5月21日 古本イベントをやります。

 という訳で6月2日、3日は皆様お誘いあわせの上来てください

 ちなみに私が売る本のリストはこんな感じ。後、CDやアナログ盤も出す予定。

 アチャコさんデミ先生のリスト。

 お茶も振る舞う予定。自慢の茶葉を持ち寄って、時間でメニューが変わるんですってよ!私も自分の命綱といっていいゴールデン・オレンジ・ペコを持っていきます。

5月2日 ゴールデンウィークをいかがお過ごしですか?



 Che-ez!spyzを買いました。小さくてかわいいのらー。これで産業スパイし放題(嘘)。気になる画質はこんな感じ。4/29に用事で行った群馬県は館林にある群馬県立館林美術館。出来て二年ということですが、御覧の通りの贅沢な空間の使い方。アメリカ東海岸のミュージアムっていったらうっかり信じそうでしょ。そういえば芝生の匂いって久しぶりに嗅いだ気がする。

 ニルス=ウド展を開催中だったけれども、こちらの方は何だか。自然で描く、といえば聞こえはいいけれどようするに作為なわけで。鳥の巣も信じがたいような色彩の配列も人為的に作られるとちょっとしらけるっていうのか、庭園主義っていうのか。バルト海の真ん中の小島にびっしりと咲いた水仙。そんなものは偶然であって欲しい。タネをあらかじめ明かした手品以外の何物でもない。

 しかし、そこそこキャッチーでコマーシャルで分かりやすくエコロジーで、企業の宣伝イメージには使えそうです。

 帰りに古本屋を一軒見つける。スペースの四分の三はアダルトコーナーで、あとの三分の二は漫画。奥は更にブルセラショップになっていて、しかもアダルトビデオを制作している会社の系列店らしく、営業で来たロリータコスプレ女優のサインと写真が飾ってあった。50円でリチャード・ブローティガンの『愛のゆくえ』が捨ててあったので救出。自分よりダメな男と出会って女神になる少女と中絶。これとハル・ハートリーの『トラスト・ミー』でネオアコ乙女セットっていうのはどうでしょう。


 4月28日はICC『9.11を超えて──スーザン・ソンタグ氏と語るこの時代に想う、共感と相克(In Our Time, In This Moment)』を見て来ました。(メモ書きも録音もしていなかったので、以下の発言は全て記憶によるもの)

パネリスト兼司会進行は浅田彰だったのですが、交通整理は下手ではないものの勝手に話をどんどんまとめようとする癖があって、往復書簡で大江健三郎をたしなめたのと同じ調子でソンタグが止めることが幾度となくありました。彼女は文学者なので言葉の使い方には非常に敏感で、「国連の人道的介入」とかフツーにいう彰に向かって、「そんな不自然な言葉を私は使った覚えはありません。それは国連のメタファーであって、軍事的介入ときちんというべきです」

 もう取りつく島がないの。磯崎新が洒落めかそうととんちんかんに「私はソンタグさんのキャンプという言葉のレポートに惹かれてグリニッチ・ビレッジに行ったのだが、その時の視点が今どう変わったのか」と聞こうものなら、「私はあのレポートをパリで書いたのであったので、ニューヨークは何ら関係ない。それにキャンプという価値観のただ中に自分がいた訳ではなく、面白かったからレポートしただけです」。ならばわしは建築家としてと意気込んだ磯崎「ワールド・トレード・センターというのは非常に象徴的な建物で」「あれはワールド・トレード・センターという名前だから攻撃されたのです。あれが建築物として意味があるものだなんてニューヨークの人々は誰も思ってませんよ」「あれは近代建築の一番悪いところを集めたようなビルディングで、あれが破壊された時、近代建築そのものにノンと言われたような気がしたのです」

 その時慌てて彰、「モダニズム建築の教科書的な応用例、現実原則からシミュレーション原則への転換という意味でのポストモダニズム建築への流れとしてのワールド・トレード・センターということで、その流れへのひとつの否定ということも出来ますが、そんなメタファーは、ソンタグさんは非常に危険視しておられます」って、その象徴論をリアルタイムで一番最初にやったのは、あーきーらー、おーまーえーだ!

 最後の方にちびっとだけ参加の彰親友田中康夫を、「ポストモダンとしての消費社会を描いた作家でありながら現在は長野知事を務める田中さんと「キャンプ」についてのレポートを書くようなヒップの流れにいながら、ヴェトナムに行ったり、一市民としてサラエヴォに支援活動に行くソンタグさんには共通するものがあり」って、そんなまとめは無理無理無理、つうかひどい、あんたどこまで本気!?

 そんな訳で聞いている側はいざ知らず、ソンタグの方に何かメリットがあったとは思いづらいシンポでした。「私の相手になる人物はどこ!」って憮然とした顔していたし。複雑な状況を複雑なまま体感するということ、現実にコミットするために必要なのはエクスタシーであるということ、だからこそ芸術の役割は今こそ大きいといった彼女の基調には心から賛成とリスペクトを。

 さて、何で私がこのシンポジウムに行ったかというと、日本における彼女の最新作『この時代に想うーテロへのまなざし』に収められた「サラエヴォでゴドーを待ちながら」を非常に興味深く読んだからでありました。

 支援の一環としてこの演劇の演出を引き受けたソンタグに対して、「サラエヴォではむしろマリヴォーを演じるべきだ」とルモンドでディスしたのがフィリップ・ソレルズ。(この男、こういうところがいやあねえ、ユグナンが苛められるわけよ)それを真に受けた上演目を勝手にミュッセの『戯れに恋はすまじ』に変えてサラエヴォに行こうとする電波なヒロインが出てくるのが、ゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』。そんな訳で『フォーエヴァー・モーツァルト』を観る予定がある方は、是非ともソンタグのレポートをサブテキストとして読んでいただきたい。

 ゴダールとソンタグ。共に私のママの時代のスターであります。それが理由で長らく素直になれなかった作家たちでもあって、「『中国女』の初日は新宿アートセンターに白いエナメルのコートと揃いのブーツで並んだ」なんて話を何度も聞かされた日には、ティーンの娘は「好きなヌーヴェル・ヴァーグはシャブロルとルイ・マルの『鬼火』」なんてひねくれ者になるわけです。

 ゴダールの電波ヒロインはサラエヴォへの途上、国際義勇団に捕らえられ犯されて殺される。『愛の奇跡』のヒロインは更に電波なのだけれど、シモーヌ・ヴェイユに固執するその生真面目さ、知識人としての義務感みたいなものを感じる。けれどももはや現状認識さえ出来なくなっているゴダールの耄碌ぶりは本当に哀れだ。生きながら夭折するとはきっとこういうことなのだ。

 同時代知識人でありながら、現役バリバリのソンタグと彼は一体どこが違うのか。それはソンタグが女で、女は死にぞこなうことはあっても夭折はしないからなんて言いませんよ私は。でも全ての官能は現実を認識する道筋になる。ゴダールがどこかで官能を失ってしまったのは確か。そして「かつての輝きなんて未練がましい、全て捨てて一からスタートよ!!!」なんていう鬼婆にロボトミー状態でこき使われるゴダールが観られるのが『そして愛に至る』。そんなのを観たり、ネットを徘徊してリアルはどこー?とかいう暇があったら、なるべく美しいものを観て、おいしいものを食べて、好きな人とデートをする方が賢明でしょう。いや本当の話。

1月  2、3月  4月

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