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この区間は、2006.5.1に歩いた。 この区間には、旅人泣かせの難所本坂峠、それに引佐峠があり、まさにここが姫街道のハイライトといえるところ。 昔お姫さまたちの苦労をもしかしたら分かちあえる体験をできるかも知れないと、密かに心して歩いてみた。 天気もよく、気分よく峠道を歩いていたのであったが、突然ヘビに遭遇してしまった悲しい出来事もあったのでした 「難しい地名の読み方」 引佐:いなさ 嵩山:すせ |
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2006.5.1 天竜浜名湖鉄道奧浜名湖駅から、8:41西気賀駅に到着。 |
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8:48岩根川にかかる橋(写真右)を渡り左折し、民家の軒先の坂道を上る。 |
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今日はとてもよい天気で、緑すっきり。 農道のような道を進み、突当りの丁字路(写真左)を姫街道道標に従い右折し、舗装道路を進む。 100mほど行き、左側の石畳の道(写真右)を上る。 |
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上り口には姫街道道標(写真左)があり、石畳の道を上り、薄暗い林の中を通る。 |
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屋根のある休息所の手前に、この上に座るとよいことがおこると言われる八畳ほどの姫岩(写真中)がある。 案内板によると、この辺は眼下に浜名湖が展望できる街道一眺めのよい所で、姫君も駕籠を降りて歩いたという。 その先の突当りで丁字路(写真左)になり、左折して進む。 |
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道なりに上り、ところどころで道は2つに分れるが、常に右手の道を進み、また道標もある。 見るからにあやしい森の中(写真右)に入り、進む 。 |
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時折左手に開かれた景色(写真左)が現われ、高いところを上っていることを実感する。 分かれ道で右手を上り、暗い石畳の道を進む。 |
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この辺りの石畳(写真左)の石は、これまでと違い古そうであるからもしかしたら当時のものかも知れない。 石畳の道を7,8分進み、突然石畳階段が現われビックリする。 長い階段を上り、舗装道路(写真右)を横断し、道標に従い森の中の道へ進む。 |
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数分上り、立派な引佐峠標柱(写真中)が目の前に現われ、麓を出発して約30分後の9:18頂上に到着! 標高200mの狭い頂上には、 奧浜名自然道道標、引佐峠案内板、姫街道案内板などが林立している。 この頂上辺りは旧細見町と旧三ヶ日町の境界で、 また頂上は奧浜名湖自然道佐久米コースと姫街道との交差点でもある。 |
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頂上から下る石畳の道(写真左)は、急でまた足場が悪く、 数分進み一層急で狭い坂(写真右)となるところの左側に、「象鳴き坂」案内板。 象鳴き坂:1729年(享保14)広南国(現ベトナム)より献上された象が、 京から江戸へ行く途中このあまりにも急坂に悲鳴をあげたという。 写真ではうまく表現できないが、極く短い区間であるがとても急で確かに象と言えども辛かったと思う。 |
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周りの景色は次々と変わり、雑木林の左側の雑草の生えた石ころの集合体は石投げ岩(写真中)といい、 昔旅人が引佐峠を登り下りするとき、この岩に石を投げて旅の無事を占い祈ったという。 今見る岩は、石ころと雑草でどうしても貧相に見えてしまうが、失礼な言い方かも知れない。 |
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左手には木々の間から視界が開け、遠くの山々(写真左)が見える。 山道を下り切り、平坦の道を進み、右手のコンクリート雍壁(写真右)の中ごろの左側に、 安間から6里目、江戸日本橋から70里目の一里塚跡碑があるが、ゴミ捨て場にも利用されているよう。 ちょうどここで「おはようございます」などと言って、三々五々歩き、 走り行く先生に引率された小学生の数十人の集団とすれ違った。 引佐峠を登るのかと思ったら、なんと今朝気賀から峠を登ってきて、戻るところだという。 この時間9:43、元気な子供たち。日本の将来はまだまだ大丈夫のような気がした。 地方を歩いていると、下校中の小学生に道ですれ違うと、必ずと大きな声で「こんにちは」と挨拶をしてくれる。 いつも、とても爽やかな感動! 「犯罪に巻き込まれないために他人に絶対声をかけてはいけない」ということになる思うと、 悲しい気持ちになってしまう。 このときふと気がついたのは、今朝歩きは始めてから出合った人間はこの小学生達が最初ということであった。 地方を旅して人間に出会うなどということは、何故かこの日本ではとても珍しいことなのです。 |
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道(写真左)なりに進み、のどかで蛇や蛙も出そうもないこの道は、私にとって心がやすらぐ幸せな道です。 2つに分れる道で、左手を進み、珍しく道端に花が咲いていたりする道、 その先で下り坂となり突当り(写真右)で左折し、道なり右にカーブしながら進む。 |
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道を下り、丁字路(写真右)に出る。 その手前左側の黒坂の森といわれるところに、「六部様」案内板があり矢印に従い林の中を登るとすぐ、 石で出来た祠(写真左)があり、1767年(明和4)行き倒れになった六部の円心を祀ったところとのこと。 六部:「六十六部」の略で、全国66ヵ国を厨子を背負って読経して巡礼し、1国1ヵ所の社寺に法華経を納める行者 なお円心の厨子と仏像は大谷の高栖寺に納められている。 昔の旅は出発のときから死を覚悟し、行き倒れになったらそのまま放置されることが常だったという。 多分修行僧といえでも、その類ではなかったかと思う。 円心のように手厚く葬ってもらえるのは稀であったはずで、土地の人の心のやさしさが伝わってくる。 姫街道は、丁字路を直進する。 |
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道は突当りで丁字路(写真右中)となり、 姫街道道標に従い左折し、自動車道を西南へ進み都築大谷川にかかる大谷橋(写真右中)を渡る。 |
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道(写真右中)には車も人影もなく、右側の盛土の上に何やら白い案内板(写真右)。 文字が風化している上に頭上はるかにあるため、やっと「安形伊賀屋敷跡」とよめるだけ。 安形伊賀守正道:戦国時代の佐久城主浜名氏の重臣。 その先で道は2つに分れ(写真左)、姫街道道標に従い右手を進む。 |
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この道にも車も人影もなく、少し歩いて丁字路(写真左)を真直ぐ進み、 右側に1847年(弘化4)に描かれた96枚天井絵がある慈眼寺があり、 境内には今でも町内の人が毎夕燈明をあげている1805年(文化2)建立の秋葉灯籠がある。 |
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のどかな一本道(写真左)を200mほど進み、突当り(写真左中)で道は東名高速に遮断される。 旧姫街道は直進するが道が消滅しているので、右折して高速沿いに進み自動車道(写真右中)へ出て、 左折して高速のトンネルを潜る。 |
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トンネルから約200m先の右カーブする辺り(写真左)で、さきほど消滅した姫街道が合流する。 カーブの右側に、高速道路建設で分断されことを説明している姫街道案内板が立っている。 右側の山沿いに道なりに進む。 |
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その先の十字路(写真左)を直進し細い道に入り、約150mのところで丁字路となる。 旧姫街道は直進するが先で道は消滅しているので、右折して東名高速ガードを潜り迂回する。 |
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トンネルを出て道なりに左へUターンして上り、右へカーブして高速道路沿いの高い道(写真左)を進む。 500mほどの進み、突当りで左折して高速を横断する大里歩道橋(写真左中)を渡る。 この橋のところで、さきほど消滅していた旧姫街道が再度合流する。 橋の渡り口の右側に、「東名高速道路で分断された姫街道」案内板が立っていて、 昭和44年開通の東名高速で分断された姫街道(赤)と、現在の回り道(緑)を絵で分りやすく示している。 橋から見下した東名高速には、この時間帯車はほどほどの数。 |
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橋を渡り、草の道(写真左)を通り、ゆるい坂道を下り西へ進み、交差点を直進し左カーブを道なりに進む。 歩道橋から約700mのところにある宇志川にかかる橋(写真右)を渡り、さらに進む。 |
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橋から150mほどのところの十字路(写真左)を直進し、細い坂道を上り宇志の集落に入る。 上り切り、誰もいない集落(写真右中)を通り、左側畑の角に茶屋跡案内板とその下に片山竹茂の墓の看板。 片山竹茂:江戸時代後期の宇志八幡宮宮司で、俳諧の指導者として尊敬されていた。 その反対側には文字が風化して殆ど読めない高札場跡案内板(写真右)。 この辺りには間の宿があったのかも知れない。 |
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短い集落を通りを過ぎ、坂(写真左)を下り広い車道に出て、右折して進む。 |
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三ヶ日総合事務所への丁字路(写真左)を直進しゆるい坂道を上り、 広い車路に出てから約600mのところで道は2つに分れ、左手の道を進む。 左折する角の左側に、草木の中隠れて全く目立たない安間より七里目、江戸から71里目の一里塚跡碑がある。 多分、多くの人が見落としてしまうこと請け合いというところ。 |
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三ヶ日宿:険しい本坂峠を越えて来た旅人で賑わったという。 ただ本陣以外に本格的な旅籠屋は数少なかったという。 また問屋も定まったところにはなく、 重要な通行があるときに民家を問屋場にしたて村役人がそこに詰めて業務を扱ったといわれている。 |
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左折した辺りから、三ヶ日宿場通(写真中)りとなるのだと思う。 通りは気持ちがよいほど真直ぐで、 少し進むと右側の郵便局の前に東海道統一道標「夢舞台・東海道 三ヶ日宿」(写真右)が立っている。 商店の人たちなどに、本陣跡、旅籠跡千鳥屋や問屋場跡などの所在を聞くが、毎度のこと全く分らず。 行ったり来たりの徒労の末、ようやく郵便局から2つ目の交差点先の左側の岡田医院前に、 小池家本陣跡案内板(写真左)が立っているのを発見した。 1805年(文化2)測量のため本陣に泊まった伊能忠敬は、「家作よし酒造をなす」と日記に記しているという。 本陣跡だけでも見つけることができて、とてもハッピーな気持ちであった。 |
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町の中心を抜け、釣橋川橋、続いて宇利山川橋(写真左)を渡り、右側の巨大な姫街道の由来看板を見て、 先に進み、三ヶ日高校角(写真右)で道は2つに分れ左手の道を進む。 |
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全く人通りのないのどかな道(写真左)を、道なり右にカーブして進み、 左側に電柱、右側に火の見櫓が競合するように立ち並ぶところのバス停は「釣」という珍しい名前。 その先でゆるい下り坂となり、右側に鞘堂に納められた秋葉灯籠。 |
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坂を下り切ったところで、362号線と合流(写真左)し右折して進む。 362号線を約900m進み右側の火の見櫓のところに日比沢集落センターがあり、ここも浜松市三ヶ日町。 さらにその先の200mの右側に、鎌倉時代の釈迦如来像が安置されている華厳寺の山門がある。 |
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その先で道は右にゆるいカーブを描く。 そのカーブの始まりの左側に、文字が風化してとても判別しにくい「板築駅跡」案内板(写真左).。 ここは古代の板築(ほうづき)駅があった場所で、 承和の変(1842)で伊豆へ流罪となった橘逸勢がその途中この駅で病死した。 この駅(後の宿場のこと)の存在時期は、 平安時代の天長10年(833)から承和10年(843)までの11年間であったという。 カーブを過ぎ、長い直線道路を約700m進み、ゆるい左カーブを曲がり日比沢川にかかる森川橋を渡る。 |
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橋を渡るとすぐ先で362号線と分れて、 右側のゆるい坂道(写真左)に入り約100m先の頂上の左側の木立を目指して上る。 |
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木立の下には、昭和50年建立「旧姫街道 一里塚」と刻まれた 安間より8里、江戸から72里目の本坂一里塚碑(写真左)がり、北塚が今でも残っている。 石碑の前の姫街道道標に従い、左折して今どき珍しい未舗装道を進む。 すぐ右側に、7体の馬頭観音像が社に安置されている。 舗装のない道は足には快い感触で、坂を下り再度362号線と合流(写真右)する。 |
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362号線を100mほど進み、分れ道(写真左)は左手に入り、本坂集落のゆるい坂道を進む。 |
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集落はどことなく当時の雰囲気が残っていているようで、街道筋を歩く旅人の気分になる。 集落の中ほどの右側の歌壇には、風化して文字の判読が難しい本坂関所跡案内板(写真左)。 戦国時代よりこの地に関所が置かれ、後藤氏が管掌していた。 幕府は慶長5年(1600)新居関所とともに施設を整備した。 後、元和5年(1619)後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、 さらに寛永元年(1624)気賀関所の設置に伴い廃止された。 続いて、右側に1807年(文化4)建立の秋葉山灯籠の鞘堂。 その右側に秋葉灯籠案内板が立っている石積は、高札場跡の土台で結構立派なもの。 この辺の左手に入ったところに、梅藤清左衛門茶屋本陣跡があるというが、探せなかった。 |
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800mほどの集落の道を過ぎた坂の頂上で、道は2つに分れ(写真中)右手の362号線沿いの細道を進む。 頂上から左手には一面のみかん畑と山並が展望でき、陽気とあわせ旅の幸せを感じてしまうところ。 細い道を少し進み、362号線を斜めに横断して左手前方の緑の中の細い道に入る。 |
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木々の中の鬱蒼とした道(写真左)を進み、いかにもいよいよ本坂峠を登る雰囲気が伝わってくる。 ちょっと先の右側に、本坂峠の無事を祈って明治時代に作られたという、 金銅製と御影石製の各1体の弘法大師像が祀られている。 さて本坂峠の登口はと探すと、大師像の左側にヤブの中に通じるようやく道のようにも見える正に獣道。 何度も躊躇した上、私の実力以上の本坂峠だったとあきらめることにして、 先に進み小道を抜け、再度362号線(写真右)に出ることにした。 |
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362号線に出てふと右手を見ると、細い登り道(写真左)とその手前に「姫街道案内図」大看板(写真左)。 これが本坂峠の登り道かと合点するとともに、急に元気づいたのであった。 今の時代、獣道の旧街道などあるはずがないと思ったが、 ただ甲州街道の笹子峠のまさに獣道の例もあるので、絶対に安心というものではないのもまた事実。 時は12:45喜び勇んで細い道を登り、 陽光に照らされたのどかな道が、次第に林の中の石畳の道(写真中)となり、 5分くらい進んだ車止めのところで旧本坂トンネルへ向かう旧道に出る。 |
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車道を横断し、山道(写真左)に入り、険しくなる道(写真中)、谷状の道となり足元定かならず、登り続ける。 |
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すると突然左側に高さ4m、巾10mの巨大な鏡岩。 この岩は昔光っていて、旅の女性がこれを鏡として身づくろいをしたという。 |
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さらに登り、前方にガードレール(写真左)が現われ車の通る道で遮断される。 左斜めに横断して対面の山道入口に、「椿の原生林」標識が立っている。 |
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この本坂峠の道沿百数十mにわたって広く椿の原生林が見られ、樹齢200年のものもあるとのこと。 花の季節は1月から3月、さぞや美しい花道になることであろう。 ただ今は枯れ木でひっそりと静まりかえった、椿原生林の中の石畳(写真左)を登り続け、砂利道に出る。 対面の石段を上り、さらに山奥に入って行く雰囲気がひしひしと漂う。 |
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道も傾斜(写真左)したりして険しくなり、ひたすら歩き続けたいたその時、 つい道の右側の陽だまりに目をやってしまったのが運のつき、 そこには1m(正確に測ったわけではないが)もあろうと思われるヘビが日向ぼっこをしていたのであった。 「ギャオー」という空しい悲鳴が誰も居ない山奥に吸い込まれ、前方に思わず飛び上がっていたのでした。 足がすくんで動けず、ただうずくまるだけ。 この先またヘビがいるかも知れない、といって戻るにはまたあのヘビの脇を通らなければならない。 それに引き返したとしても、いつか再度この峠を越えるために来なければいけない。 いろいろなことが走馬灯のように駆け巡ったが、 結局はまたヘビの脇を通って引き返す勇気がなく、前進することにしたのであった。 幸いなことに、これ以降ヘビにあうことがなかった。 大体私はヘビだけでなくカエルも虫もダメで、人のいない山道や野原の道も恐くて歩けない。 こんな臆病な人間が、人並みに旧街道を歩きますなどと言ってよいのかと、常々j自省しながらの旅です。 ただ、不思議なことにこれまでの街道歩きでは、一度もヘビやカエルに出会うことがなかった。 気を取り直してさらに前に進み、道は益々険しく、 人を通さないように誰かわざと大きな石を置いたり、大木で遮ったりしているのではないかと、つい思った。 |
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時は13:18、そんな邪推を乗り越えて、登山口から約30分ちょっとで本坂峠頂上(写真中)に到着。 登頂した感激も簡単にすませ、残り殆どなくなったペットボトルのお茶を絞りだして飲むのであった。 頂上はとても小さな広場で、「本坂峠328m」・「旧姫街道」標識(写真右)が立っている。 草むらの中の、傾きかけた「本坂峠」、「姫街道」標識の下に、 後で追加してつけたような手書きの「領主茶屋場跡」標識(写真左)があり、これは? 頂上は姫街道と豊橋自然歩道との交差点となっていて、それの関する案内板が立っている。 またこの頂上付近が、静岡県(浜松市)と愛知県(豊橋市)の県境のはずであるが、標識がなくて詳細不明。 当時で言えば、遠江国から三河国へ入ることになる。 |
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これで無事難所と言われた本坂峠を越すことが出来たが、 昔の旅人からは、本坂峠は道が細くて険しいので箱根より大変だといわれていたという。 確かに私もそのような実感を持ったし、道の険しさは東海道の宇津ノ谷峠に似ているように思う。 さて、下りは得意とするところ。 駆け足で一目散に下り、左側に弘法大師が喉を潤したという弘法水(写真左)の極小さな洞穴。 ただ現在は殆ど流れのない水溜りで、とても飲めるものではない。 さらに下り、旧姫街道標識の脇に手書きの「嵩山七曲り」標識が立っていて、 沢のような道のないところを指している。 |
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その先には、これまた手書きの「茶屋場跡」(写真左)、 さらに下ると、道の中に「座禅岩」と「腰掛岩」の手書き標識。 本坂峠頂上の愛知県側からこの手書き標識が次々と現われるが、 多分地元の人たちが(嵩山集落?)が、旅人のために作ってくれたのではないだろうか。 |
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道は平坦になり、小さな川にかかる茶旧川橋(写真左)を渡り、舗装された道に出る。 右斜めに横断し、「旧姫街道」道標に従いガードレールの外れから坂道の石畳を下り、進む。 |
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数分先の左側に、安間より9里江戸より73里の嵩山一里塚跡碑(写真左)が立っている。 やがて道はコンクリートで固められた石畳となり、舗装道となり平地へ下りて行く。 |
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嵩山宿:幕末の頃、11軒の旅籠と1軒の本陣があったとされているが、 現在は石垣、門、蔵が一部残っているに過ぎない。 |
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人家が現われる平地の出口に、「姫街道 西嵩山宿 東本坂峠」碑(写真左)が立っている。 (写真は進行方向と逆から撮影) 先に進み、道は丁字路(写真中)で直進し宿場通りへと入る。 |
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挟石川沿いの全く車も人もいない道(写真左)を進み、何やら旧家(写真中)のような建物が右側に。 さらに進み、右側に大きな「嵩山宿」案内図が立っている。 それによると案内図手前の夏目邸屋敷が本陣跡(写真右)で、ご子孫が現在お住まいのようである。 |
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全く人影のない宿場通り(写真左)。 今日は殆ど人間に会っていないが、街道歩きしているとこれが当たり前のこと。 日本は本当に地方の人口が激減してしまったのか、それとも大人も子供も家に閉じこもっているのだろうか。 大体遊ぶ子供の姿を見ることができないということは、異状事態で日本危ないといっていいだろう。 362号線合流点手前の宿場西口の右側に、1827年(文政10)建立の秋葉山常夜灯。 その先で362号線と合流し、西へ進む。 |
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362号線を約400m進み、左側の白い建物(写真右)の横で左折して細い道(写真中)に入る。 この道が現地でわからず、地元の古い人に尋ね歩いてようやく教えてもらうことができた。 100mほど進み丁字路を右折し、その先で再度362号線と合流(写真左)し西へ進む。 |
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真直ぐな362号線(写真左)を淡々と歩き、右手遠くに山肌が無残にも削り取られた山、 そこへ通じる道の入口には、長樂鉱山入口の白看板。 |
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その先の左側コーナーに1820年(文政3)建立の秋葉山常夜燈(写真左)と、 手前に「右豊川 左豊橋」石造道標(写真左)。 さらに進み左側の竹林に安間より10里、江戸より74里目の長樂一里塚跡碑(写真中)。 いつまでも真直ぐな362号線、ただひたすら歩き続けるだけ。 |
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一里塚から約500mの和田辻東バス停。 ちょどその時、豊橋駅行始発バスが出発しようとしていたので、慌てて飛び乗る。 時は15:30頃。 バス停から豊橋駅へは、約1時間。横浜へ帰るには、ちょうどよい時間。 この辺は豊橋市石巻本町で、バス停のすぐ先に、31号線との和田辻信号交差点がある。 |
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