歩く 甲州街道
日本橋→内藤新宿
 (東京都中央区)  (東京都新宿区)
i  ー愛ロマンチカ
2004.11.6  10時ジャストに5街道の最後の甲州街道を出発した。
この日は午前中が曇りで午後から晴れ、陽気もよくゆっくり歩くことにした。
5街道を全て日本橋から出発なので
いつも同じ橋の写真でも芸が無いと、現場でアングルなどに30分も腐心してしまった。
それに皇居周囲の色づいた木々の景観には、つい時間を忘れていた。
今は大都市の中心街となった街道には、史蹟の保存は難しく単調な歩きで
ただ人ごみをかき分けて進むだけということもあった。

区間経路
(日本橋)国道15号線→1号線→20号線→一般道→20号線→(内藤新宿)一般道→20号線(渋谷区笹塚)

内藤新宿:日本橋から最初の宿の高井戸が遠かったため1698年(元禄11)に新たに作った宿場で、
       内藤(清成)家の近くにあったため「内藤新宿」と呼ばれた。


日本橋川にかかる日本橋風景(写真をクリックすると拡大します)
5街道は全てこの日本橋が起点となるので、
毎回同じ写真ではつまらないので、今回はちょっと視点を変えて撮ってみた。

       
日本橋の中央には五街道の起点標識である道路元標が埋められている。
橋の北側西たもとの
東京市道路元標ポールの足元に、その複製標識(写真右)がある。
なお元標は昭和47年に柱からプレートに変えられ、文字は当時の首相の佐藤栄作の筆によるもの。
   
橋の南側西たもとには日本橋由来碑(写真右、昭和11年建)がある。
「慶長8年
(1603)に橋が架けられ、通称日本橋と呼ばれていたのが遂に正式名となった。
翌年諸街道に一里塚を築いたとき日本橋を起点とした。」などの由来が記されている。
現在の橋は明治44年に東京市により石造二連アーチの道路橋として造られたもの。

またこの碑のあるコーナーは「
花の広場」と愛称がつけらていて、只今はセルビアが満開。
   
日本橋を出発して国道15号線を南へ200mほど歩くと、左角にCOREDO日本橋のビル(写真左)がある。
ここは火災で裾の乱れを気にした女性店員がロープを思わず手放し墜死した事故や、
横井英樹の乗っ取り事件などで有名な白木屋デパート跡である。
今では裾の乱れを商売にするような時代であれば、決して墜死などはありえないであろう。
その十字路を右折して、
国道1号線(写真中)を西へ進む。
この頃は曇天で歩くにはほどよい天気であったが、写真映りはどうもよくない。
数分歩くと外堀通りとの十字路、呉服橋交差点に出る。
この辺に呉服橋があったということであるが、全くそのその形跡はない。

   
ここで北町奉行所跡を見るため寄り道し左折したが、東京駅八重洲北口前は只今ビル建設現場。
何度も周辺を探し回ったが、碑はビル残材と同じように既に産業廃棄物扱いで消滅しているらしい。

   
1号線に戻りJR線ガード(写真左)を潜って西へ進むと前方に交通標識があり、
大手町信号交差点で甲州街道は左折する。
交差点に来ると前方左側コーナーで、何やら人だかり。
近づいて見ると
ロケの最中
ズームアップで遠方よりその風景を撮っていたら、ガードマンが近寄り「撮るな」という。
何故撮ってはいけないのか分らないが、どこを探しても道路占有許可の表示が見当たらない。
カメラの前では、若い男が一人カバンを提げて突っ立っているだけ。
女性のいないロケなんて見たってしょうがないこと。
文句を言う気にさえなれず、離れて1号線
(日比谷通り)を南に向かった。
   
1号線は皇居の濠沿いに走っていて、右手がで前方には和田倉橋が見える。
この橋は昔のままの姿で復元されたもので橋を渡り左折すると、
大きな
和田倉噴水公園があり勢いよく水が噴き上げていた。
さすがによく整備されている公園で、憩いのひと時を過ごすに絶好とみた。

   
1号線に戻り歩道を歩いて行くと、和田倉門跡がありその先には特別史跡江戸城跡が見える。
江戸城は1457年
(長禄元)に太田道潅により創築され、1590年(天正18)北条氏が滅亡した後
徳川家康が居城と定めた。その後明治維新になり皇居となった。

   
皇居周辺の紅葉
  
カルガモは皆こちらを向いている。(それは誰かがエサを与えているから)
左手を見ると
JR東京駅
カルガモの大群がこちらを目がけて突進してくる。(戦闘訓練?)
   
濠に映えるその姿
   
堀の南端の日比谷交差点(写真左)を横断し、右折して国道20号線を進む。
余談であるが横断中前方に以前勤めていた会社のビルが見えたときは、やはり懐かしく思ってしまった。
そういえば、この辺は昼休みによく歩いた得意のところではないか。

   
交差点の左側から日比谷公園が始まり、しばらく20号線沿いの日比谷公園中の道を歩いた。
公園の入口を入ると、
公園案内看板があり、その先には日比谷見付跡碑がある。
さらに進むと濠の一部を利用して作った、心の字の形をした
心字池がある。
さらに出口の近くには、
日比谷ガーデンという花屋があり、ママさんが一生懸命手入れをしていた。
あまりにも忙しそうで、こちらを向いてください、とはついに言えなかった。
    
公園を出て20号線に戻るとすぐ右手に祝田橋があるが、橋というよりは広い道路といった感じ。
さらに進むと、右手に
桜田門が見える。
    
濠沿いの20号線を進んでいくと、国会前交差点に出る。
ここの交差点は歩行者にはとても複雑でまた分り難い。
なんとか左手に国会議事堂を見る
横断歩道を渡って、尾崎記念公園に辿りつく。
   
ここで公園(写真左)に入り左折すると、日本水準原点標庫がある。
この中には全国の標高基準として明治24年
(1891)に設置された日本水準原点があり、
その標高は24.4140mと定められている。
この標庫はローマ風神殿に倣って建築されたもので、明治期の数少ない近代建築史上貴重な建物という。
また近くに
高い塔があり、トップに時計が取り付けられているが、この塔は時計台?
   
元の20号線に戻り、濠沿いの三宅坂を歩いていく。
   
左側には、最高裁判所、続いて国立劇場が見える。
   
すると、「テレビ撮影中なのでここでスットプして下さい」という係員が現われ、協力要請。
他の通行人10数名と一緒に10分ほど足止めされてしまった。
今日は日和が悪い?
解除され濠沿いに進んで行くと、
半蔵門の前で道は丁字路になる。
直進は九段坂方面へ。

   
甲州街道の20号線(写真左)は左折して新宿方面へ進む。
ビルが林立している道を歩いて行くと、目の前に
東京メトロ麹町駅の出入口が現われた。
多分有楽町線の駅であろう。
いつも思うのだが、地震があったらこの東京のおびただしい地下鉄はどうなるのでろうか?
20年ほど前に新橋のある大きなビルの5階に勤めていたとき、
直下型のような大きな地震があり大変ショックを受けた。
ところが、地下鉄に乗っていた同僚は全く気がつかなかったという。
ということは、地下は地震の影響をあまり受けにくいのかも知れない・・・・、
などとくだらないことを考えながら歩いた。
歩道には
麹町案内板がところどころに設置され、町のいろいろな歴史などが書かれている。
   
都会のオアシスのような緑地コーナー
さらに進み麹町6丁目1の東京北斗監査法人前には、永遠なる少女と記された
ブロンズ像が立っている。
麹町大通り整備工事完成を記念して、平和を象徴する幼児の像を建立したということ。

   
麹町を過ぎると、紀尾井町となり左側に上智大学、そして隣接してイグナチオ教会がある。
この辺に紀伊徳川、尾張徳川、井伊家の大名屋敷があり、それぞれ一字をとって
紀尾井の町名としたとのこと。

   
20号線の反対の北側には、カマボコ型のJR四谷駅の建物がある。
その手前を右折して甲州街道は20号線と別れ、駅舎の北側の丁字路の
坂道を左折する。
丁字路の角には、甲州街道の要所であった
四谷見附跡がある。
見附というのは、江戸城の見張所で城の周囲に36箇所あった。

   
坂道を下り300m程行ったローソンの交差点を左折して、20号線(写真中)に戻る。
20号線を西へ進んで行くと正面の遠くに
トンガッタ建物のシルエットが見えてくる。
   
四谷消防署消防博物館の前を通り、四谷四信号交差点で進行方向が2つに分かれる。
左手の新宿御苑沿いの新宿御苑トンネルに入るのが20号線で、
右手の一般道が甲州街道となる。
その三角地帯の
四谷区民センター前(写真中)に、四谷大木戸跡碑(写真左)玉川上水記念碑がある。
玉川記念碑は、昭和34年に地下鉄工事で発見された玉川上水の石樋を使って作られている。
四谷大木戸を過ぎると、新宿一丁目、2丁目、3丁目となり、ここが内藤新宿跡となる。
新宿御苑は内藤家屋敷の一部であったもので、その北側の甲州街道に面して
宿が造成された。

   
新宿2丁目に入り四谷警察署新宿交番から右に入ったところに太宗寺がある。
1596年
(慶長初頭)に僧太宗によって開かれ、その後信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した。
江戸時代の面影を残す多数の文化財が伝えられている。
   
境内の左側には不動堂(写真左)、正面にはコンクリート造の近代的な本堂がある。
入口のすぐ右には
銅造地蔵菩薩座像があり、江戸の出入口の6ヶ所に設置された6地蔵の一つで、
1712年
(正徳2)に甲州街道沿いに建立された。像高は267cmもある。
   
地蔵菩薩坐像の左側には、閻魔堂(写真右)がある。
裸電球が点灯し内部が見れるようになっていて、覗くとあまりの恐さにぞーっとしてしまった。
正面に「内藤新宿の閻魔さま」で親しまれている,1850年
(嘉永3)奉納の閻魔像が安置されている。
その左側には、閻魔大王に仕え三途川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取るという、
明治3年
(1870)作の奪衣婆(写真左)が置かれている。
なお衣を剥ぐところから、
内藤新宿の妓楼の商売の神として「しょうずかばあさん」と呼ばれて信仰されたという。

   
伊勢丹のある新宿3丁目の交差点(写真左)は、甲州街道と青梅街道が分かれる追分となり、
直進するのが青梅街道で、甲州街道の20号線は左折する。
100mほど行った
新宿4丁目の交差点で右折して、新宿駅JR各線を横断する跨線橋を渡る。
   
跨線橋の頂上でJR新宿駅を横目で見ながら、今度は下り坂となる。
   
右手に都庁の高層ビルを眺めながらとても退屈な20号線を西日を受けながら歩く。
時計を見ると、2時を過ぎている。
そのときふと日本橋を出発してから、水も昼食もとっていないことに気がつき、
慌てて持参したペットボトルのお茶とオニギリ2個をリックサックから取り出し、歩きながら食した。
やはり空腹だったらしく、おいしかった。
西新宿、初台に入ると
高速道路が20号線を分断して走る。
やがて、
京王線初台駅の標識が見えてくる。
   

すると突然道は緑に囲まれ、ビックリしてしまう。
長い距離ではないが、気持ち安らぐ通りである。
ちなみに20号線の反対側の歩道を見たがどうも緑地帯はなさそう。
    
本町を通り幡ヶ谷に入ると、笹塚信号交差点左手前のビルの間に、
とてもユニークなお堂の中に
牛窪地蔵が安置されている。
地蔵は、釈迦が入滅して56億7千万年阿後に、勒菩薩が現われるまでの間民衆を救うためにある、
と信じられている仏像で、牛窪地蔵は左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。
地蔵の右手前には、交通安全を祈る全国でも珍しいという、江戸時代の
道供養碑が立っている。
この供養碑は、元は中野通りの延長線上の鎌倉街道の供養碑であったという。
   
信号から右折して中野通りを約200m行った右に、青岸寺がある。
境内に入ると左奥に
本堂があり、その左側の幡ヶ谷聖観音像の右下に小さな板碑(写真右)がある。
室町時代の造立で梵字で「阿弥陀如来」と書かれているとあるが、とても文字の判別はできない。
境内を右に曲がると
、6地蔵の左側に並んでいるのは庚申塔で、
猿型半迦像
(片膝を立てた坐像)が浮き彫りされた珍しいものであるという。
   
笹塚の信号に戻り、先に進むと京王線笹塚駅前が、日本橋からちょうど12kmの地点
予定の半分も少ない距離であるが、中山道で全面剥離した両足親指の爪も完全に癒えていないし、
また新調したシューズの試運転でもあることを考え、今日はここで終了とし京王線で帰宅した。
                       
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旅と旅行と