歩く 中山道
  妻籠宿 → 馬籠宿
 長野県木曽郡南木曽町) (岐阜県中津川市) 
 iー愛ロマンチカ
   
2008.4.30〜5.3に、3泊4日で妻籠宿から御嶽宿まで歩いた。
天候に恵まれとても快適な街道歩きであった。
この区間は和田峠越えに匹敵する中山道のクライマックスではなかったかと思う。
とても変化に富んだアップダウンの続く山道は、よく整備され一里塚もきちんと復元されていて
これぞ江戸の街道歩きと思わせるものであった。
また旧中山道を表示するカラー舗装道が結構あり、道案内となり旅人にとってとてもうれしいことである。
さらにきれいなトイレが要所に設置されていて、女性も安心して歩ける街道であると思う。
ただ注意すべき点は、
馬籠宿を過ぎると中山道標識は江戸からの旅人ではなく京都から歩いてくる旅人のために表示されていて、
江戸からの旅人にとって必要な情報を得られないところがあるということである。

     
妻籠宿・馬籠宿は、2008.4.30に歩いた。
街道は風薫り百花繚乱で、
四季いろいろな歩き方はあるかも知れないが少なくともこの時期に勝る歩きはないように思われた。

 
    
2008.4.30横浜を早朝出発し、AM10:28JR中央線南木曽駅(写真左)に無事到着。
天気良好、空気も新鮮でいい日旅立ち。

中山道出発点へ
10:42 南木曽駅舎を出て左折、すぐの駐車場を左折して横断、突当りで右折して
線路沿い(写真中)に進む。
4分ほどで坂道となり山に入り、小さなSL公園に展示されている
蒸気機関車の脇を通る。
   
機関車の外れのところで、左から来る道が旧中山道(写真左)
道なり(写真中)に右に左に曲がり、右下に木曽川を見ながら上る。
   
数分で道は4差路(写真左)になり、右手の橋を渡る。
道はさらに2つに分かれ、左手の「
落石注意看板の坂道(写真中)を上る。
前方に見える補強された崖の脇を通るときはちょっと気持ちが悪かったが、
2分ほど進み坂の上り切った
神戸の集落に入るとここは極楽かと思うほど花が咲き乱れている。
その先延々と続きまさに百花繚乱。
地元の人の話では、旧中山道の住民が丹精込めて栽培しているとのこと。
旅人はただただ感謝感激。

   
道は下り坂となり、左側に巨大石積上建物(写真左)「南木曽クレーン」会社で何はともあれ石積には驚かされる。
その先左側に、木曽義仲と巴御前ゆかりの松と刻まれた「
ふりそでの松(写真左中)
義仲が弓を引くのに松の木が邪魔になった松を、巴御前が袖を振って倒したという伝説がある。
道を挟んだ反対側の階段を下りた境内に、
かぶと観音(写真右中)
義仲が平家打倒の旗揚げしたとき、木曽谷の南の抑えとして妻籠に城を築き、
その鬼門にあたるこの地に祠を建て義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのが起こりという。
壁に「閉錠時拝観できないので、
本尊像写真を掲げておく」掲示があり、早速その写真を撮らせてもらった。
   
元に戻り坂道(写真左)を下り、道なりに右にカーブして坂をさらに下り4差路(写真中)を右折し、
すぐ左折してさらに
細い坂を下る。
   
すぐ先の分かれ道は左手のゆるい坂道(写真左)を進み、
途中の交差点を直進し沢にかかる
小さな橋(写真中)を渡り、右折してを下る。
   
数分進み、堰ある戦沢川(写真左)にかかる戦沢橋(写真左中)を渡り道なりに右折し、
木立の中のゆるい勾配の砂利の坂道を進み、
丁字路から石畳となる坂道(写真右中)をまっすぐ上る。
丁字路にある「
せん澤道標には「左なぎそ駅へ 下り国道へ 右妻籠宿へ」とあり、当然最近建立のもの。
  
石畳(写真左)を上り切り、小さな集落を通り石畳からピンンク道になる。
すぐ先の坂道左側に原型をとどめている江戸から78里目の
上久保一里塚(写真左中)
さらに坂道を2分ほど下り左側傾斜地に、おもいがけない良寛和尚の
歌碑(写真右)案内板
良寛が中山道を行脚したときに当地で詠んだもので
 「この暮れの もの悲しきにわかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」
   
坂道を下りたところの丁字路(写真左)は、直進する。
たまたま作業をしていた丁字路角の家のご主人(写真中)と、歩きながらちょっとお話。
こちらも含め道々の花がきれいだと感謝したところ、
中山道を歩いている旅人にそんなに喜んでもらえてとてもうれしいとのこと。

また道路の脇に張ってあるワイアーはイノシシ対策であるなど、地元のことをいろいろ教えていただいた。
その時数人の園児を連れて歩いてきた地元の保母さんとご主人との会話内容は、まさによき時代の日本人社会。
いつも地方を歩いていて思うことは、まだまだ日本のよさが強く残っているということ。
いずれ日本の隅々まで殺伐とした社会が浸透してしまうと思うと、残念で悲しいこと。
あれもこれもみんなマスコミのミスリードによるものと思っているが、どうなんだろう?
余韻に浸る間もなく、
木製橋を渡ると上り坂となる。
   
のどかな景色(写真左)の中のピンク道を上り、木製橋から6分ほどの丁字路(写真中)は右折して進む。
丁字路にある「中山道道標は古そうに見える。
なお丁字路で左から合流する道は、かぶと観音で別れた道。
   
丁字路から5分ほどのところで、道は2つに分かれる(写真左)
左手のピンク色道を進んだが、今思うに旧中山道は直進した舗装されていない道のような気がする。
ただこの道は1分ほどでピンク道に合流する。
丁字路から約7分のところで
道は3つに分かれ(写真中)、中央に道案内板がある。
左手舗装道は飯田方面へ、右手の山道は妻籠城跡へ。
妻籠宿は真中の
細いピンク色ブロック坂道を下る。
   
途中からブロックから舗装道に変わり、道なりに進み右に大きくカーブして橋を渡り(写真左)
坂を上り
左にカーブ(写真左中)
橋の袂の道標は、「妻籠宿まで0.7km」表示。
上り切ったところで
道は2つに分かれ(写真右)、直進し坂道を下る。
坂の左側の
標識は、「これより妻籠宿の町並」表示。
      
妻籠宿:
江戸から42番目の宿で、中山道と伊奈街道の交わる交通の要衝として繁栄した。
1892年
(明治25)馬籠峠を迂回する馬車が通行できる新道(国道19号線)ができてから、
妻籠宿・馬籠宿は近代の発展から取り残され、当時の古い建物が残った。
昭和51年江戸時代後期の家並として復元し、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。
当時の宿場の雰囲気が、素朴にただよっている。
本陣1軒、脇本陣1軒。

  
左に右に坂を下り、上り坂となるところの分かれ道(写真左)は右手を進む。
(写真中)を上り切ったところの右側に、旅籠大吉などの建物が並び妻籠宿へ入っている。
   
その先の下り坂左側に、中山道名三石の1つの大きな鯉の形をした鯉ヶ岩(写真左)
明治24年の大地震で頭の部分が落ち形が変ってしまったというが、草木に覆われその姿も確かでない。
道の反対側に、解体復元された19世紀初頭の長屋
熊谷家住宅(写真中)
坂を下り地蔵沢橋の手前左側高台に、関所として戦国時代から17世紀まで置かれていた
口留番所跡
   
坂道(写真中)は急になり、右側に復元した高札場(写真右)
その先左側に今もまわり続ける
水車
   
電柱がなく美しい家並みの宿場通り(写真中)
通りの中頃右側に、現在南木曽町博物館・歴史資料館の国指定重要文化財
奥谷脇本陣跡(写真右)
木曽檜をふんだんに用いて明治10年に建てられた建物で、島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先。
道の反対側に、妻籠宿ふれあい館
(無料休憩所)に続いて、
島崎藤村の母の生家で平成7年に復元された
島崎本陣跡
   
さらに右側に、現役妻籠郵便局を兼ね黒いポストが珍しい郵便資料博物館(写真右)
その先左側に、
観光案内所(写真左)
通りの突当りは
桝形跡で旧中山道は右折。
  
すぐ細い石畳道の坂(写真左)を下り、左折して当時の雰囲気の漂う建物の前(写真中)を通る。
突当り階段右側に、
当時の長屋を庶民の住居を代表する方土間に並列二間取の形式に解体復元した
下嵯峨屋
   
階段を上り左側に、
女性を救う延命地蔵という大きな岩が安置されている
延命地蔵堂(写真左中)
1813年
(文化10)、光徳寺住職が地蔵尊像の浮かび上がっている岩を蘭川から運んできて安置したという。
その境内の左隅に、
唐代禅僧、「寒山」が経巻「拾得」が箒をもつ像が彫られている
石仏寒山拾得(写真左)
この双体像は国内唯一のもので、1984年長野西部地震で崩れた石垣から発見された。
その先左側に、昭和44年の解体復元された18世紀中期の木賃宿の
上嵯峨屋(写真右中)
木賃宿:江戸時代初めの庶民の旅は自分で米を蒸して乾燥させたホシイを持参し、
宿で湯を沸かしてかして戻して食べた。
その薪代が宿代になったのでキチン宿と名付けられた。
さらに左側に立派な
公衆トイレがあり、その脇に1500年(明応9)開山の光徳寺への参道。
この辺りの寺下地区(写真中)は、
「売らない、貸さない、壊さない」原則を守り妻籠宿保存運動を最初に行なった宿の原点というべき町並み。
その先丁字路の左側に、
妻籠宿案内図と「馬籠宿 7.3km」道標(写真左)
馬籠宿は、馬籠峠を越えたところにあり、峠までは基本的には上りの連続で、
ちなみに妻籠宿標高は430mで馬篭峠は標高801m、その差371m上ることになり結構きつい。

さらに進み、
沢にかかる橋は古くは木曽路(中山道)から伊奈(飯田)道が分岐する尾又追分(写真右)だったところ。
ただ1760年頃飯田道が付替えられ、ここから600m南の橋場に追分は移動した。
橋の手前左側に、祀る神様に諸説がある謎の「
おしゃごじさま(写真右)
   
右手下に蘭川(あららぎかわ)(写真右)を見てゆるい坂を上り、
国道256号線(写真右中)を横断して第3駐車場右脇の「中山道道標が立つ細い道(写真左中)を進む。
道標には「左志ん道 いいだ  右旧道 まごめ」と刻まれている。
少し進み、左側の草むらに新しい花とローソクが供えられた小さな
お地蔵さま
きっと街道歩く人たち、地元の人たちからら篤い信仰を得ているお地蔵さまなんでしょう。合掌。

   
蘭川沿いののどかな道(写真左)を進み、道なりに左にカーブし旧県道(写真左中)に出て右折する。
その先蘭川にかかる大妻橋(写真右)手前左側奥の民家敷地に、明治14年地元商人建立巨大「中山道石柱
この地橋場は明治25年まで中山道と飯田街道の追分として栄えたところで、
石柱には「東京
 七十八里半 西京 五十四里半」と大きな文字で刻まれた旅人にやさしい道標。
大妻橋を渡り、道なりに左にカーブする。

  
すぐ先のガードレールの切れる建物脇(写真左)から右折して、「馬籠宿6.5km」道標の石畳道に入り、
土留め道(写真左中)を進み、崖縁道(写真右中)を進み、右折して3分ほどで石畳の坂を上る。
    
坂を上り切り、民家の庭と思われる中を走っているピンク道(写真左)を通る。
民家を過ぎて道は下り坂となり、下り切った
丁字路(写真左中)を右折し神明橋を渡り、ゆるい坂道を上る。
左側の当時の面影を残す
旅籠金剛屋(写真右中)、旅籠「波奈屋」の前を過ぎ、
大妻籠大看板の立つ小さな広場になっているところで、坂を上り切る。
   
広場の左手は「大妻籠」バス停の立つ県道7号線(江戸中期の中山道)
ここでは江戸初期の中山道を進み広場から右折して
小さな橋(写真左)を渡り、
道なりに左折して
ピンク坂道(写真中)を上る。
右側に大妻籠公衆便所、
続いて当時の雰囲気が漂う
旅籠近江屋」、旅籠まるや」、旅籠つたむら」が並ぶ前を進む。
   
丁字路を直進し、道なりに左にカーブして橋を渡り、県道7号線(写真左中)に出て右折する。
出口の左側に、
中山道庚申塚碑(写真左)。「左旧道  右志ん道」と刻まれている。
県道を右折した右側に、当時の
山駕篭(写真右)が吊下げられている民宿こおしんづか」。
   
「庚申塚」バス停前を通り県道7号線の坂道を少し上り、左側の細い石畳道(写真左)を上る。
木立の中の石畳(写真左中)畑の土道(写真右中)丁字路は直進してゆるい坂を上る。
   
「馬籠宿5km」道標のある(写真左)を渡り、
道なりに右に左にカーブして坂を上がり入口から約10分で
下り谷集落(写真左中)に入る。
ある一軒の住宅の角に、ホースから勢いよく流れている水。旅人のための親切な飲み水と勝手に感謝して
備えてある柄杓で遠慮なく冷たい水をいただき乾いた喉を癒す。
集落を通り過ぎ
(写真右中)を上がり、右側に便所
   
その先左手上に、倉科七郎左衛門朝軌の霊を祀った倉科祖霊社(写真左)
1586年
(天正14)松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が、
貞慶の命を受けて大阪の豊臣秀吉への使いに行った帰途、
ここで従者30余人とともに地元土豪たちによって全滅させられた。、
200m先の坂を上がったところで、
道は2つに分かれる(写真右中)
旧中山道は左手の細い山道に入るが、このとき倒木のため
立入禁止(写真左中)
男滝・女滝経由のバイパスを通るため、右手の
を下る。
    
坂を下ったところでおたる川にかかる(写真右)を渡り、すぐ左折して谷に下り(写真中)
突当りで右手の階段を上り、おたる川にかかる
木橋を渡る。
  
橋を渡ると正面に豪快(過大広告?)男滝(写真左)、右手奥にとても優しい女滝(写真左中)
吉川英治「宮本武蔵」の舞台になったところで、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説がある。
男滝と女滝の中ほどから川へ下り、
(写真右中)を渡って道なりに山道を上り、
階段を上って滝見茶屋の脇から県道7号線に出る。
   
県道7号線(写真左)を左折して進み、
滝上橋を渡りその先左側で先ほど倒木で通行不可の
旧中山道と合流(写真左中)する。
7号線を約10分進み右折して
木橋(写真右中)を渡り、左折して道なりに山道を上る。(山道の上り口にトイレあり)
   
次々と沢にかかるが姿を変えて現れる。
   
わずか5分ほどの間に4カ所の橋を渡り、県道(写真左)に出て横断し石畳道(写真左中)を上る。
石畳道を2分ほど進み、
左側に
案内板(写真右中)と樹齢300年胴廻5.5m樹高41mのサワラ大樹(写真右中)
神居木(かもいぎ):
このサワラの下枝は、立ち上がって特異な枝ぶりとなっているが、このような形の枝を持った針葉樹を神居木という。
昔から、山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所で傷をつけたり切ったりすると、
たちまち祟ると言い伝えられている。
その先
を渡り、木立の中を進む。
   
3つ目の橋を渡り、道は石畳(写真左)となり、
坂を上がり切ったところに復元された
門柱と「一石栃白木改番所跡(写真中)が立っている。
一石栃は地名で妻籠宿と馬篭宿の中間に位置にあり、最初下り谷にあった白木改番所をここに移した。
尾張藩は直轄で木曽山林の保護をはかり、抜荷の取り締りを強化のため白木改めの番所を設けた。
門柱を通り右側に、立場茶屋跡の
牧野家住宅。公衆トイレもある。
江戸時代後期の建物で、当時間口10間半あったが現在は8間に縮小されている。
このとき建物の前のベンチに、街道歩きを楽しんでいる風の白人系の若い男女が休憩していた。
宿場の観光は別にして、この日街道を歩いている人は全て男女のペアーで7組に出会ったが、
そのうち日本人はわずか1組。
もう日本人は歩かない民族になってしまったのかと思ってしまう。

  
牧野家住宅を通り過ぎ、道なりに進み木立(写真左)に入り、(写真左中)を渡り、さらに5ヶ所の橋を渡り、
急勾配の道(写真右中)を上り、石畳道を上り切ると馬籠峠頂上。
   
頂上は小さい広場になっていて、中央に「馬籠峠頂上 標高801m標柱(写真左)、正岡子規の句碑が立つ。
左側に、その名の通りの「
峠の茶屋(写真中)
    この峠で長野県(木曽郡南木曽町)から岐阜県
(中津市)に入る。
広場から左折し、
県道7号線を下る。
   
すぐ先右側のガードレールの切れたところ(写真左)の坂道を下る。
桜の花を散りばめた模様の坂道(写真右)で、この桜花道を進むと馬籠宿にたどりつけるようになっている。
坂道を下り、左側に
熊野神社
   
さらに下り、集落(写真左)を通り、集落を抜けて(写真中)を下り続け、右側トイレ・休憩所広場に、
十返舎一九歌碑「渋皮の剥(む)けし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」。 
この地は古くから栗こわめしを名物にしていた所で、
1811年
(文化8)十返舎一九は中山道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。
   
さあらに桜花道を下り、県道7号線(写真左)を横断して進み、次の県道の横断歩道(写真中)を渡り、
左折して
ガードレールの歩道を道なりに右にカーブして進む。
   
歩道の突当りで、「馬籠宿 1.0km」道標の立つ石畳坂道(写真左)を下り、
下り切ったところ(写真中)で県道を横断し、「中山道」碑の立つ石畳道を下る。
   
木立の中(写真左)(写真左中)を渡り、丁字路(写真右中)を直進し、
入口から約8分で
県道に出て、左折する。
   
その先で塩沢橋(写真左)を渡り、道なりに左にカーブしすぐ右側の石段(写真左中、右中)を上り、
石畳の山道を進む。
   
入口から約4分のところで、階段(写真右)を上り民家の前に出て、
軒下沿いに左折(写真右中)し、右折(写真左中)して再度石畳道を進む。
     まさに民家の軒下を黙って早々に通らせてもらったが、とても気が引けた。この道は公道なのだろうか?
中山道には、こういうところが結構多い。

   
道は下り坂となり、左下方に広場(写真右)さらに下り公園入口の建物(写真右中)に「馬籠上陣場標札(写真左中)
公園から見る
恵那山
     
馬籠宿:
木曽路最後の宿で、美濃との国境にある。
妻籠宿と同様馬籠峠をバイパスする国道19号線が完成したため
近代化に取り残された。
宿場は山の尾根の全長600mの急傾斜面につくられ、通りの両側に石垣を築いて建物を建てた。
尾根のため水利には恵まれず、明治28年、大正4年の大火で古い建物は全焼した。
本陣は島崎藤村の生家で、宿は藤村の「夜明け前」の舞台となり有名になった。
本陣1軒、脇本陣1軒。
   
さらに下り、左側に復元された高札場(写真右中)
その先の県道に出る右側に「
中山道馬籠宿 江戸八十里半  京五十二80里半石柱(写真右)
この地点で60%の行程。京はまだまだ遠い。
県道を横断し、馬籠宿に入り
宿場通りの石畳の坂(写真左中)を下る。
すぐ先右側に、
脇本陣跡にある馬籠脇本陣資料館
脇本陣の建物は明治28年の大火で焼失したが、その跡に建てられた資料館に、
脇本陣最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元され、
また焼失を免れた貴重な什器・衣服などが展示されている。
資料館入口手前右側に、
山口誓子句碑「街道の 坂に蒸れ柿 火を点す」
   
さらに右側に、大黒屋(写真左)
10代目当主大脇兵右衛門信興が30才から40年間つづった自筆「大黒屋日記」には、
当時の馬籠宿の様子を克明に描かれていて島崎藤村「夜明け前」創作の骨組になった。
また藤村の「初恋」のおゆうさんは、大国屋の娘さんがモデルであった。
続いて右側に、
本陣跡の藤村記念館(写真中)
本陣は代々島崎家が勤めていた。
藤村はここで1872年
(明治5)島崎家の末っ子として生まれた。
建物は明治18年の大火で焼失したが、昭和22年跡地に藤村記念館が建てられた。
記念館入口右側黒塀の前に、
木曽の5木、ひのき、こうやまき、さわら、あすなろ、ねずこ が植えられている。、
  
          宿場通り(写真左)の坂を下さらにり、
           宿場通りのほぼ中央右側に、赤いポストが似合う
馬籠郵便局(写真中)
       この窓口
(ポストはダメ)に手紙を出すと「藤村記念館消印を押してもらえる。
          続いて110年前の囲炉裏があるという
民宿但馬屋
道の反対左側に、藤村の「嵐」に出てくる「森さん(原一平)」の家清水屋資料館(写真左)
藤村の書簡、掛軸、写真や当時旅籠として栄えた頃の書画、骨董品、宿場資料を展示。
通りの突当りの右下に現役の
水車(写真右)を見ながら、枡形道を左折する。
   
すぐ右折して、(写真左)を下り宿場の外れ(写真左中)で県道に出る。
中山道は県道を横断して進むが、今日はここまで。
  県道を右折したところに、
馬籠宿行燈(写真右中)と「中山道馬籠宿 五十二里半 江戸八十里半石柱
   
今夜の宿泊は妻籠に戻り南木曽温泉。
タクシーの姿見当たらず、右角にある商店の親切な美人奥様が電話で呼んでくださいました。
タクシー料金4200円は痛い!
   
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旅と旅行と