飯島のルーツ

 

飯島村(現在は、飯島町)は、中央アルプスと南アルプスの間を流れる天竜川を持つ長野県南部の伊那谷にあり、現在はJR飯田線の飯島駅と伊那本郷駅の周辺にある。

 

飯島城跡

飯島氏の墓

 

 

「尊卑分脈」(内閣文庫所蔵)によれば飯島氏は、清和天皇を祖とする源経基の弟満快の流れを汲む源氏で満快四代の孫に源為公があって信濃守に任ぜられて、初めて上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構えた。

 

この為公を祖とする源氏の一族を南信濃源氏(伊那源氏)と呼ぶ。為公の第五子の為基は片切源八と号し片切氏の祖で片切、泉、大島、名子、前沢、那須、飯島、岩間等の諸氏を分った。

 

為基の子が為行でその為行の三男為綱が、次郎太夫と称して信州飯島、岩間の祖となった。

 

飯島氏となつた飯島為綱は、寿永年問(1185年)飯島城(本郷城ともいう)を築城した。

 

飯島城の近くにある臨済宗の古刹西岸寺は飯島氏の開基といわれ中世に及んで飯島為光等は寺領の寄進を行って寺を保護した。

飯島周辺は、有力な米作地帯で、飯島氏の石高は4725石の小名であったが、飯島城を本拠として飯島十騎という部下がそれぞれ小城を持っており、また西岸寺に集まる僧兵の協力でこのあたりでは中世地頭として重さをなし、強い力を持っていた。

 

承久の乱には北条方の小笠原氏に属して戦ったことが承久記などに見えている。

 

 その後、時代が下がって越後国上杉家より養子としてきた民部少輔重家の時代(弘治2年)には武田信玄の信濃進攻により他の片切諸氏と伴に武田氏に起請文を差入れ武田方に降り信玄幕下の武将秋山信友が伊那郡代となるとともに、その配下の侍大将として属していた。

 

武田信玄の死後、武田勝頼が長篠の戦いにおいて、織田信長、徳川家康に敗れたが、そのときに武田氏に属していた伊那谷の飯島氏ら諸族も敗退した。さらに天正10年2月信長は甲州進入の令を発し、子信忠を伊那に向かわせ、飯島城は攻撃され375年続いた飯島城は滅びた。

 

「信長公記」によれば落城した日は、天正10年2月16日であった。

 

城主飯島小太郎父子は、家臣と高遠城へ退去したが、高遠城も攻められて落城した。そのおり、飯島小太郎は高遠城主とともに戦死したが、長子伝兵衛晴吉と家臣の一部は落ちのびた。その子辰千代は、慶長6年に徳川家康に召されて井伊直政の幕下に属せられた。

 

飯島城祉は、現在の長野県上伊那郡飯島町本郷の本郷部落の西の台地の突端に位置し、堀のあとがわずかに残されている。

 

飯島城と関係の深い西岸寺は、飯島城址の近くに現在も残っている。ただし建物は、飯島城攻撃のときに焼失し、その後再建したが明治19年、昭和34年の2回にわたり火災の為、焼失。現在の建物は昭和38年に建てられたものである。

 

代々の飯島城城主や主な家臣の墓は、今も寺の裏の小山の上に残っている。

 

 

 

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