人は誰もが生まれたときから秘密の鞄を持っている。
最初は空の鞄だが、
歳をとるにつれ、その鞄は重くなる。
どんなに重くなっても、その鞄を手放すことはできない。
誰もが、この世から旅たつときも、その鞄を抱えていくのだ。


第1章 秘密の源 The Source Of Secrets

フロントガラスにたたきつける激しい雨の中、古原真人は本当ならハイウエイの真っ正面にそびえ立っているレーニア山の風景に思いを馳せていた。今日があの山を見る最後のチャンスだったかもしれないのに、この地方特有の冬の長雨が奪い去ってしまった。1ヶ月前に今日のこの日を予告されたときの帰り道ではレーニア山は真っ赤に染まり、その荘厳な姿を見せてくれたのだが、それが最後の見納めになってしまった。この1ヶ月というもの、陽が射す日は一日たりとも無かった。いよいよ明日は日本へ旅立つ日。彼にとっては帰国という表現を使うことはできなかった。

1ヶ月前のあの日、レーニア山が、夕日に真っ赤に染まっているその荘厳な姿に見とれながら、彼には毎日走り慣れたその道が、今日は全く違う知らない初めて通る道であるかのような錯覚を覚えた。右側には入り組んだ湾の向こうの山々に沈む太陽が見え、バックミラーにはダウンタウンに点り始めたライトが写っている。
「この景色を見るのもこれが最後になるかもしれない。日本に帰ってもこのような美しい風景をいつも見ることができるのだろうか。舞はうまく日本の暮らしに溶け込むことができるだろうか。」
車を進めて行くにつれて目の前に迫ってくるかのような赤い山が、いつもであれば一日の仕事の疲れを癒やす格好の風景であるのに、その時の真人にはあたかも前途多難の象徴としか写らなかった。

「私がこんなに困っているというのに
あなたはどこにいるの…?」

ハンドルを握る真人の心に、かれが人生の岐路に立ったときいつも蘇る声がまた響いた。

カナダからアメリカのオレゴン州に至る北米大陸の西海岸北部は、海岸線に沿うように連なるカスケード山脈に、太平洋の湿った空気がぶつかることにより、雨の多い気候を生み出している。冬の期間、長い雨の日が続き、太陽を見ることはあまりない。霧の多い日が続く中、人々はひっそりと暮らす。しかし、夏は一転して太陽に恵まれ過ごしやすい日々が続く。高緯度であるこの地域では夏は夜の11時くらいまで日が暮れない。仕事が終わった後、人々は冬の暗い生活とは一転して、アウトドアライフを満喫する。北米大陸の他の地域と異なり、その湿潤な気候のおかげで、植物、動物が過ごしやすい環境を生み出している。海岸線を沿うように延々と連なるその針葉樹林帯の森は、あたかも神の手によって植林されたかのように整然と直立し、その姿を誇っている。森の中に迷い込んで空を見上げると、まるで青空がその樹々の切っ先に突き刺されたように見える。広葉樹林帯のように樹と樹が絡み合うことはなく、一本一本の樹が完全に独立し、自己主張をしている姿は、やはり何かが宿っているのではと思わざるを得ない。この特異な針葉樹林帯は、北米大陸全土から見れば、ほんの西の縁をなぞっ ているに過ぎない。南にいけば行くほど、そうワシントン州からオレゴン州のあたりまで行くと、もう本当にわずかの幅しかない。東へ少し車を走らせれば、あの美しい樹林がいつの間にか姿を消し、一面の赤色土の荒野が広がる地帯が現れる。その環境の壮絶な変化は、さらにこの針葉樹林帯の神秘性を増すことになる。この森の中に紛れ込む者は誰もが、自然の素晴らしさ、人間の非力さ、卑小さに呆然とすることになるだろう。
アメリカの北西部の辺にあたるワシントン州は、海岸線がその針葉樹林帯に覆われている。太平洋と南のシェラネバダ山脈につながるカスケード山脈にはさまれたこの地域にワシントン州の大部分の人口が集中している。ワシントン州でもっとも大きな街シアトルは、同じ西海岸のサンフランシスコ、ロサンゼルスと比べれば、いわゆる地方都市でしか過ぎないが、この地域を取り巻く自然環境のおかげで、おそらくアメリカ全都市の中でもっとも、自然の美しい大都市といえるだろう。遠くに地元の日系人に富士山を連想されるレーニア山がそびえ、ピューゼント湾と呼ばれる入り組んだ湾の向こうには、オリンピック山脈が連なっている。太平洋はまだその山脈の向こうであるにも関わらず、このシアトルの前に広がる湾は、そのオリンピック山脈とその北にあるバンクーバー島の間を縫うようにして、太平洋につながっている。恵まれた自然環境とその豊かな森林資源、そしてその太平洋につながる湾のおかげで、このシアトルは発展してきた。そのシアトルに真人が赴任したのはもう10年も前のことになる。

真人にとっては10年前にシアトル勤務を命ぜられたときよりも、今回の帰国辞令の方が何倍もの衝撃だった。支店長から辞令を受け取ったときも、ある面覚悟はしていたが、やはり素直にその事実を受けいれることはできなかった。
「君はもう10年もここにいるんだ。確かに地域の人たちに溶け込んでいるし、こちらの企業にもずいぶん顔が利くようになっている。君の後を引き継ぐ者は君のようになるまでにはきっと数年かかることだろうね。だけど君ももうすぐ管理職だ。これ以上ここにとどまっていても、君にとってもうこれ以上有益だと思わないし、日本に一度戻ってさらに活躍してもらった方が必ず将来役に立つことになる。」
辞令を受け取った真人の表情から気持ちを察した支店長は言った。事実彼のように同じ土地に10年間もとどまる社員は珍しく、この10年間の間に支店長は3人変わっている。支店は10人程度の小さな所帯ではあるが、日本人は真人がもう一番の古株となってしまっていた。もちろん真人自身がとどまることを強く希望していたこともあるが、彼がまるでこの土地が故郷であるかのようにこの土地を愛し、この土地の人を愛し、この土地の企業を愛していることを歴代の支店長が理解していたから、10年もの長きにわたり、とどまることができたといえるだろう。真人はいつかその日がくることはわかっていたが、心の隅にその時などきっと来ないという根拠のない安心感を持っていた。その安心感がやはり何の根拠もなかったことを今、目の当たりにしながら、支店長の声が遠くに聞こえていた。
「古原君の後の補充は今のところ無い。当面は我々全員が分担して仕事を分け合うことにするが、彼の仕事を引き継ぐのは大変だぞ。日本には取りあえず1ヶ月、赴任までの猶予をもらっている。古原君の10年の経験を1ヶ月で引き継がなければならない。担当割り当ては明日にでもミーティングを行って決めたい。」
10年間の自分の経験と人間関係をたった1ヶ月で引き継げるはずがない。そんな生やさしい仕事をしてきたつもりはない。今更日本に戻って何ができるだろう。真人の脳裏を様々な思いが巡っては消えた。いつまでもこの生活が続く訳がないという恐れと、続くかもしれないという期待が今までは微妙なバランスを保って真人の心の中に存在してきたが、この日の支店長からの言葉はそのバランスを大きく恐れ側に倒しただけにとどまらず、恐れを現実のものに変えてしまった。会社員という職業、それも大企業という巨大な伏魔殿のような組織の一員の中に組み込まれた人々は、その人生の大きな選択の権限、居住地の選択という権限をその伏魔殿に引き渡してしまったことになる。日本の企業に勤務する人々は企業からの社命という名のもとに、その居住地を変えていく。それは日本国内だけにとどまらず、世界中のいかなる場所にも広がっている。ある者はその社命に泣き、ある者は喜ぶ。真人は入社した頃はそれは至極当然のことと思っていたが、結婚し、子供ができ、そしてアメリカでの生活が長くなるにつれて、自分の選択が通じないこの理念を受け入れることができなくなって来ていた。シアト ルに住むことになったのは会社からの命令によるもので、それは自分の人生にとってとても良いものをもたらしたと思ってはいるが、それはやはり自分の人生の選択によるものではない。今回帰国することも、決して自分の選択ではない。それが自分の人生にとって吉なのか凶なのかはわからないが、仮に凶であったとしても自分の選択によるものならあきらめもつく。吉であったとしても、それは自分の選択による幸運のものではない。ましてや妻や子供にとってはそれはあまりに厳しい命令ではないだろうか。それを断ることはその企業の所属を否定することになり、生活に大きく影響を及ぼすことになる。真人はアメリカの企業と長年接触してきたが、こちらの会社の人事異動はほとんどが、本人の自己申告と会社側のニーズがあった場合が多い。その会社の中で出世をしたい、新たなチャンスを獲得したいというものは、社内の公募に立候補し、認められて初めてそのポストや勤務地に就くのだ。このようなアメリカの人々を見てきて、今この自分の立場が至極納得のいかないものと思っても仕方がないことかもしれない。
その後取引企業に引き継ぎと挨拶をするたびに言われたことは、希望が通ってよかったであるとか、家族もよろこんでいるでしょうとか、お祝いの言葉ばかりであった。自分の気持ちと異なることを言われる度に、真人は心を逆撫でされるようでつらかった。妻の葉子とこちらに赴任直後に生まれた一人娘の舞は、初めて帰国の話しを聴いたときは冷静というよりも、実感がわかないと言う受け止め方をした。そう、舞にとってはそれこそ帰国などではなく、外国へ引っ越すのと同じ事になる。

真人の家はシアトルダウンタウンから南へ20キロほどにあり、ピューゼント湾と呼ばれるシアトル港の前に広がる広大な湾が見渡せる高台にあった。この近所の水準ではけして広い家ではないが、日本の基準からいえば大豪邸なのだろう。広い庭と美しい景色がその家をさらに豪華なものにしている。この家はもちろん真人の家ではなく、会社が現地駐在社員のために購入したもので、すでに築15年が経過している。会社としては日本を遠く離れ現地で生活しなければならない家族のためを考えて少々豪華な家を用意したのかもしれない。支店長クラスであれば、シアトルダウンタウンからほど近い、湖のほとりの豪邸が用意されている。ハイウェイを降りて5分程度走ると閑静な住宅街に入っていく。長年通い慣れたこの風景が真人には急に縁遠くみえてしまった。辞令を受け取ってからというものの引継ぎのために、この街をゆっくり懐かしむ暇などなく、平日は取引先まわりに追われ、休日も後任者との事務引継に費やすだけだった。1ヶ月の猶予期間などあってないような短さだった。家庭でもいろいろ解決しなければならないことが山積していたが、もっとも問題となったのは葉子が所属するコミ ュニティーのことでも、舞の通う小学校のことでもなく、オスカーのことだった。

10年間の生活というものは家族にとっては一つの歴史になっている。真人にとっては妻と二人でシアトルに赴任したわけだが、その後舞が生まれ、荷物は膨れ上がっていた。なまじ、広い家に住んだこともあるから、日本のマンションのように収納を気にすることもなく次々と荷物が増えていった。いざ、引っ越すことになったとき、その荷物の仕訳はすべて葉子の仕事になった。すべてを日本に持ち帰ることなどできず、不要なものは処分していくしかない。しかし、たとえ今は不要なものであっても葉子にとっては、舞の寝ていたベビーベッド、おもちゃが出てくる度にその時の異国での子育てのつらさが蘇り、今はもういらないからとあっさり処分できるものではなかった。あらためてまじまじと眺め、記憶を振り切るように持参するものと不要なものをより分けていった。不要なものとすることは、ここでの想い出を捨てていくような気がしてなかなか仕事は進まなかった。引っ越しの1週間前から、ガレージセールを始め、おおかたのものは処分することができた。しかしオスカーだけは困った。

オスカーはこちらに赴任した後、近所からもらったグレイハウンドの子犬であり、その後舞が生まれているから、舞にとってはそれこそ生まれたときからそばにいる兄弟そのものだった。今ではすっかり大きくなって完全な家族の一員だった。オスカーを日本につれていくことを考えたが、日本で用意されている住居は会社の集合社宅であり、ペットが認められていないこと、ましてやグレイハウンドなどという猟犬などでは預かってもらう場所すらないこと、日本での検疫、手続き等に思いの外煩雑であること、そしてオスカーにとってそんな環境の中日本という国につれていくことは不幸であるとしか思えず、断腸の想いで、会社の友人に引き取ってもらう決断をした。当然の事ながら、舞にとってその決断は残酷な結論でしかなく、あまり普段感情を表に出さない性格でありながら、真人からその事実を告げられた時には3日くらい泣き続け、オスカーを自分の部屋につれて入ったまま、離れようとしなかった。家族3人でオスカーを友人宅につれていったとき、舞のその観念したような表情を見たことが、今回の転勤のもっともつらい瞬間だった。別れを告げて車に乗り込んだとき、オスカーは事態を察 したらしく、その何とも言えない鳴き声が周りを取り巻く針葉樹林の中に溶け込んでいった。葉子も舞もオスカーに手を振っている中、真人がもっとも心で泣いていたのかもしれない。

公私ともにあわただしい日々であったが、引っ越しの荷物もおおかた片づき、最後の週末には家族3人で最後の想い出作りのために外出することができた。それは特別なところではなく、ピーターの牧場へ行っただけだった。ピーターというのはその牧場の経営者であり、真人はシアトル着任後しばらくしてから、この老人とつき合いだした。そのいきさつはかって真人の得意先の部長だったというだけで、真人は多くを家族に語ってはいなかった。ただ、いつしかピーター老人が会社勤務時代から経営していた牧場に、家族で時折訪れるようになっていたのである。舞はこの牧場で馬に乗ることを楽しみにしており、すでに一人で乗ることができるまで上達していた。ピーター牧場はシアトルの南にある街タコマからさらにレーニア山に向かって30分ほど車で走ったところにある。規模的には近隣の牧場と同様に大きすぎず小さすぎずで、数十頭の肉牛、乳牛を放牧して、何人かの人間を雇っていた。ピーターは古くに妻を亡くし、一人息子夫婦が事実上のこの牧場の経営を行っている。この牧場は、真人の家からは十分に日帰りできる距離でもあり、家族でよく訪れていた。どんなに忙しかろうが、ここに は挨拶に来なければならなかったが、帰国の直前になってやっと家族そろって訪問することができた。
その日もやはり雨で、まもなく雪に変わろうとするような天候だったが、到着してすぐに舞は馬に乗りたがった。舞を防寒着で重装備させて、いつも決まって乗る小さな馬に真人は舞をまたがらせた。
「舞、今日でこの馬にのるのは最後になる。よくお別れを言って起きなさい。でも程々にしないと風邪をひくぞ」
「最後の日くらい雨やんでくれたらいいのに。私シアトル好きだったけど、冬のこの雨だけはきらい。東京も雨が多いの?」
「いや、冬はからから天気ばかりだよ。舞はきっとこの雨が懐かしくなるだろうな。」
舞はゆっくりと馬を歩かせて、広い牧場を回り始めた。本当なら、牧場の向こうにレーニアがくっきりと見えるはずなのに。真人は牧場の顔なじみの若者に、舞を任せて葉子と一緒にピーターのいる家に向かった。

「真人もついに日本に帰るか。こんな日はもう来ないと思っていたが。」
ピーター老人はいかにも残念そうに言った。歳の頃もう70近いのだろうか。頭は完全に禿上がっており、豊かな白い口ひげとあごひげと丸い眼鏡のせいでそのように見えているだけで、ほんとはもっと若いのかもしれない。実際いつもブルージーンズを着こなし、ほとんどが薄汚れたものばかりだったが、その姿だけを見るともっと若く見えてしまう。葉子は、この老人がかって真人の得意先の敏腕部長だったとは信じられず、いかにも牧場の老経営者という風格が似合っているようにしか思えなかった。
なぜ、この人と真人はこんなに仲がいいのだろうといつも不思議に思っていた。真人は会社の仕事をよく葉子に話していた。葉子は真人の交友関係、仕事関係について比較的よく知っているつもりだった。ましてや、海外駐在員の妻ともなれば、公式のパーティであるとか、冠婚葬祭等に連れ出されることも多く、半分夫の会社の従業員みたいな感覚だった。しかし、真人がもっとも親しくし、自分たちまでアメリカのおじいちゃんとまで思えるようになっている間柄にも関わらず、真人がなぜ、本当に自分の祖父とまで歳が違うこの老人と仲がいいのか、葉子は何も知らなかった。何度か真人には聞いてみたが、いつも彼の答えは、「ただ、うまがあっただけだよ。」だった。葉子は真人があまり語りたくないということを感じ取り、いつも深くは追求しなかった。
ピーター老人は、真人が訪ねてくると決まり切ったように彼らに出すエスプレッソをストーブで準備しながら言った。彼の作るエスプレッソは特に苦かったが、最初はお愛想で我慢して飲んでいた真人は、もうその味にすっかり慣れていた。葉子はしかし未だ苦手のようで、ピーター牧場に来るときは必ずコーヒーシュガーをポケットに忍ばせるようになってしまっていた。今日も真人がピーター老人と話している隙を狙って、コーヒーシュガーをマグカップに入れた。
「うまいなあ。爺さんのエスプレッソ。もうこれで飲み納めですね。」
「いつでもまた飲みにくればいいさ。」老人もたばこをくゆらせながら、マグカップを口にした。白いあごひげにエスプレッソがついていた。
「正直帰りたくないです。葉子も舞もそうです。でも帰らなければなりません。会社の命令だから。」
「会社の命令に従う理由は何かな?」
「そりゃ仕事ですから…ここへ来たのも会社の命令です。…」
「会社の命令…君みたいな仕事のできる男を会社はこんなアメリカの田舎にほったらかしにはしなかったか…上司の言うことばかり聴かず、自分が正しいと思うことをやっていくのが君のモットーだったろう。」
「それはそうかもしれませんが。今度はそうはいきません。断れば解雇されるか、干されるだけです。」
「まあ、いやになったらいつでも戻って来るんだな。君には世話になったから、戻ってきたら今度はわしが世話してやろう。」
「遊びに戻るくらいで済むようにがんばります。」
その時舞がびしょぬれで部屋に入ってきた。
「寒い、寒い、おじいちゃん、私にもちょうだい!」
舞はエスプレッソのマグカップをピーターから奪い取り、おいしそうに飲んだ。真人も葉子も驚いた。エスプレッソを舞は苦くて今まで飲もうともしなかったからだ。
「はっはっは…舞も大きくなったなあ。」ピーター老人は本当に嬉しそうに笑った。
「ところで、葉子さん、長いことわしのまずいエスプレッソ、飲んでくれてありがとうさん。いつも砂糖大変じゃったろう。」
葉子は顔を真っ赤にして思わず頷いてしまった。舞も真人も大笑いした。転勤が決まってから始めての家族の笑顔だった。外の雨は雪に変わっていた。

1ヶ月が経ち、いよいよ明日は日本へ出発することになった。会社で一通りの挨拶を済ませ、家で待っている二人を迎えにいつもの帰宅の道を車を走らせる真人は、今降り続くこの雨が、これからの日本での多難を象徴しているように思えた。家の荷物はすべて搬出され、彼らの10年の歴史が込められた家はもう、器だけとなった。真人は降りしきる雨の中、家で待っていた二人を車に乗せた。これから空港のそばのホテルに向かうため、来た道をまた少し戻らなければならない。玄関の鍵を閉じ、明日見送りに来る支店長にこの鍵を渡すことになっている。その時、もうこの家は、名実ともに真人の家族の歴史から、会社の単なる管理物件に戻ることになる。鍵を閉じ、車に向かうとき玄関脇にある大きな樹に刻まれたいくつかの傷に気がついた。
「舞、ちょっと来なさい。」
舞は不可解な表情をして、もう一度傘を差して、真人のそばに来た。
「この傷覚えているか?」
「うん。お父さんが私の背を測ってくれた。」
「そうだ。最後にもう一度測っておこう。」
いつの間にか葉子もそばに来ていた。
「この樹はずっと私たちのこと見てきてくれたわ。」
「オスカーもよくこの樹の下で昼寝していたよね。」
真人は舞を樹のそばに経たせて、舞の身長にあわせてナイフで傷を付けた。
「さ、これで最後だ。行こう。」
彼らの日本への旅がこの樹の下からスタートした。残された樹の一番上の傷は、その下のたくさんの傷よりもかなり離れていた。

「またこの街へくることがあるかしら…また来てピーターおじいちゃんとオスカーに会いたい」車が動き出すと同時に舞が言った。
「来年の夏またみんなで遊びに来ましょうよ。日本に帰っても毎年夏休みに来て、レーニア山のキャンプは続けたいわ。その時はオスカーを一緒に連れて牧場によっていきましょう。」
葉子は毎年夏のレーニア山でのキャンプを楽しみにしていた。山の中腹にパラダイスというレーニア山を望むには絶好のビューポイントがある。そこでのキャンプは舞が生まれる前からの古原家の夏の大きなイベントだった。来年の夏もピーター牧場を起点に、レーニアキャンプをするつもりだった。
「最後にレーニアを見たかったね。今日は全然見えない。明日飛行機に乗る前に見えたらいいね。」
真人にとっては来年の夏のことなどまだ遠い将来の事だった。来年の夏を迎えるまでは、日本での仕事、舞の学校、友達、いろいろ乗り越えなければならないことがあまりに多すぎて、妻の会話に会わせるのが精一杯だった。

家族を乗せて飛行場へ向かう彼の車に降る雨はますます激しくなってきた。遠くで雷鳴が聞こえてきた。真人の心にまたあの声が聞こえてきた…木霊のように彼の心に響いていた。

「私がこんなに困っているというのに
あなたはどこにいるの…?」



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