歩く 姫街道
 気 賀 宿
(静岡県浜松市細江町気賀)  
iー愛ロマンチカ
この区間は、2006.4.30に歩いた。
実は姫街道は順不同で歩き、この区間を最初に歩いた。、
当日は梅雨の合間で、午前中は快晴の素晴らしい歩き日和であった。
また街道のいたるところに姫街道道標、「姫街道」看板があり、
街道筋のひとたちがこの姫街道を大切にしているかが、伝わってくるのであった。

  

  
2006.4.30 AM10:50遠州鉄道自動車学校前駅に到着。
この駅は、前宿の市野宿を歩いてきたときの最終地点。
    
ホーム北側にある踏切辺りが、旧姫街道が再度合流する地点で、
左折して踏切を横断し、有玉南町の
261号線(写真左)を西へ向かう。
すぐ右側の小さな広場に、
船の形をした木製槽が野ざらしで展示されいる。
案内板よると、これは酒ふねといい熟成した”もろみ”を酒袋に入れてこの槽の底に並べて積み、
下の垂れ口から新酒を絞り出す昔の酒造装置とのこと。
現在は、酒ふねに代わりコンピューター制御で連続しぼり機が使われているという。
その先には誰にでもわかる大きな
姫街道道標、間違いなくここは姫街道。
   
さらに進み、馬込大橋北信号(写真左)の5差路ケイティケイ浜松の緑色屋根建物の左側の道に入る。
車の殆ど通らない
のどかな道
旅人にとってはこういう道が最高なんです。
しばらく行き、左側に
馬乗り場跡姫街道道標が並んで立っている。(写真は合成
さて馬乗り場とは?どういう史蹟なのだろか?説明なしとは、ちょっと不親切では?

  
5差路から約350mところに馬入川にかかる5枚橋(写真中)がある。
旧姫街道はその直前の左手前から分れる
舗装無しの道(写真中)であるが、
現在はその先に橋がないため、現5枚橋を渡ることになる。
道の分岐点の右側の野仏像の後ろに、「四里十九町」と刻まれた
半僧坊道標がひっそりと立っている。
旧橋は、現在の五枚橋から左手下流約50mのところにかかっていた。
なお「5枚橋」の名の由来は、昔の橋が5枚の板で出来ていとことから名づけられている。

   
5枚橋を渡り有玉西町へ進み、五枚橋信号交差点(写真左)で左折し上島7丁目に入る。
50mほど進んだ
小島鉄工所角(写真左中)で先ほど消滅していた旧五枚橋からの旧姫街道と合流し、
右折して進み
突当り(写真右中)を左折する。
道なりに進み
、突当りで261号線道路で遮断される。
   
階段を登り(写真左)、信号無し道路を横断して、再度有玉西町のゆるい坂道を登る。
   
坂道を登りきった丁字路の左手にラブホテルがあり、寄り道をする。
そのホテルゲートの左側の塀に隠れるように寄り添って、小さな
旧俊光将軍社が祀られている。
坂上田村麻呂伝説のある由緒ある古社が、こんな日陰の身でよいのであろうか。
それともホテル建設の犠牲にならず生きながらえたことを喜ぶべきなのか、悩む。
もとの道に戻り進み、民家の前の
旧姫街道標柱
   
さらに進み右側の窓のない小さな祠の前を過ぎ、交差点を直進し野原の道を進む。
   
突当りの261号線との丁字路(写真左)手前の右側に、
1832年
(天保3)建立の「右きが かなさし 左庄内道」と刻まれた姫街道最古の道標が立っている。
脇に標柱がなければ、単なる大きな石ころとしか思えないもの。
261号線丁字路に出て正面の「姫街道」
交通標識を確認し、右折してゆるい坂道を上る。
   
261号線を約1.2km進み、257号線との一里塚橋信号交差点(写真中)を直進する。
すぐ左側に日本橋から66里
(約264km)の、追分一里塚跡碑がある。
さらに葵東二丁目の通りを800mほど進み、もう1つの257号線との
元追分交差点(写真右)となる。
この交差点で左からくる道(257号線)が浜松宿からの姫街道で、ここで合流して気賀宿へ進む。
  
交差点を直進し左側歩道に、「遠州姫街道行灯松並木
松並木はここから延々と数キロm続くことになるが、
全て道路の左側だけで、多分右は道路の拡幅で消滅したのであろう。
葵西一丁目の通りを400mほど進み、陸橋の下は偶然にも車が1台も走っていない
東名高速道路
橋を渡ると、
姫街道松並木標柱松並木
ただこの街道の松並木は決して密ではなく、疎にして続いて行く。

   
葵西二丁目を進み、右側に何故かクジラ広告塔
さらに進み、葵西四丁目信号の
交通標識は、261号線は細江、三ヶ日方面へ行く表示。
   
葵西五丁目に進み、65号線との葵町信号交差点(写真中)を横断して右側コーナーに、
明治10年、木賀林が村の生活困窮者を救うために創設した
三方原教貧院跡碑があり、
木賀林が没後横田保が引継ぎ、明治頃35年まで続けられた私設福祉施設。
道の反対の権七バス停脇に、
権七店碑
今通ってきた三方原追分からこの地にあった権七店まではうっそうとした松並木が続く寂しいところで、
約100年以上続いた権七店は近隣の寄り合い所となり、馬方の休憩所となったという。
なお権七は、「ごんひち」と呼ぶ。

    
権七信号のある吉野東町通りを進み、左側は一面畑で風力発電鉄柱が林立。
右側には巨大な
姫街道看板
   
ふと気がつくと、並木の松には1本1本「松くい虫食予防工事 施工済」表示。
松並木を維持することも大変なことなのだと、初めて分りました。
大山町に進み、右側の一里山バス停のところに日本橋から67里
(268km)東大山一里塚(北塚)
道の反対側に、派手な幟の
馬頭観世音菩薩祠があり、その後の木立の所が南塚跡のようである。
    
細江町に入りやがて下り坂となり、一里塚から約2kmの和地大谷川にかかる大谷橋(写真左)を渡る。
昔は川幅6間
(10.8m)で、川の中の石の上を飛んで渡ったという。
橋からはゆるい登り坂となり、道なりに細江町大谷の
261号線を進む。
浜松市細江町は、旧細江町が2005年(平成17)に合併で浜松市に編入された町で、
その範囲は広くこれから進む引佐峠頂上まで続く。

   
305号線との交差点を直進し、突当りのゆるい右カーブの左側にある内山木工所看板のところで、
261号線と分れ左手の
ガードレールで遮断された細い道を進む。
入口の左側垣根のところに
姫街道道標があり、道に迷わないようになっている。
    
約300m進み、最初の信号交差点(写真中)を直進し、
横断した左角に1711年
(正徳2)に、ここにあった刑場の霊をなぐさめるため建立された六地蔵がある。
その脇に、「
左浜松宿、右気賀宿道標があるが、さて浜松からの姫街道を意識しての道標とは?
のどかな道の左手は一面みかん畑、右手は緑鮮やかな
茶畑
   
交差点から約700mのところで道は2つに分れ、右手の道を進む。
分岐角に、1811年
(文化8)建立の老ヶ谷秋葉山常夜燈があり目印となる。
   
千日堂
舗装したばかりのを200mほど進み、左側の老ヶ谷第二集出荷場の脇の広場に、
1671年
(寛文11)老ヶ谷原山新開発の褒章として、観音像を祀って建てられた千日堂がある。
千日堂の名の由来は、宝永年間(1704〜1710)に千日講本尊として阿弥陀如来を祀り、
千日念仏を行ったことからきているという。
右手はこれまた一面茶畑で、光を浴びた黄緑色が満ち溢れ目の保養。
   
さらに300m進み、長坂改築記念碑(写真右)のところで道は2つに分れる
左手のタンクが見える道を進み、
すぐの左側民家の敷地に、江戸から68里の
老ヶ谷一里塚跡碑(写真左)がある。
  
その先の姫の絵のタンクのある中央配水地境界柵の、右側の細い道(写真左)を進む。
この辺りから下り坂で、長坂という。
如何にも旧道らしい道を進むとすぐ右側に、
服部小平太最後の地碑が建っている。
うーん、この碑の形どこかで見たことがあるような気がします、そう思いませんか?
小平太の墓はこの下数十mのところにあり、
またここから200m北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺跡がある。
服部子平太(中保次):1560年(永禄3)桶狭間の戦いで、織田信長の家臣とそて今川義元を討った1人で、
その後信長死後、徳川家康からこの地を授かった。
もともと今川領だったこの地方で、小平太は恨みを買いある日この場所で何者かに討たれてしまった。
さらに坂道を下り、長坂改築記念碑で分かれた
舗装された道に出る。
  
舗装道路を横断し車止の間を通り、さらに坂道を下り舗装された道に出て、左折する。
とても
のどかな道を進み、左側に前述の服部小平太を祀った宗安寺跡説明板が立っている。
明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現在は
石段、庭の一部と一部石仏が残っているだけ。
それにしてもお上のお達しというだけで、昨日まで信じてやまなかった仏教を平気で破壊してしまうとは、
今にでも引き継がれている日本人としての卑屈さと残忍性のような気がしてならない。

   
道なりに進み突当り(写真左)こんもりとした森の手前の丁字路で、斜め右の白い建物の左横の細い道を進む。
こんもりとした森は刑部城跡で、阿王山紫城ともよばれる。
戦国時代の1586年(永禄11)この地の今川方の内山党が、この城にたてこもり徳川家康軍と戦い敗れたところ。

細い道
(写真右)を進み、左手奧に刑部城跡に建てたれた金山神社鳥居を見て進む。
  
その先で刑部川にかかる(写真左)を渡り、左折して川沿いに進み、丁字路でまた左折して次の橋を渡る。
   
渡る(写真中)とすぐ左側に、「金襴の池案内板が立っている。
金襴の池:徳川軍に敗れた刑部城の城主の美しい姫が、敵の手にかかってはずかしめを受けることを恐れ、
この地にあった金襴の池に身を沈め蛇に姿を変えて住んでいる、と言う伝説がある。ただその池はもう全くない。
さらに進み、信号のある
丁字路で右折する。
  
200mほど進み、都田川にかかる昭和51年に完成した落合橋を渡る。
橋からみる
都田川は、今どき珍しい水量豊富な川。
当時は気賀関所の要害としての役割があったため、橋はなく橋の左手の渡船場から船で渡っていた。
橋を渡り細江町気賀に入り、
道は2つに分れ左手の道にを進む。
   
この時間人も車もいない(写真右)を進み、左側の小さな川のところにここにも「落合橋標柱(写真左)
こちらの方が古くて貫禄があり本家のように思えてくるが、何故同じ名があるのであろうか?
その先で
天竜浜名湖鉄道ガード(写真左)をくぐり、進む。
     
気賀宿
気賀は1587年
(天正15)本多作左衛門(徳川清康、広忠、家康に出仕)によって宿場と定められた。
気賀関所を東の入口として西へ5町53間(641m)の宿通りで、本陣と問屋場が各1軒、旅籠が8軒あった。
関所東側から宿の南側に沿って要害堀が設け られていた。
気賀関所
1601年(慶長6)に設置され近藤家が代々管理し「入り鉄砲に出女」を取締り、明治2年まで続いた。
敷地は1,805u(547坪)、東側に冠木門、ここを入った北側に旅人を調べる本番所、
南側に牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見番所があり、
西側は町木戸門で気賀宿と接していた。
   
362号線と合流する交差点(写真中)で、左側コーナーに「姫様道中」絵看板のある小さな憩いの広場
左折する通りは、要害堀があったというが現在は全くその様子が伺えない。
姫街道は交差点を直進し、右側のコーナーの駐車スペースに「
史蹟気賀関所跡」碑。
ここには関所跡らしきものはない、

   
と思ったら、そこから数軒先に「気賀関所跡」案内板が、目立ちにくくかかっている。
に従い狭い路地へ進み、突当りの右側の建物が関所の本番所建物跡(写真右)とのこと。
案内板の説明ではよく理解できないが、要するに当時の建物の一部が残っているということであろう。

   
先に進み、寄り道して右側の気賀小学校に通じるゆるい坂道(写真左)を登り、
校庭の片隅の椎の木のところに「
気賀近藤陣屋遺木江戸椎案内板が立っている。
案内板によると、気賀小学校のあるこの辺りは陣中と言って、
江戸時代気賀領主の旗本近藤家陣屋があったところ。
この椎の木は当時の面影を残すもので、
実がとても大きく毎年幕府に献上したところから「江戸椎」と呼ばれるようになったという。

   
関所を過ぎると宿場通り(写真左)となり
右側に気賀宿のほぼ中心にあり姫街道の守り神として信仰を集めた細江神社
   
さらに進みゆるい上り坂の右側のNTT跡のところに気賀宿中村本陣跡案内板(写真左)、
ちょっと先に
中村本陣之址碑(写真中)が立っている。
案内板によると、宇布見村(現雄踏町)の中村家は徳川家康の三男秀康の生まれた家で、
中村家次男与太夫は本多作左衛門の世話で気賀宿の代官となり、後に本陣中村家となった。
本陣の中村家は代々与太夫を名乗った、という。
(案内板で本田作左衛門とあるのは、本多作左衛門が正しい)
その先の右に、本陣中村家の菩提寺として栄えた
正明寺
     
この辺りから南へ約300mの細江図書館脇に、
平成元年に冠木門、本番所、向番所、遠見番所などを場所を変えて再建した
気賀関所(2003.3.21撮影がある。
                          入所料   大人 200円 小人 100円 
                     開所時間  午前9時から午後4時30分まで
                     休所日   毎週月曜日
    
平坦な362号線を進み、左側にきれいに整備された姫街道本陣前公園(写真左)
その先の左側の空地に、1857年
(安政4)地元の若者が40両で建立した秋葉山常夜燈
常夜燈の
奧の石垣は、気賀宿西入口に設置された枡形石垣で。
この上に土を盛り矢来を組み、門をもうけて外敵侵入の防御としていた。
道の反対側の呉石バス停脇の細い道は、
犬くぐりの道(写真右)と呼ばれていた関所の裏道である。
石垣が宿場の入口であるから、この犬くぐりの道も入口近くにあったということだろう。
犬くぐり:気賀関所は地元の人も通行手形が必要で不便であったので、
領主近藤用随が犬くぐりと呼ばれる関所の抜け道を作った。
道の途中にワラむしろ一枚を垂らした門をつくり、
そのむしろの下を四つんばいで通るのは人間でなく犬だという解釈で、
人の通行を認めるという、粋なはからいをした。
この辺りまでが、宿場であった。
   
さらにその先の左側に、石積の上の獄門畷碑(写真左)がある。
桶狭間の戦い後、1569年(永禄12)堀川城に立てこもった今川勢の男女2千人は、
徳川家康軍に攻められ落城し、男女ともなで切りにされてしまった。
捕らえられた約700人も、この付近で首を討たれ、
この小川に沿った土手に晒らしたので「獄門なわて」といわれるようになった。
こういう話を聞くと家康という人間の残忍さがよくわかり、
またそうでなかったらとても江戸300年の基礎を作れなかったのかも知れない。
なお堀川城は、この辺りから約1km南にあった。
少し進み、362号線と分れ右手の道を進む。
右側に堀川城将竹田十郎が出生地足利から懇請して創建した全得寺への
参道
   
続いて右側に諏訪神社の鳥居、
ひっそりとした道はやがて
下り坂となり、道なりにこの時間帯西日を受けながら進む。
   
呉石川の手前の右側に、造成中のような呉石田園公園看板があり、
その一角に「
呉石学校の跡人物坐像
この坐像の案内はないが、学校と言えば今でも二ノ宮尊徳と決まっているのかも知れない。
小さな呉石川の橋を渡り、直進しアマノの前の敷地の外れで
道は2つに分れる
右手の直線通りを進む。
   
やがて道はゆるい上り坂となり、丁字路角に道祖神がひっそりと祀られている前を通り、進む。
左側の雍壁上に宗良親王の妃の駿河姫を祀った
二ノ宮神社案内板がある辺りから、
下り坂となる。

  
下りきったところの小森川の小さな橋を渡り、左手の道(写真左)を進む。
150mほど進み、突当りの
丁字路を右折しすぐその先で左側の細い上り坂を進む。
上り口には「姫街道」道標、それに雍壁にペンキで大きく姫街道の文字があるが、死角で見逃しやすい。

   
ここから山道然のようになり、砂利道(写真左)を道なりに上る。
右側の林の入口の小さな広場に、堀川城戦死者之墓とともに
山村修理の墓(写真中)がある。
山村修理は、堀川城が徳川家康軍により落城したときの城将で、
この場所で燃え落ちる城を見ながら切腹したという。

かってここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていた。
入口には、管理人山村孫作
(子孫の方?)さんが、次のお願い看板を立てています。(要約)
「ここには巨大松があったが心なしの人のため枯れ果ててしまった。
ついてはこの森の幹や枝を切る悪質な行為は、絶対にしないで欲しい」

余談であるが、ここ細江町(気賀、中川)は今川の支配地域で徳川家康遠州攻略で激戦があったところ。
その戦いの中心が堀川城で、今まで歩いてきたあちこちにそれに関する史蹟があり、
また細江町教育委員会作成の案内板が掲示されている。
ただ残念なことの記載されている内容に整合性がとれていないところがあり、戸惑う。
史実がどうであろうと、せめて公の案内板は内容統一をしてもらえたらありがたいと思う。
さらに上り坂(写真右)を登る。
   
右側に江戸から69番目で姫街道2番目の山田一里塚跡碑がある。
この辺りから坂道となり下り、途中の
分かれ道(写真中)は直進し、舗装道路と合流する。
  
舗装道路(写真左)を進み、すぐ先の丁字路の角に新しい花が供えられた道祖神が祀られている。
地元の人の篤い信仰心がうかがえる。
姫街道は直進し、ゆるい
坂道(写真左)を上る。
   
坂の頂上辺りでは、左手は浜名湖で一杯。
この辺りは小引佐
(こいなさ)と呼ばれ、
姫街道の中でも引佐細江
(浜名湖の入り江)の景勝地として知られれているという。
もし青空であったら、どんなに素晴らしい景色であろうかと、残念。
甲州街道の諏訪湖の絶景も、そういえばひどい曇天で悔しがったことを思い出してしまった。

   
すぐ先で、左側に分れる道(写真左)を下る。
その分岐するところにある
姫街道道標を右に見ながら過ぎ、
その先右側に江戸時代のこの付近で処刑された「キヨゾウ」という人の霊を弔ったという
お地蔵様がある。
   
坂道はいゆる石畳(写真左)で、一般的には石畳は見た目にはよいが歩く人にはとも歩きにくい道である。
特にこの石畳は、最近整備したようで歩きにくい石敷であった。
淡々と下り、
一見丁字路のようなところを左折してさらに下り、舗装道と合流し直進し岩根の集落に入る。
この合流点を左折して進むと、200mほどのところに天竜浜名湖鉄道西気賀駅がある。

   
人影のない道右側に、安置されている薬師如来像台座に天保6年(1835)と刻まれている薬師堂がある。
もともとは辻堂で、引佐峠越えの旅人の休息所にもなっていたという。
その西側に、1805年
(文化2)建立の秋葉山常夜灯が立っている。
   
正面を見ると、道は橋の先で突当り、姫街道は左折して引佐峠へ進む。
ところで、ここもまだ浜松市細江町で、細江町はとても広い。

    
時は、16:49.
今日は道中道に迷い1時間以上のロスタイムがあり、予定通りの行程ではなかったが、
ここで旅は終わりにし、西気賀駅から宿泊先の三ヶ日温泉へ行くことにした。
明日は天気になーれ!
前の宿へ 次の宿へ
旅と旅行と