|
||||||||||||||||||
この区間は、2018年5月12日に歩いた。 | ||||||||||||||||||
この5月末に、人生3度目のマラソンを走ったら右足の膝とアキレス腱を傷めてしまい、一時歩行困難に。 | ||||||||||||||||||
このままでは、続きの街道歩きはできなくなるのではと不安にかられて、ホームページ作成は遅々と進まず。 | ||||||||||||||||||
足の方もようやく回復に向かうようになり、今頃完成した。 | ||||||||||||||||||
歩けなくなるかも知れないという、恐怖を感じた1ヵ月でした。 | ||||||||||||||||||
参照地図 : インターネットマップ 「MAPION]. | ||||||||||||||||||
2018.5.12 7時34分 秩父鉄道小前田駅に到着。 前回の終点へ。 |
||||||||||||||||||
8:12 前回の終点の日東精密工業前の丁字路を出発し、埼玉県大里郡寄居町桜沢と深谷市小前田との境界道を進み、 国道140号線秩父往還を横断して反対側の細い道に入り、境界道を道なりに進む。 |
||||||||||||||||||
続いても国道140号線彩甲斐街道を横断して反対側の境界道に入り、道なりに進んで、 突当りを左にカーブし小前田地内に入る、 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
道はすぐ先の交差点を直進してヤマダ電機手前で左に折れるが、 旧道は折れないで直進し約350m先の小川を渡った辺りに続いていた。 ここでは、迂回する。 なお、交差点を右折し坂道を下った左手の斜面に、「お茶々が井戸」 お茶々が井戸:どんな干ばつでも枯渇したことがないと言われている井戸。 茶店に「ちょう」という客あしらいの上手な美しい娘がいて、街道筋で大変評判となり繁盛したので、 「お茶屋の井戸」と呼ばれるようになった、とのこと。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー1 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から左折し、小前田地内の未舗装道を進み、(左側)墓地の外れで車道を横断する。 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
舗装道を進み細い坂道(後で引き返してこの坂道を上る)の前を通り、 突当りで右にカーブするが、旧道は直進して約800m先の荒川地内の道に続いていた。 ここでは、こここから北側にある車道を通り迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー2 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から左折し、道なりに進み、左側道端に文化四年(1807年)建立石碑など多数の古い石碑群。 |
||||||||||||||||||
その先の交差点を右折し、坂道を下って道なりに左にカーブし、雄大な荒川沿いの道を下る。 |
||||||||||||||||||
分かれ道は右手を進み、(左側)坂道の上り口(後でここへ戻る)前を通って県道296号線花園橋高架下を潜り、 荒川沿いの道を進む。 |
||||||||||||||||||
突当りの分かれ道は右手を進み(ちなみに左手は大成ロテック構内へ)、道なりに進んで、草薮の中に入る。 |
||||||||||||||||||
しばらく道なき道の草薮を掻き分けて進むと、全く文字不明な「白い札」と錆びて痩せ細ったバリケードの鉄棒。 6年前に来たときは、ここに「通行禁止」看板と「車両進入禁止」バリケードがあったが、このバリケードはそのときの名残。 少なくともこれらの標示から、ここには車が通れる公道があったことの証であるし、それが旧鎌倉街道であった可能性は高い。 今このバリケードを越えて進むのは、あまりにもひどい草薮につき躊躇してしまう。 ということで、この先は6年前の2011年4月20日に来たときの写真で紹介する。 バリケードを潜って、安全第一で草叢をかき分けてしばらく進むと崖で、足元不確かになりこれ以上は進めなくなる。 崖から右手前方に見えるのが、旧荒川村岸からの渡河点であった大岩と思われる。 対岸までは、ここでは県道296号線の花園橋を渡って迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー3 | ||||||||||||||||||
立入禁止ゲートから道なりに土手道を進み、突当りの汚泥再処理センター前の丁字路を左折し、ゆるい坂道を上り橋を渡る。 |
||||||||||||||||||
(参考までに)坂の途中から左手後方に見える、荒川両岸の獅子岩(左岸)と大岩。 坂道を上りきったところの左側に、風化して文字も定かでない昭和54年建立「鎌倉古街道 上道」道標。 これから訪れる普光寺の境内にある案内板によると、 この道標の背後には荒川の「山王の渡し」跡へ通じていた道があったはずであるが、 写真のように全く道は消滅していて通行不可。 |
||||||||||||||||||
旧道は、上り切ったところで右折し、寄居町赤浜と深谷市畠山の境界坂道を上る。 坂道を続け、右にカーブするアイリスオーヤマ建物前に、「鎌倉街道上道 平成15年4月」道標。 |
||||||||||||||||||
坂の途中右手下方には、遠く荒川にかかる花園橋。 坂道を上りきって再度赤浜地内を道なりに進み突当りを左折し、 すぐ県道81号線を右斜めに横断して建物の右側の細い道に入る。 |
||||||||||||||||||
細い道を進み、分かれ道は直進し、突当りを左にカーブするが、 旧道は直進して約300m先の赤浜地内の三叉路辺りまで続いていた。 ここでは、普光寺門前を通って迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー4 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から直進し、約200m先の交差点も直進する。 なお、交差点を左折すると約100m先に三嶋神社。 三嶋神社の県指定文化財鰐口:鋳銅製で、直径19.9cm、厚さ6.9cm。 室町時代の「応永二年」刻印があり、当時の鎌倉街道上道の塚田宿にあった三嶋神社に奉納されたもの。 |
||||||||||||||||||
道なりに進み次の交差点を右折し、赤浜地内の広い車道を進み、 寄居町今市地内に入りすぐ先の交差点で県道246号瀬念を左斜めに横断して反対側の細い道に入る。 |
||||||||||||||||||
交差点左角に、寛政2年(1790年)建立「百万遍供養」碑(左から2つ目)、仏像、 二十二夜塔など江戸時代作と思われる5基の石碑。並んで民家風「薬師堂」 今市地内を道なりに進む。 |
||||||||||||||||||
約150m先の鉄塔の立つ交差点を左折し、今市地内を道なりに右にゆるく大きくカーブして進み、 約500m先の交差点を直進して小さい坂道を下る。 |
||||||||||||||||||
市野川沿いに進み、ゆるい坂道を上り、上り切った左側に兒泉神社鳥居。 2011.4.20に訪れたときは、3.11の東日本大地震の被害で倒壊寸前で立入禁止になっていた鳥居。 立派に復旧されていました。 |
||||||||||||||||||
坂道を下り、今市クリンセンターの先の突当りの分かれ道は右奥の細い坂道を下って左にカーブして比企郡小川町高見地内に入り、市野川沿いの砂利道を進む。 |
||||||||||||||||||
分かれ道は右手を進み、橋の手前を通って市野川沿いに進み、突当りを道なりに右にカーブする。 |
||||||||||||||||||
その先で県道184号線と合流し、すぐ市野川にかかる小さな橋を渡って高見地内を進み、 「埼玉県指定史跡 四ツ山(高見)城跡」立看板の丁字路を直進する。 なお、丁字路を右折すると四ツ山(高見)城跡へ。 四ッ山城:築城年代不詳(1400年代)、築城者不明。太田道灌の書状や「新編武蔵風土記稿」に城名が登場する。、 |
||||||||||||||||||
184号線を進んで小川町能増地内に入り能増信号交差点で184号線と別れ県道296号線を進む。 すぐ先左側の墓地の一角に、地蔵尊2体と多数の古石碑群。 296号線を進んで奈良梨地内に入りその先の奈良梨信号交差点で県道11号線を横断する。 |
||||||||||||||||||
交差点左側に八和田神社鳥居。 八和田神社:明治四十年に上横田・下横田・奈良梨・伊勢根・高谷の五つの大字内にあった11社を、 奈良梨の諏訪神社に合祀し、当時の村名を採って社名を八和田神社と改めて設立した。 交差点を渡った左側に、以前道路の起点・終点を標示していた花で飾られた八和田村道路元標。 296号線を進み左側の八和田郵便局敷地に接して、平成23年建立「馬頭観世音」碑。 平成23年(1911)に訪れたときはまさにピッカピカの碑であったが、 やはり年月というものがそれなりの年輪を作ってくれる。 |
||||||||||||||||||
上横田地内の296号線を進み、続いて下横田地内を通って中爪地内に入った右側にセブンイレブン。 今朝出発して初めてのコンビニ。ようやくドリンクを購入して喉を潤す。 296号線を進み、嵐山小川IC信号交差点を直進し左側道端にひっそり佇む、(左)「庚申供養塔」と「庚申塔」。 それぞれの碑順に、「元文五年」(1736)「萬延元年」(198年」と刻まれているので、江戸時代に建立されたもの。 続いて、このおとなしい沿線風景とはミスマッチのようなド派手な色彩のパチンコ店を過ぎると、比企郡嵐山町(志賀)。 |
||||||||||||||||||
その先「たけのや皮膚科」看板の立つ道の反対側の民家の庭に、「雨降山」と刻まれた石灯籠。 いつみても印象に残る美しい美形。 ところで、雨降山とは? 「雨降山大山寺」の山号ということで、よろしいのでしょうか? 296号線を進み玉ノ岡中学校(南)入口信号、続いて嵐山町役場(西)信号を直進する。 |
||||||||||||||||||
信号手前左側に、「比企西国観音霊場二十八番」札所として賑わた志賀観音堂と、 境内に江戸から明治までの庚申塔、馬頭観世音などの石仏群。 また信号を直進した右手に公園など整備された池? 2017.10.18に訪れたときには、この池には蓮が一面にあった。 |
||||||||||||||||||
志賀地内の296号線を進み、むさし台地内に入ったところでむさし台信号交差点を直進する。 信号のすぐ先右側にローソン。今日は何故かコンビニが気になる。 ゆるい坂道を上り東武東上線を渡って菅谷地内の入り296号線を進む。 |
||||||||||||||||||
東昌寺参道上り口に多数の仏像。 その先で嵐山三差路信号丁字路、続いて嵐山駅信号交差点を直進し。すぐ先の嵐山駅(東)信号丁字路に進む。 旧道は、この丁字路を少し右に折れて約100m先のコーナーへ続いていた。 ここでは、このまま進んで迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー5 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から左折し、菅谷地内の住宅街を道なりに進み、 約500m先の信号交差点で国道254号線嵐山バイパスを横断して反対側の東松山市(上唐子)と菅谷の境界道に入る。 なおこの信号を右折して254号線を約500m進んだ左側に、嵐山史跡の博物館(菅谷館跡)。 |
||||||||||||||||||
立寄りー 嵐山史跡の博物館(菅谷館跡) | ||||||||||||||||||
境界道を進み、坂道を下り(左側)蛇坂の水神塔前を通り右にカーブする。 旧道は、カーブするところを直進して都畿川を渡河し対岸へ続いていた。 ここでは、都畿川にかかる学校橋を渡り迂回する。 蛇坂の水神塔:文化五年(1808)に、都幾川の水運にかかわる人たちによって安全祈願の目的で建立されたもの。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー6 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から大蔵地内の坂道を上り、ゆるい坂道の途中「広徳寺」石柱の立つ参道奥に広徳寺 広徳寺:鎌倉時代創建で、本尊の1249年(宝治3)鋳造の阿弥陀如来と両脇侍立像で、国宝に指定されている。 山門右脇の囲いの中に、1250年頃から1400年にかけての18基の板碑が並ぶ。(本堂内と合わせると38基) |
||||||||||||||||||
その先の鎌倉街道碑の立つ信号交差点で、県道172号線を横断して反対側の道に入る。 なお、交差点を右折したとこに、「大蔵館跡」碑と館跡に建てられて大蔵神社。 |
||||||||||||||||||
立寄りー 大蔵跡碑と大蔵神社 | ||||||||||||||||||
信号から約50m進んだ左角に「源義賢の墓 この先130m」案内板。 | ||||||||||||||||||
立寄りー源義賢の墓 | ||||||||||||||||||
大蔵地内の極ゆるい坂道を上り、右側に「関係者以外立入禁止」バリケードのある大行院神明宮。 勿論、関係者でないので参拝なし。 その先右側に、、「縁切橋」標識と案内板。 縁切橋:征夷大将軍坂上田村麻呂が、軍を率いて当地で岩殿の悪龍退治の準備をしていたとき、 京の奥方が心配のあまり訪ねてきたが、追い返した。 坂の下のこの地で田村麻呂は、奥方に「大命を受けて出陣をしているのに、追い来るとは何事だ。 今より縁を切る。」と宣言したという。 それからこの橋は、縁切橋と言われ、縁起をかついで婚礼の際の新郎、新婦は今でも通させないようにしている。 注:現地にはどこにも川も橋もない。 |
||||||||||||||||||
坂道を上り切り将軍沢地内に入り、集落の入口左側に日吉神社鳥居と、 境内に征夷大将軍坂上田村麻呂を祀ったといわれる将軍神社。 坂上田村麻呂:奥州遠征の時にこの地で一夜を過ごし、その時陣営を示す旗を立てた塚にこの神社を祀ったと伝えられる。 将軍沢の地名もそこから名付けられたいう。 |
||||||||||||||||||
集落の中を進み、左側に「明光寺」石柱。 参道奥に寺院の表示のない明光寺?と、境内に1260年(鎌倉時代、文応元)建立の阿弥陀三尊種子板石塔婆。 |
||||||||||||||||||
その先左側に庚申塔。この庚申塔は2011年4月に訪れたときは右に傾いていたが、 どなたか真っ直ぐに直してくださったようです。 左にカーブして坂道を下り、村道将軍沢線起点となっている小さな橋を渡り、笛吹峠への坂道を上る。 |
||||||||||||||||||
森閑とした木立の中の坂道を上り続け、 小さな橋から約11分で嵐山町(将軍澤)と比企郡鳩山町(須江)との境界にある標高80mの笛吹峠頂上に到着。 頂上には、、「史蹟笛吹峠」石碑、広い駐車場、大きな休憩所そしてきれいなトイレなどがある。 笛吹峠:1352年(正平7)、新田義貞の三男義宗と宗良親王連合軍が、足利尊氏軍との決戦場の武蔵野合戦で大敗し、 この峠に最後の陣を張ったところ。 この時、宗良親王は、月明かりに誘われて笛を吹いて敗戦の心の乱れを慰めたということから、 笛吹峠と呼ばれるようになったという。 |
||||||||||||||||||
また頂上は、村道将軍沢線終点であり、「笛吹通り」の起点でもある。 頂上から鳩山町須江地内の坂道を下り、 道なりに進んで比企郡鳩山町(奥田)と須江の境界道に入りで突当りの森を右手に迂回する。 森の手前の左側に、珍しい名前の海道端沼(現地標識に、街道ではなく、海道とある。念のため)。 |
||||||||||||||||||
境界道の笛吹通りを進み左側丁字路角に、小さな祠に地蔵尊の羽黒堂。 羽黒(はぐれ)堂:昔家来にはぐれたため射られた大将の首を埋めたので、「はぐれ」となったという。 道は羽黒堂のすぐ先の突当りを左斜めに曲がるが、 旧道はその手前の「須江奥田地区土地改良竣工記念碑」辺りから右斜めに折れて約250m先の県道41号線に続いていた。 ここでは、道なりに突当りを左斜めに曲がり県道41号線に出て迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー7 | ||||||||||||||||||
旧道との接続点から大橋地内の41号線を下り、右にゆるくカーブして「鎌倉街道(上道)のみちすじ」案内板前を通り、 大橋川にかかる新橋を渡る。 |
||||||||||||||||||
橋を渡り終えたところで県道171号線の大橋交差点信号に出る。 旧道は、この辺りから左に折れて171号線と大橋川の間を通り、 約1.8km先の鳩山町赤沼地内の福島瓦店前辺りまで続いていた。 ここでは、171号線を進んで迂回する。 |
||||||||||||||||||
迂回経路ー8 | ||||||||||||||||||
赤沼と大豆戸との境界にある道の、福島瓦店前の左に少し折れる辺り旧道との接続点。 |
||||||||||||||||||
今日は、ここまで。 時は、15:48。 今朝、8:12に日東精密工業前の丁字路を出発してからの所要時間は、約7時間30分。 近くの171号線にある赤沼バス停から、東武東上線坂戸駅へ。 |
||||||||||||||||||
東武東上線坂戸駅からr横浜へ | ||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
参考までに; 歩く 鎌倉街道上ノ道 (鎌倉→高崎) | ||||||||||||||||||
|