歩く 姫街道
  豊橋 → 御油宿
 (愛知県豊橋市) (愛知県豊川市御油町)
 iー愛ロマンチカ
    
この区間は、2006.8.3に歩いた。
天気はとてもよく快適な歩きが出来たが、ただ街道の当時の史蹟などは殆どなく寂しく感じた。
また愛知県に入ると静岡県側にきめ細やかに見られた「姫街道」の道標や看板は余りなく、
姫街道の対する思いの違いがあるように思えた。
この区間のハイライトは、ちょっと道を外れるがなんと言っても有名は豊川稲荷であろう。
余談であるが、デジカメが故障したので最新のデジカメを購入しこの区間で初めて使ってみたが、
モニター画面が大きくなりすぎた分,
電池消耗も激しくまた充電にも非常に時間がかかり、私にとってとても不便なカメラとなった。
ちなみに、携帯した電池3個でせいぜい350枚程度しか撮れず、これは従来のデジカメの半分くらいにしか過ぎない。

    

     
早朝横浜を発ち、JR豊橋駅に到着。
余談であるが豊橋駅は東海道を歩いたときも何度か利用しているので、何となく親しみを感じる駅である。
    
駅から北東へバスで約1時間の、前回の終点和田辻東バス停(写真左)に到着。
11:08快晴で無風の絶好の
362号線(写真中)の街道を、西へ向かって出発。
交通標識は、この先の和田辻交差点を左折は豊橋市街、右折は新城、直進は豊川方面と表示。
数分進み、
和田辻信号交差点を直進する。
      
きれいに舗装された街道(写真左)を進み、この辺りには常夜燈があるはずであるが、
ウロウロしても見当たらず、先に進む。
道はゆるく左にカーブし、両側の緑の
木立の中の道(写真中)を歩くのは快く、
そのはずれで道は今度は
右にゆるくカーブする。
   
カーブから約100mの右側法面に、大正13年運輸関係者建立の馬の顔が浮彫された馬頭観世音像
    
その先の小倉橋バス停(写真左)前を通り、牟呂用水にかかる小倉橋(写真右)を渡る。
橋から左手の
用水路の左の森は、南北朝時代の南朝の忠臣高井主膳正が築城した高井城址。
   
道は田園風景(写真左)の中を真直ぐ(写真中)走り、
橋から約500m右側の、「おしゃれ貴族」赤看板と中協運輸建物の間の
細い道に入る。
    
田園の道(写真左)を進み、突当りで道なりに右カーブ(写真中)し豊川(吉田川)堤防の道へ出て左折する。
   
堤防道(写真左)のちょっと先の三叉路辺りで、旧姫街道は豊川を船渡し(東)で渡っていた。
渡しは昭和9年に架橋されるまで続いていたという。
その辺りは現在は豊川の姿も見えない
畑と森(写真中)で、渡し場を偲ぶこともできない。
その先の下流にある
当古橋を渡り、豊川の対岸に出る。
   
362号線にかかる当古橋(写真左)の中ほどで、豊橋市から豊川市に入る。
但しそこには境界標識はなく、標識は橋を渡る手前にそれぞれ設置されている。
橋から見る
豊川は、今どき珍しい水量もそれなりにある川であった。
  
橋を渡り、すぐ右折(写真左)して堤防の道(写真中)を約60mほど進んだところが渡し場跡(西)らしいが、
ここからの対岸の渡し場跡(東)は川向うに見えるの後あたりとなる。
   
その先で左へ下る坂道(写真右)を進み、途中丁字路(写真中)を右折して西船渡の集落(写真左)に進む。
集落入口左の二階家
(写真左)は、1階2階とも格子がありいかにも街道らしい雰囲気のある建物である。
   
十字路(写真左)を直進して東本郷の集落を北西に進み、
次の交差点の右コーナーにある神社境内に1819年
(文政2)建立の常夜燈(写真中)
神社(写真中)はとても小さく正面にしめ縄がかかっているが、中には何もなく神様不在で、
両側面が丸太で支えられている。
只今工事中?
交差点を直進し、
本郷の集落を道なりに進む。
   
その先で十字路(写真左)を直進し、362号線の交差点に出る。
旧姫街道はこの
交差点(写真中)の反対側右角の辺りから西の方向へ約45度に進むが、
現在は道が消滅しているので、右折して
362号線を進む。
   
しばらく進み、右側に昔雨谷天神と呼ばれていた三田原神社(写真右)
三谷原信号交差点(写真中)を過ぎた左側に、「三河新四国霊場」の幟の立つ寿命院
寿命院裏手を旧姫街道が通っていて、この辺に安間より11里、日本橋より75里の一里塚があったという。

    
さらに200mほど進み、151号線との交差する馬場町信号交差点(写真左)に出る。
この辺りで先ほど消滅した旧姫街道と合流し、直進する。
交差点を横断した右角にある
熊野神社は、1556年(弘治2)紀州熊野の新宮大明神を勧請し
社殿は1704年
(宝永元)吉田城主久世氏寄進で造立したもの。
   
この交差点から、5号線となり真直ぐな道を淡々と西へ進む。
交差点から150mほどの左側に、巨大な
モヤイ像
今は世界中の動物が日本に集合して繁栄していることを考えると、
外国の石像が巾をきかせていても不思議ではないが、どうやってイースタ島から運ばれてきたのか?
(石材店のデモでした)
さらに150m先の右側に、工事中看板(写真左)で通行止めになっている小道。
道の入口左側に、1840年
(天保11)建立の「金灮燈」が2基並んで立っている。
その
背後の森(写真左)に、702年(大宝2)創建の三明寺がある。
   
三明寺
工事中の細い道を約150m進み、三明寺境内に入る。
境内の中ごろに、国指定重要文化財の1531年
(享禄4)建造された三重塔(写真中)が構えている。
総高14.5mで柿葺、一層と二層を和様に、三層を禅宗様にしたのが全国的にも珍しいとのこと。
私には何が何やらわからないことで、とりあえず一層の
軒下(写真右)をカメラに納めた。
境内の左端れにある塚は、当山の宮殿を建立した本願光悦が1556年
(弘治2)に入定した(写真左)で、
松を植え後世の人々に伝えられているもの。
なお三明寺の本殿は、只今工事中。
三明寺の本尊の弁財天:大江定基が三河国の国司としてこの地に来住したときに愛し結ばれた力寿姫が、
やがて重い病にかかり不帰となったとき、定基が力寿姫の像を刻み寺におさめたのが、弁財天であるという。

   
もとの道に戻り、まっすぐな5号線(写真左)を西へ約500m進むと「姫街道踏切標識
JR東海飯田線と名鉄豊川線の踏切で、この標識は感動的で姫街道を歩いて本当によかった思った!
余韻を残して踏切を渡りそのすぐ先に、
中央通り1丁目信号交差点
この交差点を右折して、北へ400mほどのところに豊川稲荷神社がある。
    
豊川稲荷
1441年
(嘉吉元)東海義易禅師が妙厳寺を建立した際、
同寺の「叱枳尼
(ダテニ:インドの女神)真天」を境内に祀ったもので、
今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将の信仰を集めた。
江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まり、
現在は日本3大稲荷
(笠間稲荷ー茨城、伏見稲荷ー京都)の一つといわれている。
境内は11万㎡余りあり、100余棟の伽藍があるといい、大変大規模な神社でもある。
 
総門は明治17年に改築され、
門扉と袖扉は樹齢1千有余年の欅で作られた高さ4.5m、巾1.8m、厚さ15cmの堂々たるもの。

   
総門を入り正面の妙厳寺山門(写真左)は、
1536年
(天文5)今川義元が寄進したもので、当寺で現存する最古の建物。
天保時代
(1830-43)に建築の妙厳寺本堂(写真中)
1814年(文化11)
に建築された奥の院
   
山門の左側に、豊川稲荷の鳥居(写真左)
昭和5年竣工の
豊川いなり大本殿(写真中)には、叱枳尼真天本体が祀られている。
本殿から奥の院までの通路には、「
豊川叱枳尼真天千本幟がとても派手に林立している。
         
もとの5号線に戻り、西へ進み、中央通3丁目信号交差点(写真中)を過ぎ、
左側に食堂看板がかかっているとても
古そうな建物(写真左)が現われ、もしかしたら江戸時代のもの?
さらに進み
佐那川にかかる金屋橋を渡り、中央通5丁目に入る。
   
左手に三重塔、多分新興宗教のものであろうが、あまりにも大きいのでビックリしてしまう。
体育館前交差点(写真中)を過ぎ、右側にスマートな体育館
   
さらに西へ進み諏訪西町信号交差点を過ぎ、
右側の駐車場脇にうっかり見過ごしてしまいそうな「
本宮山遥拝所がある。
本宮山:千年近い大木の杉桧が林立した神山で、頂上には三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座している。
   
その先の白川(写真左)にかかる白川橋(写真中)を渡り、最初の右折する細い道の入口角に
まだ新しい「
國内神名帳郡明神 是ヨリ15丁が立っている。
ここから北へ15丁のところに郡明神があったといい、当時は子の辺りに国府が置かれ三河の中心であった。
     
長く直線が続く5号線をさらに進み、西古瀬川(写真右)にかかる筋違橋(写真中)を渡り、
右側の細い道の入口角に1811年
(文化8)建立の常夜燈
   
極ゆるいカーブ(写真左)をしばらく進み、
上宿信号交差点
(写真中)で5号線は名鉄名古屋本線を跨ぐ自動車専用陸橋となる。
交差点を渡る手前の右角に、三河最大の全長93m、高さ7.6mの前方後円墳のある
船山古墳がある。
    
寄り道して船山古墳案内標識(写真左)のちょっと先にある、
上宿神社の鳥居(写真中)から古墳を上り奧に進む。
小高い頂上にちゃんと賽銭箱が備わっている
神社の小さな社が2つ並んでいる。
多分これが上宿神社なのだと思うが、何しろ蚊の大軍が凄くて写真を撮って早々に退散。
賽銭箱があるのでお参りの訪れる人もいるのであろうが、それにしてもこの蚊では命がけ?
   
実はこの辺りから、デジカメの電源が心もとなく撮影も節約中。       
交差点を横断し、
陸橋の
右側側道(写真右)を進み駐車場の柵の切れるところで左折して陸橋(写真中)を潜り、
すぐ右折して名鉄名古屋本線を渡る
階段(写真左)を登る。
現地では、マップ上からはとても分りにくい道順であった。

  
ちょうどここ御油宿のゴールまであと400mというところで、予備を含めた3個の電池が切れてしまった。
この短い区間だけのため、再度横浜から来なければならないと思うと、がっくり。
近くにデジカメ屋も見当たらず口惜しさ胸いっぱいで歩いていたら、なんと携帯電話販売店。
たまたま充電器を持っていたので、早速事情を話して100円払ってコンセントを借りて電池を充電。
ただ30分程度の充電では、フラッシュなしでもせいぜい10数枚しか撮影できないので、以降正真正銘の枚数節約撮影
また陸橋階段まで戻って上がり、
名鉄線路(写真左)を撮影して、再度階段を下りる。
道なりに先へ進み、
丁字路を左折(写真中)し、前方の国道1号線に向かって歩く。
  
1号線のところで道は遮断され、
右に迂回して信号から横断して戻り、先ほどの
延長上の道(写真左)を進む。
100mほど行った突き当りを右に曲がり
広い車道(写真中)に出て、左折して西へ進み、
行力信号交差点を直進する。
  
そのすぐ先の信号のない交差点が、東海道と姫街道の追分(写真左)となる。
交差点の右角に、
常夜燈、「秋葉山三尺坊大権現道(写真中)の左側に
御油宿→三州 これより姫街道道標(写真右)
これで姫街道の旅は終わり、素敵なお姫様ともお別れとなる。
先日テレビで皇女和宮が中山道を旅したときの駕籠を見たが、とても小さくて身動きなどとても不可能なもので、
そこに一日中閉じ込められているわけであるから、お姫さまの旅は想像を絶するような大変な旅であったと思う。
さて現代のお姫さまは、どうなんだろうか。
   
4年前東海道を歩いたとき、わけもわからず通ったこの追分。
当時は、追分の左手の
南東(写真左)から歩いてきて、
右手の
北東へ歩いて音羽川にかかる御油橋を渡り御油宿に入ったのでした。
時は16:59.
   
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