歩く 甲州街道
上布田宿→日野宿
(調布市上布田)   (日野市)
iー愛ロマンチカ
2004.11.21 昨日に引き続き歩いた。
この日はこれ以上のブルーがないというほどの空の色で、
当然心も弾みどんなに歩いても疲れることはないと思えたので、
約22kmある八王子駅まで歩くことにした。
甲州街道はゆっくり歩こうと、日本橋を出発するとき決意したことがどうも鈍りそうであった。
でも一日35kmを歩ける私にとっては、20km程度はなんてもない距離とすることにした。

  区間経
上布田宿)一般道→(下石原宿)一般道→(上石原宿)一般道→(府中宿)一般道→20号線
                                       ↓
(JR八王子駅北口)一般道←20号線←一般道←20号線←一般道(日野宿)←20号線←(消滅舟渡)

   
布田五宿 :国領、下布田、上布田、下石原、上石原を布田5宿と呼び、5宿で1宿の機能を持たせた。
それは日本橋からの距離の関係で、多くの旅人はここを素通りして府中宿へ宿泊したためで、本陣、脇本陣はなくて旅籠が9軒あるのみであった。
府中宿 :武蔵の国の中心で、新宿、番場町、本町の3町が府中宿で、本陣、脇本陣、問屋、旅籠などがある本格的な宿で、飯盛旅籠もあった。

朝9:30分に京王調布駅北口の駅舎を出たら、正面目の前に「近藤勇のふるさと」の大きな横断幕。
昨日は全く気がつかなかったが、これはとても効果があるPRだとつくづく感心した。

   
旧甲州街道の調布駅北口信号交差点から、西の八王子に向かって出発。
とても空が青く、空気は澄んでいて気持ちよい旅たちであった。
前方の通り上布田宿あたりであるが、旅籠が数件程度の小さな宿であったので
どこが中心であったかは不明。
数分歩くと右側の駐車場敷地の一角に、江戸日本橋から約24km
(6里)小島一里塚跡碑がある。
ここには、樹齢約200年のエノキの大樹があったが、昭和40年ころに危険防止のため伐れた。

    
数分歩いて石原一丁目信号交差点を横断する。
多分この辺りから下石原宿となるのであろう。
5分ほど歩いた左側の源正禅寺参道入口に数基の仏像が安置された建屋があり、
その脇に萬人講が建立した
石碑がある。
側面には多摩郡下石原宿と刻まれているので、ここが当時宿であったという証ではないだろうか。

   
さらに数分行くと上石原になり、歩道には近藤勇の幟が多くなる。
この上石原は近藤勇の生誕の地であれば、力が入るのはごもっともです。
西調布駅入口信号を過ぎると、道路の右側の民家の前に立札があり、
江戸城に戻っていた近藤勇が、1868年
(慶応4)甲府防衛のため甲陽鎮撫隊を率いて
この故郷上石原宿を通ったとき、名主の中屋勘六宅で歓待を受けたという。
多分この家がその
名主宅跡なのであろう。
   
道の反対側の歩道には「近藤勇の坐像(写真右中)が立っている。
西光寺の山門(写真左中)の前の左脇に、その近藤勇坐像がある。
この坐像は没後130年を記念して平成13年に建立された新しいものであるが、
建立発起人代表が、土方 貢とある。
あの土方歳三の末裔なのか、偶然なのか?
境内には1704〜10年
(宝永年間)の建てられた、市内に現存する唯一の市重宝仁王門(写真右)がある。
   
さらに先の左側には、旧家とおぼしき立派な黒塀の門(写真左)にも、
その他あちこちに
近藤勇の幟が林立している。
こんなに幟などを作ってNHK大河ドラマの新撰組が終了したら、どうなるんでしょうね。
ふと右手を見ると、細い道の向うに高い何やらの
構築物(写真右)が飛び出している。
後で調べたら国道20号線に面して建っている、サッカーFC東京の
味の素スタジアムであった。
   
道は少し狭くなって続き、飛田給駅入口信号交差点があり、左側に京王飛田給駅が見える。
   
交差点を横断するとすぐ左に薬師堂(写真左)がある。
境内の右側に伊達藩士で医師の松崎念仙を祀った
行人塚があり、
年老いたおばあさんが一生懸命掃除をしていた。
「ちょっと写真を撮らせてください」とお願いしたら、不自由な身体を動かして塚を下りてくださいました。
一緒のところを撮らせていただくつもりでしたが、大変申し訳ないことをしてしまったと反省しきり。
おばあさんに、「この辺に甲州街道の古道があるはず」と尋ねてたら、
薬師堂から左折してすぐ右折する道ではないか、と言う。
どこを探しても古道の標識らしいものがないので、そのまま直進し旧甲州街道を歩いた。
しかし後でわかることであるが、古道はおばあさん言うとおりで、重ねて悪いことをしてしまった。

   
薬師堂から数分行くと、いよいよかっての武蔵の国の中心であった府中市に入り、
町名も白糸台6丁目となる。

   
すぐ右手のマンションの前に、多分この甲州街道を歩いていて初めて出会う常夜燈がある。
建立された時期が嘉永・・・と刻まれているので、約150年前のものである。
道々景色をながめながら歩くと、右に
のある立派な屋敷が見える。
これまでいろいろな街道を歩いていると、
市や町が変わったからといって突然町並みも変わるわけではないが
多くの場合やはりどこか微妙な変化を感じることが多い。

   
5分くらいすると車返団地入口信号という珍しい名前の交差点に来る。
交差点右手前に
観音院があり、その西側塀の脇に下染屋地名由来碑と常夜燈が並んでいる。
下染屋の地名は、南北朝時代にも登場する古い地名で調布
(手ずくり布)を染めた所とも言われている。
常夜燈は、嘉永6年とはっきり刻まれているので、
先ほどの常夜燈と同じ時期に建立されたものであろう。
    
西武多摩川線踏切を渡るとき、ふと右手を見ると古くて小さな石仏(写真中)が置かれていたが、
花も水も供えられていなく、よくぞこの都会のど真ん中で整理されず生きながらえてきたな、という実感。
5分ほど歩くと
不動尊前信号交差点に出る。
   
横断した左側に染屋不動尊(写真中)がある。
境内の右側にとても
ユニークな形の仏像、左側には上染屋の地名由来碑がある。
下染屋地名由来碑と内容はほぼ同じであるが、
上下の染屋に
分かれた時期は古く、1635年(寛永12)の検地帖に既に上染屋と記入されている、という。
   
5分ほど歩くと白糸台一丁目信号交差点となり、横断すると若松町となる。
右側に常久八幡神社の公園があり、この辺りの地名である
常久の地名由来碑がある。
それによると名主の名前からつけられたという。

   
ここで古道甲州街道にある常久一里塚跡碑を訪ねるため、今横断した交差点に戻り右折する。
南へ約200m行くと古道に突き当たり、右折するとすぐ左側の清水丘3丁目に
常久一里塚跡碑がある。
この一里塚は江戸初期に設置されたもので、日本橋から7里
(約28km)のところにある。
   
現在の品川通りの古道をそのまま歩いたが、どことなく堂々とした威風がありさすが古道だと思った。
    
しばらく古道を歩き途中から右折して旧甲州街道に戻り先に進むと
前方正面で
道は2つに別れる(写真左)
右手が国道20号線で、左手が旧甲州街道である。
左側に
京王線東府中駅を見ながらその先で踏切を横断し、左手の道を進み八幡町(写真右)に入る。
   
通りの左側に国府八幡神社の鳥居と参道が見え、また鳥居の左には八幡宿の地名由来碑がある。
八幡宿は地名で宿場ではなく、国府八幡神社周囲にできた農業の集落と記されている。
八幡神社は聖武天皇
(724〜749)が、一国一社の八幡宮として創立したと伝えられているもので
参道はとても長く途中で京王線の踏み切りを渡って、左折すると小さな
社殿がある。
   
市の中心に向かって歩いて行くと、左側に「競馬開催中有料駐車場」と看板が出ている。
今日は日曜日で、府中競馬場は開催中。
先ほどから左側の全ての路地の入口にガードマンが立っていた理由がわかった。
府中競馬場というと、大昔一度来たことがあった。
その頃世の中はパンダーブームで、パンダのつく馬名も結構あったのでそれらの馬券を購入した。
結果はご想像通りです。
いよいよ市の中心街で、また当時の宿場の新宿
(現在は宮町)でもあるが、当然昔の面影はない。
突然左側の歩道上に、けやきの
大木が2本立っていて、歩道が迂回させられている。
   
ケヤキの左手は、大国魂神社参道で両側には屋台がびっしり並び頭上は提灯で飾られ、
その中をまるでお祭りのような人出で混雑していた。
事実この日は
七五三のお祭りで、着飾った小さな子供たちにも多数出会えた。
約300mの長い参道を人を掻き分けて行くと
社殿があり、その前で子供の写真を撮る親たちが多数。
大国魂神社は景行天皇のご託宣でできた神社といわれ、
武蔵国の重要な6社を集めて祀ってある、武蔵総社となっている。

   
旧甲州街道に戻り先に進むと、府中市役所前信号交差点に出る。
  
..
交差点を渡ると、左角に高札場跡があり、その前に甲州街道の説明碑が立っている。
府中の高札場は鎌倉街道と甲州街道の交叉するところに設置され、
屋根を有する札懸けで6枚くらいの高札を掛けることができたという。
反対側の右の角に
中久本店の古い建物と、甲州街道府中宿の標識が立っている。
この界隈は高札場があったので、札の辻、鍵屋の辻と呼ばれていた。
府中本町の大火があった2年後の1861年
(萬延2)に中久本店の店蔵を防火構造で再建した。
隣地が問屋場であったため、辻芸人や大道芸人を楽しむ人で賑わい、武蔵府中の中心として栄えた。
    
信号を過ぎると宮西町(江戸時代の番場宿)(写真中)で、
少し歩くと右側に
番場公園、反対の左側歩道に番場宿の由緒碑がある。
元はこの地を開発した名主の名をとって茂右衛門宿と呼ばれていたが、
1636年
(寛永13)に番場宿と改名された。
番場の地名の由来は、馬場が訛ったとか番所があったからなどといわれている。

   
その先の左側に下り坂の整備された鹿島坂がある。
大国魂神社の5月例大祭の一つに神馬でこの坂を登り甲州街道へ出て東上する行事があり、
その役を担っていたのが鹿島日家であったことから、鹿島坂と呼ぶようになった。

   
京王線の踏切を横断し三好町(写真左)に入ると、何故か通りの両側が緑豊かになってしまう。
さらに進み本宿町信号交差点で右からの
20号線と合流し歩くと、本宿交番前信号交差点に出る。
横断して左側の交番脇に、
常夜燈が立っている。
度重なる火災に苦しんだ本宿村の人たちが、1792
(寛政4)に建立したもので
太平洋戦争末期に灯火管制が厳しくなるまで、火を灯し無事を祈ったという。

   
約10分ほど歩いて行くと、国立市境界看板が見える。
  
淡々と20号線を歩いて行くと、由緒ありそうな屋敷や道の反対側歩道には常夜燈
そして大きな寿司屋の敷地が江戸時代から明治初期まで鋳造業を営み、
矢沢、森窪とともに鋳物鋳造3家の一つといわれた
家のかなどこ跡であるという、案内板もある。
   
やがて20号線と146号線が分かれる丁字路に出る。JR谷保駅は146号線方向にある。
   
丁字路の左側に谷保天満宮の大鳥居がある。
広い境内には屋台が1台ポツンとあるだけで参拝者の人影はなく、
正面の
急な階段を数十段下り、右折すると谷保天満宮の社殿がある。
一組夫婦が七五三晴れ着姿の子供の記念写真の熱心に撮影中。
 谷保天満宮は、菅原道真を祀った由緒ある神社で、
道真の三男道武が父の死を悼んで903年に道真の木像を祀ったのが創始となる。
本殿はさらに南にあった古街道では高い位置にあったが、街道が移ったため現在のように下になった。
なお谷保の読み方は、昔この辺は谷保
(やぼ)村といっていたようにやぼと読むのが正しいが、
JR南武線の駅名が谷保
やほとつけられたため、いつのまにか天満宮もやほとなってしまったという。
   
20号線に戻り8分ほど歩くと、
右手に国立第一小学校の前身の
潤澤学舎がここに開校したという看板のある民家があった。
私には全く関係のないことであるが、折角だからここで紹介しておきます。
さらに7分ほど歩くと、国立市消防団の建物の脇に元上谷保村の
常夜燈がある。
1794年
(寛政6)建立で上谷保村の油屋(屋号)の東隣にあったのを、道路改修でここに移設したもの。
その先には矢川駅入口信号の交差点があり、過ぎると
日本橋から35kmの表示がある。
  
数分歩いた右側に、大日如来の別名とも言われる五智如来の祠がある。
現在でも10月12日に、地元の人たちが集まって念仏を唱え供養している。
さらに進んで行くと、青柳福祉センター敷地の一角に、元青柳村の
常夜燈がある。
1799年(寛政11)に建立されたもので、昭和初期まで村人がローソクを1本ずつ毎夜ともしていたという。
    
5分ほど歩くと立川市境界看板があり、国立市と別れを告げる。
    
10分ほど歩くと、日野橋信号の5差路に出るが、ここはとても迷うところで
実は私も間違ってしまい15分ほど歩いてから気がついて、また5差路まで戻ってきてしまった。
今まで歩いてきた20号線はすぐ左折して、日野橋を渡る。
旧甲州街道は20号線と別れ左から3本目、前方に見える
ガソリンスタンドの左側の道を進む
   
スタンドの左の道を進み、ゆるいカーブが始まるコンビにから左折して
下り勾配の道を歩いて行くと右側に旧甲州街道の道標があり、安心する。
      
そのすぐ先に錦町下水処理場前信号交差点がある。
   
交差点を横断すると前方にタンクが見えて、行き止まり(写真中)になっている。
歩いて行くと、左側に傾いた
旧甲州街道の道標が進行方向と逆向きに立っている。
さらに行くと、行き止まりの左コーナーに新しい
日野の渡し碑があり、
また後方には
多摩川の渡し碑と刻まれた古そうな小さな石碑がある。
ここが渡し場跡であったという証であろう。
タンク
(多分下水処理場の)のある敷地の向うは、多摩川である。
   
迂回して多摩川を渡るため再度下水処理場前信号まで戻り左折して進むと
前方に
日野は左折の交通標識があり、その前方に多摩モノレールの架橋が見える。
左折して多摩モノレールと一緒に
立日橋で多摩川を渡る。
立日橋の上から、渡船の経路と思われる辺りの
多摩川を見て確認した。
    
多摩川を渡ると、すぐ土手を左折すると右側に日野渡船場跡の説明板が立っている。
日野の渡しは、現在の立日橋付近で柴崎
(立川市)と日野を結んでいた、多摩川の渡しとのこと。
渡し賃は馬と人と別々に徴収され、武士、僧侶、宿の人たちは無料であったという。
一面
枯れ野の河川敷の向うに多摩川がある。
   
橋の袂に戻り、多摩モノレールの電車を頭上に見ながら市民の森に沿って進む。
10分ほど歩くと、新多摩街道入口交差点で20号線と合流する。

   
交差点を右折して数分歩き、川崎街道入口信号交差点を横断すると
正面の
通り日野宿の中心となる。
   
横断するとすぐ左側に日野宿本陣看板がかかったいかめしい門がある。
時間が過ぎ閉館していたため、内部には入れなかった。、
建物は1863年
(文久3)に建築されたもので、道場もあり近藤勇土方歳三も稽古に来ていたという。
当時の当主の佐藤彦五郎の妻は、土方歳三の姉とのこと。
極最近までここは手打ちそば日野館として使われていたが、
前面の駐車場に、
店舗移転のお知らせ看板が出ていた。
道路の反対側には、
問屋場・高札場跡碑がある。
    
時も15時30分ころになると、はや日暮れの様子となり出発したころの空はもうない。
20号線をさらに歩いて
八坂神社の前を進み、次の信号で左折する。
すぐ
日野駅東信号交差点があるので、横断して進む。
   
ゆるい坂道を登って行くと、右側に銅造地蔵菩薩坐像が安置されている地蔵堂がある。
1713年
(正徳3)に造られたもので、甲州街道日野宿西の出入口に鎮座し坂下地蔵と呼ばれていた。
道はここでJR中央線の
金網塀で遮断され、先に進めなくなる
   。
日野駅東信号交差点に戻り左折してJRのガード下を潜って、すぐ左折して大坂上の通りを進む。
約10分ほど歩き日野大坂上信号で右からくる
20号線と合流して進む。
    
時も16時になると、夕暮れも濃くなり撮影もままならなくなってきた。
20号線は八王子市の中心まで、南西へ一直線。急ぎ歩くことにした。
20号線と合流してからすぐ左側に、発祥の地の
日野自動車本社・工場が延々と700mくらい続く。
ようやく工場を過ぎ日野台信号交差点手前に、日本橋から41kmの標識がある。
    
日野台交差点を渡ると、左側にコニカミノルタの工場が約400m続き
通りすぎるとすぐ
八王子市境界看板が立っている。
   
ようやく八王子市に入ったと思うと足取りも軽く、境界から1kmほど歩くと
下の方に
JR中央線がようやく見える。
さらに700mほどまっすぐ進んでいくと前方に
16号線の高架が見えてくる。
高架を過ぎ小和田四丁目信号交差点を横断し少し歩くと、
斜め左へ入る
細い道がある。
   
旧甲州街道はこの道を入り、住宅地の中を20号線と平行して400mほど歩く。
中ごろまで来た左側の大和田中央町中央会館脇に
馬頭観世音碑が並んでいる。
   
20号線と再度合流して歩き浅川にかかる大和田橋を渡るとすぐ20号線と別れ、右折して進む。
八王子五中の脇を通り2つ目の信号で斜め左の道へ入る。
少し歩いて行くと右側の竹の花公園の道路に面したところに、
江戸から12番目の
一里塚跡碑がある。
少し高いとこにあるため道路から刻まれた文字を確認することは難しかったが、
フラッシュの明かりでかすかに知ることができた。

   
そのまま歩くと丁字路になり、左折して進んでまた20号線と合流すると
目の前は
八王子駅北信号交差点
   
左手を見ると、JR八王子駅ビルにかかるSOGOのネオンサイン
時は17:28。
すっかり暗くなった駅までの道を歩き、横浜へ戻る。
     
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旅と旅行と