少女小説における続編の法則

 あるいは金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』について

 「じゃあ、主人公が普通に仕事をして、その中で悩みや闘いや喜びも経験して、自分の仕事に理解がある男と恋愛する続編があればいいんじゃない!」と思ったあなた。残念ながらそれはもはや少女小説ではなかったりします。

 このように少女小説の続編というものは複雑なジレンマを抱えています。しかし、少女小説には続編がなくてはならない。何でかって? だって気になるじゃん!「それからあの娘はどうしたの?」「彼女のことをもっと教えて!」

 そこで、金井美恵子の『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』の話になるわけです。(あー、長い前フリだった) 

 『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』は、金井美恵子の「目白四部作」と呼ばれている作品群の中の『小春日和』の続編にあたります。「目白四部作」では各編の登場人物たちが微妙にリンクしているので、「目白もの」の「五作目」といういい方も可能ですが、やはり『小春日和』の続編と限定した方が正確でしょう。何故なら『小春日和』は「目白四部作」の中でも特に浮いたスタンスにある作品---「少女小説」だったからです。

 『小春日和』は八十年代も末になって出てきた少女小説でした。主人公は一風変わったモノの考え方をして、(多分)文才があり、(多分)美しくてチャーミングな少女です。彼女はスモールタウンから都会の大学に(一浪して)入学するために、作家である伯母さん(主人公の崇拝の的である進歩的な思想の持ち主で独立した女性、のはずなのだけれど)の家に下宿することになります。

 彼女の両親は既に離婚していて父親はゲイの恋人と暮らしています。少女を取り巻くコミュニティが時代の変化により寛容になった、なんてことはまずありませんが、大きな変化はありました。少女小説であるにも関わらず、主人公の少女である桃子ちゃんはもう、摩擦を起こすなんてことは面倒くさくてイヤだったんですから。

 闘争が面倒な少女はもちろん恋愛なんてもっと面倒くさく、「日常生活ながら波瀾万丈」という要素を失った少女小説にはタイトルにある通りのやたらと穏やかな生活が訪れました。そして変わり者の少女にはもう、「理解者」なんて必要ありませんでした。何せ、ペダンティックで磯野カツオのような言葉使いをする花子ちゃんという「もっと変わり者の友達」がいたので-。

 そんなわけで、『小春日和』におけるクラシカルな「少女小説」の要素となると、日常風俗のやたらと細かい描写ということになるのですが、ここはやたらと拡大されています。お洋服やごはん以上に本や映画やそれにまつわる会話がクローズ・アップされ、顕在化はしていないにも関わらず、ミニシアターの映画や馬鹿げたモノの分かっていない評論を肴に、喫茶店で店員に追い出されるまでわんわんと喋れる少女たちが沢山育った我が国では「これって私たちのこと?」旋風を一部で起こすことになったわけです。多分。

 「この娘の生活ってまるで私みたい」と読者に思われた小説の宿命として、『小春日和』は続編が書かれなくてはなりませんでした。では、一筋縄ではいかない少女小説だった『小春日和』はいかにして「少女小説の続編」が抱える問題をクリアーしたのでしょうか?to be continue→

 

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