奥州街道 (2日目)
喜連川宿
→ 佐久山宿→ 大田原宿→ 鍋掛宿→ 越堀宿

宿間距離km 11.8       5.9        11.2    
  0.7  
       
この区間は、2004.4.11に歩いた。
この日の天気は多少曇り空で、歩くにはむしろ最適と言える。
昨夜の疲れも旅館の美人ママの見送りがあれば、すっかり忘れて元気に歩くのでした。

       
区間の経路
(喜連川宿)114号線→48号線(佐久山宿)(大田原宿)461号線→72号線(鍋掛宿)(越堀宿)72号線

佐久山宿:(栃木県太田原市佐久山)那須氏の発祥の地。文治3年(1187)那須泰隆が、佐久山南部に佐久山城を築き、城下に家臣たちを配置したのが佐久山の始まりという。
大田原宿:(栃木県大田原市)地域では一番大きな宿で、那須与一の出生地でも知られている。
鍋掛宿:(栃木県黒磯市鍋掛)最盛期には戸数百余戸を数え、旅籠、茶屋、多くの商家などで賑わった。
江戸時代の正保3年(1646)以降は幕府直轄地天領として明治まで治められていた。鍋掛の地名の由来は、上杉討伐で北上した水谷勝俊がこの地に陣をしいた時、那珂川が増水で川止めとなり、旅館に宿泊できないひとたちのために住民が
 鍋、釜を出し合い炊き出しをしたことが、鍋掛の起こりという説がある。
越堀宿:(栃木県黒磯市越堀)鍋掛宿とは那珂川を挟んだ位置にある。宿の成立は他の宿に比べ遅く、正保3年(1635)仙台伊達候が参勤交代で江戸へ向かう途中那珂川の増水で川を渡れず、越堀に小屋を建てて待った。その後この小屋を 中心に町が開け、宿場の機能をもつようになったといわれている。

朝8時17分。喜連川宿場のはずれにある内川にかかる橋の上から、内川の流れを見る。
この時間曇空で景色がぼんやりしていた。

橋を渡ると旧奥州街道の114号線は緩い登り坂となり、北上して佐久山宿へ向かう。
殆ど車も人も通らない道を黙々と歩いて行くと、右側歩道に大きな
道祖神が立っている。
弥五郎坂で見た道祖神と刻まれた夫婦の姿がよく似ているので、同じ作かもしれない。
単調な道では、左側に見えてくる
JA喜連川ライスセンターの建物までが珍しくなる。
そのうち両側に見えていた建物もまばらになり、道も
下り坂となる。
   
田園風景の道を歩き続け、南和田で右からの25号線と合流(写真左)して進む。
以降この道は
25号線と114号線の両方の交通標識(写真左中)となる。
さらに行くと左側に、
喜連川警察署下河戸警察官駐在所の看板の出ている建物がある。
ここはまだ喜連川であった。昨日から延々と歩いた喜連川町の広さである。
やがて前方の丁字路には、「直進25号線矢板、 
右折114号線大田原」の標識が見えてくる。
   
標識に従い下河戸交差点を右折して、114号線を進む。
すぐその先に
江川にかかる宮下橋があるが、川というよりは用水路といった方がふさわしい。
    
全く人通りのない農道のような道を淡々と歩き続ける。
すると左側に、あまり立派でない「
源氏ホタル生息地入口」の看板が立っている。
→先は畑であるが、多分奥の方にきれいな川が流れているのであろう。
ただ、この危ない世の中にわざわざ盗獲の恐れのある看板を出す必要があるかと、つい思ってしまった。
さらに進んで行くと、左側に「
天下の名湯喜連川温泉」の大きな看板が立っている。
昨日、氏家町と喜連川町の境界にも同じ看板があったので、大田原市境界も近いはず。
案の定、1分ほど先の右側に、「
右喜連川、左佐久山」の標識がある。
多分ここが
大田原市との境界であろう。
この時9時44分で朝出発が8時17分であったので、なんと喜連川町を抜けるまで約1時間半もかかった。

    
境界から約15分ほど歩くと、
右に「
与一の里名木選 高久毛のツツジ群 選定理由古木、巨木 大田原市」の看板が立っている。
そしてそこには高さ5m、樹齢200年のツツジが多数あったが、残念ながら季節外れであった。
この「与一の里名木選」はこれからも多数出てくるが、
大田原市は、あの屋島の源平合戦の弓で活躍した那須与一の出身地である。
その先の丁字路には、「左
48号線宇都宮・氏家、直進48号線大田原市街」の標識がある。
ということは114号線はここまでということになる。
直進して
48号線(写真右)を佐久山宿へ向かう。
    
5分ほど歩くと、丁字路の右角の「25メンバーズ倶楽部琵琶池コース」の案内板の脇に
金網に囲まれた
数基の石碑が並んでいる。
近づいて見ると、
庚申塔などの石碑で柵囲いで丁寧に保存されているのは珍しい。
    
依然として田園風景が続く道で、路傍のミツマタ水仙コブシなどの花が目を楽しませてくれる。
    
しばらすすると、那須氏が築城した「佐久山城左1.5km」の道標があり、
その前方には、「
48号線は丁字路で52号線と合流し、左折して1km先で右折する」の標識がある。
標識に従い
丁字路で左折すると、道は長い下り坂となる。
    
坂道を5分ほど下ると佐久山町の中心の通りで、ここが佐久山宿である。
ご多分にもれず人も車も殆ど通らないひっそりとした宿場通りで
通りの両側にはまだ4月上旬であるが
鯉のぼりのが威勢よく泳いでいた。
    
通りには立派に構えたがあったが、宿場の名残と思われる構築物はこれくらいであった。
通りの中央辺に、那須与一に絵が描かれている
公衆トイレがあったが
トイレの存在は旅人にはとても助かることで感謝にたえない。
公衆トイレが街道の要所にあれば、女性の旅人も格段に多くなり地域経済の発展に寄与すると思う。
なお、佐久山は那須氏の発祥の地といわれている。
10分ほどで
町外れで、道は2つに分れ48号線は右折して坂道を大田原宿へ向かう。
    
右折すると下り坂の途中に正浄寺という大きな寺があったが、由緒は不明。
道には可愛い
桜の造花がにはみ出ていて、ちょっと手で触れたくなってしまった。
すぐその先で、
箒川にかかる岩井橋の上に出るが結構水量のある川であった。
     
橋から5分ほど歩くと、道の左側に馬頭観音や野仏像が無造作に並んでいる。
新しい花が供えられているということは、地元の人たちの信心を集めているのであろう。
真っ直ぐな道に、
「高級有精卵 与一卵」のとても目立つ赤い看板。
宣伝に加担したくはないが、ここでも那須与一が頑張っていた。
道には
ツツジがあふれ、なおも大田原宿を目指して48号線を歩き続ける。
    
と、道は小川を横断しようとする。
左側の川中の島に、傾いた
聖徳太子石碑とみすぼらしい小さなお堂のようなものが建っている。
何故こんなところに聖徳太子碑があるか不明であるが、こんなに粗末にしてが当たらないのだろうか。

     
その先には立派な門構えの建物があるが、この辺は昔何か謂われのあった土地かもしれない。
5分ほど歩くと十字路に出るが、その右角に「
那須与一の墓」案内看板がある。
佐久山地区福原の玄性寺には、与一一族の7基の墓があるという。
48号線佐久山街道を歩き続けると、右側の敷地の立派な「
牛魂碑(写真右)が建っている。
「馬」の供養はよく聞くが、「牛」というのは珍しい。

    
さらに進むと、右側の民家の敷地におおきな木がある。
案内板を見ると、「
与一の里名木選  国井宅の赤マツ 選定理由 古木」とある。
樹齢200年 樹高7mの堂々とした松の木である。

    
そこから約5分ほど歩くと、道の左側に「旧奥州道中 親園」の道標(左中)と、
その左側奥には
湯殿神社(写真左)、そして右には「史蹟蒲盧(ホロ)」の白杭が立っている。
堂の中には、159文字の碑文が刻まれている高さ1.4m、幅75cmの蒲盧
が収められている。
この碑は、寛政5年
(1793)からこの地を治めた
代官山口鉄五郎高品の仁政と功績を讃え建立したもの。
碑文には「昔高津義克という僧が、この地で兵士が行軍している蜃気楼を見たとき、
土地の者が蜃気楼のことを蒲盧と呼んでいたので、蒲盧の意義について書き残して去った」と
いうような内容のものが刻まれているという。
蒲盧の語源は、孔子が「為政者が仁愛の道をもって政治を行えば、民心は感化し善道に移るのは
水辺に生えている蒲や盧がたやすく繁茂するのと同じ」と説いていることからきている。
     
数分歩いて小さな百村川にかかる筋違橋を渡り、48号線を淡々と進み六本松バス停を通り
富士見、若松町、新富町そして末広に入り前方の
新明町の丁字路で右折する。
    
48号線は丁字路までで、右折すると461号線(写真左)となる。
鹿島川標識が出ているので覗いてみたら側溝のような川で某ゼネコンのイメージからは程遠く、
全く関連性はないわけだが連想とはそんなものでないだろうか。
数分歩くと、ゆるく右にカーブする。

    
右に曲がると461号線は薬師通りと呼ばれ、大田原市の中心街となる。
カーブのすぐ右には境内がとても立派な
忍精寺(写真左)があり、
左側には寛政5年
(1793)に再建された市文化財の薬師堂がある。
薬師堂境内には、貞享元年
(1681)建立の全高4.85mの七重塔(写真右中)
元禄7年
(1694)建立の全高4.63mの舎利塔(写真右)があり、
それぞれ市の文化財に指定されている。

    
薬師通りは大田原の宿場通りで、甲州屋旅館などの名前もあり昔の宿場の名残を感じさせる。
進むと左側に、「
旧奥州道中 大田原宿 下町」の道標があり、間違いなく宿場跡である。
その先の左側の太田原信金の前には、
那須与一像がひときは目立っている。
説明書きによると、与一が屋島の合戦で扇子を矢で射抜いた年月は
文治元年(1185)2月だという。
初めて知り、また知識が豊かになったような気分になった。

    
やがて金燈籠交差点に出る。
交差点を渡る前の左角に、「
旧奥州道中 大田原宿 上町」の道標と金燈籠が並んで立っている。
この金燈籠は昭和54年に再建されたもので、
その前の町内安全・常夜燈として文政2年
(1819)に鋳造された燈籠は太平洋戦争で供出されてしまった。
    
461号線は信号を直進して進む。
山の手の通りを5分ほど歩くと、右側に
大田原藩馬場跡立杭があるが、今は全くその形跡がない。
その先には
消防署の建物があり、背景に龍城公園の今が盛りの桜が見えていた。
さらに進んで行くと、左に
大田原神社の看板があり、
頭上には、太田原神社と龍城公園をつなぐ461号線
横断架橋が見える。
   
架橋を過ぎると、目の前は蛇尾川にかかる蛇尾橋となる。
蛇尾川の川幅はとても広いが、水量は極少ない。
橋の上から振り返ると、龍城公園の桜の上から
大田原城が頭を出していた。
橋を渡ると
丁字路で、461号線は右折するが、旧奥州街道は左折して72号線となる。
   
72号線はしばらく川沿いに歩いたあと北東に方向を変え、次の鍋掛宿へ向かう。
道は一直線で、左側に中田原工業団地分譲中の大看板の脇に妙な
白いモニュメント
さららに進むと左側の富士電機工場正門からみえる
桜並木
そして道々に
鯉のぼり
陽気のいい歩きを楽しんだ。

   
橋から左折して約20分程度すると、左側のセブンイレブンの手前の盛土に、。
記念物 一里塚(史蹟)」標識が立っている。
ここまでの旧奥州街道では、一里塚の史蹟を見ることは珍しい。
さらに15分ほどの市野沢小丁字路交差点の右角に、「
記念物 (史蹟)道標」白杭が立っている。
何故か奥羽刑務所の看板ばかりが目立つので、近づくと2つの風化した石碑が確認できた。
さてどちらが
道標かと迷うところであるが、常識的には白杭に近い右側であろう。
この道標は奥州街道から棚倉街道に分岐する点
(追分)に設置されたもので、
左面に「之より左 奥殊道」 右面に「之より右 たなくら」 と刻まれているという。
なお説明板には、「この追分口は寛永6年
(1629)8月紫衣事件で江戸幕府の怒りにあい
流刑の地まで一緒に護送されていた沢庵宗彰と玉室宗珀が、
この追分でそれぞれ奥州上山、棚倉へ行くため決別した歴史的な地点」と記されている。
ちょっと補足奥羽刑務所が看板を出し、そして「お気軽にお寄りください」などとまでPR。
いくら日本が犯罪天国になったとは言え、やりすぎではないかと思ったが、
よく見ると「刑務作業製品展示即売所」への案内であった。
それにしても、奥羽刑務所の文字だけがデカデカと目立ちすぎる、人騒がせな看板だと思う。

    
追分から10分ほど歩いて市野沢交差点に出ると、正面の大きな木がひときわ目立つ。
これは、市指定天然記念物の
コウヤマキで、樹齢400年、樹高17mある。
この交差点の各コーナーを見ると、大きな
コケシが多数並んでいるが何かわけがありそう。
   
交差点を直進して10分くらいの右に、まだ新しい弘法大師の碑が立ている。
「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉
碑文の説明で、「平安時代、弘法大師がこの地を通ったときに詠んだものと伝えられているが、
実際には江戸時代によまれたもの」とある。
さらに約15分歩くと
練貫交差点にでるので、直進して進む。
そのうち道はゆるい登り坂になりはじめると左側に、新しい「
旧奥州道中 練貫」の道標と
十九夜塔、永代常夜燈などの5つの石碑が並んで立っている。
永代常夜燈には、「右奥州海道」と刻まれてある。

    
車も人影も全く見えない72号線をただひたすら15分ほど歩くと、
右に
黒磯市の境界看板が立っている。時は14時56分。
ようやく大田原市を抜けて鍋掛宿のある黒磯市に入ることになる。
しかし、依然として人も車も通らない道を一人歩き続けた。
境界から15分程度歩くと、右になべかけ牧場が見えてくる。
この牧場の前面に来ると、強烈な牛糞の臭いで、息ができない
(本当に!)ほどであった。
息を殺して、すばやく通り過ぎようとすると、左の道端に
馬頭観音石碑があったが、
牛糞の臭いに我慢できずデジカメで撮ったところで早々に立ち去った。
そういえば今まで住家らしいものがなかったのは、この牛糞の臭いのせいかもしれない。
ただ前方にポツンと建っている
自動車整備工場は、この臭いに慣れっこになってしまったのだろうか。
    
20分ほど歩いた鍋掛愛宕峠の左に「鍋掛の一里塚」のハングサイン。
階段を登っていくと、右に江戸から41番目の慶長9年(1604)に築かれた
鍋掛一里塚がある。
もとはここより約11m東側にあったものを、道路の拡張工事で現在地に移された。
この峠からは下り坂で、足取りも軽くなった。

    
前方にようやく人の住む町が見えてくるころは、あたりも暮れかかり
今夜の宿泊するところを必死に探さなければならなかった。
鍋掛交差点は、左折するのが34号線で黒磯市街へ、旧奥州街道の72号線は直進し
鍋掛の町へ入っ行く。
    
この通りは、鍋掛の宿場通りである。
小さな宿場であるが、通りは道幅は広くよく整備されとても気持ちよく感じた。
ゆったりとした歩道を、お宿はないかとキョロキョロして探したが、どうもないようだ。
ちょっと心細くなりながら歩いていると、
左側に「
芭蕉の句碑」のハングサインがあり、広場にポツンと句碑が建っている。
野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす
芭蕉が「奥の細道」に旅している元禄2年
(1684)に、手綱とる馬子に作り与えた句といわれ、
句碑は文化5年
(1808)に建立された。
鍋掛宿には当時を思わせるような、史蹟などは殆ど残っていないようである。

    
あっと言う間に宿場通りを過ぎ、宿はずれの那珂川にかかる昭明橋に来てしまう。
橋には左側に歩道橋があり、車に遠慮しないで渡れるようになっている。
橋の上から見た
那珂川は、深緑色で静寂そのものの神秘的であった。
橋を渡ると左に、「
昭明橋架設記念碑」があるが、ちょっと無造作に扱われているように思えた。
    
橋を渡ると越堀宿で、すぐその先で丁字路になり、72号線は左折して越堀の町の中心を通る。
この通りは
越堀の宿場通りで、小さな宿である。
    
今夜の宿泊先を探しながら宿場はずれまでくると、右に浄泉寺の参道がある。
参道で境内に入ると、右隅に「
史蹟 黒羽領境界石」白杭と
従此川中東黒羽領」と刻まれた、高さ1.5mの花崗岩の四角柱の境界石碑が建っている。
この境界石は黒羽藩主大関増業が、大阪城勤務の時に大阪で造り船でこの地まで運んできて、
那珂川左岸の越堀宿(黒羽領)側に建てられ、
川を挟んだ向こう側の鍋掛宿
(幕府領)との境界を示していたもので、大正年代に現在地に移された。
    
72号線に戻り、先に進むと右の高台に大きな「征馬之碑」が建っている。
多分日露戦争などの出征軍馬の記念碑であろう。
越堀も、宿場時代を思い出させるような史蹟などはすくないように思われる。
       
ここから山道に入り、芦野宿へ向かうことになるが、
内陸の日暮は早く16時10分で薄暗くなってきた。
結局今夜の宿泊先をみつけることができず、黒磯市街で探すことになってしまった。
バスが一時間に1本しかないため、鍋掛交差点に戻り約4kmを歩いて市街を目指した。
とろが市街の入口で道に迷ったりの散々でホテルにたどり着いたのが、
19時をはるかに過ぎてしまっていた。
その夜は、格段に疲れてしまった。
     
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