歩く 中山道 
 日本橋
板橋宿蕨宿浦和宿大宮宿
 (東京都中央区)(東京都板橋区)
(埼玉県蕨市)     (埼玉県さいたま市)
 iー愛ロマンチカ
日本橋から倉賀野宿までの区間を2004.8.7 から2泊3日で歩いた。
ただこの区間のホームページ作成に取りかかったのは、それから4年後の2008.3。
当時の写真を見てもところどころ事細かいところを思いだせなく苦慮してしまった。
時間の無駄はやめて、板橋の一里塚から大宮宿まで2008.3.23再度歩いて写真を撮り直した。
従ってそのところは撮り直した写真が多いが、記述は2004年当時歩いたものとした。
2004年の夏は全国的な猛暑で、熊谷で連日40度を超えたなどとマスコミをにぎわせていた。
ただ夕方になると何故か凄い雨となってしまうのであった。
この頃が、異常気象のはしりであったのかも知れない、と勝手に思っている。

   
   
   
2004.8.7横浜から始発電車を乗り継いで、6:12に晴天の江戸日本橋に立つ。
この中央区日本橋は、5街道を歩くたびに、そのつど出発したもうお馴染の橋。
日本橋を起点として、東海道と甲州街道は南下し、日光(奥州)街道と中山道は国道17号線を北上する。
 
日本橋:日本橋界隈は海浜のアシが茂る湿地帯を埋め立てて商業地帯を造成したのが始まりで、
1603年(慶長8)に江戸幕府が平川に木橋を架けたのが日本橋である。翌年幕府が日本橋を5街道の起点と定めた。
現在のルネッサンス様式アーチ型石橋が1911年(明治44)に完成するまでの間、
日本橋は火災、洪水などで20回も架け替えるられているという。

   
日本橋を出発し、国道17号線(写真左)は日本橋室町電線共同溝工事のバリケードで1車線制限。
道の左側に「100年に一度の売り尽くし」垂れ幕をさげた
日本橋三越デパート(写真中)で、
前身はこの地で1683年
(天和3)三井八郎右衛門高利が開いた呉服店越後屋。
三越に続いて、歩道沿いに「江戸日本橋絵巻」と説明書のある豪華絢爛たる
巨大仮設塀にビックリ!
超高層三井タワー建設現場の仮設塀で、昔の無味乾燥の塀と比べここまで来たか!
というのが正直な感想。
仮設塀
の終わりの信号交差点で、ここで日光街道は17号線と分かれ右折して東へ進む。
   
その先左側、日本橋室町センタービル柱のところに「10軒店跡案内板(写真左)が立ち、
江戸時代初めに桃節句・端午節句に人形を売る店が10軒あったところからその名がつけられたという。
続いて室町4丁目交差点を横断して左側の三建室町ビル壁に、「
今川橋跡(写真中)があり、
江戸時代日本橋を出発して最初の橋であったが昭和25年竜間川の埋め立とともに解体されてしまった。
今川橋跡碑を過ぎj中央区から千代田区に入り、17号線の前方に
JRの高架が見えてくる。
   
薄暗い高架下は神田駅(写真左)の入口で、直進し神田界隈の17号線(写真中)を進む。
須田町信号交差点手前の神田ビルのところで、
17号線と分かれ左手の道を進む。
   
道は左へゆるいカーブを描き、カーブの右側にある交通博物館(写真左)は、
旧鉄道博物館で1921年
(大正10)東京駅北側に創設したものを昭和11年にこの地に移転した。
続いて
レンガ造建物(写真中)が並びその上を電車が走っている。
レンガ建物の外れの神田郵便局前信号交差点を右折し、ガード下を潜って神田川にかかる
昌平橋を渡り、
17号線の昌平橋信号交差点に一旦出てすぐ左折し、神田川沿いに進む。
その先で外神田信号丁字路を右折し、再び17号線と合流して左折し、千代田区から文京区に入る。

   
17号線は上り坂で、途中左側にある湯島聖堂(写真左)は5代将軍徳川綱吉創建の孔子廟で、
境内には世界最大の孔子像がある。
(入場無料)
道の反対側にある隋神門の朱色が美しい
神田神社(写真中)は、
730年
(天平2)創建で江戸時代は江戸総鎮守として敬われ、
1872年
(明治5)にそれまでの神田明神から神田神社に改称した。
隋神門の右前に「
江戸国学発祥の地が立つ
国学発祥の地:1700年(元禄13)から1713年(正徳3)間に江戸に滞在した国学者荷田春満が、
神田明神の神主だった芝崎好高の屋敷で講義を行ったことが始まりで、
これが代々の国学者に受け継がれていったことに所以するという。

また野村胡堂作捕物控の銭形平次親分の碑も境内に建立されている。
当神社の神田祭は日本3大祭りとして有名。
   
坂道を上り、東京医科歯科大学前を通り、
本郷一丁目信号交差点あたりから17号線はゆるい右カーブとなる。
春日通りと交差する本郷三丁目信号交差点を直進し、
如何にも学生街雰囲気の本郷通りの
17号線歩道(写真左)を進む。
すぐ右側にいわゆる
東大赤門(写真中)
赤門と東京大学:赤門とは江戸時代将軍家の子女が大名に嫁いで居住した奥御殿を御守殿と称し、
その御殿の門を丹塗りしたところから赤門と呼ばれた。東京大学の敷地はもと加賀金沢前田家の上屋敷跡で、
赤門は1827年(文政10)に11代将軍家斉の溶姫が前田斉泰に嫁いだ時に建てられたもの。
なお、赤門は火災などで焼失したら再建してはならない慣習があり、
この東大の赤門は現存する唯一のもので国の重要文化財に指定されている。
東大キャンパス沿いに進み、
正門前を通り、言問通りとの交差点を直進し、
農学部前で丁字路となる。
そのまま行くと日光御成道で、17号線の中山道丁字路で左折する。

   
丁字路を横断し、右側の酒の高崎屋のところに追分一里塚跡案内板(写真左)が立っている。
ここは日光御成道との分かれ道で、日本橋から最初の一里塚となる。
なお高崎屋は江戸時代から続く酒屋で、両替屋も兼ね「現金安売り」で繁盛したという。
閑静な住宅街の中を
17号線(写真中)は北西へ進み、農学部門から約800mほどの右手の小路を入ると、
大円寺があり境内に八百屋お七を供養するために建立された焙烙(ほうろく)地蔵が安置されている。
八百屋お七大火:あまりにも諸説が多すぎてどれが真実なのか不明のようである。
一説として1682年(天和2)の江戸大火で、一時避難した円乗寺で知り合った寺小姓恋しさに再度火事を起せば逢えるものと、お七が近所に放火したところを見つかり未遂となって捕えらた。
江戸市中を引き回されて鈴ヶ森処刑場で火あぶりの刑に処せられた。
円乗寺のお七の墓石には、天和三癸亥(1683)三月二十九日没とある。
(焙烙:素焼きの平たい土鍋

   
さらに進み、不忍通りとの千石一丁目信号交差点を直進し、文京区から豊島区に入り、
右側に
JR巣鴨駅(写真右)を見て山手線陸橋を渡る。
   
橋を渡り、左側の線路沿いの桜並木の通り(写真左)入口に染井吉野碑が建っている。
ソメイヨシノは、ここ染井の土地の名をつけた桜のこと。

   
その先左側に真性寺(写真中)があり、
境内に江戸6地蔵の1つで1714年
(正徳)建立の高さ2.6m銅造地蔵菩薩像(写真左)が本堂左手前にある。
真性寺前を過ぎると正面斜め左手に、「
巣鴨地蔵通商店街ゲートが見える。
   
17号線と分かれ、左折してゲートの下を潜りとげぬき商店街通り(写真左)に入る。
この通りは、とげぬき地蔵のある「おばあちゃんの原宿」として有名。
時は8:21で、まだおばあちゃんたちの出勤には早い時間なのか、通りには殆ど人が見当たらない。
200mほど進み、
右側に1596年
(慶長元)湯島に開かれ、1891年(明治24)にこの地に移転してきた高岩寺(写真右中)
ここの本尊が、「とげぬき地蔵」として知られる延命地蔵菩薩尊。
本堂右側は
ベンチのある広場(写真右)で、
この時間もうばおあちゃんだけでなく若いじいちゃんたちも含め数名がゆったりくつろいでいる。
本堂正面前店先には、
白人系と思われる女性が
裸体を惜しげもなく曝しているのが、艶めかしい。
この女性が当時流行った「八頭身美人」であるところが、やはり熟年者には懐かしさがこみ上げてくる。
   
開いている店をながめると、衣料、団子、漬物などなどみんなおばあちゃんが好きそうなものばかり。
煎餅などは歯の悪い人のために柔らかくしてあるとのことで、また来たくなるのも当然と、納得。
先に進み、電柱に「
巣鴨庚申塚 猿田彦大神案内標識(写真左)
その先の商店街外れの右角に、猿田彦大神を合祀した
庚申堂とその前に庚申塚碑(写真中)がある。
庚申堂に鎮座する庚申塔は、
1652年
(明暦3)に再興したとき1502年(文亀2)の碑を丈を縮めて造り替えたもので、
とても古く由緒ある塚である。
庚申塔とは:庚申さまを供養するために建てた石塔のこと。石塔を中心に土を小高く盛ったものを庚申塚という

約1kmの商店街を抜け、
都電荒川線庚申塚駅の踏切を横断して進む。
   
踏切から約100m左側小路入口に延命地蔵尊標柱(写真左)が立ち、
小路奥に中山道の長旅で死亡した人馬を供養するために170年(文政年間)前に建立した地蔵尊(写真中)
南無妙法蓮華経と刻まれた石碑が立っている。
道に戻りその先の右側に、ガラス戸に「
農産種子生産卸東京種苗株式会社の建物がある。
この辺りは昔滝野川三軒家と呼ばれ、
江戸時代、桝屋孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三軒の種子屋があったところで、
全国的にも滝野川の3軒家の種子は有名になり、中山道を通る大名も買い求めるほどであったという。
その先の掘割信号交差点で明治通りを横断して北区に入り、進み、
信号から約600mのところにある信号交差点に出る。
ここで寄り道をし、交差点を左折して100mほ進むと、
JR板橋駅東口広場に面した一角に
新撰組隊長近藤勇墓所がある。
近藤勇の出身地は調布市上石原村であるが、官軍と戦い敗れて捕えられ、
明治元年4月板橋滝野川で斬首された。
もとの信号交差点に戻り、この地点が北区と板橋区の境界で、ここから板橋区に入る。
    
板橋宿:日本橋から約10kmのところの中山道の最初の宿場。
南は滝野川境から、北は前野村境(現環状7号線辺り)
までの2.2kmの南北に長い宿場で、
平尾宿、仲宿、上宿の3宿で構成し、本陣1軒、脇本陣3軒
(各宿1軒)
18世紀になると信濃の善光寺参りや近江の多賀神社への参詣する旅人で大変にぎわった。

   
信号のすぐ先あたり(写真左)に、平尾の一里塚があったというが現在はその形跡なし。
JR埼京線踏切渡り、600mほどの先の17号線に出て
首都高速(写真中)の下を右斜め方向に横断し、
板橋宿ゲートを潜り、宿場通りに入る。
   
宿場入口は3宿の1つの平尾宿で、
通りの右側に、江戸時代多くの信仰を集めた1338年
(歴応元)創建の観明寺(写真中)がある。
参道入口に1661年
(寛文元)造立の青面金剛像の庚申塔(写真左)が安置されている。
本堂右手の
観明寺会館は、余りにも立派すぎて当寺院には似つかわしくないと思ったが、余計なお世話ですね。
観明寺のすぐ先右側の「花の湯」から、右折した奥に平尾宿豊田脇本陣跡があるが、割愛。

  
その先で仲宿通りに入り。
当時の面影はないが両側に結構小さな店舗が並びそれなりに繁盛しているように思える。
右側の
スーパーライフが飯田本陣跡(写真左)で、
(写真左中)は手前の境界ブロック塀の裏側にあるので見落し易い。。
さらにライフから500mほど左側うなぎ仲宿の小路を左折した奥に、
皇女和宮が降嫁するとき宿泊した仲宿の飯田脇本陣があるが、ここも時間の関係で割愛。
さらに進み、板橋の地名の由来となった
石神井川(写真右)にかかる板橋(写真右中)を渡る。
板橋の名は平安時代の「源平盛衰記」にもその名がある古い橋で、
その後何回か架け替えられ、江戸時代の橋は太鼓橋で長さ16.2m、幅5.4mあった。
現在の橋は1972年
(昭和42)河川改修にともない架け替えられたもの。
   
橋を渡り、上宿に入り縁切榎前信号交差点右側の交番のところに中山道板橋宿標柱と案内板(写真左)
道を挟んで、この木に祈ると縁が切れるという
3代目縁切榎(写真中)がそびえている。
皇女和宮の降嫁のときは、榎を菰で包みその下を通ったという。
その先約200mの大和町信号交差点で、環状7号線を横断して進む。
板橋宿は、この環状7号線辺りまでであった。
信号から600mほどのところの
首都高速5号池袋線高架がカーブするところの泉町信号交差点で、
国道17号線と合流し進む。

   
17号線を500mほど進み、右側にひときわ目立つ緑の参道(写真左)
境内の正面奥に
南蔵院がありしだれ桜が有名で桜寺の別名がある。
   
17号線を進み、南蔵院から約700mの一里塚信号交差点両側に
日本橋から3番目の国指定史跡の
志村一里塚(東側)(写真左)、(西側)(写真右)がある。
多少位置は移っているが完全な形で両側の一里塚が対で残っていて、国指定文化財となっている。
17号線を北西へ進む。
   
次の志村坂上信号交差点(写真右)で17号線と分かれ、
みずほ銀行と志村警察署交番の間の
左側の細い道(写真右)を進む。
閑静な住宅街(写真中)の中を約200m進み、道の色が変わる丁字路は直進する。
丁字路から左折する道は中山道から富士・大山への分かれ道で
丁字路角の民家玄関前に
道標と庚申塔(写真左)が並んで立っている。
左側が1792年
(寛政4)建立「是より大山道并にねりま川こえみち」道標、
右側が1860年
(万延元)建立庚申塔で左側面に「是ヨリ富士山大山道」とある。
   
丁字路を過ぎると道は下り坂(写真中)となり、左側に清水坂碑(写真左)が立つている。
清水坂は日本橋を出発した中山道の最初の難所であったところで、急版で途中から大きく曲がり、
街道で唯一「富士山を右手に一望できる」名所であったと言う。
坂の途中右側マンションボナール清水坂入口階段脇に、巨木の切株
先ほどの交番前で警察官から声をかけられ、この切株は「中山道でいわれのあるものではないか?」と何故か尋ねられたが、I DON’T KNOW
   
道なり下り、左側のもう一つの清水坂碑の丁字路(合成写真)(写真左)で、右折して坂を下る。
坂下には板橋・蕨両宿の間の合いの宿があり志村名主屋敷や立場茶屋があった。
その先で頭上を通る
地下鉄都営三田線(写真中)高架の下を潜り、17号線と合流して左折する。
環八通りと交差する志村三信号で17号線の
横断歩道橋を渡る。
   
歩道橋を下りすぐ左折で環八通りを横断(写真左)し、右折、左折で17号線と並行な住宅街の道を進む。
約500m進み、左にカーブして
17号線と合流(写真中)し、右折してまっすぐな17号線を進む。
   
17号線を約800m進み、新河岸川(写真中)にかかる志村橋(写真左)を渡る。
その先の舟渡信号交差点から約100mのところで、
旧中山道は17号線と分かれ右斜め前方に進み荒川の渡し場まで通づることになっているが、
現在は上越新幹線で道は消滅し、土手にも舟渡し場の史跡などは見当たらない。
そのまま17号線を進み、荒川にかかる戸田橋への
側道を進む。
   
突当りで荒川土手(写真左)に上り、右手に上越新幹線(写真中)を見ながら戸田橋を渡り、
橋の途中で東京都板橋区から埼玉県戸田市に入る。

   
橋を渡り終え、右手に新幹線下から何もない土手(写真右)を見て進み、
横断歩道(写真中)を渡り、すぐ右折して新幹線下を潜り階段を下りて直進する。
   
2つ目のカーブミラーから左折する道(写真左)が、旧中山道。
カーブミラーの先すぐ右手の一段高いところに「
中山道渡船場跡(写真右)
戸田の渡しは渡船13隻(馬船3隻、平田船1隻、伝馬船1隻、小伝馬船8隻)、220人で運行していた。
渡船場は明治8年(1875)に長さ135mの木橋の初代戸田橋が架けられるまで続いた。
現在の戸田橋は1978年完成の4代目で、初代より約100m上流に位置する。
その先左側に
水神社
水神社は地元の人々の氏神的存在で、境内には「水神宮・船玉大明神」と刻まれた舟形の石がある。
   
カーブミラーから旧中山道(写真左)を北へ進み、右側に戸田市内で最古の木造建造物の地蔵堂(写真中)
さらに進むと
菖蒲川で道は途切れる。
対岸以降の中山道は現在消滅しているが、
旧中山道に近い道を進むため正面の家並みに見当をつけ、右に迂回して川岸橋を渡る。

   
対岸の旧中山道の延長上辺りと思われる何故か当時の面影を残すような小路(写真左)を進み、
約250mの突当り丁字路を左折して
さつき通り(写真中)を進み、
17号線の川岸三丁目信号手前に出て右折し、再度
旧中山道を進む。
なお消滅した旧中山道は、丁字路を突っ切って川岸三丁目信号の約50m先で17号線と斜めに合流する。

   
旧中山道は次の本町一町目信号交差点の先で右斜め前方に進むが、
現在は道は消滅しているので本町一町目信号から右折し、
最初の十字路を左折し
て下前公団通り(写真左)を進む。
通りを約400m進み、
下戸田一丁目信号交差点(写真中)で消滅した中山道と合流し、
交差点を右斜めに横断して下戸田ミニパーク沿いの細い道を西へ約100m進み、
本町信号の先の
17号線に合流し右折して進む。
   
下戸田南信号の先左側「バーミヤン」敷地の一角にブロック塀に囲まれた立派なお堂(写真左)
表示がなく、果たして何が祀られているのやら。
さらに進み、錦町一丁目南信号交差点で戸田市から
蕨市(写真中)に入る。
その先の信号で、旧中山道は17号線と分かれ
ガソリンスタンドの右側の道に進み蕨宿に入る。
分かれるところに、格調高い
中山道蕨宿碑
    
蕨宿:江戸から約19kmの宿場で、
現在も国道17号線北東側に並行して環境整備された旧中山道が残されている。
蕨宿を過ぎると鰻の店がなくなるため、ここで鰻を食べる人が多く、浦和宿と並び鰻の宿で有名。
蕨の地名由来は、藁を焚く火の様子から「藁火村」としたという説、または植物の名からとったという説。
本陣2軒、脇本陣1軒。

   
宿場通りの入口に、「中山道」「蕨宿木製ゲート(写真中)が立ち、通りもカラーになる。
通りの両側の歩道に、全宿場の「
中山道六十九次浮世タイル(写真左)が敷かれている。
その先右側郵便局前に、「
蕨宿 史跡めぐり案内版
    
通り(写真右)は17号線に並行、整然としてかつとてもきれいで地元の力の入れようが伝わってくる。
左側に明治時代織物の買継商をしていた家をそのまま使用した、
歴史民俗資料館分館(写真左)
信号のある交差点左角に、創業二百数十年の看板のかあかる「
うなぎ今井
入口に「蕨宿 今井の深き江戸の味 生を養い気をも養う」木版が立てかけてあり、納得。

   
その先左側に、脇本陣跡(写真左)の岡田厚生堂薬局。
隣接して実物大旅籠屋、商家、本陣上段の間を復元し、1/200宿の町並み模型のある、
歴史民族資料館本館(写真中)
その隣に
岡田加平衛本陣跡が並んでいて、この辺りが宿場の中心地であったところ。
   
その先右側に、「中仙道蕨宿まちずくり憲章立札(写真左)
同じ右側のせんべいの「
萬壽屋(写真左中)は、昔は茶屋で10代続く老舗。
その角に、「
地蔵の小径(写真右中)立つ右折する小路は三学院への道で突当りに総門がある。
   
総門の前右側に、1800年(寛政12)建立の「馬頭観世音」を梵字で陰刻した
三学院梵字馬頭観世音塔(写真左)
総門を進み右側建屋内に、
左から地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵、子育て地蔵(写真中)が鎮座している。
地蔵菩薩:1658年(万治元)念仏講を結んだ13人により「あの世」と「この世」の安泰を願い造られた
高さ1.9mの地蔵尊。
また目疾地蔵と言われ目に味噌を塗ると目の病気が治る、または眼の病気にならないといわれている。
六地蔵:1661〜1704年間(寛文から元禄)にかけて順次造られたもの。
六地蔵とは地蔵菩薩が六道「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」に分身して人々を救済する姿を表している。
子育地蔵:1694年(元禄7)に江戸浅草橋紀伊国屋平兵衛に造らせた高さ2.4mの蕨市最大の地蔵尊。
総門を潜り奥に
本殿
三学院は本尊が平安中期滋賀大師作十一面観音菩薩で、木造十三仏坐像でも知られている。

  
元の宿場通りに戻り先に進み、宿場出口には入口と同様な木製ゲート(写真右中)が両側に立ち、
ゲート左側の北町交番に隣接して、
中山道ふれあい広場(写真左中)が立ち大名行列壁画(写真左)が描かれている。
ゲートを出て
錦町三丁目信号交差点の国道17号線を横断し、県道79号線を西へ進む。
  
第二中学校を過ぎて右にカーブし、錦町五丁目信号交差点から約200mのところの、
小さな橋(写真左中)のかかる用水路(写真左)境界線で、蕨市からさいたま市南区に入る。
境界から約350mの辻二丁目信号交差点右側の辻一里塚公園に隣接して「
一里塚の跡(写真右)
時辻周辺は湿地帯で通行が困難であったため水難除けに水の神弁財天も一緒に祀ってある。
その先で東京外環自動車道下を横断し、進む。
   
外環道から約300m左側に、
木曽名所図会に「辻村に熊野権現のやしろあり」とうたわれた
熊野神社(写真左)
道なりに進み、突当りで六辻水辺公園前の
信号丁字路(写真左中)を右折して進み、
六辻信号交差点(写真右)で17号線に出る。
交差点左角交番敷地角に、
六辻村道路元標が立っている。
   
17号線を横断し、次の信号交差点(写真右)を左折し、すぐの分かれ道(写真中)は右手を進む。
道なりに進み、次の
信号交差点(写真左)を直進する。
   
その先の信号から緩い上り坂(写真左)が始まり、坂の途中の横断歩道橋手前に「焼米坂標識(写真中)
昔茶屋があり、名物が「焼き米」であったことから由来している。
ちょうどこの辺りの下をJR武蔵野線が通っている。
歩道橋を過ぎ、さいたま市南区と浦和区の
境界道(左側が南区)を進み、
次の信号辺りから下り坂となり、さらに次の信号で浦和区に入り進む。

   
浦和区境界からと約300m進み、右側に1869年(安政6)建立権現造り社殿の調(つき)神社(写真中)
「調」は租庸調の調で、伊瀬神宮に収める武蔵野国の調べ物(年貢)はここに集められた。

調の運搬の妨げとなる鳥居や門は、この神社にはない。
中世ごろから、調が月と同じ読みであることから月待信仰と結びつき、
兎を神使とみなす兎信仰が行われるようになった。
参道入口両側には、鳥居や狛犬のかわりに
うさぎ石像(写真左、右)が置かれている。
境内には天然記念物に指定された樹木が密集している。

     
浦和宿:江戸から約24kmの宿場で、市場として発展した宿で毎月2と7の日に市が開かれ賑っていた。
周辺には見沼などの沼地が多く、ここで獲れた鰻が宿の名物で、うなぎの蒲焼き発祥地とも言われている。
本陣1軒、脇本陣3軒。
   
調神社を過ぎ、信号の先から商店街(写真右)となりこの辺りから浦和宿となる。
次の信号を過ぎ左側歩道上に、
中山道浦和宿(写真左)
浦和駅西口信号交差点を過ぎ、左側に「
門前通り石柱(写真右中)の立つ左手奥に、
平安時代弘法大師により開かれた
玉蔵院で伽藍は1699年(元禄12)に復興されたもの。
ライトアップされるしだれ桜は有名。

   
次の仲町信号交差点(写真右)を過ぎ、スターフィールド常盤浦和ビルから左折し小路左側の仲町公園に、
星野権兵衛本陣跡(写真左)の案内板。(中央石碑は明治天皇行幸記念碑)
さらにその先左側の常盤公園への市場通り入口歩道上に、
カボチャとナスを持つ
農婦ブロンズ像
ちょっと奇異に感じる光景で、周囲とマッチしていない気がする。

   
続いて左側の慈恵稲荷の鳥居(写真左)を潜ると、鉄柵の中に「御免 毎月二七市場?(写真中)
浦和市場は戦国時代に開設され、毎月2と7がつく日に計6回開かれたので二・七市場と言われている。
商店街を通り抜け、
国道463号線高架下を潜り進む。
   
その先で、JR線路(写真左)にかかる浦和橋(写真中)を渡り、
左折して浦和橋信号丁字路を直進し164号線を北西へ進む。
浦和橋から約500mの
北浦和駅東口信号交差点を、左手に駅舎を見ながら直進する。
   
北浦和駅東口信号から約300mの左手奥に、鎌倉時代の木造黙阿弥陀如来本尊の廓信寺(写真左)
参道入口左側に、「
サツマイモの女王 紅赤発祥地案内板(写真左)
江戸時代以来関東ではサツマイモといえば川越の「アカツル」「アオツル」が代表であった。
明治31年木崎村針ヶ谷の農家の主婦山田いちさんが、皮の色が濃い紅色の新種を発見。
これは栽培していた「八ツ房」の突然変異したもので、色、形そして味も良質であった。
甥の吉岡三喜蔵が「紅赤(通称金時)」と命名し普及に努力し関東一円に広まった。廓信寺は吉岡家の菩提寺。
廓信寺から約800m進み、大原陸橋東信号を直進したすぐ左側住友生命ビル前に、
この辺りで1864年
(文久4)水戸藩士宮本鹿太郎が父の仇丸亀藩士河西祐之助を討ちとったという一本杉碑
   
164号線を進み、与野駅東口信号から約900mのところで浦和区から大宮区に入る。
左手前方にさいたま新都心の象徴的
高層ビル(写真左)、そしてケヤキ並木(写真中)通り。
昭和42年埼玉国体を記念して200本のケヤキが1.5km区間にわたり植えられた。
高台橋バス停付近信号の右側歩道ど真ん中に、
女郎地蔵と火の玉地蔵の2体が並ぶ祠
火の玉地蔵(左):毎夜この橋の付近を火の玉が飛ぶ。ある男が斬りつけるとキャーという声がして消え、
暗がりにいた不動明王と名乗る男が「剣を切り落とされた」といい消えた。
高台橋に行き不動を確かめると剣を持っていなかったという。
女郎地蔵(右):材木屋の若旦那と夫婦約束をした宿場女郎の千鳥が、大泥棒から何が何でも身請けすると迫れ
思いあまってこの橋から身投げしたという。
いずれも
高台橋にまつわる話で、またこの辺りに浦和代官の刑場があった。
   
56号線を横断しJRさいたま新都心駅前の通りを進み、
左手に
さいたまスーパーアリナー円形建物(写真左)
新都心駅前から約400mの右手に、大きな「
武蔵国一宮石柱(写真中)が立ち、
斜め前方の
赤い鳥居(木造で日本一の規模)の道は、氷川神社参道で本殿まで約2km続く。
この参道は江戸時代初期に中山道経路であった。
JR大宮の先でもう一つの参道があり、そちらが本殿まで近いのでここは立ち寄らない。
          
大宮宿縄文遺跡が残されているほど歴史が古く、
また街道時代は分去れ
(分岐点)のある宿場で賑わい、5街道の中で唯一9軒もの脇本陣があった。
氷川神社を中心に宿場町、市場町、門前町として栄えた宿場。
氷川神社は、紀元前471年
(孝昭天皇3年)に創建され、日本武尊が東征の折祈願したという伝説がある。
1180年
(治承4)源頼朝が本殿を再建し、以降権力者による祈願、庇護、信仰が続く。
大宮の地名由来:氷川神社が聖武天皇時代
(奈良時代)に武蔵国一宮に定められ、
その門前町は「大いなる宮居」から、大宮という地名となったという。

   
その先の吉敷町信号交差点(写真左)辺りから、大宮宿に入る。
交差点を渡りすぐ右側の
タカラビル角郵便ポスト前の路地(写真中)を右折し、
右側に
塩地蔵尊(左)と子育て地蔵尊(右)が並んでいる
二人の娘と連れた浪人が病で倒れ、夢枕に現れた地蔵尊のお告げに従い父を救うため「塩断ち」をしたろころ
父の病が全快したという。そこでたくさんの塩をこの地蔵尊に奉納し幸せに暮らした。
ちなみに右の子育て地蔵尊には、「こちらは塩地蔵尊でありません 塩は奉納しないで下さい 吉敷町世話人」とある。

   
元の通りに戻り、その先約600mの信号交差点(写真中)を左手にJR大宮駅(写真左)を見ながら進む。
この辺りに本陣、脇本陣があったようで宿場の中心だったところ。
さらに164号線を進み左側JA共済埼玉ビル前に、JA共済40周年記念で製作した大きな
豊穣の鐘
音楽と共に四季を彩った人形が現れ収穫の喜びを、カリヨン演奏で表現する。
(08年の時は、丁度3時で正に音楽が鳴り響いていた)

 
JA共済ビルから約150m先の信号交差点を渡り左側に、
当時街道筋の目印としてよく知られた存在の土手町の
椎の木が2本(写真左)
この信号から右折するのが氷川神社裏参道への道でかつ古中山道。
寄り道をし、400mほど進み分岐を右に進み
氷川神社本殿

この日は猛暑で炎天下の強行の旅であったが、
夕方になるとにわかに空が暗くなり氷川神社を訪れた頃、突然の豪雨は日頃の信仰心のない証。
晴れ姿の旅支度、雨具の準備もなく慌ててホテルへ携帯電話。
近くのラブホテル群は一人宿泊のせいかあいにくの満員で、
全身雨に濡れて延々JR大宮駅まで1.5km戻りビジネスホテルに宿泊。
    
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