歩く 甲州街道
 栗原宿 → 甲府柳町宿
 (山梨県山梨市) (山梨県甲府市)
iー愛ロマンチカ
  
2005年10月2日から3泊4日で、山梨市の栗原から甲州街道の終点長野県の下諏訪まで歩いた。
この区間は、9月2日に歩き、このときは予報に反して良好な天気で、気分のよい歩きで満足した。
   
  基本手的経路
県道411号(栗原宿)一般道411号一般道411号(石和宿)(甲府柳町国道52号一般道

   
2005.9.2JRスーパーあずさ1号で、8:22石和温泉駅に到着。
時は金なりで、前回の411号線
等々力交差点までタクシーを飛ばす。
   
411号線を西へ進み、白百合醸造手前の右頭上に山梨市の標識(写真左)があるが、
正確には白百合醸造を過ぎた直後にある
山梨市標識(写真中)が市境。
白百合醸造では、今日何やらイベントがあるらしく広場にテントを張り準備中で
ワインの試飲をお願いしたら、10時開店ということで早すぎたためダメで、心残り。
山梨市に入り約500m進み
上栗原交差点に出る。左折すると日川にかかる矢作橋となる。
  
  栗原宿:本陣1、脇本陣2、旅籠20軒あったが、今は宿場の面影は全くない。
   
交差点を直進し411号線(写真左)を進み、多分この辺りから栗原宿になるのではないかと思う。
やがて前方のESSOガソリンスタンド前で
道は2つに分れ(写真中)、左手が411号線で
旧甲州街道は右の
細い道を進む。
  
分かれ道の三角地点に「大宮五所大神参道(写真左)があり、右手参道を進むと鳥居がある。
境内には市指定天然記念物の枝垂・樹形がとても美しい
クロマツが高くそびえている。
    
元の道に戻り、先に進み突き当たりの源屋葡萄園の住居の入口脇に大きな古松がある。
ここは栗原宿の源屋の屋号の旅籠があったところで、この松だけが当時の名残となっているという。
ズカズカと敷地に入り、
2階ベランダで洗濯物を干していた若い美人奥さんに松のことを尋ねたら、
慌てて部屋の中へ隠れてしまった。昨今人間不信がひどいですからね、仕方ないです。

    
もとの道に戻り、右折(写真左)して進み先ほどの411号線(写真中)に出る。
旧甲州街道は411号線を横断して数十m行き畑の中を右折するが、途中で道が建物で途絶えている。
411号線を進み下栗原信号手前の
トヨタあたりが、先ほど途絶えた旧甲州街道の合流点らしい。
     
空は青空、411号線をさらに進むと左側にこの辺りに不似合な高いアンテナ塔(写真左)のようなもの。
右には観光ぶどう園の青空に映えるたわわな今が盛りの
ブドウの木。
いつの間にか栗原宿は過ぎたのかもしれない。
しばらく進みセブンイレブン角の
交差点で、411号線と分れ左折する。
    
細い舗装された道(写真左)は日川に向かい、突き当たりで右折して土手を歩く。
旧甲州街道は日川にかかる日川橋手前の緑色壁の民家辺りから、
対岸の
日川橋の左手のこんもりとした木の辺りに渡っていたらしい。
    
ここでは411号線の日川橋を渡り対岸に出て、左折して土手(写真右)を進む。
なお411号線は
直進(写真中)し、日川橋南詰交差点を右折する。
   
左折して斉藤畳製作所の看板を過ぎた辺りの、土手から右下に下る道をおりて側溝沿いに右折する。
側溝脇の細い道が旧甲州街道であるが、誰もが信じがたい。
立ち話をしていたご近所の中年の美人主婦に話をしたら「これが甲州街道ですか!?」と目を白黒。
道なりに歩き、先ほどの411号線を
横断(写真右)して、直進する
なお、斉藤畳製作所看板から土手をさらに歩いて、舗装された道を右下に下り右折して進み、
 日川橋南詰交差点を直進すると「甲州桃太郎街道」電柱通りとなるが、→
 この通りは411号線で、 旧甲州街道ではない。
路傍の花咲く道はのどかで、右側に白山神社を見ながら進む。
道は笛吹川の土手に突き当り道なりに左折して進み、民家の所の
2差路は右の土手沿いに進む。
      
ホテルエンゼル角の丁字路(写真左)で、左折して進む。
ラブホテルは「空室あり」で、普通は時も場所も選ばないのですけれどね、やはり朝10時は早すぎた?
土手道をしばらく進み左からの道との
合流点で、
ここから旧甲州街道は右前方の
笛吹橋の対岸の取付け部まで陸上でつながっていた。
昔の笛吹川は、現在のJR石和温泉駅近くの第二平等川のところを流れていたので、

川を渡らずに石和宿に入り、宿の西端の甲運橋のところの笛吹川(第二平等川)を舟で渡っていた。
明治40年の大水害で、現在の笛吹川の流路となった。

   
ここでは土手をそのまま直進し、右折で笛吹橋(写真中)を渡り取付け部で旧甲州街道と合流する。
合流点の斜め右前には、「
ようこそ石和温泉へ歓迎アーチ
合流点から左折して笛吹川
土手の411号線(写真左)を進む。
411号線の右側に並ぶ
松林明治40年笛吹川が氾濫したあとに植えられたもの。
   
約300mほど進み、右側の道標のある斜め前方の道を下るとすぐ左の小さな広場の、
右側に
玉石道祖神、中央に横笛を吹く笛吹権三郎之像が建立されている。

笛吹権三郎と笛吹川: 昔笛の上手な孝行息子の権三郎は母親と二人で暮らしていたが、ある晩氾濫した濁流に二人とも流されてしまった。権三郎は運良く助かったが、母親は権三郎の名前を叫びながら濁流に呑まれて行方不明になった。権三郎は毎晩母親の好きな曲を笛で吹きながら川下まで探し回ったが、ある日足を踏み外して川に落ちて死んでしまった。その日から夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえるようになり、
村人はいつしかこの川を笛吹川と呼ぶようになった。

   
この通りは権三郎通り(写真中)といい、西へ進み左側の田に今はめずらしいはざ掛け
八田公民館前にここにも
玉石の道祖神
   
やがて権三郎通りは411号線と合流し、右折して進む。
遠妙寺信号右側の
遠妙寺は、身延5カ寺の一つで鵜飼堂など鵜飼勘作の伝説に関するもの多く、
また昔鵜飼川で拾ったという経石、鵜石、ビク石、大黒石などの寺宝がある。
隣接する
願生稲荷大明神は1850年(嘉永3)建立の本殿で、
国主武田屋敷の守護神であった神社を「火災予防」「小児保護」として祭っている。

   
石和宿:本陣1、脇本陣1、旅籠14軒。青梅街道、鎌倉往還も通り賑わった宿場。
昭和36年にボーリングしていたら、畑から多量の温泉が噴出して全国的に有名な温泉地となった。
   
遠妙寺辺りから宿場通りのようで、歩道にはハナノキが植えられともてもきれいに整備されている。
すぐ先の右側の駐車場のフェンス脇に
石和本陣跡石碑が建ち、奧に白い土蔵がある。
明治13年の大火で本陣建屋焼失し、現存しているのはこの土蔵だけとなっている。

   
その先の左側に「あし湯いさわ宿垂れ幕、さすが温泉街であるが、大通りに面してあるのは珍しい。
続いて
小林公園と、公園入口の右側に石和町民族文化財展示館
小林公園は戦後の日本経済などに偉大な業績を残した小林中の旧邸宅の敷地で、
展示館は明治中期に建てられた同翁の文庫蔵であった。

   
さらに右側に,1774年(安永3)に再建された、石和町最古の建築の石和八幡宮がある。
その先は石和温泉駅入口交差点で、コーナーに
案内標識がある。
石和の町には、こういう案内標識が要所に設置されていて、初めての人にはとても親切である。
右手に
石和駅に通じる道路(写真右)を見ながら、交差点を直進する。
町の中心および前回宿泊した411号線の北側にある石和温泉街を含め、
町並みを整備し、ホテルサービスにつとめ観光に力を入れている行政と市民の様子がよく伺える。

    
交差点を横断し右側のコンビニの奧の駐車場の塀に、ここにも玉石の道祖神
あちここちに玉石形の道祖神があるのは、どんな謂れがあるのだろうか。
411号線を進み
甲運橋バス停前を通る。
   
その先に第二平等川にかかる甲運橋(写真左)があり、川には大きなコイがワンサとたむろしている。
昔はここを笛吹川が流れていた。
この川辺りまでが石和宿ではなかったのではないだろうか。
    
橋を渡ると右側に「歓迎石和温泉郷 笛吹市白看板と、その脇に甲府市境界標識が立っている。
ここから笛吹市と分れ、甲府市に入る。
看板の脇のこんもりとした木の下に、全く目立たなく
川田道標が立っている。
1860年
(万延元)に作られ、「左 甲府身延山 甲運橋」「右 富士山大山 東京道」と刻まれているが、
江戸時代に東京などあるはずがなく、それぞれの文字の刻み方も違うので、後世一部刻み直している。

    
411号線を西へ進み平等川にかかる平等橋から、右手に名も分らない山々を眺め、さらに進む。
この川には宇治平等院に比するくらい蛍が多かったので、平等川の名があるという。
   
古そうな建物が散在する、やはりここは街道筋。
   
和戸町に入り右側の甲運小学校入口バス停脇の木の下には、ここにも玉石の道祖神(写真左)がある。
さらに進み、国道140号線とクロスする
横根跨線橋南信号交差点を直進する。
ちなみに交差点を右折すると、昇仙峡方面へ行く。
交差点からすぐの右に、いまどき珍しい
二宮金次郎像
その先の左側には、珍しくもないが周囲の中でひときは目立つ
高層ラブホテル
   
さらに右側の空地に一生懸命生きている小さな野仏像の前を通り酒折町に入る。
411号線は城東通りとなり、
山崎信号三叉路(写真中)を直進して進む。
三叉路の右からの道は、青梅街道(写真右)でここが分岐点となる。
    
 
交差点からすぐの右側のクヌギ店脇の路地の一角に、
山崎刑場跡(写真左)に大小の供養石碑と、「南無妙法蓮華経の高い石碑(写真中)が立っている。
城東通りを西へ進み、出光のガソリンスタンド付近で右へ分岐する道の三角地帯に
日本武尊御舊蹟」、他面に「酒折宮」と刻まれた2箇所継ぎ足しの石碑が立っている。
右に分岐する道は旧青梅街道であることから、酒折宮への道標かもしれない。

   
その先の左側には、一段と目立つ箱根駅伝の山梨学院大学高層ビル
さらに左側に何か歴史を感じる
飯野本店の店舗
そして「130m先右折でJR酒折駅」を表示する
案内標識(写真右)
   
その先の酒折宮入口信号交差点(写真左)で、右手遠くに古事記などに登場する酒折宮鳥居が見える。
交差点を直進して
善光寺入口信号交差点(写真右中)で、右手遠くに善光寺の銅ぶき屋根が見える。
甲斐善光寺は、武田信玄が川中島の合戦で信濃善光寺の焼失を恐れ、
1558年(永禄元)に一時ご本尊などを移し創建したのが始まりと言われている。

善光寺入口交差点辺りに板垣一里塚があったというが、その形跡見当たらず。
    
さらに進みJR身延線ガード下を潜り鍵の手道路を進み、小さな高倉川を渡ると右側に
江戸時代からの旧家で、金物屋、糸繭問屋を営んだ「河内屋」の
塗籠造石川家住宅(写真右)がある。
鍵の手
(桝形)道路は敵の攻撃からの防御の役目を果たし、ここから城下町となる。
   
  甲府柳町宿:本陣1、脇本陣1、旅籠21軒。甲府は甲府城の城下町で宿場の中ほどにある 柳町に問屋場などの機能が集まっていたため、甲府柳町と呼ばれていた。
   
その先にも何となく旧家のような格子の建物があるが、当時の名残かもしれない。
城東通りの突き当たりの
ガソリンスタンド前の丁字路(写真中)を左折して進み、
次の
突きあたりの丁字路を右折する。
この辺りの道を「かねんて
(金手)」と呼び、鍵の手に曲がっている。
    
突き当たる直前の左側に、
「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」で知られる山口素堂の墓がある
天尊躰寺(写真左)がある。
突き当たりの細い道を入ると右側に、甲斐の中世の石造物文化を代表する「六地蔵石幢」や
甲府初の芝居小屋がおかれた興行発祥の地の、
教安寺がある。
    
突き当たりで右折して411号線(写真左)の甲府市街を進み、
右側に江戸時代以前からの印傅の作品を展示してる
印傅博物館(写真中)の前を通り
NTT甲府支店西信号交差点を直進するのが甲府駅方面で、旧甲州街道は左折する。
この交差点辺りに本陣跡があるということで探し回ったが、所在不明。
なお印傅とは伝統的な革工芸品で、名の由来は
寛永年間に来航した外国人により印度(インド)装飾革が幕府に上納された際に名づけられたという。

    
左折した通りは、遊亀通り(旧柳町通り)(写真左)といい当時問屋などの機能が集まっていたところで、
約200m進み
問屋街入口信号交差点(写真左)を右折する。
その先の
丁字路(写真中)を左折して進み、次の突き当たりの丁字路を右折する。
   
広い通りに出て西へ進み、相生歩道橋(写真左)を渡って直進する。
歩道橋から北方向に見る
52号線の延長上に県庁やJR甲府駅がある。
   
52号線は相生交差点で西へ曲がり、旧甲州街道と合流して進む。
この52号線は、ここから
美術館通りといいよく整備され延々と続く。
丸の内郵便局東信号交差点の歩道に、「
南 みのぶみち」「西 志んしうみち新しい道標があるが、
多分昔は南、西ではなく「左」「右」と刻まれていたのではないだろうか。

    
さらに500mほど進み荒川にかかる荒川橋(写真右)を渡る。
橋の上からふと下を見ると、川の中で屈みこんで手探りでなにやら必死に探しこんでいる女性。
上着をたくし上げ白いパンツを丸出しで一生懸命私に向けている、年のころは20代後半の
美人女性
婚約指輪でも落としてしまったのか、見てはいけないものを見てしまった気分になり、足が固まった。
   
荒川橋を渡ると続いて、貢川にかかる貢川橋を渡る。
柳の下の2匹目のドジョウを信じて、川を見たが女性ならず
水鳥が一羽。
橋を渡り
貢川橋西詰信号の分かれ道で左手は5号線で、旧甲州街道は右手の52号線を進む。
    
上石田町バス停前を進み、左へカーブするコーナーに上石田の大きな夫婦サイカチが立っている。
昔この辺りまで貢川があり川岸にあったサイカチを残したもので、ただ2本とも雌で夫婦とはなりえない。
コーナーを道なりに曲がり西へ進み、5号線とクロスする
貢川交番前信号交差点を直進する。
   
さらに貢川信号丁字路を直進し、右側に甲府市内でよくある町名由来碑(写真左)がある。
ちなみにこの碑には、次のように書かれている。
「旧貢川は、明治維新以前は幕府直轄地で市川代官の支配にあった。明治八年上石田、徳行、富竹、龍王、下河原の4ヵ村が合併して貢川と改める。上石田村へ流れる貢
(く)川は古くは工(く)川と書いた」
その先の右側に、石とガラスの博物館と副題のある
白いクリスタルミュージアム
   
またその先右側の山梨県立文学館東バス停脇には、輸入雑貨看板のある店のよくできた番兵
さらに進み頭上に「
芸術の森公園、美術館、文学館案内板と、左側に公園入口の正門
広大な公園の敷地に、県立美術館と文学館が建てられている。
先に渡った相生歩道橋から依然として美術館通りの、52号線。

   
公園前から400mほどのところに中央自動車道高架があり、その手前に甲斐市境界看板
ここで甲府市と別れ甲斐市に入り、高架下を潜り
美術館通りの52号線(写真中)を進む。
高架から約500mの名取西信号を過ぎると、右側に
竜王健康ランド名取温泉の派手な建物。
   
竜王郵便局前を通り、竜王駅前信号の次の竜王新町信号交差点(写真左)で、52号線と分れ右折する。
形だけの白線歩道のある
2車線道路を、車が飛び交う中を命からがら歩く。
(写真はたまたま信号ストップで反対側車線に車無し)
すぐ先の日本フィールドエンジニアリングの敷地の一角に、
丸石神体の道祖神がある。
ここは江戸時代村人の集会協議実行の「寄り合い場」があった所で、地元で古跡として保存している。

    
さらに進みJR中央線踏切(写真中)を横断し、2軒先の左側にひっそりと道祖神が立っている。
その先しばらく進み、道は
ゆるい登り勾配となり続く。
   
数分登り、坂の途中の右側の民家の敷地の一角に「南無阿弥陀佛」の赤坂供養塔がある。
安政年間
(1854〜59)建立の高さ4.3m、巾1.12m、厚さ0.38mの巨大な自然石を加工したもので、
無縁者供養のために作られたもの。
この周りで写真をとっていたら、この家の子供が不審者と思い親を引っ張ってきて様子を伺っていたが、
今のあやしげな世の中、この対応は正解。
少し先の丁字路を右折した奧に
赤坂稲荷神社がある。
時はちょうど16時。
まだ陽はあるが、たまにはゆっくり温泉入り疲れをとろうと殊勝な心がけ。
    
今来た道を戻り、JR竜王駅からタクシーで湯村温泉へ。
道々地元の運転手に赤坂供養塔の話をしたら、知らないという。赤坂稲荷神社は知っているという。
そんなものなのかもしれない。

   
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旅と旅行と