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この区間は、208.5.1馬籠宿に続いて歩いた。 通常馬籠宿までを信州木曽路として紹介されている。 馬籠宿は岐阜県中津市にあり美濃路ではないかと思うが、次のような背景があるのかも知れない。 昔から馬籠宿と落合宿の間の新茶屋集落に信州と美濃の国境があり、 それが長野県と岐阜県の県境になっていた。 従って、馬籠宿はもともと信州木曽路であった。 それが平成17年の市町村合併で、 長野県山口村が岐阜県中津川市に越境合併したため馬籠宿は岐阜県となってしまった。 従って行政区分からすれば馬籠宿は美濃路であるが、歴史的・地形的には木曽路としているのかも知れない。 まあ、こんな詮無いことどうでもよいですか。 |
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2008.5.1 宿泊先南木曽温泉からタクシーで出発地点馬籠宿外れに到着。 余談ですが、このタクシー代前日の行きの代金と同じ4,200円とは偶然とはいえなんと申し上げたらよいのでしょうか。 9:18分 馬籠宿南の外れ(写真左)から県道7号線を横断し、 急な坂道(写真中)を下り、すぐの交差点を直進し道なりに進む。 |
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出発して約6分で、丸山坂(写真中)を上り、 右側に「この辺りの地名は城山とも言われ、室町時代から馬籠砦(城)があったところ」馬籠城跡案内板(写真右) その先坂を上り切った左側に、延々と続く参道の諏訪神社。 |
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諏訪神社を過ぎると道は下り坂(写真左)となり、 道なりに進み神社から約10分の「なかのかや」バス停を先右側に小さな公園。 右下に中津川市街を見下して、「桑の実の 木曽路出づなむ 穂麦かな」正岡子規句碑(写真中)。 さらに坂を下り、公園から数分のところの分かれ道は左手を進み、新茶屋集落に入る。 |
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花で飾られた2軒の小さな新茶屋集落。 地名由来:昔ここから南西数百mのところに立場茶屋があったが、江戸末期この地に移された。 それで新茶屋と呼ばれるようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。 |
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通り左側順に、「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐」芭蕉句碑(写真左)。 続いて「新茶屋、是れより北木曽路碑、芭蕉の句碑、一里塚」説明板(写真左中)。 さらに以前この地が長野県と岐阜県の境を意味する藤村揮毫の「是より北 木曽路」碑(写真右中)、 その隣に当時の面影を残す新茶屋一里塚跡碑。 |
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通り右側の建物の外れの新茶屋バス停のところで、 右に入る細い道(写真右)の入口左側に「美濃・信濃 国境」石柱(写真右中)。 当時ここが美濃国と信濃国の国境、また岐阜県と長野県の県境であったが、 平成17年の平成の大合併で長野県山口村が岐阜県中津川市と合併したため、馬籠宿も含め岐阜県になった。 続いて一里塚古跡碑(写真左中)。 道はカラーとなり坂を下り、すぐ右側に石畳の分かれ道があるが、まっすぐ下る。 分かれ道に誤解してしまいそうな標識があるが、全長120mのこの石畳は平成17年に遊歩道として造られたもの |
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道なりに右にカーブし、「石畳を経て落合宿へ至る」黄色標識に従い左側の坂道(写真右)を下る。 石畳(写真中)を進み、左側に昭和51年植樹した「なんじゃもんじゃの杜」碑・ |
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馬籠と落合の間にある十曲峠の坂道に敷かれた落合石畳(写真左)は、 全長823mのうち部分的にわずか4カ所計70.8mが当時のままで、あとは全て復元されたもの。 石畳を出て(写真左中)、カラー道を直進して道なりに進む。 5分ほどで左側から道に枝が張り出しているのは、 医王寺(写真右中)境内の「その日その日風にふかせる柳かな」と詠まれた名木2代目枝垂れ櫻。 |
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カラー道を道なりに、最初の分かれ道(写真左)は左手へ、次の分かれ道(写真中)も左手へ、 次も左手へ進み竹林の坂を下る。 |
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坂を下り切ったところで、滝のある落合川(写真左)にかかる下桁橋(写真左中)を渡り、 道なりに右にカーブして坂道を上る。 上り切った丁字路(写真右)を右折して進む。 丁字路左角に、昔旅人が拝んだ野仏像がひっそり佇む。 |
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道なりに進み、集落の中(写真左)を通り、県道7号線(写真右中)に出て横断し、 右折して坂を上りカラー道を道なり(写真右)に進む。 県道への出口左側に、高札場跡碑。 |
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落合宿:江戸から44番目の美濃路に入って最初の小さな宿場であった。 宿場通りの中央にある本陣は、江戸時代の建物がほぼそのまま残っている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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突当りの桝形道を右折し、閑静な落合宿の通り(写真中)に進む。 すぐ右側に、1792年(寛政4)建立常夜燈(写真右)。宿場には4基あったが現存するのはこの一基だけ。 その先宿場中央の左側に、「脇本陣跡」碑。 |
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右側に、井口家「本陣跡」碑(右側碑)(写真右)。 後ろの門は、1815年(文化12)火災再建時加賀藩より火事見舞で賜った由緒ある門。 その先左側に、助け合い大釜(写真左)。 1861年(文久元)皇女和宮の大行列(4日間で延べ2万6千人)が宿場を通行したとき、 暖かいもてなしをするために寒天の原料(天草)を煮た大釜で、直径1.5m容量1KLもある。 宿場通り外れの丁字路に、右角の善昌寺境内から道路上に張り出している門冠の松。 移転前の山門を覆っていたので門冠の松と呼ばれ、 樹齢450年のわりには若わかしく美形で宿場を飾っている。 |
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左角に「右至中仙道中津町一里」標柱(写真左)の立つ丁字路から左折し、ゆるいカラー坂道(写真中)を下る。 すぐ先で道は上り坂となる。 |
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道なり上り、上り切った交差点を右折し国道19号線架橋おがらん橋(写真左中)を渡る。 渡ると右角に、地元でおがらん(お伽藍)と呼ぶ愛宕神社(写真右中)、 境内に「落合五郎兼行城之跡」碑(写真右)が立っている。 落合五郎兼行は巴御前の弟で、木曽義仲の4天王の一人で美濃口の抑えとして落合に居を構えていた。 旧中山道は橋から左折し、カラー坂を下り道なりに進む。 |
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カラーは途中で途切れ(写真左)、本来はここから左手の19号線を横断する。 現在は横断歩道がなく3分ほど先に進み、 丁字路で黄色歩道に従い左折し、国道19号線ガード下(写真左中)を潜り、道なりに坂を上り、 黄色の終端でガードレールの切れ目(写真右中)から道路を横断し、先ほど途切れたカラーの坂道を上る。 |
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すごく急な坂道を3分ほど上り、分かれ道(写真左)は左折し、途中何故かカラーでない道(写真左中)になり、 右手はるか下方の中津川市街(写真右)を見てとても標高の高いところにいることを知らされる。 ふとこの急坂に住む集落の人たちの日常生活は、結構苦労されておられるのではないかと思う。。 さらに上り続け右側の渡辺レッカー社前を通り、 坂を上り約8分で鉄塔のある交差点で頂上となる。 |
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交差点からは下り坂となり、 すぐ先右側立派な建物(写真左中)の前に、「与板立場跡」碑(写真左)。 ここから木立の坂(写真右中)に入り、 上りの急坂よりさらに厳しい下りとなるところもあるが、いかんせん技量が伴わず写真では表現不可。 坂を下り続け、平坦になりまたカラー道が始まり、その先で三五沢橋を渡る。 |
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橋野先左側の草むらに、ポツンと「子野一里塚跡」碑(写真左)。 カラー坂道を上り、分かれ道(写真中)は左手を上る。 その先で道はカラーでなくなり、坂をさらに上り交差点で頂上となる。 |
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左角に「中津川駅2000m」標識の立つ 交差点を下り、右側に御嶽神社(写真中)と覚明神社(写真右)が並ぶ。 急な坂を下る。 |
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途中でカラー道となり、車道(写真左)を横断して坂をさらに下り、子野川にかかる子野橋を渡る。 車道に出る左側に、トイレが完備したきれいな「いこいの広場」がある。 |
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ゆるい坂を上り、枝垂れ桜(写真中)が道に張り出している左側高台に地蔵堂石仏群(写真左)。 無縁石仏を集めたところで、元禄7年(1694)の庚申塚や観音像、地蔵など多数祀られている。 また文政5年(1822)「南無阿弥陀仏」と刻まれた、高さ2mの徳本行者名号石もある。 その先で地蔵堂川にかかる地蔵堂橋を渡り、坂を上る。 |
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道は分かれ(写真左)、右手の上り口に「中山道」標識のある坂道(写真左中)を上る。 数分進み、国道19号線(写真右中)に出るが横断歩道がないため右側の地下道を潜り、 左折して擁壁沿いに進み反対側に出る。 |
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上金地区のカラー道(写真中)を進み、左側に秋葉大権現常夜燈(写真左)。 さらに進み右側に、「尾州白木改番所跡」碑。 尾州は白木材の木曽五木の領外搬出を厳しく取締り、1782年(天明2)上金村に白木改番所を設置した。 |
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ゆるやかな坂(写真中)を上り、頂上の左側にトイレのある旭ヶ丘公園(写真左)。 ここから道なりに右にカーブし、坂を下る。 |
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坂の途中にある1772年(安永2)建立 「山路きてなにや羅遊ゆかし寿み漣草 はせを」芭蕉句碑(写真右)から、左の石畳を下る。 車道(写真右中)に出て左折し、歩道(写真左中)を下り、 下方で右側の陸橋を渡って下りたところをUターンし、坂を下る。 この辺りの標識は京都から来る旅人ための表示になっているため、要注意。 |
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坂(写真左)の途中左側に、Uターン標識(写真中)があり、その数m先で左側の階段を下る。 |
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最初の踊り場(写真左)で右の階段を下り、茶屋坂に出て左折する。 すぐ左側に、復元された高札場(写真中)、続いて順に常夜燈、庚申、二十三夜塔が並ぶ。 |
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中津川宿:木曽路の入口にありまた飛騨街道の分岐点に当たる交通の要衝であったため、 商業で賑わい旅館は29軒もある大きな宿場。 1663年(寛文3)から始まった3と8の日に市が立つ、六斉市は、 商店街で再現し毎月第一日曜日に「六斎市」を開催している。 現在も当時の立派な卯建てのある建物が並んで残っている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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石碑から右折し市街地(写真左)を進み、県道71号線新町信号交差点(写真中)を横断して中津川宿に入る。 交差点右手にJR中津川駅。 |
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現代の「六斉市」幟の立つ新町商店街の宿場通り(写真右)はカラー道で、 左側歩道に「桂小五郎隠れ家跡」立札(写真左)とその下に←「この奥(料亭やけ山跡)」があり、小路の奥を示す。 1862年(文久2)桂小五郎がここで藩主毛利慶親との「中津川会談」に成功し、 長州藩が尊王倒幕を決断した舞台となったところ。 その先左側に、東美濃最大の豪商間杢左衛門屋敷跡間家大正の蔵 |
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右側に、当時の宿場往還を復元した往来庭(写真右)。 その先四ツ目川にかかる四ツ目橋を渡ると宿場の中心本町。 |
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左側に、「脇本陣跡」碑(写真左)。但し脇本陣は「この先20mのところにあった」との注書。 さらに左側NTTビル1階に、古文書中心展示の中山道歴史資料館(写真中)。 右側に、皇女和宮が宿泊し当時283坪の広大な屋敷であった「本陣跡」碑。 |
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その先左側に、中津川市指定文化財中津川村庄屋跡(写真左中)の曽我家住宅(写真左)。 江戸時代中津村の庄屋と脇本陣を務めた肥田家(田丸屋)の建物で、江戸中期頃に建てられたもの。 突当り(写真右中)右側に、 江戸時代の米屋で屋根裏の博打部屋など当時のものがいろいろ残っている表具店松露堂 |
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左折して進み、突当り正面に1601年(慶長6)創業の立派な卯建つ(写真左中)のあがる酒屋建物(写真左)。 ここから右折して古い建物が並ぶ道(写真右中)を進み、中津川にかかる中津川橋を渡り直進する。 |
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道なりに進み、突当りの「津島神社参道」石柱(写真右中)の立つ分かれ道(写真右)は、 左手の坂道(写真左中)を上り、車道を横断して駒場地区の住宅街を進む。 |
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分かれ道(写真左)は左手、左手を進み、青色中山道標識の立つ丁字路(合成写真)(写真中)で右折し、進む。 |
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その先左側に、「駒場村高札場跡」碑(写真左)。但しその右側建物に取り付けられた札は全て現代のもの。 さらに進み、上宿橋を渡り、その先で右にカーブ(写真中)するが、 突当りの「小手の木坂」碑が立っている階段を上る。 |
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先ほど分かれた道に出て横断(写真左)し、次の階段を上り、再び同じ道に出て(写真中)右折し、 すぐの丁字路を左折する。 |
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丁字路右角の石碑群に、1816年(文化13)建立双頭一身道祖神碑(写真右中)と案内板(写真左中)。 男女別々の頭を持ち、肩から足元まで一体となっている石像で、 左上に「是より苗木道」と彫られているように中山道と苗木道の分岐点にあった道標。 道はゆるい上り坂(写真左)で、すぐ先右側に江戸から85番目の1/3規模で復元された「上宿一里塚跡」碑。 |
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その先でカラー道(写真左)となり、そして5分ほどでカラーでなくなり(写真左中)下り坂、 また3分ほどでカラーと目まぐるしい変化。 同じ中山道で、何故とぎれとぎれにカラーにしているのか、ずーっと疑問であったが、予算?行政区分? 道なりに下り切ったところで右にカーブ(写真右中)し今度は坂を上り、道なりに左にカーブする。 |
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上り切ったところで車道(写真左)を横断して坂を下り、コンビニ前の左側草むらに「小石塚立場跡」碑(写真左中) すぐ先で道は分かれ(写真右中)、国道19号線手前の道を右折して進み、駐車場脇片隅の階段を下りる。 |
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「中山道案内図」板(写真左)の左側の狭い階段(写真左中)を曲がりながら下りて車道に出て(写真右中)、 国道19号線と国道257号線の法面に挟まれた坂を上る。 階段以降の旧中山道400mは、国道19号線、257号線、中央高速で寸断、消滅しているので、 案内版地図を参考にするとよい。 |
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上り切ったところで、右側の国道257号線(写真左)を横断して左折し、JR中央線沿い(写真左中)に進む。 2分ほど進み、バスターミナル(写真右中)角から右折しさらに接近してJR中央線沿いに進む。 |
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道なりに進み、コンクリート擁壁から左折し、すぐの丁字路を右折する。 丁字路を直進し細い道を進むと19号線に出る。現地に標識がないので注意。 千旦林地区のゆるい坂道(写真左)を下り、六地蔵川にかかる六地蔵橋を渡り、右側に六地蔵石憧(写真左中)。 1657年(明暦3)中山道から大林寺参道への分岐点に建立されたもの。 さらに7分ほど先右側に、参道両側に常夜燈が並ぶ坂本神社(写真中)。常夜燈(写真右中)は明治時代に造られたもの。 その先右側に、「千旦林村高札場跡」碑。 |
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右手に中央線の電車を見て、小さな東巣橋を渡り、高札場跡碑から約200mところで、 入口に青色中山道道標(写真右)の立つ左側の細い道(写真右中)に進む。 田圃道を進み、橋を渡り集落の中の坂道(写真左)を上り、下り、上りして右側に、 2代目美濃代官岡田将監善同の墓と伝えられる「将監塚」案内板。 |
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坂を下り続け、右側草むら奥に田圃をバックの「三ッ家一里塚跡」碑(写真左中)。 そのすぐ先で車道に出るが横断歩道がないため、手前の地下道(写真左)を潜り反対側に出る。 人家のまばらな千旦林地区の道(写真右中)を10分ほど進み、 車道(写真右)を横断して急な坂道を下り茄子川地区に入る。 坂の下り口右側に、「坂本立場跡」碑(合成写真)(写真右)。 |
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坂を下り、県道420号線ガードを潜り、その先の丁字路(写真右)を左折し、 すぐ右折して坂本川にかかる坂本橋(写真右中)を渡り、道なりに茄子川地区を進み丁字路(写真左中)を直進する 丁字路の左角に、「茄子川村高札場跡」碑(写真左)。 さらにその先右側に、「尾州白木改番所跡」碑。 尾張藩は直轄地木曽山から伐採した木材は、重量材は木曽川を流送し軽量材の白木は中山道を牛馬で駄送した 木曽川筋には「川番所」、中山道には「白木改番所」を設置し、抜荷監視や量目点検の厳しい取締を行った。 |
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その先で県道410号線と合流して進み、 左側に、茄子川小休所篠原家の建物(写真左)で、表門、部屋、厠などが当時のまま保存されている。 篠原家は、中山道の休泊施設として本陣や脇本陣の役割をになっていた。 篠原家脇で、両側に大きな秋葉大権現常夜燈の立つ中山道から分岐する道は、遠州秋葉道(写真中)。 410号線は町中を過ぎ、人家もまばらなゆるい上り坂となり、左側の広久手集会所を過ぎて下り坂となる。 |
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その先左側に、茄子川焼案内板(写真左)。 1578年(天正6)加藤吉右衛門が諏訪に来て焼いたのが始まりで、 1832年(天保6)安田新吉がこの地広久手で磁器を製造し、改良を重ね奥州相馬焼に似た茄子川相馬焼を製造した 明治に入り九谷焼風茶器などを焼き、明治末期まで村の重要産業であった。 さらに県道410号線を進み、恵那市の境界標識(写真左中)でここから恵那市大井町。 左側に大きな「是より大井 中山道」石碑(写真左中)。但し昭和62年製。 その先の広久手坂を上り、下り、境界から約8分のところで岡瀬沢信号交差点(写真右)。 信号を横断直進し、交差点左側に大きな「中山道岡瀬澤」碑。 |
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県道410号線を進み、濁川にかかる筋違橋を渡り、、岡瀬澤集落のゆるい坂道(写真左)を上る。 左にカーブする突当り(写真中)を進み、当時は短い距離であったが凄い急坂で有名な甚平坂を、 今は階段で上り、先ほど分かれた410号線に出て右折する。 |
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右側の甚平坂公園の前を通り、ゆるい坂道(写真中)を道なりに左にカーブして上り、 頂上左側に根津神社参道階段(写真左)。 道は下りとなり、神社から約500mの先丁字路で県道401号線と合流し、左折する。 |
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401号線(写真左)の坂道下り、中央自動車道の陸橋(写真中)を渡り、 そのすぐ先で「大井宿 約300m」道標の立つ階段を下る。 |
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急階段(写真左)を下り、右側に上宿8人女講連中でたてた馬頭観音(写真中)。 続いて、「中山道寺坂」碑と上宿石仏群。 大井宿が一望できるこの上宿の地に多くの石仏を建て、宿場内の無事息災を祈った。 |
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さらに右側に、 水飢饉対策で1772年(安永元)阿木川から5,400mの灌漑用水を引いた山本用水案内板(写真右)。 天井に手が届く明知鉄道ガード下(写真中)を潜り、左側に巨大な「南無阿弥陀佛」碑。 |
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その先で急坂の五妙坂(写真中)を下り、右側に復元された高札場(写真左)。 横町川にかかる上横橋を渡り、ゆるい坂を下る。 |
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突当り(写真左)延壽院横薬師角から左折し、大井宿へ入る。 |
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只今17:02。予定の距離を行けなかったことを反省して、今日はここまで。 恵那峡温泉に宿泊するため、恵那駅前のタクシー乗り場へ急ぐ。 |
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