歩く 甲州街道
下高井戸宿〜下布田宿
 (東京都渋谷区)      (調布市下布田)
 i ー愛ロマンチカ
2004.11.20 この日の天候がよくなるとテレビ知って急に歩くことにした。
デジカメをはじめてもう5年以上になってしまう。
この間多分20万枚くらいの写真を撮っていると思う。
ただなんと言っても下手で、最近まではそれは苦にならなかったが、
年頃になったせいか気にするようになり、なんとかほどほどに撮りたいという欲が出てきた。
それで出発の1週間前に、メーカのデジカメ初心者コース講座を受講した。
わずか2時間の講習であったが、なるほどと感心して修了した。
ただこの旅で実践してみたが、感心するほどの出来栄えでなく、今は上達の過渡期かなと思った。
しばらくのご辛抱を!

区間経路
 (渋谷区笹塚)国道20号線→(下高井戸宿)20号線→(上高井戸宿)→一般道→20号線→一般道
                                          
                        京王調布駅)←一般道(下布田宿)←一般道(国領宿)
この区間の旧甲州街道は京王線の北側沿いに走っている。 

  高井戸宿:利用客が少なかったので、下と上で月の半分を交代で受け持つ両宿で1宿扱いであった。
  布田五宿:国領、下布田、上布田、下石原、上石原を布田5宿と呼び、5宿で1宿の機能を持たせた。
        それは日本橋からの距離の関係で、多くの旅人はここを素通りして府中宿へ宿泊したためで、
本陣、脇本陣はなくて旅籠が9軒あるのみであった。

2004.11.20 10時に笹塚駅前の20号線を出発した。
頭上を首都高速4号線が走っているので、とてもうっとうしい。
それに20号線の道幅がが分断されているので、歩道橋があるところでないと横断ができない。
それでは左右どちらの歩道を歩くかというと、私はこれまでの経験から左側を歩くことにしている。
理由は、交通標識などが車運転者を対象に掲示されているので、左側が情報入手に便利であるため。

   
20号線を西へ500mほど歩くと渋谷区を出てしまうが、20号線の右が杉並区で左が世田谷区となる。
しばらく世田谷区を歩いて、
環七通り、次に井の頭通りを横断し、松原信号交差点を横断する。
   
数分歩くと、20号線とクロスする京王井の頭線明大前駅のプラットフォームが下に見えてくる。
横断すると左手の駅の方から、
男女の学生が多数歩いてきた。
多分殆どが明治大学の学生であろうが、どの顔も若いというか幼さが残っているように思える。
久し振りにまざまざと若い人たちを見てしまったが、現代は若い人はさらに若返っているのだろうか。

   
学生たちに紛れて20号線の歩道橋を渡ったが、歩道橋からの見た20号線をパチリ。
   
歩道橋を渡るとそこには明治大学和泉校舎があり、
学生はゲートの中へ、私は左折して杉並区へ。

   
朝のすがすがしさが残る杉並区歩道を歩くと、明治大学に隣接して築地本願寺和田廟所(写真中)がある。
築地本願寺が関東大震災で焼失したとき別院として建立した寺院で、正面に
本堂(写真右)があり、
門の左側に元首相の
佐藤栄作夫婦の墓(写真左)が別格扱いで建てられている。
海音寺潮五郎、古賀政男などの有名人の墓も多数あるとのこと。

   
廟所の敷地を過ぎると右に入る道があり、しばし20号線と平行して歩く。
この辺は
杉並区永福町(写真左)といい、道の右側には多数の寺院が並んでいる寺町である。
また道の左側には、
玉川上水台第三公園が続いて自然が一杯の憩いの場となっている。
   
道のはずれに、京都知恩院を本寺とする栖岸院(写真左中)がある。
江戸時代には住職が将軍に単独で拝謁できる「独礼の寺格」を許されていた。
門に
セコムが張付けてあったが、罰当りがいるんですね。
道が突き当たり小路を横切ると、1603年
(慶長8)に建立された竜泉寺(写真右)があり、
ここには江戸庶民の信仰厚かった高さ1mの北向き地蔵が安置されている。
それにしても門扉に
の紋とは?
   
竜泉寺の前の通り(写真左)を少し歩いて左折し、再び20号線(写真右)に出る。
国道の歩道に出たら、なんとなくほっとした気分になったのは、
やはり私には赤い灯とい灯が向いていうということなのでしょうか。

   
しばらく行くと右側の「創作竹細工」店の2階になんと巨大(?)ながいるではないか!
でも竹細工のため透き通っているので、分りやすく写真に撮るのに苦労しました。

   
反対側を見ると、桜上水商店街の文字が見える。
ということは、京王線桜上水駅が近いということになる。

   
さらに200mほど行くと1616年(元和2)に建立された覚蔵寺(写真左)がある。
日蓮上人の直刻と言われている鬼子母神像が安置されていることで有名である。
隣接して
宗源寺があり、ここには南北朝時代の板碑や寺宝の滝沢求馬(1713没)筆の涅槃像がある。
また境内にある不動堂はかって高台にあったため高井堂と呼ばれ、
それが高井戸の起源になったという説もある。
宗源寺に隣接して下高井戸宿の本陣があったといわれている。

   
下高井戸1丁目歩道橋で横断し左側歩道を歩いて行くと、鎌倉街道入口信号の丁字路交差点にる。
ということは右手を見えるのが
鎌倉街道(写真左中)ということになる。
そこから100mほど行った下高井戸五丁目信号で首都高速が右にそれて行くので、
20号線は晴れ晴れとした気分で杉並区から
世田谷区上北沢5丁目に入るが、
700mほどで再度杉並区に入り
下高井戸一丁目となる。
環八通りと交差する下高井戸一丁目信号辺りに上高井戸宿本陣があったといわれている。

   
環八通りを横断すると間もなく20号線は2つに別れ(写真左)、右手が20号線で左手が旧甲州街道となる。
   
左手の甲州街道を200mほど行くと右側に1648年(慶安元)創建の長泉寺がある。
本堂の前にある観音堂には西国33箇所の観音様が安置されている。
また境内には1654年
(承応3)銘の地蔵など古い石像や庚申塔が多数ある。
   
長泉寺を過ぎると再度世田谷区に入り、南烏山3丁目、4丁目、5丁目の何の変哲もない町並みを通り、
給田3丁目を歩いていると右側にマンションの1階に
給田郵便局があるが、
あまりにも平凡な道なのでこんな風景も何やら珍しく思ってしまう。

  
さらに歩いて坂を下りきったとこころに、仙川にかかる大川橋があり、
そこから見た
仙川は大きな用水路と言った感じであった。
   
仙川を渡ると調布市となり、しばらく坂道を登って20号線と合流する。
さらに歩くとすぐ右側に
昌翁寺のピッカピッカの新しい山門が現われる。
どういういわれの寺か不明であるが、その豪華な山門は一見の価値あり。
参道の右
片隅の仏像が数基あり、1人の旅人が熱心にスケッチしていたが
効率主義の私はその脇からデジカメでパチリ、ただスケッチの邪魔になるので仏像の調査は省略。

   
すぐその先に仙川駅東信号交差点があり、それを越すと左に面して駐輪の山と山
仙川駅利用の通勤者などの自転車なのであろうが、よく自分の自転車を区別できるものだと感心。

   
その先の仙川駅入口信号交差点の右手前角のコンビニ脇に、仙川一里塚跡碑がある。
そういえば街道につきものの一里塚は、甲州街道ではようやくここでお目にかかることができた。
仙川一里塚は江戸日本橋から約20km(5里)の地点にあり、
この手前には上北沢、次には小島一里塚があった。

   
4分ほど歩いた仙川2丁目横断歩道橋から前方を見ると、甲州街道はゆるい下り勾配となる。
   
歩道橋から100mほど行くと、20号線から右に側道(写真左)が分かれる。
ここが
旧甲州街道の入口で、左側に「瀧坂旧道」その右に「馬宿川口屋」と刻まれた道標がある。
道標の右手奧に家が一軒あるが、これがもしかして
川口屋なのかも知れない。
   
旧甲州街道(写真左中)の坂道を下りて行くと、
道の左には「
調布市東つつじヶ丘一丁目」、右には「三鷹市中原1丁目」の地番標識があり
この道路が市の境界となっている。
約数分でまた
国道20号線と合流する短い旧甲州街道であった。
   
5、6分坂道を下っていくと、右奥に派手な朱色の山門がとても目立つ金龍寺がある。
境内にはいろいろな石像が多数あるが、中でも目立つのが
大閻魔像で高い所から目を光らしていた。
   
坂道も終わり町名も西つつじヶ丘から菊野台1丁目に変わりしばらく歩くと、野川にかかる馬橋に出る。
その橋から見た
野川(写真左)は人工的な小さな川であった。
橋から100mほど行くと、左側に
警視庁調布警察署のカラフルに思わせる建物。
そして前方正面ガソリンスタンドの
旧甲州街道入口信号交差点で、道が2つに別れるのが見えてくる。
20号線は右手で、甲州街道は左手の119号線を進む。

    
町名も国領2丁目となり歩いて行くと、前方に40階くらいのマンションのような高いビルが見えてくる。
国領に入るとどの電柱にも
甲州街道表示がされていて、確かに甲州街道を歩いているという実感が沸く。
国領宿は、本陣などのない数軒旅籠があるだけの極小さな宿であったということで
どこが中心地であったか、全くわからない。

   
狛江通りを横断し国領一丁目に入り三鷹通りを渡り、布田に入ると道の両側は誠の旗で賑やかになる。
ご存知今はやりの新撰組の旗である。
何しろこれからずーっと新撰組オンパレードとなってしまう。
 調布市は新撰組隊長の近藤勇が、1834年
(天保5)年武蔵国多摩郡上石原村(現・調布市野水1丁目)
豪農宮川久次郎の三男として誕生したという、ゆかりの地となている。

   
しばらく行くと右手に説明板があり、
この上布田宿でシーボルトの
弟子蘭方医伊藤玄朴が大病で帰省していた近藤勇の病気を治したという。
説明板はまだ真新しく、NHKの大河ドラマ効果であることは明白。
上布田宿も、旅籠が数軒あるていどの小さな宿であったのでどの辺りが中心であったか不明。
   
その先の右側に、布多天神社のとても長い参道がある。
かってこの参道には梅の並木があり、江戸まで聞こえた有名な名所であったという。
また毎月25日に開かれている縁日は200年ほど前から続いていて、
暮の市は賑やかで世田谷のぼろ市と並び称されたとのこと。
布多天神社は927年(延長5)の延喜式神名帖に載る古社で、
境内にある
狛犬は1796年(寛政8)に市の繁栄を祈願して建立されたもので、
調布市指定文化財となっている。

   
甲州街道に戻り歩くとすぐ調布駅北口信号の交差点で、左手に京王線調布駅が見える。
時は15:30.
今日はあまり無理をせず、ここで帰宅することにした。
        
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旅と旅行と