編小説に出てくる人物

・ロスなのに、どこかひんやりとした空気を渡ってやってくるさざ波のようなシンパシーで紡がれた、繊細なのに決して壊れない物語たち。

・まろやかなフュージョン系の音楽と、露骨に癒し系な宣伝に臆することなく、是非とも観に行くことをお勧めします

パンフレット→アメリカ短編小説傑作選

スーベニール→盆栽

リファランス→『ワンダーランド駅で』


ベンゴ

・アンダルシア。娘が死んでから悲しみに暮れるカコのもとに、敵対するファミリーのボスが甥のディエゴを暗殺しようとする旨を知る。ディエゴの父でカコの兄であるマリオが、そのファミリーの長男を殺して逃走中だからだ。カコはある決心をする。

・私は大好きなのに世間ではたいそう評判が悪い映画代表格。基本ラインは、「音楽は素晴らしいけれど、話がちょっと‥」というパターン。えー、何でー、たけしの映画と一緒で分かりやすいじゃんかよ、緩慢に自殺する男の話だよ?

・ただ、たけしの場合と違って、その自殺の要因が「死んでしまった娘への愛」一点であるところが、分かりにくいのかも知れない。「お前の死は途絶えることのない炎だ」って、台詞、マジなんですよあの人たち。愛をセーブする術を持たない人たちの悲劇なの。ロマ(ジプシー)のメンタリティーと歴史を音楽によって紹介した『ラッチョ・ドローム』、アウトサイダーが仲介役となる『ガッジョ・ディーロ』に対して、日本人に分かりにくいことは確か。

・でも、その分かりにくさが私からすると好感度大。エキゾチックに自らのルーツを欧米に紹介してみせる「商業映画」には、ここのところもううんざり。

・そうしたエキゾチズム的な観点からすると、おいしいシーンのいくつかが明らかに性急に切られて、日本の観客に評判が悪いドラマ性がどんどん全面に出てくるところからしても、これは本当にロマ民族による、ロマ民族のための物語なんだと思う。同じくジプシーの血をひく、ロルカの『血の婚礼』にも似た悲劇じゃないか。陳腐な話を大まじめにやっている?だから私は、近代的な批評性なんて、どうだっていいんだってば!

・「柳が泣いているようだ‥」とか、「この庭は花が咲かない、魂の枯れた庭だよ」とか、台詞じゃなくてラテン民族フツーに言います。生きることは詩だからね。

・彼らにとって、魂は打ちならすものであり、人生とは踊ることであり、男と女は美しく役割を演じるものであり、この世は舞台であり、愛は絶対であり、死は宿命である。

・いわずもがなだけれども、歌とダンスは素晴らしい。荒々しいオリジンの踊りからすると、カルロス・サウラのフラメンコ映画なんて、てんでコマーシャルだってことがよく分かった。

・どうして歌とダンスをドラマから離して、評価しようとするよ?この映画じゃ一体だっていうのに。みんな、思った以上に歌とダンスは他人事なのね。そこに立ち現れる魂とかどうでもいいのね。

・人生を生きるなら、このくらい鮮やかに踊ってみなさいとうながされたような気になる。

・主演のアントニオ・カナーレスをはじめ、出演する男優がいい男揃いなんで、もうそのためだけにでも是非観ることをお勧めします。

パンフレット→フラメンコ教室案内

スーベニール→マリア人形

リファランス→『ベルナルダ・アルバの家』

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