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この区間は、2019年2月7日に歩いた。 | |||||||||||||||||||||
昨年5月末に、慣れないハーフマラソンを走って右足の膝を傷めてしまい、 | |||||||||||||||||||||
なかなか完治せず長期間の時間をおいての街道歩きとなってしまった。 | |||||||||||||||||||||
この日は、天候がそんなに悪くなかったのに、逆光で見栄のしない写真となってしまい、残念! | |||||||||||||||||||||
参照地図 : インターネットマップ 「 MAPION 」 | |||||||||||||||||||||
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7時39分、西武新宿線入曽駅到着。 |
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8時23分。前回の終点「入曽駅入口」信号交差点を出発し狭山市内の県道50号線を南東へ進み、 水野(月見野)続いて入曽運動公園信号を直進しスタンドに「レギュラー130円」立看板。 私は車を持っていないのでガソリンの値段は全く無頓着であるが、 約40年数年前のバブルの頃は「150円」以上はしていたと思う。 このガソリン価格1つとっても、バブルは異常な時代だったと思う。 その先で所沢市内に入り、北岩岡信号を直進して西武新宿線に沿って進む。 |
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西武新宿線踏切を渡ってすぐ左折して岩岡町地内に入り、西富小学校前を通る。 正門前に「旧鎌倉街道」碑。所沢では、街道沿い特に学校前にはこの碑が建っているので歩く旅人とってはとてもうれしい。 その先で向陽町地内に入ってエステスクエア新所沢マンション前を通り、 続いて緑町地内に入って緑町4丁目信号交差点を直進し県道6号線川越所沢線を進む。 |
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緑町1丁目地内に入り新所沢けやき通りを進み、新所沢駅西入口交差点を直進してすぐの右側に「旧鎌倉街道」碑。 ここで偶然旧鎌倉街道を高崎へ向かって歩いておられる方に出会い、 さらに奇遇なことにこの方は横浜の私の近くにお住まいでした。 ホームページに載せさせていただくということのご了承をいただき、記念写真を一枚。 (もし不都合でしたらご一報ください。削除します。) |
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道なりに進んで泉町信号交差点を直進してけやき台2丁目地内を進み、所沢中学校正門前に「旧鎌倉街道」碑。 けやき台2丁目信号を直進して宮本町地内に入り、その先の峰の坂信号交差点を直進して国道363号線を横断し、 宮本町1丁目地内の坂道を下る。 |
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旧道は、信号から約100mの「宮本町1」地番表示のある電柱辺りから右斜めに折れて、 約150m先の新光寺門前辺りまで続いていた。 ここでは、このまま県道6号線を進んで迂回する。 |
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迂回経路ー1 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点を左折し、「旧鎌倉街道」碑の立つ元町と金山町との細い境界道を進み、 その先で県道4号線小金井街道を横断して反対側の細い道に入る。 |
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最初の交差点を直進し、(左側)1616年(元和2年)開山の実蔵院の境界沿いのごくゆるい坂道を上り続け、 所沢富士幼稚園南角に立つ「鎌倉街道」案内板前を通る。 |
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すぐ先で元町と星の宮1丁目との境界道を進み交差点を直進し、 所沢文化保育園の先で広い車道を横断し、続いて駒形信号で県道4号線を横断して反対側の細い道に入る。 |
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南住吉地内の細い道を道なりに進み、福元内科クリニックの先の変則交差点を直進し、 南小学校校庭沿いに進む。 |
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突当りで、西武池袋線境界柵。 旧道は、直進して西武池袋線を斜めに横断して約100m先の久米地内の変則交差点に続いていた。 ここでは、丁字路を左折して池袋線踏切を渡って迂回する。 |
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迂回経路-2 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、ゆるい坂道を下り、続いて長久寺の境界塀沿いに下り、 境界の外れで左折する。 |
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左折したすぐの長久寺山門前に「旧鎌倉街道」碑。 長久寺:神奈川県藤沢市の遊行寺を総本山とする時宗のお寺。 時宗は鎌倉時代に一遍上人が開いた念仏の宗派。 道なりに進み突当りの勢揃橋北信号で道は分かれる。 旧道は、直進して約150m先の庚申塔の立つ分かれ道辺りまで続いていた。 ここでは信号の左手の道を進み、約100m先の「中華料理なるみや」角の丁字路を右折して迂回する。 |
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迂回経路ー3 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から久米地内を道なりに進み、突当りを右折し、広い車道を進む。 |
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綾瀬川にかかる二瀬橋を渡って東村山市久米川5丁目地内に入り、二瀬橋信号の分かれ道は右手を進み、 当時久米川宿があったという道を進む。 この道は、公事道(くうじみち)といい久米川の公事所(税務署や裁判所を兼ねた役所)に通じていたという道。 |
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諏訪1丁目地内に入り突当りで丁字路になる。 旧道は、丁字路を直進して西武新宿線を斜めに横断し約350m先の、久米川少年野球場角辺りまで続いていた。 ここでは、丁字路を左折し、西武新宿線踏切を渡って約50m先の丁字路を右折して迂回する。 |
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迂回経路ー4 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から球場沿いに進み、「鎌倉古街道」案内板前を通り、 道なりに進んで本町2丁目地内に入り突当りで左手からの車道と合流して進む。 |
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分かれ道は左手の細い道を進み、立派な屋敷前に「東村山市指定 旧蹟鎌倉古道」標柱。但し風化して文字は殆ど判読不可。 その先で、県道16号線府中街道と合流して右折する。 |
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本町2丁目地内の府中街道を進み、本町2丁目信号続いて「東村山駅東口」信号交差点を直進し、 その先の市立中央公民館前に巨大オブジェ。ゼンマイ? とかく芸術とは、不可解なもの。 |
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府中街道を進み東村山郵便局前信号を直進して本町1丁目地内に入り、 西武新宿線踏切を渡り、野口橋信号交差点で新青梅街道を横断して栄町3丁目地内に入り、野口橋を渡る。 |
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その先で八坂神社前を通る。 八坂神社:1662年(寛文2)以来数回の火災で、記録焼失し創建年月不詳。祭神は「素戔嗚尊(牛頭天王)」 江戸時代まで牛頭天王社と呼称し、野口の天王さまと賑わった。(境内にきれいな男女別トイレあり) 続いて八坂小学校前を通り、「←八坂駅」案内板がかかる西武多摩湖線高架下を潜る。 |
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その先の八坂信号で、 旧道は府中街道を左斜めに折れて八坂交番の左手を通り約1.1km離れたセブンイレブン角の丁字路辺りまで続いていた。 ここでは、府中街道を進み「小平第六小学校」信号を左折して迂回する。 |
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迂回経路ー5 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折し、「鎌倉街道」道標の立つ小平市小川東3丁目地内の道を真っ直ぐ進み、 村田建設角の信号交差点で青海街道を横断して反対側の細い道に入る。 |
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「鎌倉街道」案内板の立つ小川町2丁目地内の細い道をまっすぐ進み、青いネット脇を通り、 突当りで鷹野街道に出て左折する。 |
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すぐ右折して、津田町3丁目と津田町2丁目との細い境界道をまっすぐ進み、 突当り車道を横断して反対側に入る。 |
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玉川上水から分離した新堀用水にかかる小さな橋を渡り、 続いて玉川上水にかかる鎌倉橋を渡り上水本町2地内車道に出て右折する。 玉川上水:江戸時代に慢性的な水不足を解消するため、 老中松平伊豆守信綱を最高責任者として、玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟によって開削された、 多摩川の羽村堰から四ッ谷大木戸に至る全長約43kmの水路。 上水に沿ってコナラやクヌギ等の雑木林が残っている、よく整備された散策路となっている。 |
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橋を渡り切って右折してすぐ先の丁字路を左折し、上水本町2丁目地内の道をまっすぐ進み、 都道7号線の信号交差点に出る。 旧道は、この交差点からほぼ直進して約500m先の東恋ヶ窪6丁目の民家前辺りまで続いていた。 ここでは、信号を右折して府中街道の上水本町信号交差点を左折し進み、恋ヶ窪信号で連雀通りに出て迂回する。 |
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迂回経路-6 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から、今来た道を戻り、連雀通りを横断してJAむさしビル脇を進む。 |
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その先の東恋ヶ窪五丁目信号のところで車道を横断し都道17号線府中街道と合流して進み、 東恋ヶ窪四丁目信号続いて次の信号も直進する。 |
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府中街道は信号の先で右にゆるくカーブする。 旧道はカーブしないで直進し、約150m先の東恋ヶ窪四丁目地内のメゾン西国分寺の南角辺りまで続いていた。 ここでは、このまま府中街道を進み迂回する。 |
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迂回経路ー7 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から進み、約100m先で西武国分寺線境界柵で遮られる。 旧道は西武国分寺線を横断し、反対側の道に続いていた。 ここでは、今来た道を戻り国分寺線の踏切を渡り反対側に迂回する。 |
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迂回経路ー8 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右斜めに折れ、 当時の名残があるという西恋ヶ窪一丁目地内の細い道を進み、「熊野神社前信号」を直進する。 |
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信号手前左側に、「市重要史跡 恋ヶ窪村分水」案内板。 信号を直進したずぐの左側参道階段上に「熊野神社」。 熊野神社:和歌山県熊野の大神を勧請鎮祭したもので、 元弘建武の頃(1331)、新田義貞鎌倉勢との戦での兵火で消失したが再建され、その後も数度社殿が再建されている。 現在の本殿は、1763年(宝暦13)に造営されたもの。 境内に、「廻国雑記」の地名を詠んだ歌碑。 「朽ちはてぬ名のみ残れぬ恋ヶ窪今はた訪ふも知記りならずや」。 廻国雑記:1486年(文明18)の6月から約10ヶ月間、 聖護院門跡道興准后(どうこうじゅごう)が京都を出発して北陸・関東・奥州を遊歴したときの紀行文。 各地の地名を読み込んだ優れた和歌が多い。 |
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道なりに進み、右側に鎌倉時代初期に開山した東福寺。 境内に畠山重忠と夙妻大夫の悲恋物語の傾城墓(花で埋もれている)と傾城墓由来碑。 隣に「武蔵国分寺傾城松(3代目一葉松)」。 傾城墓:重忠は当時国府ヶ窪と呼ばれたこの地の夙妻(あさずま)太夫という遊女と恋仲であった。 重忠が平氏追討のため源義経に従って西国へ下っていたとき、 恋敵が重忠が戦死したとの嘘をついて夙妻に重忠をあきらめさせようとしたが、 悲しんだ夙妻は姿見の池に身を投げて死んでしまった。 知らずに凱旋した重忠はことの顛末を聞き、哀れに思い夙妻のために一堂を建立し無量山道成寺と名付けて霊を祀った。 また里人も、夙妻大夫を哀れに思い墓の脇に1本の松を植えたところ、その葉は不思議にも一葉であったという。 現在の一葉松は、姿見の池から移しかえられた3代目松。 |
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東福寺のすぐ先左側小路角に、訪れる度毎回美しい花が供えられている野仏像。 小路には、「恋ヶ窪用水(恋ヶ窪村分水)の由来」案内板と復元された恋ヶ窪用水。 さらに進み、左側の林の法面に「国分寺姿見池緑地保全地域」案内板。 案内板概要
道の反対の右側に階段。後でこの階段迄戻ってくることになる。 |
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すぐ先の突当りで、JR中央本線の境界柵に遮られる。 旧道は、線路を横断して約100m先の府中街道「西国分寺駅南入口」信号交差点辺りまで続いていた。 ここでは、先ほどの階段まで戻り府中街道に出て迂回する。 |
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迂回経路ー9 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から泉町2丁目と泉町3丁目との境界の府中街道を進み、 泉信号交差点で卍型歩道橋を渡って多喜窪通りを横断し、府中街道を進む。 |
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泉町信号から約100m先で府中街道と別れ右手の小路に入り、 右側の家並の外れで駐車場となりJR武蔵野線境界柵がある。 旧道は、駐車場を通りJR武蔵野線の反対側に続いていた。 ここでは、今来た道を戻り泉町信号を左折して陸橋を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー10 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から道なりに進み、西元町4丁目地内のゆるやかな坂の切通しに入り、 途中「この切通しは、国指定史跡地にある伝鎌倉街道を保存するたに車両通行止め」看板とバリケード。 その先、左側階段前に「尼寺北方の塚」標識、右側階段前に「伝詳応寺跡」標識。 |
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左側階段上に、それらしき「尼寺北方の塚」。(間違っているかも?) 右側階段を上ると、鎌倉時代末頃建立された「伝祥応寺跡」。 祥応寺:市内本多四丁目の祥応寺の前身と考えられている。 土塁と溝とで東西30m、南北45mの区画が形づくられ、 東西9m、南北18mほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だった、という。 切通しを通り出口を直進し、左手武蔵国分尼寺跡の脇を通る。 |
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国分尼寺跡に復元された当時の溝。 分かれ道は右手を進んで府中市武蔵台1丁目地内に入り、突当りで車道に出て右折する。 |
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すぐ左折し、突当りで都道14号線東八道路に出る。 旧道は、東八道路を横断して反対側に続いていた。 ここでは、右折して武蔵台小学校南信号で東八道路を横断してUターンして迂回する。 |
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迂回経路ー11 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折し、道なりに進み、突当りで東芝工場前の丁字路に出る。 旧道は、東芝工場の敷地を通り約1km先の三好町2丁目48番地辺りの丁字路に続いていた。 ここでは、丁字路を右折し、東芝工場沿いに半周して迂回する。 |
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迂回経路ー12 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、三好町2丁目地内の道を進み、突当りで府中第4中学校前の丁字路に出る。 旧道は、直進して中学校の反対側に続いていた。 ここでは、左折して校庭沿いに迂回する。 |
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迂回経路ー13 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、道なりに進んで「美好町交番前」信号で国道20号線を横断し、 美好町3丁目地内に入り「美好町3丁目西」信号続いて「浅間神社前」信号を直進する。 |
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浅間神社前信号の右側に、高さ1m超の「屋敷分の庚申塔」。 屋敷分の庚申塔:屋敷分村(現・府中市美好町三丁目)の人たちが、1674年(延宝2)に建立したもので、 市内で最も古い庚申塔。本尊の青面金剛像と三猿が彫られている。 続いて浅間神社、そして屋敷分の地名の謂れを記した「屋敷分」碑。 |
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その先約150mの右側の小路の角に、 「七百余年の歴史の板碑」標識の立つ元応の板碑(複製) 元応の板碑:鎌倉時代中頃から室町時代の末までの約300年の間、 秩父産の青色している緑泥片岩で板碑(追善供養の卒塔婆)が盛んに造られた。 八雲神社境内のこの板碑には、元応元年(1319)11月8日の刻印があり、当時の面影を残していると言われている。 続いて天王宮八雲神社。 天王宮八雲神社:本殿完成は1867年(文久3)で、現在も分梅地域の鎮守として慕われている。 神社参道前に、「陣街道」碑。 陣街道:この旧鎌倉街道は陣街道とも呼ぶが、由来は中世に軍勢が陣立して往来したことによる。 また、浅間道、分梅道ともいう。 |
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分梅町1丁目に入ってJR南武線踏切を渡り、光明院坂を下る。 坂の途中に、鎌倉時代末開山の光明院。寺院が余りにも近代的ビル過ぎて、これが本堂?かな。 |
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坂を下り切って「分梅駐在所」信号を直進して分梅町2丁目と分梅町3丁目との境界道を進み、 中央道高架下を潜り、その先で右にカーブする。 旧道は直進し、多摩川を越えた約2km先の多摩市関戸2丁目地内の(現)鎌倉街道「新大栗橋」信号辺りまで続いていた。 ここでは、道なりにカーブして進んで「中河原駅北」信号に出て左折し、 都道18号線鎌倉街道を進んで多摩川にかかる関戸橋を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー14 | |||||||||||||||||||||
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旧道との接続点から都道18号線と別れ右手のビルの谷間の細い道に入り、関戸4丁目地内の道を進み、 大栗川にかかる大栗橋を渡る。 |
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関戸5丁目地内の道を進み、 右側に、地蔵堂と「関戸古戦場跡」標識。 地蔵尊は、背に「関戸村 寛文三年・・・念仏講中」と刻まれていいて、江戸前期に建立されたもの。 関戸古戦場:鎌倉時代の1333年(元弘3)5月16日、霞ノ関(現多摩市関戸)一帯で、 北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦場。 新田軍が勝利し、北条泰家は鎌倉へ逃走したが、この関戸の合戦から6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。 ゆるい坂道を上る。 |
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その先に、「熊野神社前」信号。 信号右側に、1489年(延徳元)和歌山県の熊野三社神社を勧請した熊野神社と、 参道左側に復元された霞ノ関南木戸柵(丸柱)。 霞ノ関南木戸:鎌倉時代の1213年(建暦3)に、鎌倉街道に設置された木柵の関。 中世の関所跡として、地名にも「関戸」と称せられる貴重な史跡という。 |
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熊野神社前信号から関戸6丁目地内に入り、坂道を上り切って「多摩市役所」信号を直進して貝取地内に入り、、 続く多摩市役所西信号の先で乞田信号に出る。 ここは6差路(正確には5差路)になっていて、旧道は左から2番目の県道157号線のすぐ右手の細い坂道に入る、 |
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乞田地内の坂道を下り、下り切った突当りで県道18号線多摩ニュータウン通りに出て、右折する。 今日は、ここまで。 時は、17時16分。 今朝「入曽駅入口」信号を8時23分に出発してから、所要時間 約9時間。 いつものことであるが、道中ホームページ用の写真を1000枚くらい撮るので時間がかかっているので、 普通の人であれば7時間くらいで歩けると思う。 |
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小田急多摩線永山駅から、横浜へ。 | |||||||||||||||||||||
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参考までに; 歩く 鎌倉街道上ノ道 (鎌倉→高崎) | |||||||||||||||||||||