裏表紙から 「新しいキャンパスの上にブラッシで絵を描くように、 北薗克衛は原稿用紙の上に単純で鮮明なイメージをもった 文字を選び、「たとえばパウル・クレイの絵のような簡潔 さをもった詩」を書いた。つまり「意味によって詩(ポエジイ) を作らない」で「詩(ポエジイ)によって意味を形成」したの である。この実験はあまりに厳しく従来の詩の概念を破壊して しまったので、我が国では不当に過少評価されてきたが、逆に 外国では多くのすぐれた理解者に出会った。北薗克衛の世界。 それは説明ぬきの感覚に、いきなり飛躍する表象や象徴に満ちて いる。」 清水俊彦 北薗克衛の年譜は以下の通りです。 明治35年(1902) 10月29日 伊勢市に生まれる。 大正8年 (1919)上京。新聞記者を志し、中央大学経済学部に入学。 大正12年(1923)「文章倶楽部」に詩を発表。関東大震災で奈良に帰り 兄、橋本平八(彫刻家)と仏像の研究。 (兄の影響かなり受けたようです) 大正13年(1924)この年ごろから未来派、表現派、ダダの影響を受ける。 築地小劇場の背景や表紙の絵などを描き始める。23歳 <これ以降は、ELEGIAに関する詩集の刊行についてを中心とします。> 昭和7年(1932)8月詩集「若いコロニイ」(ボン書店)刊行。31歳 <「秋のスピイド」が入ってます。> 昭和8年(1933)小林栄と結婚。日本橋の楓川アパートに移る。32歳 昭和9年(1934)長男明夫誕生。大田区南馬込に住む。33歳 昭和10年(1935)彼の詩に影響を与えた実兄橋本平八が脳溢血で急逝。34歳 昭和20年(1945)新潟県三条市に疎開。終戦の翌日上京。44歳 昭和26年(1951)四月詩集「砂の鶯」(協立書店)刊行。50歳 <「奇妙な肖像」「ELEGIA」が入ってます。> 昭和29年(1954)4月詩集「真昼のレモン」(昭森社)刊行。53歳 <「ソルシコス的夜」が入ってます。> 昭和30年(1955)1月詩集「ヴィナスの貝殻」(国文社)刊行。54歳 <「春のガラス」が入ってます。> 【詩集や短編小説、8ミリ映画の制作。】 昭和53年(1978)6月6日 6:55 東京都港区白金の北里研究所付属病院で 肺癌のため永眠。享年77歳 北薗克衛の詩論「詩における私の実験」(1953年)からです。 彼の実験も分類すると次の段階があるようです。 ・1927〜1948:「秋のスピイド」 「1927年、私ははじめて、誰の影響もない一つの場を発見した。 ・・・、いくぶん独自性のある詩を書くことができたが、しかし 、それらの詩は、何らかの意味で、他人のエレメントが混じって いた。私が最初に、あらゆる意味で私自身の詩を書くことに成功 したときの喜びは、今日でも思い出すことができる。それは純粋 な創造のよろこびであり、たのしさでもあった。(中略) 私の場合、あまりにきびしく、従来の詩の概念を破壊してしまった ために、今日でこそ、詩として、一応ゆるされるが、当時は私自身 も実はいささか冒険が過ぎたような気がしないでもなかったのであ る。(中略)つまり言葉がもっている一般的な内容や必然性を無視 して、言わば言葉や色や線や点のシムボルとして使用したわけであ る。これが私の詩の実験のプリンシプル(原理、原則)であった。 (大幅に中略)以上が太平洋戦争以前の私の詩の実験の最も基本的 なコオスである。しかし、私はそうした基本的な実験の副産物とし て、少しばかり従来のものとは異なったリリカルな作品の上での実 実がある。1932年にボン書店から出版した詩集「若いコロニイ」や (後略)。」 ・1949〜1951前半期:「奇妙な肖像」「ELEGIA」 「1949年から1951年にわたって私はつねにアブストラクト(抽象的) の厳格な適用を考えていた。(中略)私はそれを引き離すような 純度の高いアブストラクトの世界をつくろうとしたのである。 私はそれを可能にするためにオートマチック・プロセスともいう べき独得の方法を考え出した。(後略)」 【オートマチック・プロセスは今のところ不明】 ・1951後半期〜 :「ソルシコス的夜」「春のガラス」 「これらの作品によって考えられるような実験は1951年前半期を もって終った。そして私は現在、もっと柔軟性をもった、そして もっとも精緻なリズムとイメジとをもったメタフィジカルな世界 をつくろうと試みている。(後略)」