奥州街道 (1日目)
宇都宮宿→ 白沢宿→ 氏家宿→ 喜連川宿

宿間距離 km   9.8        5.9        9.8      
   
        
この区間は2004.4.10に歩いた。
前回歩いた日光街道から約半年後の旅であるが、何故こんなに時間を空けるかというと、
1回旅に出るたびに両足親指の爪が血豆で全て剥離してしまうので、
新しい爪に生えかわるまで待っているためで,
これはお医者さまからの固いお達しなんです。
さてこの日は天気良好で、横浜の片田舎から始発電車で出発し、
日光街道で懐かしい宇都宮に朝到着した。

  
区間の経路
(宇都宮宿)119号線一般道125号線(白沢街道)一般道(白沢宿)一般道125号線(阿久津大橋)
                                          ↓
 (弥五郎坂)293号線48号線181号線(氏家宿)181号線293号線4号線125号線
       
     293号線114号線(喜連川宿)114号線佐久山宿へ

宇都宮宿:日光街道・奥州街道で最大の宿場で、町は二荒山神社を中心に発展してきた。
白沢宿 :(栃木県河内郡河内町)徳川家康が上杉攻めで鬼怒川を渡るとき案内役を務めた白沢村庄屋の宇加地家と上岡木村庄屋の福田家が、戦いの後その功績が認められ両村共同で白沢宿と言う名で往還宿を構成することが許されたのが始まり。
  明治18年に奥州街道が現在の国道4号線に移ったため、静かな町並みのまま当時の宿場の面影を今に留めている。
氏家宿:(栃木県塩谷郡氏家町)寛永4年(1627)に奥州街道が開通し、その後元禄8年(1695)に会津中街道が開かれるなどして物資の集散地となり、交通の要衝なって庶民の往来も多く繁盛した。また鬼怒川の水路が江戸まで通じていたため阿久津河岸ができ、鬼怒川舟運の起点ともなっていた。
鎌倉時代宇都宮公頼は勝山に築城しこの地を支配していたが、公頼はこの領内を「氏家郡」と私称し、さらにこの地名をとって自ら「氏家氏」を創設し氏家氏の始祖となった。
  これが氏家町の発祥であり、全国氏家姓のルーツであると言われている。
喜連川宿:(栃木県塩谷郡喜連川町)源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と約800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町宿場。町には荒川・内川・江川・岩川という四つの河川が南北を貫流しているが「喜連川」という川はない。
  この喜連川の地名の由来には諸説あり、その昔荒川が「狐川」と呼ばれていたのが変化したという説が有力という。
  昔 荒川の上流にキツネが住んでいたので荒川はキツネ川と呼ばれていたが、キツネ川ではあまり格好良くないので、荒川・内川・江川が喜んで連なって流れているということで、喜連川(キツレガワ)としたのではないかと言われている。
   

宇都宮市地方裁判所前の通りを西へ約100m歩くと、伝馬町交差点がある。
この交差点は
日光街道と奥州街道の追分(写真左)で、
左折すると清住町通りの日光街道で,直進するのが
大通りの奥州街道(写真右)となる。
この追分を8時35分に出発して、市街地のど真ん中の大通りを西へ向かって歩き始めた。

    
700mほど西へ歩き馬場通りに入ると、
左側の奥まった階段の登りきったところに由緒ある
二荒山神社がある。
承和5年
(838)に荒尾崎からこの地に遷座され、宇都宮の町はこの神社を中心に発展してきた。
宇都宮の地名はこの二荒山神社の社号をとったもの。

    
さらに500m行くと、左側に只今建設中の宝蔵寺に出合った。
市街地のど真ん中によく建設する用地
(もしかして改築?)があったものだと感心しながら、
立派な山門を拝見し多くの悩める人々を救ってくれることを願って先に進んだ。

    
歩くとすぐその先は田川にかかる宮の橋(写真左)で、正面にはJR宇都宮駅が見える。
宮の橋から田川を見ると穏やかな朝の都会の風景であった。

    
奥州街道は宮の橋を渡るとすぐ左折して田川に沿って進む。
   
300mほど進み博労町交差点を横断すると、重要文化財に指定されている旧篠原家住宅がある。
篠原家は江戸時代から第2次世界大戦まで醤油醸造業と肥料商を営んでいて、
現在の店蔵は明治28年
(1895)に建てられたもので改造が殆どされていない、
江戸時代の豪商の姿を今に伝える貴重な建造物といわれている。

    
さらに進んで行くと、今泉交番前交差点で右手にJRのガードが現われるが、
交通標識に従い直進し,県道125号線「宇都宮ー氏家線」を進んで白沢宿に向かう。

    
ここからは白沢宿までは淡々とした一本道で、道々の風景をご紹介する。
竹林町信号を過ぎるあたりから、道の両側には古い建物が点在する。
歩道には
桜の並木。遠くまで続くが目の保養となる。
    
庭には鯉のぼり。海道町に入ると民家の庭に、海道新田に水路を築き水田を開いた
小林清次郎翁の徳に感謝して慶応2年
(1866)に建てられた感恩報徳碑がある。
車道と分離された
のどかな歩道。さらに進んで稚ヶ坂の桜並木
    
稚ヶ坂あたりで宇都宮市から河内町白沢となり、きれいな芝桜、そして白沢工業団地の看板。
進んで行くと
道は二つに分かれるので奥州街道は横断歩道橋のある道を直進する。
   
横断歩道橋から約200m行くと、右手に河内町役場の看板が現われ白い建物が見える。
そのまま道なりに250mほど行くとやがて右に
カーブする坂道となる。
   
坂道を下り始めるとすぐ右の高台に、白沢地蔵尊(写真左)がある。
伊沢家景が鎌倉時代奥羽総奉行として鎌倉から東北へ向かう途中、白沢稚児ヶ坂で子供が亡くなり、
この地に葬り地蔵堂と石塔を建てた。それから900年もの間今も地元の人たちにより守られている。
下っている坂は、漢方の薬種を砕く舟形の器具
(薬研)に坂の形が似ているとことから、
やげん坂(写真中)と呼ばれている坂で、途中左の路傍にひっそりと馬頭観世音像が立っている。
   
坂を下りきると白坂宿信号のある丁字路に出るが、この辺から白沢宿の始まりなのであろう。
ここから左折すると真っ直ぐで静かな
白沢宿の町並みが続く。
   
左折するとすぐ右手に宿とは異質な明治の洋館のような建物が見えるが何であろうか。
道の両側には
旧い建物が多々ある。
道の左側にはきれいな水が流れている
用水路があり、水車が回っているのどかな風景。
道に並ぶ建物や庭先に当時の
屋号が表示されている。
   
宿場通りの中ほどの左には、宇加地家本陣の表示のある立派な建物がある。
   
宿場通りを約500m歩くと突き当たり、その正面には、
金賞受賞の沢姫の酒樽を重ねてPRしている
井上清吉商店の建物が、ひときは目立っている。
   
沢姫か右折すると、小さな橋があ、り渡った橋の袂に白沢宿の看板が立っている。
多分ここで宿の終わりなのであろう。

   
橋を渡ると左にオシャレな郵便局の建物があり、そこを左折すると真っ直ぐな道が目の前に現れる。
この道を約1.6kmほど行くと
西下ヶ橋交差点(写真中右)に出るので、
奥州街道は右折し、600mほど歩いて西鬼怒川にかかる
にしかわ橋(写真右)を渡る。
  
橋を渡り125号線を直進し約700m歩くと、鬼怒川にかか阿久津大橋(写真左)がある。
橋の途中に
氏家町境界看板(写真中)が立っているので、ここで河内町から氏家町に入る。
約500mの長さの橋の中ごろで見た
鬼怒川は、ご多分にもれず水量の少ない川であった。
   
阿久津大橋を渡り突き当たりの上阿久津信号(写真左)の交差点を左折する。
約1km歩くと左奥の林の中に
将軍地蔵がある。
奥州攻めの源義家が鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため前に進めなかったとき、
宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させた。
それから勝山城を守護する寺院として、堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てた。
満願寺は戦国時代に焼失したが江戸時代に再建されて堂原地蔵となり、
奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となった。

   
さらに500mほど行くと、左手に氏家氏が築城した勝山城跡の案内板(写真左)が出ている。
訪ねて見たが詳細不明で空堀にかかる
木橋を渡ったところが城跡(写真右)らしいが、
単なる空地にしか見えずどうも所在不明というところであった。

   
戻って600mほど行き、右からの国道4号線と合流して進むと
直進黒磯、右折喜連川」の交通標識(写真左)が出ている。
約500m歩いて川岸交差点に「右折293号線喜連川8km」の交通標識(写真中左)が出ている。
標識に従い4号線と分れて、右折して
JR東北線のガード下(写真中右)へ歩いた。
ちょうどガード下に来ると緑色で
東北線第3奥州街道ガードの掲示がある。
間違いなく奥州街道であると確信したが、後でこの道は
奥州街道でなかったと気ずくことになる。
   
ガード下を通り293号線歩いて行くと、伝馬町バス停(写真左)があったので、
悲しいことにここでも間違いなく奥州街道であると確信してしまった。
さらに歩いて行くと
氏家交差点に出るので左折し氏家宿通りに入る。
   
左折して黒須病院前バス停の前にある茶色のレンガの平石歯科医院が本陣跡(写真左)になる。
真っ直ぐな氏家宿の通りを歩いていると、
右側に「
奥州街道道標1.3km」の矢印標識が突然現われ、道の反対側の細い道を指していた。
慌ててその指している道を歩いて奥州街道道標を探したが、道は100mほど先で丁字路になり、
どちらにいったらよいか案内もなく、地元の人たちに聞いても全く不明。
結局は道標を見つけることができなかったが、不親切な案内といわざるを得ない。
しかしこの細い道道が奥州街道であるとすれば、
ガードを潜ってきた道は
奥州街道ではなかった、ということでないか! 今更引き返す気力なし。
   
めげずに元の宿場通りに戻り歩いて行くと、
左手奥に建久2年
(1191)に氏家氏の始祖氏家公頼が建立した西導寺がある。
なお現在の本堂は天明4年
(1784)に完成したもの。
   
元の通りに戻るとすぐ目の前に氏家駅東入口信号がある。
時計を見ると13時37分。喜連川温泉での今夜の宿泊をそろそろ考えた方がよい時間であったが、
ただ私の電話はPHSで、大都会しか使えない代物で当然この辺では全く役に立たない。
公衆電話がないかとあちこち探し回ていたがご多分もれず全く見当たらない。
JR駅であればと思い、信号で左折して
駅前行ったらそこには期待どおり公衆電話があり、
1回で旅館に予約できてハッピーな気持ち。
ところで何故役に立たないPHSを持っているかということでしょうが、
それが何とも微妙な男心でして・・・。
氏家の宿場通に戻り先に進むと、右側に県重要文化財の不動明王坐像がある
光明寺があり、
さらに進むと
上町信号交差点(写真右)に出る。
ここで直進すると会津西街道で、奥州街道は右折して48号線を進む。
   
信号から150mほど行くと左手の道の奥に体育館のような屋根の大きな建物がとても目立つ。
さらに行くと左に室町時代初期の応永31年
(1424)に開創され、
現本堂が文政8
(1825)に改築された古い薬王寺(写真中左)がある。
また道々の両側には昔をしのばせる古い建物が点在している。
その中で伝統的な板塀を巡らし堂々たる長屋門を有している屋敷構えの
瀧澤家住宅(写真右)は、
今なお旧家の面影を留めている。

   
さらに道端には、二十三夜などの石碑野仏像(写真右)などがひっそりとたたずまい、
街道の名残を感じさせてくれる。

   
やがて道は右からの293号線と合流し、約2.5kmの長い直線道路で市ノ堀用水路まで続く。
道の両側はのどかな景色が続き、
桃の木の畑、まさに
そして左側の畑には異様な
溶岩のようなものが多数並んでいるが、これは何だろう?
   
合流点から30分弱歩き狭間田地内に入ると、右の歩道に一里塚の標識(写真左)が出ている。
敷地の奥まったところにある当家を訪ね一里塚の所在を尋ねたら、
おばあさんが親切に案内してくれたのが門のすぐの左側にある手入れされた
木立の盛土であった。
その裏には
一里塚の説明板と小さな祠がある。
奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内で現存しているのは狭間田の南側だけとなっている。

   
市ノ堀用水路を過ぎると「右折が喜連川」の交通標識が現われるので右折して293号線を進む。
1.2kmほど歩くと道は丁字路になり、左折して進むとすぐ右側に、
天下の名湯喜連川温泉へ 3kmようこそ」の大きな看板が現われる。
そして続いて
喜連川町境界標識が立っていって、ここで氏家町から喜連川町になる。
   
境界から293号線を250mほど歩くと、左手にニッカウヰスキーのとても大きく派手な円形看板。
ここにはニッカの栃木工場がある。
道は緩い登り勾配となり弥五郎坂を登って行くと、
右側に「
旅人を笑みで迎える道祖伸 いで湯の里仁幸多かれと」刻まれた石碑の脇に、
大きな夫婦仲むつましい
道祖神が立っている。
他にも「朝寒や無事を見送る道祖神」と刻まれた石碑と道祖神があったが、
年代的にはどりらも最近のものであった。
1kmほどの長い登ると喜連川町早乙女の看板が現われるが、そこが坂の頂上である。
下り坂をしばらく行くと道は2つに分れるので293号線と分れ、左手の114号線を進む。
   
坂道を下りきると突然目の前に、「歓迎 喜連川温泉」の大きなアーチが現われ桜が満開の道となる
ここは栃木県景勝100選に選ばれている「
早乙女の桜並木」で、
全長600mにソメイヨシノ約130本植えられて4月に一斉に咲く。
まさにこの満開に出会った喜びを噛み締めた。
並木道の中ごろには、下に
立体クロスする道が一直線に遠くまで続いている。
並木道が終わるとその先に
(写真右)が見えてくる。
   
この橋は荒川にかかる連城橋(写真左)で右側に歩道橋が併設されている。
その歩道橋の手前の道の角には「
右江戸道 左下妻道」と刻まれた道標(写真中左)が立っていて、
江戸と奥州をつなぐ奥州街道の名残を偲ばせてくれる。
橋の上から眺めた
荒川もまた水量が少ない川であった。
橋を渡ると緩い下り坂で道なりに行くと、その先は
喜連川宿の通りとなる。
   
宿通りの本町信号の丁字路交差点を過ぎると、右側に足利家歴代の墓所龍光寺の案内板が出ている。
その路地を入って行くと左に
お地蔵さんが並んでいて、その前方に朱色の山門があり、
くぐると
龍光寺本堂が正面に、左手に墓地がありここに足利家の墓所がある。
この寺の創始者は足利尊氏で、その子孫の足利頼純が慶長6年
(1601)に逝去したとき
子供の喜連川頼氏が、この寺に葬った。
以来足利家の菩提所として喜連川藩の加護を受けた。
現在でも城下町喜連川の代表的な文化財として旧態を保持している。

   
通りの戻り歩くと、左側に御用堀の案内板(写真左)が出ている。
路地を入って行くと立派な塀に沿って
御用堀が延々と続いている。
10代藩主喜連川煕氏が飲料、灌漑、防火などの用水として、堀を作ったもので城の中まで通じていた

   
さらに進むと左手の細い道の奥の階段の上に、あばれ神輿で近郷に知られている喜連川神社がある。
ただ宿泊した旅館の女将の話では、近年は担ぎ手が不足してトンとおとなしくなったとか。

   
通りに戻り、先に行くと左側奥に金の鯱を乗せた大手門と呼ばれている、町役場の建物がある。
この2階は展示室となっている。
また左手の遠くには城跡に作られたお丸山公園の高さ40mある白い
スカイタワーが見え隠れする。
このお丸山公園は桜の名所として有名なところでもある。
そろそろ宿場の端と思われる右側に、「たかしお薬局」の看板が出ているとても立派な旧家がある。
江戸時代あたりから今も続いているような、
由緒ありそうな薬局である。
   
その先の台町信号の三叉路には、正面の一段高い位置の大きな看板の下の目立たないところに
右奥州街道 左在郷道」と刻まれた享保9年(1724)建立の道標がある。
   
道標に従い右の道を歩いて内川にかかる橋に出て、114号線佐久山喜連川線で太田原宿に進む。
     
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