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この区間は、2006.7.4に歩いた。 この姫街道は、最初はi引佐峠のある区間、次は本坂峠のある区間、次は後半の豊川から終点まで、 そして最後にこの区間を歩いた。 この日は梅雨も晴れたばかりのいわゆる猛暑、ただ私にはそんなに苦にはならなかった。 スタート地点の見付宿、天竜川を横断したあとの旧東海道は、4年前の東海道歩きで歩いたところで、 まさかもう一度会えるとは思っていなかったので、やはり懐かしさが一杯であった。 この区間の最大の難問は、天竜川の横断であったが、さてどのような方法で渡ったのでしょうか。 |
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2006.8.4JR東海道線磐田駅に到着。 ここから見付宿側の姫街道始発点、見付西坂町の交差点に進む。 民芸店風駅舎を後にして、旧東海道の天平通り(58号線と44号線)を約2km北上する。 |
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1号線と交差する加茂川信号から約200mほどの西坂町の信号交差点で、 右からの旧東海道の見付宿場通りと合流する。 交差点からの宿場通り(写真左)は、そこは2002.3.31に訪れた懐かしい宿場の風景であった。 初めての街道歩きから4年後に、また同じ見付宿に立つとは感無量というところ。 宿場通りから交差点を見ると、正面の細い通り(写真右)が姫街道の始点となる。 ちなみに交差点を左折すると、今来た旧東海道の天平通りとなる。 |
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今日は暑くなるとの予感で、交差点を横断する。 グリーン色の理容店角に、「遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで」大道標(写真左)。 その右脇の舗装された姫街道を進み、加茂川にかかる河原橋を渡る。 |
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その先の秋葉山常夜燈(写真中)のところで道は2つに分れ、右の坂道を進む。 左の道の左側に、見附宿の南本陣・神谷家、北本陣・鈴木家の墓所がある西光寺は只今大修理中。 |
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道なりに進み、右側の木々の茂る一角は陸上競技場などのあるかぶと塚公園(写真左)で、 中ほどに公園入口(写真中)がある。 園内の「しじまの森」には、直径80m、高さ8mの円型古墳がある。 かぶと塚の名の由来:案内板には「古墳の形が兜を伏せた状態に似ている」ことからとあるが、 武田軍との戦いで「徳川方の本多平八郎忠勝がこの円墳の松の木に兜をかけた」ことからきている、 という説もある。 公園の終わりのところの丁字路で、左折する。 |
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すぐ国道1号線に出て、右折する。 磐田警察署前(写真左)を通り200mほど進み、 1号線と分れ一言歩道橋の上り口のところにある右の細い道に入る。 |
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一言集落ののどかな道(写真左)を進み、右側の畑の一角によく手入れされた秋葉山灯篭がある。 その先で道は2つに分れ、左の結構急な一言坂を下る。 |
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坂道の突当りの丁字路(写真左)を右折して、ゆるい左カーブの坂道を下る。 カーブの途中の琴平神社跡石段の脇に、一言坂戦跡説明板が立っている。 一言坂の戦い:1572年(元亀3)に甲斐国の武田信玄に攻め込まれた遠江国領主の徳川家康が、 袋井の戦いで破れ浜松城を目指して敗走したとき、この一言坂で追いつかれ再度合戦となった。 これを一言坂の戦いという。 このとき家康の家臣本多平八郎忠勝が、大槍を振り回して1人大奮戦し、枯草に火を放ちその煙の中、 見事徳川軍を退却させた、と伝えられている。 |
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道なりに坂道を下り、祝川の橋(写真左)を渡り交差点を右折して進み、2つに分れる道の左手を進む。 |
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信号のある5差路(写真左)で、対角線の用水路脇の交通標識の左側の細い道を進む。 |
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約100mほど進み最初の十字路(写真左)を左折し、全く人影のない一言集落を通り、丁字路を左折。 |
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すぐの丁字路(写真左)を右折し、こんもりとした木立に向かって進む。 木立の奧に、山門が旗本皆川歌之助の陣屋門を移築したと伝えられる智恩斎がある。 その山門の西側には、一生に一度だけ願いが叶えられるという一言観音が祀られている観音堂があり、 武田信玄に戦いに敗れた徳川家康が戦勝の一言を願ったという。 |
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木立を過ぎると丁字路(写真左)となる。 姫街道はこの丁字路を右斜めに、遠くに見える長い建屋の左方向に進むが現在は道は消滅している。 丁字路を右折し、すぐ先の丁字路を左折して進む。 |
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この辺りは周りが緑一色で、またそよ風が肌を吹き抜け、なんともいえない快い絶好の歩き道。 農道(写真左)を進み、彷僧川にかかる豊田4号橋を渡り弥藤太島地区へ入る。 現物の彷僧川は用水路のような小さな川であるが、周囲の景色がよいと何故か堂々とした風情を感じる。 |
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さらに進み(写真左)、建物の間を通り、突当りで大通りに出て右折し、豊田交番の前を進む。 |
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磐田バイパスガード下(写真左)をくぐり、その先左側のJA遠州中央敷地角の交差点を左折する。 |
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交差点を渡り、道路右角の新造形創造館左端の用水路に、工事用バリケード(写真左)が立ち、 そのところの用水路の手摺に、「池田近道(姫街道)」標識が立っている。 先に智恩斎を過ぎたところの丁字路で消滅した姫街道と、ここで合流する。 池田近道:天竜川を渡るルートは、 東海道は見付宿から南下して豊田町森下付近から池田の渡船場まで北上する遠回りな経路であったため、 見付宿からまっすぐ西へ出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線的に行けるこの姫街道が好まれた。 ただこの道は徒歩の人しか通ることが出来ない細い道で、馬や荷物は東海道を行くしかなかった。 用水路左脇の細い道を進み、突当りを左折して上新屋の集落の中を進む。 |
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道なりに真直ぐ進み、上新屋自治会倉庫(写真左)の右側を通り、秋葉神社御神燈の十字路を直進する。 |
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集落のはずれの丁字路の左側に「藤と香りの道」「上新屋ポケットパーク」案内碑のある小公園があり ブロック敷の上にカラフルな道路マップが画いてあるなど、とてもメルヘンチックに飾られている。 また碑には、第4場として熊野御前と平宗盛の逢瀬の場の物語が書かれている。 熊野御前は謡曲や平家物語に登場する親孝行で有名な美女で、行興寺(旧跡熊野寺)に墓がある。 藤と香りの道:豊田町の駅をスタートし、香りの博物館、熊野伝統芸能館、新造形創造館などの施設を巡り、 熊野御前ゆかりの行興寺と池田宿の街並みを回る9kmのコースである。 |
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農道(写真左)を直進し、公園から50mで交差点に出る。 姫街道は、この交差点から右斜め前方、白い建物の左側方向に進むが、道が消滅しているので、 そのまま直進し、寺谷用水路にかかる橋の手前で右折する。 |
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寺谷用水路沿い(写真左)に進み、最初の十字路で左折して橋を渡り、池田地内の道を進む。 この道で下校する小学生3人に出会い、久しぶりの人間との再会であった 。 |
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住宅街が始まるところの交差点付近(写真左)で、先ほどの交差点辺りで消滅した姫街道が合流する。 交差点を直進し、突当りの丁字路を右折し進む(写真右)。 |
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武田軍との戦いで敗走した家康を救って天竜川を無事渡らせた功で渡船権を与えられたという、 半場善右衛門の墓がある妙法寺の前を通る。 |
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道は十字路(写真右)となり、左折する。 左コーナーには祠の石仏が、街道を歩く旅人を見守っている。 |
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道の右側には、謡曲や平家物語に登場する熊野(ゆや)御前の墓のある行興寺(写真中)がある。 山門の前には、「天然記念物熊野の長藤」標柱。 この長藤は熊野御前が850年ほど前に植えたと言い伝えがあるもので、 国(1本)と県(5本)の天然記念物に指定されている。 門を入ると正面には、県指定天然記念物熊野の長藤5本(写真右)が木陰を作っている。 左手奧には、熊野御前と熊野の母の墓(写真左)が祀られている。 熊野御前:平安時代末期、池田庄の庄司の藤原重徳の美しい娘で、 遠江の守平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて都に上がる。 その後母が病気になるが郷里に帰ることを許してもらえず、宗盛が桜見物に清水寺へ熊野御前を連れて行った折 「いかにせむ都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」 (京都の春の桜も惜しいけれど、こうしている間に住み慣れた遠州の藤の花(と、母の命)も散ってしまいそう) の一首を宗盛に奉げた。 この歌に心うたれた宗盛から郷里に帰ることを許された熊野午前は、必死になって母の看病をしたが、 その甲斐もなく母は亡くなってしまう。 また宗盛も壇ノ浦の戦いで源氏に捕らえられ、近江で処刑される。 1人残された熊野御前は尼となるが、33才の若さで死んでしまう。 なお、「ゆや」という名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かった娘であったので、 熊野(ゆや)という名が付けられたと言われている。 |
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200mほど前方に天竜川堤防(写真中)が見え、 その手前の左側に天竜川の記録パネルが掲示されている歴史風景館。 ただ私には、隣接して建てられている屋根付休憩所と飲料水の自動販売機の方がありがたかった。 道の反対側に1797年(寛政9)建立で、正面に「常燈明」と刻まれた玉石積台座常夜燈。 |
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突当りの白いガードレールの道(写真中)を上り、丁字路の左手は天竜川堤防上の343号線道路。 道路の右側は河川敷で、遠く下流に国道1号線の新天竜川橋が見える。 ここには江戸時代よりはるかに古い927年(延長5)年ころから渡船場があり、池田渡船場と呼ばれ、 対岸にも対となる渡船場があり、西渡船場と呼ばれていた。 丁字路の右角に、「池田の橋跡」碑がある。 池田の橋:明治16年に幅2.7m(9尺)、長さ765m(425間)の有料橋が架けられ、 昭和8年の現在の天竜川鉄橋が完成するまで利用されていた。 |
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池田渡船場は、川の水量により3ヶ所で利用され、水量が増すと上で、一般には下が利用されていた。 上の渡船場は、池田の橋跡碑辺りで 中の渡船場は、それより約200m下流の堤防下の天白神社境内にある「池田渡船場」碑(写真左)の辺り、 下の渡船場はさらに約200m下流の堤防の法面にある「天竜川渡船場跡」碑の辺り、であった。 |
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天竜川西側の姫街道の消滅 | ||||||||||||
池田道の姫街道は西渡船場から北西へ進み、 市野宿手前の下石田で本坂通姫街道と合流する経路を辿るが、 現在はその池田道が殆ど消滅している。 ここでは、池田渡船場から下流へ500mほど南下して天竜川を渡り、中野町の旧東海道を経て、 安間の安間起点の本坂通姫街道を通り、下石田合流点へ行く経路を辿る。 |
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現在は渡船はないので、橋を渡ることになる。 橋は、新天竜川橋と並んで下流側に天竜川橋があり、新天竜川橋は工事中で歩行できず。 天竜川橋は幅員一杯に車が、それも大型トラックがビュンビュン飛び交う恐怖の橋です。 確かによく見ると橋の構造物と車の間に車すれすれの狭いスペースが出来ているので、 ここを人間が歩いて通れ、ということなんでしょうが、歩道を歩いていてもひき殺される昨今、 運転手など信用をできるわけがありません。 4年前の東海道歩きの時はタクシーを呼んで渡ったのですが、 恐怖におののきながら今回は如何すべきかと、長らく躊躇。 そのとき堤防側道路で、信号切り替え待ちをしている車の列に着目。 汗まみれの汚い服装でどう見てもみすぼらしい浮浪者風の、 サングラスをかけた人相の悪い男を乗せてくれるわけがないが、 どうせ断られるならと、先頭の男の車は遠慮して2台目の妙齢な美人女性1人のきれいな車を選んだ。 お互い(?)ウキウキし話題もはずみ、快適に天竜川を渡ることができました。 後日よく美人女性が身の危険を省みもせず乗せてくれたものと思ったが、断る方がもっと危険と感じたのかも。 どうぞ男性の皆さん、恐怖で慄く女性のためにこんなヒッチハイクの真似をしないでください。 ただ美人女性のヒッチハイクは、逆にそのまま男に誘拐されると思うと、女性も真似をしないで頂きいたい。 |
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橋を渡ると磐田市と別れ浜松市となる。 すぐ左折して、堤防上の344号線道路を前方木立を目指して進む。 この時大規模な道路工事中でかつ猛スピードの車が激しく行き交う、ここも命がけの歩きであった。 木立前の道路脇に、「玉座迹の碑」「明治大帝御聖跡の石標」「船橋之記の碑」が連続して立っている。 明治元年の天皇行幸の際、急遽村の浅野茂平が担当して78艘の舟を並べて船橋を架けたところ。 続いて「船橋跡」(右)と「天竜川木橋跡」(左)標柱が立っている。 浅野茂平はその後明治7年に本格的な船橋を完成させた。 その功績を讃えた碑(天竜川橋紀功碑)が中野町に建立されている。、 明治9年に船橋から木橋に架けかえられた。 |
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木立の外れで、右にUターンする下り坂(写真左、中)を進み、木立の中の六社神社前(写真中)へ出る。 神社前には旧東海道道標が立っている。 1276年(建治2)尾張国中野郷より勧請し私の安全を祈願した六所神社の正門前丁字路で左折し、 真夏の昼下がり、中野町集落の中を旧東海道(県道314号線)を西へ進む。 この通りは、4年前東海道を歩いたとき通った道であるが、当時と全く変わっていないように思えた。 |
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すぐ右側に、明治7年に船橋を完成させた浅野茂平の功績を讃える天竜川橋紀功碑(写真左)がある。 さらに7,8分先の右側駐車場のところに、「かやんば高札場跡」標柱があり、かやんばは萱場。 道の反対側は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させた薬師堂が現存するという松林寺。 |
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さらに150mほど先右側に、粋なツートンモノカラー塀の金原明善の生家(写真左)がある。 金原明善:天竜川のたび重なる氾濫で犠牲者が出るのを見て、 反対する時の明治政府を説得し私財をなげうって20数年の歳月をかけ、明治33年に天竜川堤防工事を完成させた人。 街道を歩いていると、よく全財産を投げ打って治水事業などを完成させたという話を聞くし、 また江戸の町では金持ちは貧しい人や公共のためにお金を使ったというように、 「金持ち」であることが尊敬されていたという。 格差というのは今も昔もあるはずで、 今の金持ちは単に「私利私欲」の塊りが多いことに問題があるのではないだろうか。 家族を日本に住まわせておきながら、節税のため本人だけが海外に居住するなどは姑息な手段で、 金持ち人格を疑われる。 道の反対側に金原明善記念館があり、治水関連道具や明善ゆかりの品々が展示だれていて、入場無料。 建物の手前角に、「中ノ町村 和田村 村境」標識があり、当時の名残であろうが、中ノ町の村とは? |
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金原明善生家から約200m進み、黄色道路標識の丁字路(写真左、右)のところが、 本坂通姫街道安間起点となるところ。 またこの周辺にあった江戸より64里目の東海道安間一里塚は、姫街道の一里塚の起点となっている。 この丁字路で右折し、すぐ先の安新町信号交差点(写真右)を横断して北へ進む。 |
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この辺りからしばらく車が激しく行き交い、恐い姫街道となる。 安新歩道橋で1号線を横断し、高速のガード下(写真左)を潜り安新町の通りを進む。 右角の了願公園は、代々名主を努めた安間家の跡ではないかと思う。 ここから約400m先で、柏木橋信号交差点手前で65号線と斜めに合流(写真右)する。 姫街道は、65号線を対角線上に横断して314号線の道を進むことになるが、 65号線は非常に交通量が多い上に、柏木交差点(写真右)が変則多差路のため危険が一杯。 |
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ここでは合流点で左折する信号で横断し、右折して65号線の歩道を進み 安間川にかかる柏木橋(写真中)を渡り、サークルKコンビの左側を左折し314号線(写真左)を北西へ進む。 注:各種地図を見てもはっきりしないのでが、この川は安間川といわず、松小滝川というのかも知れない。 |
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史蹟らしいものが殆ど残っていない、下石田町の314号線(写真右)を淡々と進む。 下石田中信号交差点先の左側角に、「五里廿六町」と刻まれた半僧坊道標(写真左)が立っている。 半僧坊大権現:浜松市引佐町奥山にある方広寺に祀られている半僧坊大権現のことで、半僧半俗の姿をしている。 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師が1350年(天平5)中国から帰国の途中海難にあったところを助け また無文元選禅師が1371年(建徳2)に方広寺を開山したときは弟子になり修業して仕え、 無文元選禅師が亡き後は方広寺の鎮守として祀られている、と伝えられている。 方広寺から勧請した半僧坊の御堂のある寺は、建長寺(鎌倉)、金閣寺(京都)平林寺(埼玉県)など全国各地にある。 その先の左側の広場に、年代の新しい大正時代の常夜燈と奧にあるのは長泉庵。 |
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さらに数分進み、下石田北信号交差点(写真左)で右からの261号線と合流し、交差点を直進する。 道は261号線となり、この先200mほどの交差点で右から合流する道が、 天竜川西岸から消滅している池田近道の姫街道である。 その先左側に「ぎょうざ処 國龍」幟(写真中)が立っているところが、下石田町と市野町の境界。 ここは餃子専門店で、とても素敵な美人ウエイトレスがいるところ。但し結婚済みなので念のため。 さらに約200mのところで、安間川にかかる新大橋(写真右)を渡り市野宿へ進む。 大橋とあるが小さな橋で、誇大名称のよう。 |
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市野宿:1764年(明和元)、市野宿をバイパスする東海道浜松宿から気賀宿への街道が 幕府道中奉行管轄となったため、市野宿は大きな浜松宿におされて衰退し、宿場機能を失ったという。 現在は当時の宿の面影は殆ど残っていない。斉藤本陣があった。 |
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橋を渡り道は3つに分れ(写真左)、真ん中の道を進み 突当を道なりに左に曲がると、この通りが市野宿の宿場通り(写真中)となる。 宿場通りを100mほど進んだ右角に、姫街道道標(写真右)が立ち、 何も案内標識がないが、その後のトラックのある敷地が斉藤本陣跡と思う。 |
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その先の左側の「料理旅館」建物(写真左)は、古式然として当時の旅籠のよう。 西日を正面に受けて261号線を進み、45号線との市野町信号交差点(写真中)を直進し、 296号線と合流する突当りの丁字路を左折する。 この丁字路は、車が猛スピードで間断なく行き交い、かつ信号が複雑で命がけの道路横断をしなければならない。 |
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左折した正面で建物を挟んで261号線は2つに分れ(写真左)、261号線と分れ右の細い道を進む。 突当りで再び261号線と合流し、左折し、 境内に鞘堂の納められた常夜燈、経塚碑、五輪塔などがある熊野神社前を右側に見て、西へ進む。 |
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261号線を約1km進み、小池町の浜松技能開発専門校前で道は2つに分れ(写真左)、 右手の261号線を進み、長福寺の前を通り突当りで道なりに左折する。 左折する手前の左側に、江戸から65里で姫街道最初の一里塚跡碑がある。 |
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小池町信号交差点(写真左)を直進し、そこから約200m進んだ信号交差点で道は分れる。 旧姫街道は261号線と分れ左の道を進むが、途中で道が消滅しているのでこのまま261号線を進む。 |
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ちなみに姫街道の左の道(写真左)を進み、 50mほどのところに大養禅院(写真中)のところで旧道は消滅する。 大養禅院の一角に籠燈がある。 |
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信号に戻り、261号線(写真左)の激しい交通渋滞の中を進み、 狢川にかかる大橋を渡ると右側に遠鉄自動車学校がある。 |
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その先に遠州鉄道の踏切があり、先ほど大養禅院で消滅した姫街道はこの辺りで合流する。 西陽も落ちて今日の旅はここまでとし、踏切を左折して無人遠鉄自動車学校前駅から浜松へ出て、 新幹線で横浜へ。 |
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