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この区間は、2017年11月25日に歩いた。 | ||||||||||||||||||
2011.2.26~7.24 に歩いた区間を再歩するもの。 | ||||||||||||||||||
高崎からの本郷へ向う道のりは、朝日の逆光をまともに受けて写真を撮るのに苦労した。 | ||||||||||||||||||
ふと思い出したのが旧東海道を歩いた時のことで、午後から逆光をまともに浴びて今回と同じように撮影に苦労したこと。 | ||||||||||||||||||
その旧道東海道を歩いたのは2002年で、それからう17年。よく続いているものだと我ながら感心している。 | ||||||||||||||||||
参照地図 : インターネットマップ 「MAPION]. | ||||||||||||||||||
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2017.11.25。7時47分。 高崎城跡(現城址公園)の東南の角から旧道は直進して南へ進み、 約450m先のビブレ高崎マンション角の若松町と滝見町との境界交差角辺りまで続いていたが、消滅している。 ここでは、国道17号線中山道に出て迂回する。 |
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迂回経路ー1 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折し、朝日で逆光の竜見町地内の道を進み、すぐ右側庭に「南無妙法蓮華経」碑の立つ妙法寺。 |
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その先で城南野球場脇を通り、続いて高架下を潜り下和田水源地前を通って、突当りで国道17号線中山道の城南信号に出る。 旧道は、信号から左折して中山道を斜めに横断して約350m先の新後閑町にある荘厳寺前の路地入口辺りまで続いていたが、 消滅している。 ここでは、中山道の反対側にある城南小学校前に出て迂回する。 |
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迂回経路-2 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折して、新後閑町地内の細い路地を通り、上越新幹線高架に向って進む。 |
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突当りで広い車道に出て斜めに横断して上越新幹線高架下の細い道に入り、 高架下を出たところの交差点を横断して和田多中町地内に入りマンション前を通って真っ直ぐ進み、 すぐ先右側に、「秩父巡礼道しるべ」立札脇に小さな道標碑と並んで大きな馬頭観世音碑。 |
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その先で左手からの道と合流して進み、上佐野町地内に入りBARBERクリーン店横を通る。 なお、グリーン店前の丁字路を右折した先に 太天神天満宮。 太天神天満宮:謡曲「鉢の木」で有名な佐野源佐衛門常世が、父の境遇と似ている菅原道真の霊を祀って創建したといわれる。 現天満宮は、昭和49年に再建されたもの。 |
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上佐野町地内を道なりに右にゆるくカーブして進み、(左側)西光寺境内塀の脇を通る。 なお、西光寺の西門前の赤い自販機手前から右折して坂道を約300m下ると、鳥川と佐野橋。 西光寺:明治2年の農民運動「高崎五万石騒動」でその舞台の1つとなった寺。 明治維新にもかかわらず、旧態以前とした封建的な藩政を行い続ける藩に対して、五万石農民が年貢の減免を求めて立上がり 足掛け3年間にわたり行った高崎藩領内全村全戸周辺諸藩を巻き込む大規模な農民運動。 |
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烏川と佐野橋。 |
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赤い自販機のすぐ先右側に、「佐野の船橋歌碑」(奥の2つある碑の左側の円柱碑)。 佐野の船橋歌碑:碑面に「かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」と刻まれている。 碑の裏面には、この歌碑は、かってここに船橋があったと伝えられた場所に、1827年(文政10)に建立された、とある。 (船橋とは、船をつなぎその上に板を渡して浮橋としたもの。) 烏川を挟んだ2つの村の長者の息子と娘が恋仲となり、夜に船橋を渡り人目を忍んであっていた。 それを知った親が、ある夜二人が会えないように橋の板をはずしてしまった。 それを知らない二人は船橋を渡ろうとして、川に落ちて死んでしまったという。 この歌碑は、その若い二人の怨霊を慰めるために建てられたものと言われている。 道なりに進み、自販機から約300mの変則交差点を直進する。 なお、交差点を右折した先に、常世神社。 常世神社:謡曲「鉢木」に登場する鎌倉時代の武士、「佐野源左衛門常世」を祀った小社。 謡曲「鉢木」のあらすじ:一族の不正のために領地を横領され、窮迫生活をしていた武人佐野源左衛門常世のところに、 ある大雪の日、修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)が宿も求めてきた。 常世は、その修行者のために大切にしていた鉢の木(梅、松、桜)を焚いて暖をとらせてもてなした。 常世は修行者に、「今はこんなに落ちぶれているが、鎌倉に事あれば真っ先に馳せ参じるつもりだ」と、心の内を語った。 後に、鎌倉から召集がかかった時、常世は「いざ、鎌倉!」と、やせ馬に跨り古びた鎧姿で鎌倉に駆けつけた。 約束を守った常世に対して時頼は、横領された領地を戻し、 さらに薪にした鉢木の梅、松、桜に因んだ地名の3カ所(上野の松井田、加賀の梅田、越中の桜井)の領地を新たに与えた。 |
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道なりに右にカーブして進み、突当り上越新幹線高架前に出て左折し、高架沿いの下佐野町地内の道を進む。 |
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約100m先の交差点を左折する。 なお、交差点を右折して高架下を潜ると、百人一首選者藤原定家を祭神とする定家神社。 右にカーブして進み左側の「下佐野第一公民館」立看板前を通る。 |
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下佐野第一公民館敷地に、放光神社。 放光神社:明治時代に放光寺伝承にもとづき創建された神社であったが、実際にはこの地は放光寺跡ではなかったという。 住宅街の中を進み分かれ道は左手を、そのすぐ先の分かれ道は右手を進む。 |
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突当りで交差点に出て左から来る「佐野一本松通り」と合流(只今道路工事中)して進み、 道なりに進んで右にカーブして上越新幹線高架下を潜り左にカーブするところを直進し細い道い入る。 |
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未舗装道を進み、突当りで左にカーブする。 旧道は、真直ぐ進み烏川の先の高崎商科大学正門辺りまで続いていたが、この間の約450mが消滅している。 ここでは、烏川にかかる一本松橋を渡り迂回する。 |
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迂回経路ー3 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折して坂道を上り、分かれ道は右にカーブし、上りきった突当りで県道30号線に出て左折する。 |
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県道30号線を進み柳沢川にかかる柳沢橋を渡って山名町地内に入り、 その先左側に電話ボックスに寄り添うように2体の野仏像。 その先で山名町北信号交差点を直進し続くやましな医院角の信号で右折し細い道に入る。 |
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道なりに進み、交差点を直進する。 なお、交差点を右折すると奥に、山名八幡宮。 山名八幡宮:安元年間(1175~1177年)に、清和源氏新田義重の子で山名氏の祖の山名義範が、 豊前国(大分県)の宇佐神宮の分霊を勧請して社殿を造営し、武運の神として崇敬たのが始まりとされている。 本殿・幣殿は、18世紀半頃の建造で市指定の重要文化財。 その先の分かれ道は、右手を進む。 なお、左手の先は上信電鉄線山名駅。 |
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すぐ上信電鉄線踏切を渡って左折し、道なりに進み、約100m先で左へ少し折れる。 旧道は、この折れる辺りからほぼ直角に折れて上信電鉄線を越えた約300m先の丁字路辺りに続いていたが、消滅している。 ここでは迂回する。 |
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迂回経路-4 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折し、畑の中を道なりに進んで右にゆるくカーブし、その先で三叉路となる。 旧道は、三叉路を直進してポリテクセンター群馬敷地中を通りその先の県道200号線の交差点辺りまで続いていたが、 この間の約350mが消滅している。 ここでは、県道200号線に出て迂回する。 |
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迂回経路ー5 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から道なりに山名町地内の県道200号線を進み、(右側)福言寺公民館前を通り、 その先の分かれ道は200号線と別れて左手を進む。 |
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約100m先のカーブミラーの前の丁字路を左折して細い道に入り、その先の小さな橋を渡って吉井町岩井に入り、 道なりに進んで突当りで右手からの広い車道と合流して直進する。 |
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道なりに右にカーブしその先の分かれ道は左手を進み、 真光寺続いてマックス吉井工場前を通り突当りの鏑川の手前で右にカーブする 旧道は、直進して鏑川を舟で渡り対岸に続いていたが、現在は消滅している。 ここでは、鏑川にかかる松ノ瀬木橋を渡り迂回する。 |
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迂回経路ー6 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折して、階段を下りて進み、すぐ先突当りの竹林の前のガードレールの道に出る。 旧道は、竹林を越えて約100m先の細い道に続いていたが、消滅している。 ここでは、県道174号線に出て迂回する。 |
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迂回経路ー7 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から今来た道を戻り、「アーク保険センター」立看板のところで県道174号線を横断して 反対側の細い道に入る。 |
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三ツ木地内のゆるい坂道を上り、突当りを左に曲がりその先で右折し、当時の雰囲気を感じる狭い急坂を上り、 上りきったところで三ツ木と白石との境界畑道に出る。 旧道は、道の前面の畑を直進し約800m先の白石のタイヨー群馬工場北西角辺りまで続いていたが、消滅している。 ここでは、右折して広い車道に出て南下して迂回する。 |
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迂回経路ー8 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右手を進む。 左側タイヨー工場前に、「吉良上野介陣屋跡井戸」。 吉良上野介陣屋跡井戸:忠臣蔵で有名な吉良家の領地が白石にあり、ここに陣屋が置かれた。 領主吉良若狭守の正室は流産癖があるので湯治へ伊香保温泉へ行った帰り、この屋敷に立寄り上野介義央を産んだ。 そしてこの井戸から産湯を汲んだと伝えられている。 井戸水は、毎月一回赤く染まるので「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料水にはしなかったという。(現在も、井戸水は健在。) 当地では、領主吉良上野介を敵役とする忠臣蔵は禁物とされた。(注:異議なし!) 道なりに進み左に折れる。 |
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突当りで国道254号線西上州やまびこ街道に出て左折し、すぐ先で右折して、細い坂道を下り右に曲がる。 |
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交差点を直進してその先の分かれ道は左手を進む。 分かれ道の右側に、苔むす石碑が並び立つ。左から順に、「刻字不詳」、「庚申燈」、「道祖神」。 畑の中を道なりに進む。 |
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突当りで県道173号線を横断し、コスモガソリンスタンド脇を通り国道254号線西上州やまびこ街道法面に出る。 旧道は、街道を直進し約400m先の緑埜の集落の外れ辺りまで続いていたが、消滅している。 ここでは、県道173号線に出て国道254号線ガード下を潜って迂回する。 |
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迂回経路ー9 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右に折れて家並に沿って進み、突当りの分かれ道は左手を進む。 分かれ道のところに、千部供養塔(右側の低い碑)。 千部供養塔(写真右側の碑):1783年(天明3)の浅間山大爆発のあった9年後に、緑埜の斎藤八十右衛門雅朝が建立したもの。 碑には、爆発当時の模様とその被害状況(各地の降灰量、凶作による物価高騰など)が刻んである。 |
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道なりに進んで緑埜クリーンセンター脇を通り、鮎川の石垣の崖に出る。 旧道は、この鮎川を浅瀬瀬伝い渡って対岸に出ていたが、現在は崖を下りることも難しくかつ水量もあり渡ることは不可能。 ここでは、鮎川にかかる緑埜橋を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー10 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点の、すぐ先で右折し、坂道を下って畑の中の道を進む。 |
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その先で集落手前の坂道を上り、鮎川公会堂と民家のブロック塀の間を通って突当り三叉路を左折する。 |
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2011年3月11日 日本観測史上最大の超巨大地震 前回歩いた2011年3月11日の14時46分ころ、ちょうどこの鮎川公会堂と民家のブロック塀の間の路上で地震にあい、 いつまでも続く激しい地面の波打ちに耐えられず、民家のブロック塀に必死にしがみつきました。 地震がおさまり近くの丹庄駅に行ったが、JRが終日全線運休だったため駅前からタクシーでJR本庄駅まで行き、 その夜は大勢の帰宅難民の一人として本庄市役所のホールにお世話になりました。 新しい毛布に夕食と朝食と、市役所の方にはとてもご親切な対応をしていただき、今でも思い出しては感謝しております。 ありがとうございました。 |
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住宅街の中を道なりに進む。 |
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突当りの変則交差点は直進し、、道なりに進む。 変則交差点正面電柱脇に、、「正面西平井口」道標(左)と道祖神。 |
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突当りの広い車道に出る手前で左折して、 「茂木歯科医院」立看板前を通り県道13号線の信号交差点を横断して反対側の道に入り、 すぐ先で東平井信号交差点を横断して鮎川と東平井との境界道を進み、 約550m先の交差点を直進して藤岡地内の庚申山裾野の坂道を上る。 |
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坂の途中左側に、昭和42年に菊理媛神(ククリヒメノカミ)を祀って作られた白山神社の参道入口。 坂を上りきり、左手に大きな庚申塔。 |
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庚申塔。 庚申山の裾野の急な坂道を延々と下り、下り切ったところで右下に藤岡モータースクールを見てガードレール沿いに進む。 |
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ガードレールを過ぎ、すぐ先で車道を外れて右手の細い竹藪道に入り、約100m先で道は分かれる。 旧道は左手の道を進んで右に曲がり約250m先の本郷地内の小宮第二マンション近くまで続いていたが、現在通行不能。 この旧道は、地図上は藤岡と本郷との境界の立派な公道であるが、現在は全く道の影形のない藪。 ちなみに約50mほど藪を掻き分け歩いたが、ちょっと身の危険を感じるほど。2011年に歩いたときは、 それでも何とかと歩けた。 ここでは、分かれ道の右手を進み迂回する。 |
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迂回経路ー11 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から、今来た道を戻り、先ほどの分かれ道を通って真っ直ぐ進み坂道を下る。 |
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下り切ったところで県道13号線西上州やまびこ街道を横断して反対側の道に入り、 道なりに進んで用水路のような川にかかる小さな橋を渡る。 この用水路のような川が、なんと一級河川という!何か謂れがあると思うが、正直ビックリ。 |
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秋山工業前を通り道なりに進んで美九里東小学校前に出る。 旧道は直進し、約150m先の小学校校庭の南東角辺りまで続いていたが、消滅している。 ここでは、校庭沿いに進んで迂回する。 |
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迂回経路ー12 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から道なりに進み、用水路にかかる小さな橋を渡り、その先で車道を横断して反対側の道に入る。 |
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道なりに進み左手の畑の真ん中に、「葵八幡と板碑」。 葵八幡と板碑:葵八幡は、木曽義仲の愛妾葵御前を祀ったと言われている。 社の両側の板碑は、1300年代初頭のもの。 向って、左側は浮き彫りにされた阿弥陀一尊立画像の板碑、右側は阿弥陀三尊種子像の板碑。 道なりに進み突当りの車道を右折しすぐの突当りを左折する。 |
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その先の丁字路を直進する。 丁字路角に、道祖神(左側)と馬頭観世音碑。いかにも古そう。 なお、丁字路を左折すると道中郷公会堂。タクシーを呼ぶときの目印になるかも。 その先で温室の間を通り抜ける。 |
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突当りの階段を上り、神流川の堤防に上がる。 堤防前面は一面藪の原でその先に神流川がかすかに見える。 この群馬県藤岡市本郷の堤防辺りから神流川を渡り、 対岸の埼玉県児玉郡神川町肥土のB&G海洋センター北側辺りに続いていた。 |
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ここから対岸の旧道との接続点までは、タクシーを利用することにする。 | ||||||||||||||||||
ただ、時間が遅いので今日はここまでとし、タクシーでJR高崎線新町駅へ。 | ||||||||||||||||||
時は、15時00分。 今朝、7時47分に高崎城跡東南の角を出発してから、所要時間は約7時間。 |
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JR高崎線新町駅 | ||||||||||||||||||
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参考までに; 歩く 鎌倉街道上ノ道 (鎌倉→高崎) | ||||||||||||||||||
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