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この中ノ道の最終区間は、、2017年6月5日に歩いた。 | ||||||||||||||||||
最終区間は、青空の写真で飾ろうと晴天を待って決行。ただ、正直なところ、この年になると日焼けはつらい。 | ||||||||||||||||||
さぁ~、ゴールまであと一息、頑張ろう! | ||||||||||||||||||
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2017年6月5日7時35分 埼玉県の東部伊勢崎線和戸駅に到着。 前回の終点へ、線路沿いに進む。 |
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8時2分出発。南埼玉郡宮代町須賀の前回の終点から左折し、 畑道を進み、突当りで県道85号線を横断し、反対側の細い道に入る。 |
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真っ直ぐ進み、外れの民家の前で道は終り。その先の私有地のような草むらを恐れおそれ進む。(進むのは自己責任で!) |
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突当りを左折し、畑の中の道を進み、作業所のような脇を通る。 |
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突当りを右折し、広い車道を進み、(左側)高野児童公園沿いの街路樹の前を通る。 |
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高野児童公園の北東角に、「鎌倉街道と高野川」案内板。 (道路より一段下の、かつ人の通らない目立たない隅に設置されていて残念!果たして誰が案内板に気が付くだろう?) 高野川(案内板要約):中世のこの須賀辺りでは、 現在の古利根川は高野川と呼ばれ、利根川の本流として武蔵の国と下総国を分ける大河であった。 平安時代末期には高野川に「高野渡し」があったことが吾妻鏡に記され、 鎌倉時代当時(1324年)の北条高時等の発した文書に[高野橋」と記されていて既に大きな橋が架けられていたことがわかり 鎌倉街道の交通の要所であったことが知れる。 大落古利根川(当時は高野川)にかかる、鎌倉時代から何代目かの万願寺橋を渡る。 |
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橋を渡り終えたところに「(北葛飾郡)杉戸町」境界標識。(実際には、橋の中ほどが境界) ここから左折して約20m先川沿いに、史跡などを記した「大落古利根川周辺案内図」板。 この辺りに「高野の渡し」があったらしい。 元の車道に戻り、杉戸町下高野地内を進み万願寺信号交差点を直進する。 |
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信号から約100m先で左折し、気のせいか何となく昔の雰囲気が漂う細い道を進み、その先で小川沿いに進む。 |
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すぐ先左側に、全長寺。 全長時:幸手城主一色直朝の命を受けて、弟直春が一色氏累計の菩提を弔うため建立した寺。 続いて左側に、753年(天平勝宝5)行基により開基したと伝えられる永福寺。 門前に、立派な屋外トイレ。 道路に面して、「西行法師見返りの松」。 見返りの松:30年以上にわたり高野山で修業を続けた西行法師が、文治年間(1185~1190)、 奈良東大寺再興歓進のため奥州平泉の藤原氏を訪れる旅に出たが、 途中、この付近で病に倒れ下高野の小庵で村人の手厚い看護を受けた。 全快した西行は、旅立ちのとき別れを惜しむように庵の庭先にあった松の木を、 何度も振り返って出発したといわれ、いつしかこの松を「見返りの松」と呼ぶようになった。 現在の松は、3代目のものと言われている。 |
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その先でブランコに滑り台のある愛宕神社前を通り、分かれ道は右手を進み、木のトンネルを通る。 |
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小川沿いの道、自然が一杯の道を進み突当りを右に曲がり、緑の間を進む。 |
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突当りを右折し、日光御成街道として知られている県道65号線を進み、八幡神社信号丁字路を直進する。 日光御成街道:中世以来の鎌倉街道・中道を江戸時代に整備して作った街道で、日光街道の脇街道。 徳川将軍が、日光東照宮へ社参する際に利用した街道。 本郷追分(現在の東京都文京区向ヶ丘)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。 |
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街道の両側は松並木であった証の、松の木が2本。 その先で幸手市(上高野)に入り、5年前の鎌倉街道歩きのときは工事中だった圏央道高架下を潜る。 |
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すぐ先の信号丁字路を直進する。 丁字路左角に、日光御成街道道標を兼ねた文化4年(1817)建立「観世音菩薩」碑。 道は右に大きくカーブする。 |
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カーブする左側に、正徳二年(1712)建立「庚申塔」と「日光御成街道と琵琶溜井」案内板。 ただ、どこが溜井だったところ? 南2丁目地内に入り、ベルク店前信号交差点を直進しする。 丁字路の右手から、旧日光街道(奥州街道)が合流する。 信号からすぐ先左側に、神宮寺。 神宮寺:源頼朝が、奥州征伐の折りこの地で鷹狩をし、戦勝を薬師如来に祈って開基した寺。 |
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東武日光線踏切を渡って南1丁目地内に入り、志手橋信号を左折し、幸手駅入口信号交差点を直進して市街地に入る。 |
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中一丁目(南)信号交差点を直進する。 交差点右角の幸手宿問屋跡だったところに、中央商店街ポケットパーク。 パークには、「日光街道幸手宿」案内板。 市街地を道なりに進み、荒宿信号交差点の先の突当りを右にカーブする。 このカーブの両側には一里塚があったところで、「一里塚跡」案内板が立っている。 |
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突当り信号の分かれ道を左折し、北1丁目と北2丁目の境界道の65号線を進む。 |
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新井石材店前に、わぁー、カワユーイ! |
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突当りを直進して内国府間地内に入り、国道4号線と合流し、内国府間(北)信号交差点を直進する。 |
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権現堂公園前のゆるい坂道を上り、右に少し曲がる。 旧道は、直進して中川を渡り高須賀の丁字路辺りまで続いていたが、この間の約300mが消滅している。 ここでは、迂回する。 |
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迂回経路ー1 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点を右折し、一般道を道なりに進む。 丁字路角に小動物がウヨウヨ、これって何? |
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外国府間地内に入り交差点を直進し、その先の道標の立つ分かれ道は左手を進む。なお、右手はつくばへ行く道。 日光街道道しるべ:1775年(安永4)に、日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたもの。 |
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道なりに進み突当りの約300年前から鎮座している雷電舎境内手前を右折し、突当りを左折する。 |
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国道4号線沿いの下道を進み、坂道を上り、4号線沿いに出て数十m進んで坂道を下る。 |
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4号線沿いの下道を通って久喜市(小右衛門)に入り、小右エ門信号に繋がる取付道路のトンネルを潜り、下道を進み、 (左側)真光寺前を通る。 |
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真光寺に隣接して、栗橋宿と幸手宿の中間にあった一里塚跡に、昭和初期に近くから移築されたという古い弁財天堂。 その先の道は左側の下道を道なりに進み、4号線取付道路のトンネルを潜る。 |
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延々と続く下道、東北新幹線高架下を潜り、変則交差点を直進して下道を進む。 |
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突当りの坂道を上り、4号線に接近してガードレール沿いに進み、左折する。 旧道は、ガードレールの外れから左折して囲いの中を通り約50m先の分岐点辺りまで続いていたが、 柵の中の草むらで消えてしまっている。(5年前は、多少まだ残っていたが。) ここでは、迂回する。 |
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迂回経路ー2 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から坂道を下り、途中右側に、香取宮と八幡宮が併設されている川通神社。 |
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右に大きくカーブし、その先でゆるい坂道を上る。 坂の途中右側奥に、会津見送り稲荷。 会津見送り稲荷:江戸時代、参勤交代の領主の先遣隊として江戸へ書面を届ける途中、 この地栗橋宿下河原まで来たところ洪水で道に迷ってしまった。 そのとき、突然白髪の老人が現れ道案内をしてくれたため、無事江戸へ書面を届けることができた。 のちに、この老人が狐の化身とわかり、会津藩でお礼の神社を建て稲荷さまとして祭ったもの。 坂を上る。 |
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上り切ったら4号線の栗橋東信号に向って進み、信号から4号線沿い歩道に入り、道なりに進む。 |
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突当りで階段を下り、国道125号線の擁壁に突き当たる。 旧道は擁壁を直進し、栗橋東5丁目20の県道60号線コーナー辺りまで続いていたが、 この間の約200mが消滅している。 ここでは迂回する。 |
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迂回経路ー3 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から栗橋東5丁目と栗橋東3丁目の境界道の県道60号線を進み、 すぐ先右側奥に、火あぶり刑場跡に建てられた炮烙地蔵。 炮烙地蔵:栗橋関所破りをして火あぶりの刑で処刑された多数の人たちを憐れみ、 土地の人が火あぶりになぞらえて供養のため炮烙地蔵として祀ったもの。 |
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頭上には、「日光街道 栗橋宿」幟。「鎌倉」なんって文字、どこにもないんですよね。(悲) その先約200m右側に、栗橋宿の本陣を務めた池田鴨之助の墓のある顕正寺。 この寺院には、聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来像が安置されている。 |
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栗橋東3丁目信号を直進して栗橋中央2丁目地内に入り、続く栗橋駅入口信号丁字路を直進する。 | ||||||||||||||||||
立寄り:静御前の墓 | ||||||||||||||||||
元の栗橋信号へ戻り、栗橋北2丁目地内の60号線を進み両側に工事用シート張。 右手のねずみ色シートは、平成29年6月30日まで続く「栗橋東堤防工事」用。 グリーンのシートは、5年前に来たときもあった「遺跡発掘調査」用。 ねずみ色シートの外れは工事用車両の出入口で、「あぶない!」大立看板。 この出入口近くへ行くと、交通整理人がやさしく「石碑を見たいのでしたら、どーぞ」と声をかけてくれるので、 中に入り堤防へ向う。 堤防法面に、「栗橋関所址」碑と「栗橋関所跡 房川渡中田・関所」案内板。 栗橋関所跡「房川渡中田・関所」:栗橋関所は、「房川渡中田・関所」と呼ばれ日光街道唯一の関所で、 箱根、碓氷と並ぶ重要関所。 房川渡中田・関所が設置されたのは寛永元年(1624年)頃で、 関所位置は、現在の堤防の内側の利根川のほとりにあり、その「関所址」碑は大正13年に堤防上に建立された。 ただ、その後の堤防改修で跡碑はここに移された。 |
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元に戻り、60号線を進む。 ゆるい坂道の上り始める左側に「八坂神社入口」立看板。 突当り奥に、八幡神社。本殿前に、亀を刻んだ台座の上に鯉の形をした狛犬が対で設置されている。 八坂神社:慶長年間、中利根川の洪水で多数の鯉と泥亀に囲まれた流れてきた神像が、 元栗橋の天王だったことから、これは神意と思いこの地に祀ってある。 |
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60号線の坂を上り切ったところに、八坂神社前信号。 旧道は、この辺りから堤防に直角に曲がり堤防の先にあった栗橋関所を通り房川渡しで対岸へ渡っていた。 この経路は、現在全て消滅している。 (注:前述の関所址碑の案内板にある経路とは少し違うが、 ここでは芳賀善次郎著「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」に従った。 ここでは、迂回する。 |
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迂回経路ー4 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から右折し、直線道路を進む。 すぐ左側に、「房川渡と中田関所跡」案内板。 案内板:「房川渡と中田関所跡」のタイトルと古河市教育委員会の文字以外は、経年劣化で文字判読難しいところばかり。 内容的には、対岸の栗橋関所は、最初はこの地に設置されていた、というようなもの。 |
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すぐ先で左折し、細い道を進む。 |
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その先で小川のようなところに架かるコンクリート橋を渡る。 ここには、静御前が渡ったということで名づけられた「静橋」がかかっていたが、 この風景からは美しい静御前は想像もできない。 道なりに進み、分かれ道となる。 旧道は、分かれ道を直進し約300m先のJR東北本線高架下辺りまで続いていたが、現在は消滅している。 ここでは迂回する。 |
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迂回経路ー5 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から真っ直ぐ進み、中田地内ののどかな田園の道、突当りの車道を横断して広い車道の歩道を進む。 |
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道なりに進み、大城産業の緑のフエンス脇を通り、フェンスの外れで右斜めに進んで小さな橋を渡る。 |
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道なりに進んで坂を上って交差点を直進し、青果工場脇の道を通り、その先の丁字路を直進して畑道を進む。 |
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突当りで車道に出て左折し、道なりに進み、突当りで先ほどの広い車道と合流して右折する。 |
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坂間地内の道を進む。 古河市内に入ると車道と自転車道と歩道がきちんと分かれていて安心安全、 古河病院前、古河公方公園前を通り鴻巣信号交差点で国道354号線を横断し、続いて古河庁舎前信号丁字路を直進する。 |
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次の原町信号で、右手から来る県道261号線日光街道と合流して進む。 合流点右角に、「日光街道古河宿」灯籠。 |
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261号線を進み、次の信号を直進する。 信号左側陽明堂前に、「史蹟古河城御茶屋口門跡」石碑。 古河城御茶屋口門跡:江戸時代、徳川家康が日光社参するとき、古河城が宿城となっていた。 入城のとき利用した道の入口がこのお茶屋口で、 「御茶屋口」は、社参初期に将軍の休憩所として建てられた茶屋がここにあったことに由来する。 きれに整備された261号線。 |
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鎌倉街道・中道のゴール地点、本町二丁目信号交差点に到着。 | ||||||||||||||||||
時は、15時16分。 今朝須賀の畑道を8時02分に出発してから、所要時間 約7時間。 約25kmの距離を考えると、ちょっとかかり過ぎだったかも知れない。 普通の人であれば、6時間もかからないと思う。 |
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本町二丁目信号交差点を右折し、突当りのJR古河駅から横浜へ。 | ||||||||||||||||||
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参考までに; 歩く 鎌倉街道中道 (古河→ 鎌倉) | ||||||||||||||||||
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