「旧鎌倉街道 探索の旅」を歩く
 歩く 旧鎌倉街道 上道2
      (高崎 → 鎌倉)
     瀬谷→ 鎌倉
i-愛ロマンチカ (横浜市瀬谷区) (鎌倉市鶴岡八幡宮)
     
  
      この区間は、2019年5月17日に歩いた。
旧鎌倉街道の起点、鎌倉鶴岡八幡宮三の鳥居に到着し、ゴール。
2011年に高崎から上道を歩き初めてから、上道、中道、下道を往復し、そして今回また高崎から上道を歩き終え、
8年間の旧鎌倉街道の歩き旅も今回でひとまず終了とすることにした。
長いようで短い旅だったような気がする。
ただ、学生のころから歩くことが好きであちこち歩き廻ったことからすると、
またいつか他の旧街道歩きを再開するかも知れない。
    
参照地図 : インターネットマップ 「 MAPION 」
       
2019.5.7 6時2分 前回の終点瀬谷区本郷3丁目大門小学校正門前丁字路を出発し、
 道なりに進んで
相鉄本線ガード下を潜って瀬谷5丁目と瀬谷6丁目の境界道を進み、
信号交差点
を横断して反対側の道に入る。 
    
道なりに左にカーブし、その先の分かれ道は右手を進む。
分かれ道のど真ん中に、文字が風化して判読が難しい「
地神塔
地神塔:豊作を祈って大地や天候の神を祀るためのもの。

     
この時間静まり返った住宅街の中を進み、突当りの丁字路を左折してすぐピンク色建物から右折し、
その先で
信号で県道40号線厚木街道を横断し橋戸3丁目地内に入る。
      
すぐ左側の高台に小さな「稲荷神社
道なりに進み「この先通り抜けは出来ません」看板の立つ
分かれ道は右手の坂道を上り、突当りで右に折れる。
旧道は折れずに直進し、約650m先の北新21番地辺りまで続いていた。
ここでは、今来た看板の立つ分かれ道まで戻り、左馬社前を通って迂回する。  
    
迂回経路ー1
    
旧道との接続点から今来た坂道を戻り、先ほどの丁字路を直進して北新地内の道を進み、
北新自治会館前を通る。
   
ゆるい下り坂道となり途中に瀬谷八福神の1つ1625年(寛永2)開山の宗川寺への参道入口。
坂道を下り切ったところで
県道45号線中原街道を横断して反対側の下瀬谷3丁目地内の細い道に入る。
    
道なりに進み、分かれ道は左手を進み、すぐ先の分かれ道は右手を進む。
    
左に大きくカーブし、「さくら小学校北側信号交差点を直進して、相沢川にかかる東橋を渡る。
(参考にしている「旧鎌倉街道 探索の旅」では、
東橋を渡った先の旧道は、相沢川沿いに進み藪山橋まで続いていたが当時この間の約800mは消滅しているとしていた。、
ただ、最近旧道と同じような経路と思われる相沢川沿いの道が復活しているので、
ここではこの相沢川沿いの道を「旧道」として進むことにした。)

    
東橋を渡ってすぐ右折して下瀬谷1丁目地内の相沢川沿いを進み、
小径橋、童橋前を通りその先で
コンクリート壁の狭い道を進む。続いて出水橋前を通って泉区上飯田地内に入る。
    
相沢川沿いに進み藪山橋前を直進し、その先でやや左に折れて相沢川を離れ(左側)峠工房前を通り、
道なりに進んで「
老人福祉施設 ヴィラ泉」前を通って広い車道を横断して反対側の道に入る。
   
道なりに進んで右にカーブし、その先で左手から道と合流して進み、右手前方に大和市上和田地内の団地
    
住宅街に入りすぐの車道を横断し反対側の道に入り、「「江戸柳明古地図大案内板前を通る。
江戸柳明古地図:江戸時代、この地柳明は「えどやなみょう」と称し街道に商家が立並んでいたさまを、
地図で表示したもの

この古地図で、現在歩いている道が「上道」で間違いないことが、確認できる。
続いて、民家風「
羽田郷土資料館」(郷土の農機具など展示)前を通るが、
館の玄関の門扉は、これまで通る度にしっかり施錠されていて見学不可。
                    
その先で道なりに左にカーブして東海道新幹線ガード下を潜り、
分かれ道は左手を進んで「
せせらぎ緑道」として整備された側道に入って本興寺参道階段前を通り、
まさに
緑の道を進む。
      
緑道の突当りは車道と別れ左手の細い道に入り、車道と並行の道を進み左側に古い石碑が2つ
左側は「
二十三夜塔」、右側は風化して刻印が不明。
     
その先で「いちょう団地前」信号の左手にある横断歩道を渡って反対側の道に入り、
道なりに進んで、さきほどの車道と再度合流して進む。
     
約50m先で右にカーブする車道と別れて直進し、ゆるやかな坂道を上り、左にカーブして上り切る。
     
道なりに進んで左にカーブし、住宅街の中を通り、車道の交差点に出て右折する。
    
上飯田地内のを進み、「いちょう団地入口信号丁字路を直進し、
道なりに進んで「
明成幼稚園入口信号丁字路も直進し飯田神社境内沿いに進む。
     
飯田神社:境川沿いにある「サバ神社」の一つで、主神は源義朝。
縄文時代は境川沿いは入り海で、神社境内からは縄文後期の注口土器が出土している。

鳥居の前に、
古い石碑群の庚申塔、地蔵像、道祖神、七観音像などが立っている。
左斜め前方に
上飯田団地が見える道を真っ直ぐ進む。
     
その先で「上飯田団地前信号交差点を直進し右にカーブして、
上飯田団地入口信号交差点で県道22号線長後街道を横断し反対側の道に入る。
      
上飯田地内のを進み、左側に「紋」付の立派な門、続いて残念ながら只今工事中のこれも立派な長屋門
飯田郷の街道筋には、長屋門を持った家が多かったというが、この長屋門も当時の名残かも。  

     
その先の「リホームショールーム立看板の角の分かれ道は左手を進んで下飯田地内に入り、
(右側)石田診療所前を通って道なりにゆるい
坂道を下る。
    
坂を下り切って「LACUESTA前を通り、すぐ先の交差点を直進して左斜めの道に入り、畑の中を通る。
    
森の中に入って左にゆるくカーブして下飯田左馬神社前を通る。
下飯田左馬神社:境川沿いに多く見られるサバ神社の一社。祭神は左馬頭源義朝。
1590年(天正18)に領主となった筧越前守助兵衛為春 が地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復した。
境内のイチョウは市指定の名木古木で、他に
堅牢地神塔、庚申塔などがある。
そのすぐ先の
分かれ道は、右手の坂道を下る。
     
下り切ったところで先ほどの車道に出て左折し、
道なりに進み
相鉄線いずみの線高架続いて市営地下鉄「ブルーライン」高架下を潜り、その先で(左側)富士塚公園前を通る
     
富士塚公園片隅に、「富士塚城跡石碑
富士塚城跡:平安時代末期に、この地を治めていた飯田五郎家義の館があった、と言われるところ。
家義は、源頼朝が挙兵した石橋山の戦いで大敗し逃亡したとき、頼朝を危機から救い、
また富士川の合戦で活躍した論功行賞により、頼朝から飯田郷の地頭に任ぜられた。
頼朝は、家義を鎌倉武士の鑑とし、
鎌倉北に位置する重要な地である飯田郷の鎌倉往還の街道沿いに、家義の居館を築かせた。

道なりに進み
琴平神社前を通る。
琴平神社::東泉寺がこの地に移転再興されたとき、寺の鎮守として建立された。
     
琴平神社に隣接して、東泉寺
東泉寺:創建年不詳。以前は境川べりにあったが、度々の川の氾濫で1582年(天正10)頃にこの地に移転再興された。
       山門(天明門)は、1783年(天明3)建立。
       この年、浅間山の噴火でこの地は8日間昼夜地震、1ヵ月もの間雨が降り続き、
飢餓などによる多くの被害者が出たため、世の平安を願ってこの山門が作られた。

道なりに進み「
下飯田信号交差点を直進して反対側の細い道に入る。
     
道なりに進み突当を左折し、ゆるい坂道を道なりに左にカーブして下り、その先で広い車道に出て直進する。
    
右下方に境川遊水地公園を見ながら、長い坂道を下り、左に大きくカーブする。
    
和泉川にかかる新折越橋を渡り、道なりに進んで右にカーブした先の真新しい公衆トイレ前で左折して細い坂道に入り、
坂道を
右にカーブして下り戸塚区俣野町地内に入る。
    
道なりに進み、突当りで「山道産業」前の丁字路に出て左折する。
丁字路右角に、
石碑が3基
左から順に、安永五年建立野仏像、昭和四十三年建立庚申供養塔、弘代三年建立庚申塔。

    
道なりに進み、「みち商事」立看板の先の突当りを左に折れ、「俣野町内会掲示板の立つ丁字路に出て右斜めに折れる。
旧道は、この丁字路を直進して約200m先の俣野神社鳥居前あたりまで続いていた。
    
迂回経路ー2
    
俣野神社の鳥居前辺りの旧道との接続点から右折し、細い道を進みその先で急坂を下る。
俣野神社(上俣野神社):創建不詳。俣野の里の鎮守で、昔は「欽明天王社」と呼ばれ、
この近くの天王の森の地名の由来となっている。

    
突当りを左折し、その先の突当りは道なり右に折れ、続く突当りを左折する。
    
道なりに進んで右に折れ、その先の信号で県道403号線を横断して反対側の道に入り、明治学院戸塚グランド沿いに進む。
    
突当りを左にカーブして道なりに進み、(廃校になった)俣野小学校前を通り、宇田川にかかる宇田橋を渡る。
    
橋を渡り終えてすぐ右折し宇田川沿いに進み東俣野町地内に入り、約200m先の細い道との丁字路で左折し、
道なりに進んで
右にカーブする。
    
約150m先のカーブミラーの立つ丁字路を左折し、道なりに大きく右にカーブして進み、
龍長院参道入口前を通りその先で右に曲がりゆるい坂道を上る。
    
龍長院:もと鎌倉市本木亀宝寺の末寺で釈迦牟尼仏を安置している。延徳年間相模竜滝庵を草創し、堅心を迎えて開山した。
その後1648年(慶安元)に永井丹波守白元が領主となった時、鎮護国家の祈願所として辰岩を迎え堂宇を改築し、
竜長院と改めた。

参道入口に、「「
旧鎌倉街道の道筋案内板;龍長院を南に行くと東俣野町の鎮守八坂神社があり、
その鳥居を左に折れ堂坂を上り「旧東海道を横切って影取町に入り、大船方面に通じている、と記載されている。
案内板の左手に、新しい花が供えられた
古い仏像3体
    
坂道の途中にある八坂神社参道入口前を通る。
八坂神社:1733年(享保18)創建で、東俣野町の鎮守。
坂道を上り切ったちころに、神社から離れた位置にある
八坂神社鳥居
    
鳥居の前に、鎌倉街道西の道案内板(案内板要約)鎌倉街道のこの「西の道」は「上の道」とも言われ、
1333年(元弘3)上州で挙兵した新田軍が鎌倉攻略に進撃した道と伝えられている。

道なり
に進み、その先の「東俣野中央公園看板の立つ交差点を直進して反対側のゆるい坂道を上る。
    
平坦な道を進んで左にカーブし、突当りを左にカーブして道なりに進み、
その先の突当りを右に大きくカーブして
坂道を上る。
   
介護老人保健施設「ソフィア横浜」前を通り坂を上り切ったところの「クロネコ宅急便センター」角の信号を直進し、
その先で国道1号線東海道の「
藤沢バイパス出口信号交差点に出る。
旧道は、この信号辺りから東海道を斜めに横断してその先約300mの戸塚区影取町1と9の境界道のカーブ辺りまで
続いていた。
ここでは、信号の右手にある横断歩道橋で東海道を県道30号線を横断して迂回する。
   
迂回経路ー3
      
旧道との接続点から右折し、すぐの突当りを左折し、鎌倉市関谷と戸塚区影取町との境界道を進む。
  
その先に「この先急勾配につき走行注意立看板、確かに急過ぎる勾配でかつ狭くて恐い!
この時、車が結構なスピードを出して登ってくる。恐怖!
急坂を下り切りって鎌倉市関谷と藤沢市第鋸とのゆるい
境界坂道を下り、
用水路のような滝川にかかる滝ノ川1号橋を渡って「
加藤段ボール看板の立つ道に入る。
    
橋を渡って最初の丁字路を右折し、藤沢市柄沢地内の住宅街の中を真直ぐ進み、広い車道に出て左折する。
    
すぐ先の「大鋸外原公園入口信号を横断して反対側の道の右側を通り、柄沢2丁目地内のゆるい坂道を上って右に折れて、
ヤオコー駐車場前を通て真っ直ぐ進む。
    
その先で柄沢1丁目に入り、柄沢神社参道階段前を通る。
旧道は、参道階段のすぐ先で右に折れる辺りからr直進し、
約400m先の県道302号線にある「藤ヶ丘中学校前」バス停辺りまで続いていた。
ここでは、道なりに進み県道302号線に出て迂回する。
柄沢神社:創建年不詳。1194年(建久4)源頼朝が武州入間川に狩りをしたおり当神社に参拝した。
鳥居前に、「青面金剛」、「帝釈天王」、庚申塔などの
石仏が並ぶ。
         
迂回経路ー4
    
旧道との接続点から県道302号線の坂道を下り、すぐ先で「村岡消防出張所前信号交差点を直進し渡内2丁目地内に入り
坂道を下り続けて
慈眼寺参道階段入口前を通る。
    
慈眼寺:創建は16世紀中頃(天文年間)。鎌倉第三十三番札所。
梵鐘は、1629年(寛永6)の古鐘で元江ノ島寺にあったもの。
混生樹(寄り木):境内にある藤沢市指定文化財(天然記念物)。
モチノキ(4株)、タブノキ3株、スダシイ1株の3種類8株が根本でくっついて一部融合した寄り木。
樹齢約300年以上、高さ10m

慈眼寺境内擁壁沿いに下り外れで
信号交差点に出る。
旧道は、信号交差点辺りから右斜めに折れて約300m先の渡内2丁目の「オシャレサロン キノシタ」店辺りまで続いていた
ここでは、信号から右折して迂回する。
    
迂回経路ー5
   
旧道との接続点から進み、すぐ先で車道を横断して反対側に道に入って渡内3丁目と村岡3丁目との境界道を進み、
突当りで高台に渡内日枝神社のある
車道に出て右折する。
     
渡内の鎮守の日枝神社
村岡東4丁目と村岡東3丁目との
境界道を道なりに進み、その先の坂道を下る途中に「長福寺袖看板
     
長福寺看板の先で道は左斜めに折れる
旧道は、斜めに折れず真っ直ぐ進み、
約500m先のJR東海道線を越えた藤沢市の小塚と宮前との境界辺りまで続いていた。
こでは、道なりに進み「村岡東2丁目」信号から左折して、TSUTAYAの先でJR東海道線をトンネルで横断して迂回する。
   
迂回経路ー6
   
旧道との接続点から右折し、藤沢市の小塚と宮前との境界道を進み、その先の丁字路は直進して宮前地内の細い道に入る。
    
狭い草むら道を進み、突当りで柏尾川の青色水道橋のかかる堤防に出る。
旧道は、柏尾川を渡って反対側に続いていたが、ここでは左折し堤防沿いに進んで柏尾川にかかる町屋橋を渡って迂回する。
      
迂回経路ー7
   
旧道との接続点から左折し、左側の上町屋地内の細道に入って道なりに左に曲り、東光院境内沿いに進み外れで左折する。
     
すぐ先の東光院の門前から、右折する。
    
旧党との接続点から右折し、当時の面影が漂っていそうな道を進み、突当りで道路を横断して左斜めの坂道に入る。
          
坂道を道なりに上り、突当りを左折、右折して反対側の坂道を上る。右折した左側に、古い道祖神や道標などの石物が並ぶ。
    
長い坂道を上り、続いて急坂を下り、突当りで広い車道に出て左折する。
       
鎌倉市寺分地内のを進み、突当りを右斜めに折れて、湘南モノレール高架を目指して進む。
    
突当りの「富士塚小学校入口」手前で左斜めの細い道に入り、信号で横断して反対側の寺分1丁目地内の道に入り、
突当りの
分かれ道は右手を進む。
    
寺分1丁目地内のを進み、すぐ先小川にかかる橋の脇に並ぶ、(左)「馬頭観世音石碑と不詳石碑。
その先の突当りは
右折左折して進む。
    
すぐ先で今回で3回目の大慶寺前を通るが、いつも何故か山門はしっかり閉じられている。
大慶寺::創建は1280年頃(弘安年間)。
1386年(至徳元)には関東10刹と列せられ、深沢周辺に広大な寺域をもっていた。
この辺りの「寺分の地名は、「大慶寺の寺域」に由来。

続いて
東光寺
    
東光寺:創建1431年(永享3)。高野山慈眼院の法印霊範が隠居所とした寺と伝えられている。
大師堂前に、四国八十八ヶ霊場から勧請した砂が収められている。(お砂踏み霊場)

道なりに進み、
突当りを右折し、急な坂道を上る。
    
上り切ったところの丁字路を左折し、寺分3丁目と梶原2丁目との境界の急な坂道を深沢中学校前を通って延々と上り続け、
突当りで広い車道に出て
斜めに横断して反対側の梶原3丁目地内の細い道に入る。
     
梶原3丁目地内のを進み、突当りで右折する。
旧道は直進して約100m先の道に続いていた。ここでは道なりに突当りを右折して迂回する。
    
迂回経路ー8
  
旧道との接続点から道なりに右にカーブして進み、その先で左斜めに折れてゆるい坂道を真直ぐに下り、
突当りで丁字路に出る。
旧道は丁字路を直進し、約100m先の梶原3丁目31番地の(株)トータル・ケア・ワークスの角辺りまで続いていた。
ここでは、丁字路を右折して迂回する。
      
迂回経路-9
                   
旧道との接続点から道なりに進み、「山ノ内配水場」前を通り突当りで右折し、山ノ内と梶原3丁目との境界の急坂を下る。
    
(右側)公慈庵の前を通りその先で左にカーブし交通標識の立つところから右折して細い道に入り、
山ノ内と梶原5丁目の
境界坂道を上り、道なりに上り続ける。
    
右下方にきれいに整備された公園を見ながら右にカーブして進み、突当りを左折し、
坂道を上りきったところで
広い道に出て右折する。
    
なお、ここで左折すると突当りにとても簡素な、葛原岡神社
葛原岡神社:1887年(明治20)、日野俊基を祀るため創建された神社。
境内には、「
俊基御終焉之地
    
右折した広い道を進み、右側に「国指定史跡日野俊基
日野俊基:鎌倉末期後醍醐天皇に仕え、討幕計画に参加した朝臣。
1324年正中の変、さらに1331年元弘の乱で捕えられ、鎌倉のこの地葛原岡で処刑された。

その先の
分かれ道は、左手を進み扇が谷4丁目地内の坂道を下る。
ちなみに、右手の道は「鎌倉の大仏」への道。
    
坂道を下り、突当りの分かれ道は柵のある左手を進み、坂道を下り続ける。
   
(左側)「源氏山詰所」前を通りすぐ先の分かれ道は左手の急坂を下り、化粧坂に入る。
化粧坂(けわいざか):鎌倉の北西から武蔵へ抜け出るための出入口にあたる交通の要衝で、鎌倉七入口の一つ。
1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場になったところ。
坂名由来には、平家の大将の首をこの坂上で検分したときに首に化粧した、
坂上に遊女屋があって女たちが化粧をして旅人に一夜の情を注いだ、などがある。

巨岩
がごろごろ。晴天続きなのに何故かどろどろ
    
足元不確かなな急坂急折
約5分で
化粧坂の出口、そして扇ガ谷4丁目地内の坂道を道なりに下る。
   
突当りで車道に出て右折し、その先でJR横須賀線ガード下を潜り、道なりに進む。
   
すぐ先丁字路角に、岩船地蔵堂
岩船地蔵堂:日本3大岩船地蔵の1つで、平成13年に再建建替えられた。
源頼朝の息女大姫の守り本尊で、1691年(元禄3)造立の地蔵立像と船形光背の石造の地蔵が安置されている。
大姫は人質として連れてこられていた木曽義仲の嫡男・義高と6歳のとき婚約するが、
父頼朝により義高が殺されたのち病気になり、1197年(建久8)20歳で亡くなった。

道なりに
扇川沿いに進み、その先の丁字路は直進する。
    
扇川沿いに進み、突当りで車道に出て右折し、JR横須賀線踏切を渡り突当りを左折する。
    
寿福寺前を通り、約100m先の丁字路を左折して再度JR横須賀線踏切を横断して、
扇ガ谷2丁目と雪ノ下1丁目との
境界道を進む。
    
不動茶屋看板手前の小路奥に、吾妻鏡に記されている窟堂跡といわれているほど古い岩窟不動尊
雪ノ下2丁目と雪ノ下1丁目との境界道を進み、(左側)延々と続く「
鎌倉市川喜多映画記念館黒塀前を通る。
    
突当りの車道を左折し、道なりに進み、県道21号線に出て右折する。
右折する角に、鎌倉十井の1つ「
鉄の井」。
鉄の井(くろがねのい):1258年(正嘉2)の大火で焼失した新清水寺の鉄造観音像の頭部が、
後年この井戸から掘りだされたことから、この名がつけられた。

   
鶴岡八幡宮沿い沿いの県道21号線を進み、
「八幡宮前」信号のところにある「三の鳥居」が「旧鎌倉街道」の起点で今回の
ゴール地点
   
時は、15時49分。今朝の出発は 6時2分。 所要時間 約10時間。 但し普通の人であれば8時間程度かも。
   
帰 途
     
若宮大路段葛を通り、小町通りを通って、JR鎌倉駅。
   

旅と旅行と
    
参考までに; 歩く 鎌倉街道上ノ道 (鎌倉→高崎)