「旧鎌倉街道 探索の旅」を歩く
歩く 旧鎌倉街道 上ノ道
(鎌倉 → 高崎)
瀬谷 → 乞田
i-愛ロマンチカ  (横浜市瀬谷区)   (東京都多摩市)
      
この区間は、2017.8.24に歩いた。
前回の7.12から日にちが空いてしまったが、このところの長い異常気象続きが原因。どうも地球が変。
何か、地球が怒っているような気がする。
人類が増えすぎて重くなり、地球の負担になっているのかも知れないと思うが、後世の人が証明してくれるでしょう。
今日は、超久しぶりの太陽の照る34度を超える真夏日。旧街道歩きには、昔の旅人気分になれる絶好の日和かもしれない。
それにしても、今日も道を間違えて約1時間15分のロス。      
私の街道歩きには、この「道間違え」は、かかせないものとなってしまった。
    
2017.8.24。5時54分 前回の終点横浜市瀬谷区の大門小学校正門前を出発。 
          
本郷3丁目地内を、道なりに進み交差点を直進する。
なお右折した突当りに、
徳善寺
德善寺:瀬谷八福神の一つで、毘沙門天を祀っている。1555年(弘治元)創建。
境内には明治政府の地租改正の増税に対する反対運動の代表として戦い病死した、義民川口平本建功の碑がある。

次の
交差点も、直進し本郷1丁目地内に入る。
     
その先の突当りで、丁字路となる。
旧道は直進し約100m先の道まで続いていたが、現在は消滅している。
ここでは、迂回する。    
     
迂回経路-1
    
旧道との接続点から進み、(左側)日枝社前を通る。
日枝社の境内にあるケヤキは、樹高約40m樹齢約300年以上の大木で横浜市指定天然記念物。
     
その先の交差点を直進し、瀬谷神明社前を通り、中屋敷1丁目地内に入り「鎌倉古道」案内板の立つ美しい道を進む。
     
道なりに進み、中屋敷町内会館前を通り、瀬谷銀行跡の正面玄関前を通る。
瀬谷銀行:1907年(明治40)、当時は養蚕業が盛んで小島政五郎が頭取となり糸業金融(蚕の銀行)として瀬谷銀行を創業
1935年(昭和10)鎌倉銀行と合併するまで、地域の発展に寄与した。

     
その先の突当りの分かれ道は右手にカーブし、垣根沿いに進んで左にカーブし、住宅街の中を進む。
     
竹村町地内に入り、
1533年(天文2)甲斐武田氏のゆかりのものにより創建された瀬谷八福神の一つ(恵比寿)
善昌寺赤い幟の前を通り、
その先の
突当りで丁字路に出る。
旧道は、丁字路を直進して約150m先の県道401号線「竹村町バス停前」信号先辺り迄続いていたが、
現在は消滅している。ここでは、迂回する。
    
迂回経路ー2
     
「竹村町バス停前」信号先の旧道との接続点から県道401号線瀬谷柏尾線を進んで上瀬谷町地内に入り、妙光寺前を通る。
妙光寺:652年(飛鳥時代白雉3)に明光比丘尼が庵を建てたのが始まりという古刹で、瀬谷八福神の1つ(大黒天)。
鎌倉時代の1282年(弘安5)には、日蓮上人聖人が一泊したと伝えられている。
境内にある鎌倉時代の1325年(正中2)に鋳造された梵鐘は、神奈川県指定重要文化財。

     
きちんとした歩道のない402号線を進み、その先で東名高速高架下を潜って(歩行者専用トンネルあり)目黒町地内に入る。
高架手前信号右側に、
若宮八幡宮
若宮八幡宮:1558~1569年(永禄年間)に、善昌寺を建立した岩崎丹後守により建立された。
境内には、直刀と勾玉が発掘された円墳の八幡上古墳跡がある。昭和42年に東名高速道路の建設で現在地に移転移築した。

目黒町地内の401号線を進み、
馬場屋敷バス停、続いて日本経済新聞社横浜別館前を通る。
   
その先の「東京資源(株)」角で、401号線と別れ右斜めの細い道に入り、道なりに進み、
相模アセチレンとセコムFSセンターの間のゆるい坂道を下り
突当りを左にカーブする。
旧道はカーブしないで直進し、約600m先の東京都町田市鶴間4丁目の鶴間小学校東南の角辺りまで続いていたが、
消滅している。ここでは、迂回する。
   
迂回経路ー3
    
旧道との接続点から右に折れ、鶴間小学校沿いに進み、外れの先で鶴間2丁目と鶴間4丁目との境界の細い道に入る。
    
すぐ先の前方で、道は左にカーブする。
旧道は、カーブをしないで直進し約200m先の「鶴間小学校北」信号辺りまで続いていたが、現在は消滅している。
ここでは、迂回する。
    
迂回経路ー4
    
「鶴間小学校北」信号交差点辺りの旧道との接続点からゆるい境界坂道を上り、鶴間公園前を通り、
東急田園都市線高架下を潜り鶴間1丁目地内の坂道を上る。
    
坂道を上り切り、「南町田北信号で国道16号線を横断し、反対側の南町田4丁目地内の道に入る。
トラブル:信号を横断すると、新しい立派な車道。
旧道が整備されたものとしてこの車道を歩いてしまったが、
実は旧道とは関係のない、かつまだインタネット地図にも載っていない全く新しい車道であった。
歩き直したロスタイムは、約25分。

新しい
車道の右側を進み、その先で細い旧道に入る。
    
旧道らしい落ち着いたを進み、右側に本殿1726年(享保11)造営の熊野神社立看板
    
道なりに進んで信号交差点を直進して南町田1丁目地内に入り、
セブンイレブン横を通りすぐ先でわずに
左にカーブする
旧道はこのカーブ辺りから大きく弓形に左にカーブし、約600m先の金森6丁目の西田杉山神社辺りまで続いていたが、
現在は消滅している。
ここでは迂回する。   
        
迂回経路ー5
    
旧道との接続点から、杉山神社の境内沿いに進んで突当りを右折し、境内沿いのゆるい坂道を上る。
    
金森6丁目地内を道なりに進み、交差点を直進してセブンイレブンの横を通って都道56号線に出て左折し、
金森5丁目と金森3丁目との境界の
56号線の坂道を下る。
   
鶴金橋信号交差点を直進し、右側に昭和62年修復造小さな社の天満宮鳥居
    
56号線はその先で金森7丁目と金森2丁目の境界道となり、突当りの信号を直進して細い道に入り、住宅街を通り、
金森7-1の
交差点を直進する。
    
交差点左角に、1683年(天和3)高木伊勢守下屋敷内に守護神として建立したという金森杉山神社
金森1丁目と金森2丁目の境界道を進み、
分かれ道は左手を進んで金森1丁目地内に入り、突当りを左に折れる。
旧道は左に折れずに直進し、約600m先の原町田4丁目の町田市文化交流センター前の分かれ道辺りまで続いていたが、
現在は消滅している。
ここでは、迂回する。
         
迂回経路ー6
   
レンガ敷きの商店街を通り、車道を横断し、次の原町田大通りも横断する。
三井住友銀行角の交差点を直進し、突当りの小田急町田駅ビル前を右に折れる。
旧道は、町田駅ビルを突き抜け約2km先の町田中央公園テニスコート北側まで続いていたが、現在は消滅している。
ここでは、迂回する。
   
迂回経路ー7
   
旭町三丁目23地番標識の電柱の立つ辺りの旧道との接続点から右折し、
細い坂道を上って道なりに左にカーブし、右にカーブして分かれ道は左手を進む。
      
突当りで、菅原神社駐車場前へ出る。
菅原神社:1630年(寛永7)に建立された、町田3天神(他に、町田天満宮、南大谷天神社)のひとつ。
井出の沢古戦場(境内案内板要約):菅原神社、町田市立体育館および市営グランドのある場所は、
南北朝時代の「井出の沢古戦場跡」と伝えられている。
鎌倉幕府執権の北条高時の子の時行が、1335年(建武2)鎌倉幕府の再興を期して信濃から南下したとき、
この井出の沢の地で鎌倉を制していた足利尊氏の弟直義と決戦し、足利勢を破り鎌倉を占領した。
しかしその後20日余りで時行は、足利尊氏によって討たれてしまった。

駐車場前を左折し、すぐ
右折して本町田地内に入る。
    
菅原神社境内沿いのゆるい坂道を下って途中の丁字路を左折し、突当りを右折して、
坂道を下り都道3号線に出て
左折する。
   
3号線の前方でガードレールが切れているところから右折し、坂道を下り、突当りで丁字路になる。
旧道は丁字路を直進し恩田川を越えた先の養運寺下まで続いていたが、この間の約200m区間が消滅している。
ここでは、迂回する。
   
迂回経路ー8
   
宿場:この養運寺辺りには、鎌倉を出発して初めての宿場があったという。私などは、ここまで1日半がかりの旅。
当時の旅人は、舗装などしていない凸凹道、山道を草履で一日約女性で約35km、男性は約40km歩いたという。
余談ですが、当時の東海道の箱根山越えは、山道の険しさで草鞋の消耗が激しく、10足以上の草鞋を背負って登ったという。
それに比べ現代の舗装完備の道を立派なシューズを履いて、一日約30kmしか歩かない自分が情けなくなります。
次回から頑張ろう!

    
養運寺駐車場出入口辺りの旧道との接続点から本町田地内のを進み、分かれ道は右手を進み、次の変則交差点を左折する。
   
宏善寺山門前を通り、閑静な住宅街を進む。
宏善寺:1338年(暦応元)創建で、日蓮が佐渡へ配流される途中この堂に休息したという、日蓮ゆかりの寺。
   
交差点を直進し、青少年施設「ひなた村入口前を通り、突当りを左にカーブしガードレールからすぐ右折する。
    
用水路沿いに進み、きれいに整備されたせせらぎが流れる緑道「なかよし散歩道」。
なかよし散歩道:町田市下水道部が管理している、
大雨の浸水対策用に、地下に公共下水道が走っている延長600mの道。
その先で、本町田東小学校脇を通って高架下を潜る。
     
交差点を直進し、坂道を上り、突当りで坂道の車道にでる。
旧道は突当りを左斜めに折れて、その先約150mのセブンイレブン裏側の北東の丁字路辺りまで続いていたが、消滅している
ここでは、迂回する。
    
迂回経路ー9
    
旧道との接続点から左折し、坂道を上って山崎町に入り、接続点から約400m地点で(左側)町田ダリア園入口前を通る。
   
坂道を上り続け、分かれ道は右手の坂道を上り、道なりに右にカーブし、
その先の右にカーブするところで左折し
七国山の山道に入る。
七国山:標高128mで、当時は展望がよく七ヶ国を眺望できたことから、その名が付けられた。
    
山道を進み、町田市指定史跡「鎌倉井戸」と案内板の前に「七国山 鎌倉街道の碑」。
鎌倉井戸:鎌倉時代に、新田義貞が鎌倉攻めの途中、ここに井戸を堀って軍馬に水を与えたという。
井戸の深さは約4mあったと言うが、現状は殆ど土で埋まった状態。

      
すぐ先の分かれ道は左手の細い坂道に入り、「鎌倉古道 鎌倉街道上道案内板の立つ坂を下り、
この山道で唯一つ
民家前を通る。
    
坂道を下り丁字路を直進し、その先の「鎌倉古道 鎌倉街道上道」案内板の立つ分かれ道は右手の坂を下る。
なお、ここで分れた左手の道とは、この先で再度合流する。
急な坂道を下り続ける。
    
次の分かれ道は左手の坂道を上り、突当りで左手からくる先ほど分れた道と合流して右折し、草むら道を下る。
   
草むらを見当をつけて歩き、土がむき出しになっているところを進んで、
外れで車道を横断して山崎町と野津田町との
境界道を進む。
この「土道の下り口」には、後で再度戻ってくる。

    
境界道の突当りで右にカーブする。
旧道は、突当りを直進し鶴見川を越えて約400m先の野津田町の道路まで続いていたが、現在は消滅している。
ここでは、さきほどの「土道の下り口」まで戻り迂回する。
  
迂回経路ー10
   
旧道との接続点から坂道を上り続け、すぐ先で右折し、ゆるい坂道を上る。
     
木洩れ日の坂道、上り切ったところで右折し、町田の丘学園のフェンス沿いに進む。
      
突当りを左折し、急な坂道を下り、「野津田公園看板のすぐ先で公園境界塀に突き当たる。
旧道は、直進し野津田公園の中の陸上競技場を横断して約250m先の野津田町と小野路町との境界道辺りまで続いていた。
ここでは、先ほどの「野津田公園」看板まで戻って公園に入り、陸上競技場沿いに進んで迂回する。   
  
                  
迂回経路ー11
   
旧道との接続点の丁字路から左折し、野津田町と小野路町の境界の坂道を上り下って進み、
突当りの林の中の
丁字路を右折し小野路町地内に入る。
      
小野路地内の坂道を道なりに下り、(右側)現代的な茶色のビルの白道寺前を通り、
その先の
分かれ道は左手の坂道を上って都道156号線に出て右折する。
       
156号線の坂道を真っ直ぐ下り、左側に小野神社
小野神社:小野篁の7代孫の小野隆泰が、972年頃(天禄年間)小野篁の霊を祀ったことに由来する。
小野の篁は、平安時代の和漢に優れた学者で、学問の神様菅原道真の先輩にあたる。

突当りの「
小野神社前信号丁字路を左折する。
      
156号線を道なりに進み、右側に私設「小島資料館」。
小島資料館:小島家に関わる幕末のいろいろな資料、例えば沖田総司からの年賀状、近藤勇稽古着、
新撰組墨印、近藤勇の晒し首を報じる瓦版など多数収蔵されている。

その先左側に、「
大山街道 小野路宿掲示板
ここは旧鎌倉街道であるが、残念ながら「大山街道」として知られているところが多い。

      
小野神社前信号から約350m地点の、「関屋の切通し道標の立つ小路を右折する
道に迷う:じつは、この道標を見落としてさらに約150m先のところの小路を右折してしまい、
山を越えてしまってから間違いに気づき、この地点までまた戻るというミスをしてしまった。ロスタイム約50分。

細野ハイツ前の細い
坂道を上り、突当りを左折する。
     
山道を上り、分かれ道は右手を上り、「← 一本杉公園 小野路宿 →道標の立つ丁字路を直進する。
    
地蔵堂のある分かれ道は右手を上り、道なりに進んで丁字路を左折し、切通し道を上る。
      
下り坂となり、山道を下り切ったところで左手からの舗装道と合流し、
恵泉女学園大学境界柵沿いの、多摩市(南野2丁目)と町田市(小野路町)との境界線の
坂道を下る。
     
下り切ったところの突当りを右折し、道なりに進んで妙櫻寺前を通り、
その先の「
恵泉女学園大学前信号交差点を左折して県道156号線を横断し、
反対側の多摩市豊ヶ丘6丁目と貝取5丁目の境界道に入る。

     
多摩ニュータウンの中の境界道を道なりに進み、貝取交番前信号交差点を直進し次の信号辺りからゆるい下り坂となり、
緑豊かな道を下る。
   
青陵中学校北信号交差点を直進して豊ヶ岡2丁目と貝取1丁目との境界坂道を下り、
右にゆるくカーブした辺りに
貝取神社立看板と左手高台に小さな貝取神社
貝取神社:多摩ニュータウンの造成により旧地を失った、
かつて貝取村にあったで吾妻神社・八幡宮・牛頭天王社を合祀し、社名を貝取神社とした。

    
貝取神社前信号交差点を直進し、その先で道は左に大きくカーブする。
この辺りは、多摩ニュータウンの造成で地形が全く変化しているので消滅地点を特定することが難しいが、
旧道は、カーブする手前辺りから、現在の道の左側沿いに進み乞田川の先の愛宕交番前信号辺りまで続いていたが、
この間の約500mが消滅している。
ここでは、迂回する。
    
迂回経路ー12
    
旧道との接続点から乞田地内の都道158号線を進み、富士ヶ丘幼稚園脇を通り、信号を直進する。
     
次の丁字路を、次回左折する。
今日は、ここまで。
時は、15:10。 今朝8:24に出発してから、所要時間 約9時間。 
途中、道に迷ったロスタイム1時間を除いた所要時間は約8時間。
普通の人であれば、7時間くらいかも。

     
小田急多摩線永山駅から、横浜へ。
     

旅と旅行と
    
参考までに; 歩く 鎌倉街道上道 (高崎→ 鎌倉)