ヴァージン・スーサイズ

 監督 ソフィア・コッポラ 出演 キルスティン・ダンスト ジョシュ・ハートネット ジェームス・ウッズ 他 

 ジェフリー・ユージェニデスによる原作『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』が大好きだった。

 「僕たち」という一人称複数というぼやけた視点から語られる、「少女たちの不可解でロマンティックな暴走」としての「自殺」という男子側の一方的な妄想によるファンタジーは、ただ幻想だというだけで捨ておくには惜しい甘さがある。

 主観である語り部がはっきりしないように、十代の五人姉妹もうすぼんやりとした美しい一塊りとしてしか、物語の中では認識されていない。でもそれでいいのだ。「13歳〜17歳までの年子の姉妹」なんて、個人ではなく少女性の象徴であるのは見え見えなんだから。

 唯一キャラ立ちしている性的に奔放な四女のラックスにしたって、「自分を汚そうとして堕ちれば堕ちるほど浄められていく少女娼婦」っつー、実際にはいないけれど男子的にはおいしい「題材」に過ぎないでしょ。

 末っ子が自殺未遂をして以来病的な影がつきまとう厳格な家庭・ある事件をきっかけに家に幽閉される少女たち・少年たちが助けの手を差し伸べたのにも関わらず突発的に全員が自殺してしまうラスト・それをきっかけに彼女たちが住んでいる町そのものが汚染によって破滅していく‥という展開だって、ある程度は読めてしまうけれど、まあ心地よく騙されてあげようという気にはなります。

 この小説をソフィア・コッポラが映画化する、と聞いたときもそんなに不安は感じなかった。何故かというと、「金髪碧眼の少女に白い服を着せて緑の中で撮る」という彼女の写真群を見た限りでは、ちゃんと男子側の幻想としての少女たちを、イメージ・フィルム的には撮ってくれそうだと思ったから。

 実際、イメージ以上のことは期待していなかった。(皆さん、してました?)編集の方に親父さんの職人スタッフの名前も見つけたんで、素晴らしいものは出来なくてもそこそこ破綻がないものにはなるだろうと踏んでいたし。

 映画館で予告編を見たときは、あまりによく出来ていたんで予想を確信した。そして「予告編が一番いいんだろうなー」とも思った。トッド・ラングレンやキャロル・キングや「アローン・アゲイン」「アイム・ノット・イン・ラブ」といった直球な音楽をバックに、空気に溶けるように消えていく少女達。ああもうこれでオッケー! 

 ところが。劇場で本編を観たら、これがちょっと困ってしまう出来でね。目がさめる程よくないのはもちろんとして、わざわざけなすこともない、でもかばいたいかというとちと違う。周囲の少女たちも「えー何て感想を言えばいいの」というつぶやきを漏らしてました。

 でも、「どこがどうよくなかったか」ということを把握して書いてる評がわりとないようなので、一応ちゃんと書こうとは思いました。どこのサイトか忘れたけれど、「四女は処女じゃないから看板に偽りだ!」ってまともに怒っていたようなとこもあったし。ヴァージンってそういう意味じゃないだろ。

 まあ単純にいうと、「ソフィアのここが力不足でダメ」というよりも(しつこいようだけれど実力がないのはみんな事前に承知してるんだからさ)、映像化したら少女たちの自殺が「ロマンティックな暴走」ではなく、単なる「あてつけ」であることがはっきりしちゃったから、ということに尽きると思います。

 ソフィア本人は「少女達の真情がどう、というよりも、あくまで男の子の視点で」とは言っていたが、どうにも綻びていくファンタジー。少女達は助けの手を振りきって逃走したのではなく、はっきりと町中の男の子たちに消費されてうち捨てられたお人形に過ぎなかったことも判明。「僕たち」が彼女たちを忘れないのは、「罪の意識」に起因するものだ、という物語の裏側が見えても、ちっとも嬉しくありません。みんな、心地よく騙されたくてきたのにこの生臭い話は一体何?って思うのも無理はないでしょう。

 どうにも居心地が悪いのは、この真相解明が意識的なものではなく、ただ下手くそで舞台裏が見えちゃったという感じによるものだから。もし意識的に、「あなた達の自慰的記憶では美しい話になってるけれど、本当はこういうことだったんでしょ?」と切り込めば、逆にもうちょっとどうにかなったんじゃないかと、前言撤回で考えたりもする。

 衛生局が庭の木を切ろうとすると、家に閉じこめられた少女たちがネグリジェ姿のまま走ってきて病気で腐っていく木を取り囲んで守る、というシーンがあったけれど、有識者のあなたならアニエス・ヴァルダの『冬の旅』を思い出すはず。

 だから町に栄華と破滅をもたらす女神として少女達を神格化して描くことも可能だった。でもしなかった。出来なかった。だから何だか中途半端なものになってしまった。「全体としてはダメだけどディテールはOK」というものを期待してたのに、おいしいディテールは零している印象もあったし。

 後、決定的なダメージだったのは母親役にキャスリン・ターナーを起用したこと。もちろん、うまかったよ彼女は。でも、「かつては美しかったけど今はこんなになっちゃいました」な彼女の姿を見ると、少女達の未来も予測可能で、「ああなっちまうなら自殺しても無理はない」っていうところに、話が落ち着いちゃうじゃない。「厳格なサヴァービアの母親」というキャラはジョン・ウォーターズの映画からのシフトだし、「悪い娘は皆殺しよ!」っていう『シリアル・ママ』続編になってしまったんでした。

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