「旧鎌倉街道 探索の旅」を歩く
  歩く 旧鎌倉街道 上道2
       (高崎 → 鎌倉)
      乞田→ 瀬谷
i-愛ロマンチカ (東京都多摩市)  (神奈川県横浜市瀬谷区)
     
      この区間は、2019年3月20日に歩いた。
この日は天候もよく、絶好の街道歩き日和であった。
ただ、依然として写真の撮り方が下手でどうしてもうまく表現できなくて残念に思う。
街道歩きを始めて撮った写真枚数は数十万枚になると思うが、数うちゃ当たる式に上手にはなれないということのようです。
そんなことをしているうちに、次回は鎌倉到着。頑張ろう!
       
参照地図 : インターネットマップ 「 MAPION 」
       
6時49分、小田急多摩線小田急永山駅到着。
   
   
ゆるい坂道を下り突当りで前回の終点多摩ニュータウン通りに出る。
7時26分、
前回の終点を右折して多摩市乞田地内の多摩ニュータウン通りを進み、富士ヶ丘幼稚園前と通り、
その先の
愛宕交番前信号丁字路で左折して多摩ニュータウンを横断して反対側の貝取大通に入る。
    
貝取大通を道なりに進み、釜沼橋を渡り貝取1丁目と豊ヶ丘1丁目との境界道を進み、
京王相模線と小田急多摩線高架下を潜る。
(厳密に言うと、愛宕交番前信号からこの高架の先で右にカーブする辺りまで、
多摩ニュータウン造成で旧道は消滅しているが、旧道は概ね今歩いて来た経路。

    
ゆるい長い境界坂道を上り続け、貝取神社前信号の先に「貝取神社案内板。右手奥の高台に小さな貝取神社
貝取神社:多摩ニュータウンの造成により旧地を失った、
かつて貝取村にあったで吾妻神社・八幡宮・牛頭天王社を合祀し、社名を貝取神社とした。
ニュータウンの坂道を上り続け、豊ヶ丘2丁目のとちのき公園辺りから下り坂となる。
     
貝取交番前信号を直進し、その先の「恵泉女学園大学前信号で都道156号線南多摩尾根幹線道路を横断し、
反対側の
細い車道に入り道なり右にカーブする。
   
左側に、鎌倉時代の1253年(建長5)開宗の妙櫻寺
その先の恵泉女学園大学手前で
左折し、大学の境界柵沿いの町田市小野路町と多摩市南野2丁目との境界坂道を上る。
      
大学を過ぎた少し先で道は下り坂となるが、旧道はその手前から左手の町田市小野路町地内の細い山道に入り、
すぐ左に曲り如何にも当時を思わせるような
枯葉道、そして切通しの下り坂となる。
     
道なりに下り突当りで舗装道に出て右折し、舗装道を下り続けて右側三角地帯に、ひっそり佇む地蔵尊
    
坂を下り続け左手の道と合流してさらに下る。
合流点に、「←(注:今来た道 ) 一本杉公園」「→(注:これから下る道) 小野路宿」 
道標
その先で左手からの道と
合流し、マンション前の坂を下りて突当りで車道に出て左折する。
山道に入ってからの所要時間、約15分。
    
真直ぐなゆるい坂道を下り、右手の塀に「昔々 大山街道 小野路宿 中宿 福本看板
当然この道は旧鎌倉街道であったところであるが、地方では大山街道の方が有名。
これは、武士が馬を走らせるための街道より、多くの庶民が利用した街道の方がよく知られそして親しまれていた、
ということだと思う。
この通りには、小野路宿があった。
その先右側に、「
小野路の歴史案内板
小野路の歴史(要約):長い歴史を通じて交通の要所であったところで、江戸時代には東海道と甲州街道の脇往還として、
江戸中期以降は埼玉方面からの大山詣で行き来する人々で賑わった旅籠6軒の宿場町となった。

この案内板の立つところは、高札場跡。

   
その先左側に、私設「小島資料館
小島資料館:小島家に関わる幕末のいろいろな資料、例えば沖田総司からの年賀状、近藤勇稽古着、
新撰組墨印、近藤勇の晒し首を報じる瓦版など多数収蔵されている。

すぐ先に「
小野神社前信号丁字路を右折し、立派な建物の「小野路宿里山交流館」前を通る。
小野路宿里山交流館:小野路宿にあった旅籠角屋」を改修したもので、
小野路の歴史・自然・文化にふれあう拠点施設として、また、地域の里山等を散策する方の休憩施設として整備したもの。
(町田市HPより)
    
隣接して、小野神社
小野神社:小野篁の7代孫の小野隆泰が、972年頃(天禄年間)小野篁の霊を祀ったことに由来する。
小野篁は、平安時代の和漢に優れた学者で、学問の神様の菅原道真の先輩にあたる。

ゆるい坂道を上り信号から約200mのところで左折して細い坂道を下り、すぐ先の
分かれ道は右手の坂道を上る。
    
坂道の途中左側の現代的な茶色のビルの白道寺前を通り、坂を上り切った辺りの丁字路は左折して坂道を上る。
なお、直進すると約50m先の広い車道のところに、
江戸初期1617(元和3)に造られた「
おおやまみち小野路一里塚案内板がある。
    
坂道を上り、突当りで野津田公園の陸上競技場前丁字路に出る。
旧道は、直進して陸上競技場の反対側の野津田公園入口近くまで続いていたが消滅している。
ここでは、突当りの丁字路を右折し、競技場を半周して迂回する。
       
   
迂回経路-1
   
野津田地内の旧道との接続点から引き返し、公園ゲート入口前を通り学校の境界塀沿いの細くて急な坂道を上り、
外れで
右折する。
    
右折して約100m地点で左斜め前の道に入り、未舗装の坂道を下り、突当りで車道に出て左折して坂道を下る。
     
旧道は、坂道を約20mほど下った石段のある辺りから左に折れ
都道57号線さらに鶴見川を越えた約400m先の住宅地辺りまで続いていた。
ここでは、坂道を道なりに下って都道57号線に出て、ベルクの西側を通って鶴見川を渡り迂回する。
    
   
迂回経路ー2
    
旧道との接続点から、今来た道を戻り、突当りで車道を横断して先ほどの白い擁壁の道を上る。
     
野津田町の盛土の道を上り、畑道の突当りを右に曲り、すぐ先の分かれ道は左手を進んで七国山へ入る
なお、この分かれ道を真っ直ぐ行っても先で左手の道と合流する。
七国山:標高128mで、当時は展望がよく七ヶ国を眺望できたことから、その名が付けられた。
    
山道を上り、突当りの「鎌倉古道 鎌倉街道上道」案内板の立つところで右から来るさきほど別れた分かれ道と合流し、、
さらに
山道を上る。
   
(左側)人家の建つすぐ先で坂道を上り切り、左手から来る舗装道と合流して坂道を下り、
右側に、「
七国山 鎌倉街道の碑」と続いて町田市指定史跡「鎌倉井戸」。
    
七国山 鎌倉街道の碑」、町田市指定史蹟「鎌倉井戸」。
鎌倉井戸:鎌倉時代に、新田義貞が鎌倉攻めの途中、ここに井戸を堀って軍馬に水を与えたという。
井戸の深さは約4mあったと言うが、現状は殆ど土で埋まった状態。

    
その先の分かれ道は右手を進み、山崎町の坂道を下って車道に出て右折り、
道なりに進み突当りのガードレールで左にカーブし坂道を下る。
    
下り切ったところで右手からの車道と合流し、さらに下り続け町田ダリア園前を通り、
道なりに下り本町田地内に入り
平本商会の分かれ道は左手を下る。
    
さらに下り突当りのセブンイレブン裏の丁字路に出る。
旧道は、丁字路を直進して都道18号線を越えた約150m先の湘南信用金庫敷地角辺りまで続いていた。
ここでは、丁字路を右折して都道18号線に出て、今井谷戸信号交差点の横断歩道橋を渡って迂回する。
    
    
迂回経路-3
     
旧道との接続点から右折し、道なりに進み、変則交差点を直進する。
     
高架下を潜り、きれいに整備されたせせらぎの緑道「なかよし散歩道」。
なかよし散歩道:町田市下水道部が管理している、
大雨の浸水対策用に、地下に公共下水道が走っている延長600mの道。

その先で
用水路沿いに進む。
     
突当りの丁字路を左折して用水路を渡り、すぐ右折して用水路の反対側沿いに進み、「ひなた村」公園入口脇を通る。
    
用水路から離れて道なりに進んで交差点を直進し、その先で(左側)宏善寺の山門広場前を通る。
宏善寺:1338年(暦応元)創建で、日蓮が佐渡へ配流される途中この堂に休息したという、日蓮ゆかりの寺。
     
道なりに進み広場から約100m先の変則交差点を右折し、突当り車道を左折し、約200m先で養運寺前を通る。
旧道は、養運寺の駐車場出入口前辺りから
右折し、
恩田川を越えた約200m先の「本田町おやしき児童公園」の南東角辺りまで続いていた。
ここでは、そのまま進んで日向山信号交差点を右折し都道3号線鶴川街道を進み、恩田川を越えた先で右折して迂回する。
     
宿場:この養運寺辺りには、鎌倉を出発して初めての宿場があったところ。
当時の旅人は、舗装などしていない凸凹道、山道を草履で一日約女性で約35km、男性は約40km歩いたという。
私などは、ここまで1日半がかってしまう。
余談ですが、当時の東海道の箱根山越えは、山道の険しさで草鞋の消耗が激しく10足以上の草鞋を背負って登ったという。
それに比べ現代の舗装完備の道を立派なシューズを履いて、一日約30kmしか歩かない自分が情けなくなる。
     
    
迂回経路ー4
    
旧道との接続点から左折し本町田地内の道を進み、突当りで都道18号線(現)鎌倉街道に出て反対側の歩道に渡り左折する
     
菅原神社信号の1つ手前の白いコンクリーと舗装されたところから右折し、ゆるい坂道を上り、丁字路を左折する。
        
突当りを右折し、菅原神社境内沿いの坂道を上る。
菅原神社
:1630年(寛永7)に建立された、町田3天神(他に、町田天満宮、南大谷天神社)のひとつ。
境内には、「井出の沢古戦場案内板。
井出の沢古戦場(境内案内板要約):菅原神社、町田市立体育館および市営グランドのある場所は、
南北朝時代の「井出の沢古戦場跡」と伝えられている。
鎌倉幕府執権の北条高時の子の時行が、1335年(建武2)鎌倉幕府の再興を期して信濃から南下したとき、
この井出の沢の地で鎌倉を制していた足利尊氏の弟直義と決戦し、足利勢を破り鎌倉を占領した。
しかしその後20日余りで時行は、足利尊氏によって討たれてしまった。

     
突当りの左折して菅原神社専用駐車場角を左折、右折し、旭町3丁目地内の細い坂道を道なりに下り、左にカーブする。
     
下り切ったところで車道に出る。
旧道は、車道を直進して市民球場を越えて約2km先の小田急町田駅辺りまで続いていた。
ここでは、車道を左折して都道52号線に出、都道3号線鶴川街道を通って迂回する。     
    
迂回経路ー5
    
旧道との接続点から左折し、原町田d6丁目地内の「三菱UFJ銀行の通りを進み、
その先の三井住友銀行角の分かれ道は左手を進んで賑やかな
繁華街の通りに入る。
     
原町田大通り」を横断して反対側の商店街に入り、狭い商店街を進んで車道を横断し、
続いて狭い
商店街通りを進む。
この時間帯、凄い人混みでカメラを向けるのは躊躇してしまった。
従ってこれらの写真は、じっと構え偶然人混みが途絶えた瞬間を狙った撮ったもの。

              
商店街の外れで、町田市文化交流センター前の広い車道に出る。
旧道は、直進して約600m先のJR横浜線敷地境界付近の原町田1丁目と金森1丁目との境界辺りまで続いていた。
ここでは、広い車道を左折して進みJR横浜線追うお暖歩道橋を渡って迂回する。       
      
迂回経路ー6
    
旧道との接続点から進み、金森1丁目地内のを進み、その先で左手からの都道56号線と合流して進む。
      
都道56号線を進み「金森7丁目地番標示のかかる電柱の立つ丁字路角に、
1683年(天和3)高木伊勢守下屋敷内に守護神として建立したという
金森杉山神社
その先の
信号のところで左手からの広い車道と合流して金森2丁目と7丁目との境界道を進む。
       
ファミリーマート前を通り、都営金森アパート群の間を通り鶴金橋信号直進し、ゆるい坂道を上る。
      
上り切ったところの分かれ道は右手進んで金森6丁目地内に入り、その先の分かれ道は左手を進み、
道なりにゆるい
坂道を下る。 
      
その先で西田杉山神社境内沿いに下り、外れを左折して境内沿いに進む。
西田杉山神社:1683年(天和3)、旗本の高木伊勢守(神奈川県大和市鶴間・高木部落)が
、館の鬼門にあたる当地に守護神として創建したもので、社殿と参道とも大和市の方を向いている。
現在のものは、昭和11年に再建されたもの。

旧道は、境内を外れた辺りから右に大きく弓形にカーブし、
約600m先の南町田1丁目21のセブンイレブンの南西角辺りまで続いていた。
ここでは、道なりに進んで広い車道に出て右折し、農園の中を進み常楽寺前を通って迂回する。
     
   
迂回経路ー7
     
旧道との接続点から道なりに進み、セブンイレブン角の信号交差点を直進し、
南町田3丁目と南町田4丁目との
境界道に入り道なりに進む。
     
その先で南町田4丁目に入ったところの左側に、本殿1726年(享保11)造営の「熊野神社大立看板
その先の「
南町田北信号で国道16号線大和バイパスを横断して反対側の鶴間1丁目の一般道に入る。
     
きれいな町並み進み、東急田園都市線高架下を潜り、
鶴間3丁目と鶴間2丁目との境界道に入りただ今工事中の
鶴間公園沿いに進む。
      
道なりに進み、その先に「鶴間小学校北信号
旧道は、この鶴間小学校北信号辺りから右斜めに折れて、
約200m先の鶴間4丁目と鶴間2丁目との境界の丁字路辺りまで続いていた。
ここでは、信号を直進しその先の突当りを右折して、迂回する。
    
   
迂回経路ー8
     
旧道との接続点から今来た丁字路へ戻り、鶴間4丁目と鶴間2丁目との細い境界道を通り、鶴間小学校校庭沿いに進む。
      
校庭の外れで道は左折する。
旧道は直進し、約600m先の横浜市瀬谷区目黒町セコムFSセンタ西側の細い曲り角辺りまで続いていた。
ここでは、道なりに左折して進み、国道246号線厚木街道に出て横浜市瀬谷区地内に入り、迂回する。
    
   
迂回経路ー9
   
旧道との接続点から道なりに、目黒町地内の細い道を進み、ローソン角の突当りで県道401号線瀬谷柏尾線出て左折する。
瀬谷柏尾線を進み、東名高速ガード下を潜る。
ガード下を出ると左側に、
若宮八幡宮
若宮八幡宮:1558~1569年(永禄年間)に、善昌寺を建立した岩崎丹後守により建立された。
境内には、直刀と勾玉が発掘された円墳の八幡上古墳跡がある。昭和42年に東名高速道路の建設で現在地に移転移築した。

        
上瀬谷町地内の瀬谷柏尾線を進み、左側に「妙光寺看板
妙光寺:652年(飛鳥時代白雉3)に明光比丘尼が庵を建てたのが始まりという古刹で、瀬谷八福神の1つ(大黒天)。
鎌倉時代の1282年(弘安5)には、日蓮上人聖人が一泊したと伝えられている。
境内にある鎌倉時代の1325年(正中2)に鋳造された梵鐘は、神奈川県指定重要文化財。

      
妙光寺を過ぎ竹村町地内に入り、401号線は「竹村町バス停前信号手前辺りからゆるく左にカーブする。
旧道は、カーブしないで直進して約150先に丁字路辺りに続いていた。
ここでは、401号線を道なりに進み、北向地蔵尊から右折して迂回する。
     
  
迂回経路ー10
    
旧道との接続点から左折し、道なりに進み、
1533年(天文2)甲斐武田氏のゆかりのものにより創建された瀬谷八福神の一つ(恵比寿)善昌寺の
赤い幟の前を通り、
中屋敷1丁目地内に入る

   
善昌寺
すぐ先の
分かれ道は右手を進み、、車道を横断して道なりに右にカーブする。
     
その先の突当りを左折し、中屋敷中央公園前を通る。
公園の道を挟んで反対側に、
瀬谷銀行跡
瀬谷銀行:1907年(明治40)、当時は養蚕業が盛んで小島政五郎が頭取となり糸業金融(蚕の銀行)として瀬谷銀行を創業
1935年(昭和10)鎌倉銀行と合併するまで、地域の発展に寄与した。

      
道なりに進み中屋敷町内会館前を通り右側に、年代不詳の中屋敷地蔵尊
丁字路を直進して関六園前を通りハットするような
光景を見て進む。
      
突当りの分かれ道は左手の坂道を上り、その先の分かれ道は右手を進み、
「鎌倉古道」案内板の立つ当時の面影を残しているような
美しい坂道を上りその先で本郷1丁目地内に入る。
     
瀬谷神明社前を通り、道なりに進み、木立の日枝社前を通る。
     
日枝社と境内のケヤキ
日枝社:創建年代不詳であるが、鎌倉時代には既に存立していた。
1538年(天文7)小田原北条の陣屋が設けられたとき、その地頭であった松波内蔵の崇拝の社であったという。
ケヤキ:境内にあるケヤキは、日枝社の御神木として今までほとんど枝打ちなどもされず自然の樹形をほぼ保っているという。
推定樹齢300年以上、樹高35m。

その先で道は
右に少し折れる
旧道は、折れずに直進して約100m先の丁字路辺りに続いていた。
ここでは、道なりに進んで左折して迂回する。
     
   
迂回経路ー11
   
旧道との接続点から右折し、道なりに進み、大門川に架かる小さな橋を渡って本郷3丁目地内に入る。
    
その先の交差点を直進する。
なお、交差点を左折すると突当りに
徳善寺
德善寺:瀬谷八福神の一つで、毘沙門天を祀っている。1555年(弘治元)創建。
境内には明治政府の地租改正の増税に対する反対運動の代表として戦い病死した、義民川口平本建功の碑がある。

道なりに進み、交差点から約50mのところで
大門小学校脇を通る。


今日はここまで。
時は、16時35分。 今朝多摩ニュータウン通りを7時26分に出発してから、所要時間約9時間。(かかり過ぎ)
    

         

旅と旅行と
    
     
参考までに; 歩く 鎌倉街道上ノ道 (鎌倉→高崎)