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この区間は、2007.8.10に歩いた。 いよいよ中山道最大の難所と言われる和田峠越え。 天候も最高でルンルン気分であったが、峠の登り口に近い接待茶屋を過ぎると水飲場が途絶え、 自動販売機も峠を越えて水戸浪人塚までなく、 体が乾きあがってついにはこれが今はやりの熱中症というものかも知れない、という疑似体験をしてしまった。 |
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和田宿:標高820mの高地に1603年(慶長7)につくられた江戸日本橋から28番目の宿場で、 中山道最大の難所和田峠の東口にあり、参勤交代の大名も必ず宿泊した。 1861年(文久元)3月大火で本陣など焼失したが、その年の11月に皇女和宮が宿泊予定のため 昼夜兼行で再建して無事迎えることができた。 ちなみに皇女和宮一行は4日間で延べ8万人が通ったという。 現在も本陣、脇本陣、旅館など当時の姿を残して保存されている。 本陣1軒、脇本陣2軒。 和田峠:標高1531mで、峠を挟んで東の和田宿と西の下諏訪宿の距離は5里半(約22km)と長すぎる上に、 峠道は険しく冬季は降雪で人馬ともに想像を絶する厳しい峠越えであった。 このため峠の途中に人馬のための避難所や西餅屋、、東餅屋、接待と呼ばれた茶屋を設けていた。 |
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民宿みわを早朝出発し、巡回バスで7:11に「是より和田宿」石碑(写真左)に到着。 朝の新鮮な空気を胸一杯吸い、今日も34℃を越える炎天下を歩く楽しみを思いつつ西南へ進む。 和田学校前バス停建物はこれまでより一回り大きく、利用する生徒が多いということだろう。 手入れの行き届いた樹木が並ぶ通りは、整然として美しい。 |
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その先右側の和田中学校校庭入口階段脇の鳥居は、本殿がない。 学校を作るとき、障害となった本殿を他へ移設したのではないだろうか。 そして絶え間なく流れる落ちる、水飲み場(写真右中)。 しばらく進み、おしゃれな和田の原バス停(写真右)。 |
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ゆるい坂を上り和田八幡宮角の三叉路(写真左)を右折し、境内沿いに進む。 和田八幡宮は、和田城主大井氏居館の鬼門除けに造られたという伝承がある。 本殿前には、幹径約2.5m欅の大木が空に向かってそびえ立ち圧倒される。 道なりにゆるく左にカーブして進み、遠方右手に見える火の見櫓(写真右)は宿場中心手前にあるもの。 |
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火の見櫓の下には向って右から順に、和田新田バス停、水飲み場、 やさしく手を取り合う夫婦道祖神が並ぶ。 |
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その先で追川にかかる追川橋を渡り、 朝のすがすがしいきりりとしまった空気の宿場通り(写真左)中心に入る。 |
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橋を渡りすぐ右側の出桁造り出格子の2階建ての建物は復元された旅籠「河内屋」(写真中)で、 和田宿建物の代表的遺構で江戸末期建築様式をよく伝えている。 現在は「歴史の道資料館 河内屋」として公開している。 その先右側にも同じような美しい建物(写真右)が並ぶ。 道を挟んで反対側の左側に、山本屋問屋跡。 |
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続いて左側に、とても立派な白壁土蔵(写真左)。 その先の交差点(写真右)の左角に、平成元年に復元された長井本陣跡(写真中)。 本陣は1861年(文久元)3月大火で焼失したが、同年11月皇女和宮降嫁にそなえただちに再建された。 なおこの十字路を左折し、数分のところに和田村役場がありトイレを借用したがとても親切であった。 |
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交差点の先左側に、本陣・名主をつとめた長井氏の屋敷を改築した本亭旅館(写真左)。 今回は和田宿唯一のこの本亭旅館に、8月一杯学生の合宿で一杯ということで宿泊を断られてしまった。 道を挟んだ右側の公園(写真中)には、きれいに整備された休憩所とトイレがある。 公園に隣接して、翠川本陣跡があり1861年(文久元)に大火再建した当時の御殿が現存している。 |
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ゆるい上り勾配た続く宿場通り(写真中)の正面に常に見える山、昔の旅人もこの山を見て宿を通り過ぎた。 両側に並ぶ建物には屋号がとりつけられ、「ぜにや」(写真左)の商売はさて何であっただろうか。 先に進み右側の上町バス停脇に、高札場跡。 高札は、法度・次宿までの駄賃定書・犯罪人の罪状などを記し人々に周知徹底させるためのもので、 旅人はここでは笠などかぶりものをとる習わしがあった。 この高札場に掲げられた高札は次のように少なく、頻繁に架け替えるものではなかったことがわかる。
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正面には、絵になるような松と山(写真中)。 左側には、夫婦道祖神(写真左)。右側には馬頭観世音。 |
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高札場から約1kmの和田鍛冶足信号交差点(写真中)で、国道142号線に出る。 142号線を横断したところに、 「江戸より50里 中山道一里塚跡」碑、「左松澤歩道 右諏訪街道」道標(写真左)がある。 右折しすぐ道は2つになり、中山道は142号線と分かれ左手の細い道に入り大出集落に進む。 |
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2分ほど進み、大出バス停(写真右)前で左に分かれる道(写真中)に入り、川沿いに進む。 |
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5,6分で142号線に合流(写真左)し、左折してまっすぐな道(写真左中)を進む。 歩道のない142号線をこの時間帯(9時ころ)、トラックなどがビュンビュン飛び度々身の危険を感じる。 142号線を10数分進み、左側ドライブイン杉の屋(写真右中)の入口に牛宿バス停と 出口側に自動販売機の列。 |
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頭上に「300m先丁字路で国道67号線分岐し、松本方面へ」交通標識(写真左)。 その先左側「ドライブイン和田宿」入口に、茅葺の扉峠口バス停(写真中)。 建物の前に和田峠への最後の自動販売機1台、そして屋外トイレ。 |
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さらに5分ほど先で、依田川にかかる一之橋(写真左)を渡り進む。 橋から200mほどのところで、 左側の山の方へ上る細い道(写真中)があり、登り口には「中山道 →」道標があり、山道を指している。 誰もが悩む道標であるが、この山道は古中山道で、旧中山道は142号線を進む。 |
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すぐ先の唐沢下バス停の丁字路(写真左)で、 右折して唐沢集落に入り道なりに進み、142号線と並行な坂道(写真中)を上る。 唐沢バス停に隣接して右側に、門扉に「本陣」表札。 訪問し家人にお尋ねしたら、確かにここは茶屋本陣跡とのこと。 |
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その先で道なりに左折し、142号線と合流(写真中)して右折して西南へ進む。 今までと違い142号線の左側には幅広い歩道が完備し、以降安心して歩ける。 142号線を2,3分進み、左側の山から下りてくる道は先ほどの古中山道で その出口のところに江戸より51里の唐沢一里塚跡碑(写真左)。 さらに5分ほどのところで、和田川にかかる二之橋を渡る。 |
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「300m先で142号線が2つに分岐する」交通標識(写真左)。 その先の「男女倉口 標高1100M」標識(写真右中)のところに立っている、 「右折東餅屋(和田峠)3.5km」道標(写真左中)に従い、前方分岐点で右手の142号線を進む。 142号線が右にカーブするところの木立入口に、和田峠登り口が見える。 |
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和田峠登り口には、「中山道」標柱が2本立たちその後ろに案内板がある。 |
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登り口はすぐ急な上り坂(写真左)となり、少し進み右側にトイレ付休憩所(写真中)がある。 隣接して鉄柵で囲まれた33体観音は、 中腹の荒廃した熊野権現社前あったものを1973年(昭和48)発掘しここに安置したもので、4体は未発見。 |
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数分進み左側に、「←休み茶屋800m」標識(写真左)は先ほどの休憩所にしては遠すぎるが? 上「接待800m→」、下「←男女倉口800m」(写真左中)など、 所々に設置されている次までの距離の入った標識は励ましになる。 「中山道」道標(写真右中)も要所にきちんと建てられていて、道に迷うことはない。 峠頂上までの間に、小川を渡る丸木橋が意外に多く10ヶ所もある。 |
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登り口から30分ほどのところで、一旦国道142号線に出て(写真左)左折し、前方に小屋と青いシート。 これが接待茶屋かと信じて近づけば、 横になった「旧愁の茶屋」赤看板と無人の室内は乱雑に長椅子が転がり汚ならしいだけ。 小屋の脇に、「接待湧水仮設水呑場」立札がありビニールホースから連続して水が流れ落ちている。 早速飲んでみると、なんと美味で水温もちょうどよくこの上ないもの。是非一飲をお勧めしたい。 |
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道の反対側の青いシートは何かと見ると、 これが接待茶屋と呼ばれる永代人馬施行所(写真左)で只今屋根修理中。(完成時期不明) 永代人馬施行所:江戸の豪商かせや与平衛門が中山道の旅人の難儀を救おうと幕府に千両を寄付し、 その利子で1828年(文政11)にここと碓氷峠に施行所を設置した。 11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施し、明治3年まで続けられた。 現在の施行所は1852年(嘉永5)に再建されたもの。 142号線を進み、すぐ先の右にカーブするところで、道標に従い大きな石を跨いで山道(写真中)に入る。 山道としてはゆったりと広く、草の生えている柔らかい道でとても歩きやすい。 |
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「避難小屋→500m」標識(写真左)。 左側が崖で右側が岩の狭い道端に、「近藤谷一郎巡査 殉職の地」碑(写真左中)が建てられている。 1889年(明治22)近藤谷一郎巡査が護送中に逃走した犯人を捕まえようとこの付近の谷川で格闘となり、 腹部を刺され殉職した。 右側に先ほどの標識にあったトイレ付避難小屋(写真右中)があり、 隣接して水が勢いよく噴出している水飲場があったが、多分飲めるのだど思う。 |
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時には大きな石ころだらけの道(写真左)もあり、歩きにくく滑って足首をちょっと痛めてしまった。 左側に、江戸より52里の広原一里塚跡(写真中)。 昔は笹と萱が生い茂る広い原につくられた塚で、 降雪期には一面雪の原で道が埋もれたとき9m四方のこの塚が旅人の道標となった。 その先左側に、キャンプ場があり炊事場と屋外トイレが併設されているが水道は止められている。 |
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道はきちんと舗装された石畳となり、142号線と合流(写真左)し左折して進む。 4,5分進み、左側に「東餅屋」暖簾の大衆食堂(写真中)、 道を挟み右側の石垣上に「東餅屋跡」案内板。 難所和田峠には、唐沢、西餅屋、樋橋、落合とここ東餅屋に茶屋があり人馬の休息所となっていた。 東餅屋には5軒の茶屋があり名物の餅と売っていたが、 寛永年間(1624〜43)から幕府より与えられた1軒1扶持(1日玄米5合)で、旅人の救助にあたっていた。 鉄道開通後、5軒の茶店は全て店をたたみ、現在は石垣を残すだけ。大衆食堂「東餅屋」は無関係。 |
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その先で142号線は右折し、正面の突当る手前左側の斜めに分かれる細い道(写真左)を上り、 上り切ったら左折してきた142号線を横断して、階段を上って進む。 |
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林の中(写真左)を進み、左側に今まで見たことがない「赤い→」道標(写真中)。 何事かと進み、左下に人間が立って歩ける巨大な丸いトンネル。 |
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左側に水の流れるトンネルの歩道を進み、出たところで道路(写真中)に上り、 道標に従い左折して左上に142号線ガードレールを見ながら道なりに進む。 |
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数分進み142号線に接近(写真左)し、 右折して数十m国道沿いに進み、道標に従い142号線を横断して反対側に渡る。 |
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道標に従い階段を下り(写真左)、右折して道なりに進み、また142号線を横断して反対側に渡る。 |
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石畳の道(写真左)を道なりに進み、木立の中を通り、142号線を横断して反対側に渡る。 |
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石の階段(写真左)を上り、道なりに10分弱進み、上り坂の正面が開けて青空が見える。 |
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坂道を登り切ると、和田峠頂上の古峠。 時は12:48. 標高1531mの古峠は、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、 物資を運搬する牛馬の往来で賑わった。 ただ冬季は寒気も強く降雪量も多かったので、峠越えは想像を絶するものがあった。 1876年(明治9)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通してから、 この峠を通る人はいなくなった。 頂上は、長和町と下諏訪町の境界になっているが境界を示すものを見つけることができなかった。 |
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峠の広場には、登り口左側(南側)に御嶽山権現碑(写真左)と馬頭観世音碑が並び、 右側にとても小さな賽ノ河原地蔵(写真右中)と扉峠への道の入口がある。 |
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峠の下山道は、登り口の反対側の中山道と記載された2本の白杭の間(写真左)を通る。 道標や標識類は、長和町側の登り道では青い板であったが、下諏訪側の下り道は白杭に変わる。 巾の狭くなった草むらの道を数十m進むと、道は段差のある急傾斜の岩道(写真中)で極端に狭くなり、 転げ落ちるように下る。 斜面の崩れそうな道。 登り道のゆったりとしたハイキング気分の道とは雲泥の差。、 |
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しばらく道なりに険しい道を下り、 うっそうとした左側に全面苔むした石像(写真左)は、胸に手を合わせている姿からどう見ても仏像。 さらにその先左側崖渕に、人馬の待機所や荷置場であった石小屋跡(写真中)。 下諏訪側の峠は急坂で風雪のときは旅人も人馬も大変難渋していた。 1855年(安政2)下原村名主勝五郎は避難場所をつくるための援助を奉行所に願出て、 山腹を欠いて高さ約2mの石積の壁と屋根をかけた長さ55mの大きな石小屋を作った。 現在は石垣の一部を残すのみ。 この辺りでは、周辺は笹が非常に多くなる。 |
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このところ毎日猛暑が続くのに水浸しになっている道(写真左)、草むらの中を探しながら進む道。 延々と歩き続けてようやく142号線への出口が現れ、 そこに立っている「←和田峠0.9km 諏訪大社下社(秋宮)11.1km→」道標に従い、 142号線を横断し、反対側に渡る。 |
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道標に従い階段を下り(写真左)、右折して道なりに進み倒木で遮断された道、小川と混ざった道、 7.8分下り142号線を横断し、反対側に渡る。 |
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道標に従い道なりに下り(写真左)、山道を横断する側溝、暗い細い谷道、 |
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前方が開け、その先の142号線へ出る手前(写真左)右側草むらに、 小口茶屋本陣など4軒の茶屋があった西餅屋跡碑。 142号線を横断(写真中)し、反対側に渡る。 |
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道標に従い階段を下り(写真左)、ゴロゴロする足場の悪い雑木林の岩道(写真中)を下り、 右側に一里塚跡碑がひっそりと建っている。 |
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一里塚跡碑を過ぎると、道は極端に悪化し身の危険を感じるところさえある。 雨や降雪のあったあとは道が崩れそうなところも多々あり、ここを避け国道を通ることをお勧めしたい。 崖道(写真左)の連続、片足をつくのがやっとの崩れた石ころ崖道(写真中)、崩壊した岩石の中を進む道。 |
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険しい道を10分弱下り、突然正面に山道に似つかわしくないガードレール(写真左)にビックリ。 ガードレール沿いに左折して下り、142号線に出る(写真中)。 ここには次どの方向へ行ったらよいのか、標識類が全然ない。 路頭に迷っていると、全くの偶然この道路を管轄している国道事務所の車がやってきて、 私のところで止り担当者が下りてやおら書類をひろげはじめた。 拾う神ありで、早速尋ねたところ 「左折して142号線を下り、左側に立っている気温掲示板の先で再度旧道に入る」とのこと。 142号線は下りが1車線、上りが2車線できちんとした歩道なし。 担当者は、危険だから絶対に1車線側を歩かないようにと注意。 142号線は下坂で歩くのは楽であったが、 何しろ脇すれすれに大型トラックが飛ばして行くので、怖くて擁壁にへばりついて立ちすくむことも度たび。 (写真ではたまたま全く車が写っていないが、実際は凄い車のラッシュ) |
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20数分坂道を下り、左上に気温掲示板(写真左)、その先左側に「水戸浪士の墓0.3km」案内版(写真中)。 すぐ先で左側に分かれる細い道に入り、下る。 |
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道なり(写真左)に進み、142号線下トンネル(写真左中)を潜り、 擁壁沿い(写真右中)に進み左へカーブするところに公園がある。 |
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公園の中央に、順に浪人塚(写真右)、水戸浪人墓(写真中)、水戸の梅樹が並んでいる。 1864年(元治元)勤皇の志で西行した水戸浪士千余人と松本・諏訪(高島藩)連合軍千余人が戦ったところで、 浪士たちは戦士した十数人をここに埋めて行ったが、高島藩は塚を作って祀った。 墓には当時水戸に照会して名前のわかった6柱が刻まれている。 遺族と関係者は、塚を史跡として保存している下諏訪町と今でも清掃奉仕して塚を慰霊してくれる樋橋組の人たちに感謝して、この地に水戸の梅樹を献木した。 |
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公園前のもう一つの142号線下のトンネル(写真左)を潜り、芙蓉パーライト会社前を通り、 突当りで左折(写真右中)して道なりに下る。 会社一角に自動販売機があり、和田峠下ってから初めて飲料水を飲むことができ、一息。 しばらく進み、142号線と再度合流(写真右)し左折して、進む。 |
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2,3分先左側に、樋橋茶屋本陣跡碑(写真左)。 142号線(写真左)は下り、天気もよく快適な道。 旧中山道は、しばらく先の石材店から右に入り数百m進んで深沢橋のところで142号線に戻るという。 ただ石材店は複数ありまた道標も見当たらず、 深沢橋上から深沢川を眺めると雑草の藪で、どこに道? 結局、この旧中山道はパスして142号線を進んでしまった。 |
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続いて旧中山道は、その先の六峰温泉(写真左)から右に入り数百m進んで142号線に戻るという。 ここも右に入る入口をみつけることができなかったが、 142号線を進んでいると下方に集落があり、舗装道路が走っていたのでこれが旧中山道だったかも知れない。 |
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約2kmほど142号線を下り、 頭上に、「300m先で142号線は、左へ諏訪方面、右へ岡谷IC方面」交通標識(写真左)。 旧中山道は、前方左側の町屋敷バス停(写真右)横から左に入り、すぐ右折し142号線を並行に進む 、と言われている。 そのように進んだら通りの理髪店主が、 「旧中山道は142号線をさらに進み次の萩倉口バス停から左折して坂を上る」と熱心に主張する。 確かにバス停付近には中山道の標識らしきものなし。 現場第一主義で、理髪店主の言に従い、戻って142号線を下る。 |
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萩倉口バス停(写真左)に到着し、142号線と分かれ左手の坂道(写真右中)を上る。 この上り口には、これまで中山道の要所に設置されていた「中部北陸自然歩道」道標(写真左中)もあり、 やはりこちらの道が少なくとも地元で認めたれている旧中山道のようである。 ちなみに坂の途中で、先ほどの町屋敷からの道が合流する。 坂道の突当りに、木落とし坂広場がある。 |
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広場中央に大きな「天下の木落とし坂」碑(写真左)。 坂上に置かれている御柱(写真中)と142号線に向けて傾斜45度斜面100mの崖のような坂。 御柱木落し坂:御柱祭は諏訪大社の大祭の一つで、十二支の寅年と申年の6年に一度行われる。 諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の4宮の4隅に御柱を曳いて建てる。 祭りでは、長さ20m、重さ10トンのモミの木を人力で曳行し、 木の上に若者を乗せてこの木落とし坂の崖から滑り落とす豪快な行事。 |
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旧中山道は、碑の近くの坂道を下る。 |
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中ほどで階段(写真左)を下り、道なりに右折して142号線に出て(写真左中)、左折して進む。 出口の左側に芭蕉歌碑(写真右中)、右側に道祖神などの碑が並ぶ。 |
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落合川(写真左)にかかる落合橋を渡り、少し進み、 |
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次の長沢大橋の手前の落合バス停で左折(写真左)し、道なり(写真中)に右カーブで進み、 再度142号線に出て左折し、進む。 |
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左側の注連掛(しめかけ)バス停の小広場(写真左)は、木落とし坂からの御柱をここに一旦留め置くところ。 142号線(写真中)は下りながら、下諏訪の町中心へ向う。 山の神バス停を過ぎ、 |
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山の神バス停から約500mのところで、142号線から斜め右に入り(写真左)、 諏訪大社春宮境内の木立の横を進む。 下諏訪の宿場入口は不明であるが、この辺りから? 時は17:26.。 今日は道を探しそして迷うことの多い1日で、時間のロスで疲ればかりが残ってしまった。 早くホテルで下諏訪温泉に入り、疲れをとりたい。 |
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