歩く 甲州街道
横山宿→小仏宿
  (八王子市)       (八王子市)
iー愛ロマンチカ
2004.11.9 とてもよく晴れた日で歩きには快適。
東京都を終わりそろそろ山道に入る距離になってきたので、
度胸のトレーニングをしないといけないと思っている。

区間経路
(横山宿)20号線→一般道→20号線→一般道→20号線→一般道→(駒木野宿)一般道→(小仏宿)

横山宿:15の宿場からなり、横山宿と八日市宿を中心に発展したが、後に八王子宿と呼ばれるようになった。
毎月4のつく日は横山宿で、8のつく日は八日市宿で市が開かれた。
両宿には2軒の本陣と4軒の脇本陣があった。
横山と言う地名:万葉集にもあり東西に連なる多摩丘陵一体の地形を横山と呼ばれていたという。
八王子という地名:牛頭(ごず)天王の8人の息子の王子を祀る八王子信仰からきている。


   
2004.11.9  9時JR八王子駅北口信号交差点を出発した。
前の日野宿で浅川にかかる大和田橋を渡った辺りから横山宿であったが、
旧甲州街道の国道20号線をさらに西へ歩くと横山町信号交差点に出る。
この辺りが横山宿の中心で、その先の左側歩道の横山町郵便局が
本陣があった所と言われている。
先に進むと八日町信号があり、八日町宿通りとなる。
数分歩いた右側に
東京三菱銀行の建物があるが、これは太平洋戦争で生き残った貴重な建物である。
終戦直前の2週間前の昭和20年8月2日未明、169機のアメリカ軍機が来襲し、
約67万個
(市民1人当たり10個に相当)の焼夷弾を投下して、市街地を焼け野原にしたという。
その時残った貴重な建物がこの東京三菱銀行で、写真で見ると当時のままの姿のようである。
終戦後不要となる在庫処分のため爆弾を投下したともいわれているようであるが、
それにしても敗戦が決まって全く無抵抗な市民に対して、残忍なことをするものである。
16号線と交差する八幡町信号をを横断して約15分進むと、追分町交差点で道は2つに分かれる。
右が陣馬街道で、左が旧甲州街道の20号線となる。
両街道にかかる横断歩道橋の中間階段の下に、復元された追分道標がある。
1811年
(文化8)に作られたものであるが、
昭和20年8月2日のアメリカ軍機の空襲で4つに折れたものを
継ぎ足して復元したもので、
2段目と4段目が当時のものである。
なお残りのものは
八王子郷土資料館(写真右)に保管されている。
中間階段付近の陣馬街道沿いに八王子千人同心屋敷跡記念碑がある。
徳川家康が江戸防衛のため、八王子に武士団おいて甲州街道を見張らせたのが、千人同心の始まり。
同心とは、江戸幕府の下級役人をいい、100人の組が10組あって千人になることから
千人同心といわれた。
組頭は現在の千人町周辺に住み、同心たちの多くは村に住んで農業をして生活をしていた。
旧甲州街道(写真左)を追分から南西に進み、約1.5kmほどのところに長尾団地入口信号丁字路がある。
旧甲州街道(写真右)はここで右折する。
約50m行ったところに高尾山道標が左側にあるので、旧甲州街道はそこから左折する。
通りは車も少なくのんびりと歩くと、300mほどで再度20号線と合流する。
合流した20号線は、イチョウ並木で歩道が落ち葉で一杯。
民家の庭には、端正な
がポツンとさいている。
歩道には日本橋から
49km標識
すると右手に
多摩警察署の、モダン(今はこういう表現は使わないのでしょうか?)な建物。
さらに300mほど行くと、さらに進んでいく多摩御陵入口信号交差点に出る。
右に入る道の右の歩道には新しい
武蔵陵墓地参道石柱(写真中)が立っていて
左の歩道には
多摩御陵参道の石柱が立っている。
昭和天皇御陵を造営したので、新たに武蔵野陵参道石柱を建てたものであろう。
その先に右に入る細い道があり
旧甲州街道は右に進む。
旧道(写真中)はとてものどな通りで古い建物もある。
数分行くと右側の地蔵さんの脇に細い道があるが、
この道は八王子城につながる昔の道で、左側にそれに接続する道が残っている。
旧道を600mほど歩くと、町田街道入口信号交差点にでる。
旧甲州街道はここで再度20号線と合流して高尾方面へ進むことになるが、
交差点コーナーのちょっと高いところに、
熊野神社がある。
境内には
カシとケヤキが根元で一緒になって成長した縁結びの木がある。
この木の根元に自分の名前と思い寄せる人の名前を書いた小石を2つ置くと、願いが叶うという。
高尾へ向かう旧甲州街道は、日本3大並木といわれるイチョウ並木が延々と続いている。
、昭和2年に多摩御陵が造営されたことを記念して、
追分交差点から高尾駅前交差点までの4.2km区間に768本のイチョウが植えられたものである。
高尾駅前信号交差点で、左側にJR高尾駅を見ながら直進して進む。
交差点から700mほどのところのJR中央線ガード下に
南浅川にかかる
両界橋がある。
ここは歩いてきた川原宿とこれからの駒木野宿の境界になっていた。
橋に上から見る
南浅川の水はとてもきれいで、さらさらと流れていた。
やがて道は前方の西浅川交差点で2つに分かれる。
直進するのが20号線で、旧甲州街道は右に入り小仏峠へ向かう。
20号線と分かれた道は車が殆ど通らないのどかな通り(写真中)で
道端には
お地蔵さんがひっそりたたずんでいる。
その先の右に、土地区画整理で撤去された
駒木野橋跡の記念碑がある。
緩やかな勾配の道を歩いて行くと、右側の駒木野バス停前に国指定史跡小仏関跡がある。
小仏関所は戦国時代は小仏峠に設けられていたが、徳川幕府になり重要関所として現在地に移された。
関所の通過は、明け六つ
(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、手形を必要とした。
この手形を番所の前の
手形石(写真奥の石)に並べ、
もう一つの石
(手前の石)に手をついて許し待ったという。
この関所は明治2年(1869)に廃止された。
その左の少し高いところにある公園に、甲州街道駒木野宿石碑立っている。
ここが駒木野宿場の中心であろうか。
この辺りから道は下り坂となり歩いて行くと、坂の途中にいろいろな石仏などの石碑が並んでいる。
その右端に
甲州街道念珠坂と刻まれた石碑があるので、この坂をいうのであろう。
淡々としたゆるい登り勾配の舗装された道を歩いて行くと、山間といった雰囲気になる。
突然
圏央道建設反対の大きな看板が現われるが、
左側には透き通った
小仏川、右側に民家には紅葉した木々。
珍しい名前の蛇滝口バス停現われると、その先の左側の古い建物の軒下に
何やらの
表札のような木札が端から端まで掛けられている。
この木札は蛇滝で水垢離の修行をする人たちが
講を組んで
(富士講とか伊勢講のような)やってきた記念ということで、
宿泊した旅館の軒下に掛けていったものだという。
片側1車線程度の狭い道を歩いて行くと、右側には建設中の圏央道の架橋が、
そしてまた
建設反対の大きな看板
そしてついに
圏央道の終端が見える。
只今ここまで建設中ということであるが、高尾山の自然保護と交通渋滞解消と難しい問題です。
でも政治家も官僚も一度握った権益は、絶対に手放さないという習性がありまうからね〜。
小仏峠を目指して歩いて行くと、思いがけない読み方をする摺差(するさし)バス停手前に
おからのドーナツがおいしいという、豆腐屋がある。
5個で350円(多分)のドーナツを買い帰宅後食したら、甘いものがダメな私でもおいしく思った。
さらに山道を進んで行くと前方左のプレハブ建物の手前に、何やらが見える。
見てビックリ、女の裸だけがゴロゴロ転がっている。
現場では本物のオンナと思うほど、エロチックで好色的であった。
ア〜こういう女を愛し、愛されたい!
でも私の場合は、永遠にそういうことはありえないですね。
(哀)
さらに5,6分歩くと左下に、釣堀が見える。
看板を見るとマス釣り場のようであるが、どうも釣は苦手で素通り。
段々奥まった山道に入っていくと、日影バス停
この旧甲州街道は高尾山の北側を走っているので、やはり日影も目立つのでしょうか。
そういえば周りも日蔭になってしまい、先に進むと
木下沢橋(こげさわばし)に出る。
そこから見た
小仏川はとても神秘的な色をしていた。
道なりに歩きJR中央線のレンガつくりのトンネルを潜るとやがて、左下に今潜った中央線見える。
そのまま山の方へ歩き続ける。
すると小仏バス停があり、ここがバスのターミナルとなる。
この先は全くの人家のない山道で、そうすると小仏宿はどこにあったんだろうか?
後日調べたら、木下沢橋を渡りトンネルを潜った辺りからが小仏宿であったという。
見落としてしまった。
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旅と旅行と