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この区間は2005.7.18と19日に歩いた。 34℃の炎天下を朝のオニギリ1つで、いつものことで歩くと食が細くなり道中の水だけを頼りに歩いた。 ただ昨年までは水の代わりにビールばかりで、ビールが歩いているようなものであった。 この区間には甲州街道のほぼ中間地点の江戸から約100kmにある、難所と言われる笹子峠がある。 その笹子峠では越えるまでの約3.5時間、全く人間に会うことこともなくただ車とバイクが数台通過しただけ。 また県道を外れた旧道は全くの獣道で、雑草で道がない所もあり崖っぷちでは崩壊しかけているなど 万が一のときには、もうこの世にさよならと思ったくらい臆病な私には恐怖の連続であった。 雨で道が濡れているときの1人歩きは、獣道を避けて県道を進んだ方がよいと思う。 |
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基本的経路 (大月宿)国道20号→(黒野田宿)県道212号(日影笹子線)→(鶴瀬宿)20号線→(勝沼宿)38号線→34号線 |
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7月18日早朝横浜を出発してJR大月駅に7:55到着。 そこから前回歩いた20号線大月橋東詰信号交差点に8:10到着。 旧甲州街道は信号から右折して下流で橋を渡り20号線に戻ることになるが、 現在は道がないので信号を直進して20号線の大月橋を渡って進む。 |
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大月橋(写真右中)の中ほどに「東京から95km」「勝沼まで26km」標識があり 下を見ると桂川(写真左)の透き通った流れとその先にJR中央本線の線路。 橋を渡りきると20号線(写真右)は下り坂となり、前方に中央自動車道の標識が見える。 |
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坂道を下り進んだところの左側に、野仏や馬頭観世音などの石碑群(写真中)、 中央に芭蕉句碑と庚申塔が並び、右端に下咲花一里塚跡説明板が草むらに隠れている。 |
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下花咲宿:次ぎの上花咲宿との合宿で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠22軒の宿場であった。 |
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さらに進むと下花咲宿(写真左)となり、右側に文部大臣指定重要文化財の星野家住宅(写真右)があり、 その住宅前に真新しい「明治天皇花咲御小休所」と「本陣」の石碑が並んでいる。 星野家は本陣、庄屋、問屋をつとめた旧家で、現在の建物は1836年(天保6)に焼失したものを その後忠実に再建したもので、本陣建築の性格をよく表しているという。 この辺りが下花咲宿場通りの中心であったのだろう。 |
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上咲花宿:下花咲宿との合宿で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒の宿場であった。 |
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さらに400mほど進み中央高速道への進入路を横切ると、上花咲宿の宿場通り(写真左)となる。 通りの中ごろの丁字路から右へ入る、笹子川にかかる西方寺橋手前(写真中)あたりに本陣があったようだ。 丁字路の先の左側に高い火の見櫓があり、頂部の踊場には拡声器やアンテナなどが設置されている。 このような多目的に利用するやり方もあるのかと、改めて感心。 |
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宿場通りを過ぎると道はゆるい登り坂となるが、以降笹子峠まで基本的には延々と登り坂となる。 高速道路の2つのガード(写真左)を潜り300mほど行くと、20号線は左側のJR中央本線に接近し、 大月警察著前あたりから左側は中央本線の高い雍壁(写真中)が始まる。 さらに250mほど進むと左側に中央本線の下を潜る道があり、これが旧甲州街道であるが、 すぐ行き止まりとなり先へ行けないので、このまま20号線を進む。 |
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笹子川にかかる真木橋を渡り、アップダウンを繰り返しながら登り勾配の道を進み 大月町真木の集落の端にある真木川にかかる初月橋(写真左)を渡り左折して20号線(写真右)を進む。 |
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初月橋から400mほど行き、20号線と分かれて左折し笹子川とJR中央本線にかかる源氏橋(写真左)を渡る。 |
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橋を渡るとすぐ正面に甲州砕石鰹猿鉱業所へ行く道のゲートがあるが、 旧甲州街道はその手前の右折する道で、線路沿いにいまどき珍しい砂利道を時には電車を見ながら進む。 しばらく行き道なりに左折し、鉱業所からくる左からの道と合流(写真右)して進む。 |
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少し行きJR中央本線踏切を横断して直進し、200mほどのところで右からの20号線と再合流し、 初狩町下初狩の集落を進む。 |
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下初狩宿:次ぎの中初狩宿と合宿で、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒の宿場であった。 |
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古い家並が散見される下初狩宿通りの中ごろの右側に、大きな建物(写真右)がある。 その建物の前のガードレールのところに、「山本周五郎の生誕之地」と刻まれた石碑があり、 そのすぐ先の階段脇には赤い郵便ポストがのどかな通りに、ひときは目だって立っている。 さらにその数m先の坂道のところに久し振りに拝見する廿三夜塔があるが、 どうもそんなに古いものとは思えず、せいぜい明治時代の建立とみたり。 |
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路傍にはノウゼンカズラが今を盛りに咲き、少し先に初狩駅前信号交差点があり左折すると初狩駅。 20号線を進み宿場通りの外れの宮川にかかる宮川橋を渡ると、初狩町中初狩となる。 |
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中初狩宿:下初狩宿との合宿で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠25軒の宿場であった。 |
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橋を渡り712号線との丁字路を過ぎた辺りから中初狩宿場通り(写真中)のようで、 通りの右側の家並みの終わりのところに明治天皇御小休遺跡碑が立っている。 その碑の後には古式然とした門構えが残されているので、ここが本陣跡と思う。 |
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宿場通りを過ぎ、唐沢橋を渡ると左側の石垣の上に廿六夜塔などの石碑群(写真左)があり、 右端に久し振りに見る1777年(安永7)建立の秋葉山常夜燈(写真左中)がある。 石碑の年代もばらばらのようで、道路整備などであちこちから集めてきた石碑ではないかと思う。 さらに350mほど進み笹子川にかかる船石橋を渡り道なりに左折した左側の路傍に 「御舟石所在地ハ従是東三拾間余」と刻まれた石碑が立ち、この辺はブランド石の産地のようだ。 |
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左側の笹子川沿いに走る20号線を西へ進んで行くと、前方にJR中央本線の高架が見えてくる。 旧甲州街道はその手前の白い立看板から右折(写真右)するが、 現在は途中で道が消滅しているのでそのまま20号線を進み高架下を潜る。 |
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白野宿:白野、阿弥陀海道、黒野田はもとは3つで一郷であり、各々の宿場は接近している。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒の小さな宿場であった。 |
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高架を潜り300mほど行くと右へ分かれる道(写真左)があり、これが旧甲州街道で白野宿の宿場通りである。 さきほど立看板から右折した道は、この分岐点の手前で合流する。 宿場通り(写真左中)は500mほどののどかな通りであるが、当時の面影は全く感じられない。 通りの右側の路傍に庚申塔があるのがせめてもの慰めというところ。 宿場外れで再度20号線に合流して西へ進む。 |
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20号線を100mほど進み石井工業所から右折する道(写真左)が、旧甲州街道である。 右折して前方のJR中央本線ガードを潜り、左折して坂道を登る。 |
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登りきるとちょっと小高い台地で、笹子町白野の集落(写真左中)を西へ進む。 左手には緑一杯の山々、右側は住宅が並び石垣の上に萬霊塔(写真右中)も立っている。 集落の外れに来ると地名は吉久保となり、道は下り坂となる。 |
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坂の途中の右側に稲村神社があり、境内には根元から3つに分かれている大木、 その後方に多数の石碑が並び、その左端には自然石で出来た男根女陰合体の道祖神(写真右中)がある。 道祖神の合体部をいろいろな角度から写真をとったがうまく表現できず、すみません。 |
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坂道を下り100mほど行くと右側に白い看板の立つ丁字路(写真右)になる。 旧甲州街道は丁字路を直進するが、途中JR中央本線で道が分断消滅しているので ここで左折しJR中央本線ガード下を潜り20号線に合流して進む。 |
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途中旧甲州街道と合流し20号線を600mほど進むと、笹子川にかかる橋の手前で道は分かれる(写真左)。 旧甲州街道は、左手の20号線と分れ、右手の道を進むと100mほどのところで丁字路(写真右)となる。 直進するのが旧甲州街道であるが笹子小学校の校庭で道は消滅しているので、 丁字路を左折し笹子川橋を渡り、さきほどの20号線と合流(写真中)する。 |
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20号線に出ると道の反対側に、笹一酒造の大きな看板の工場と即売所がある。 朝オニギリを1個食べただけで飲み物も口にしないで炎天下を歩いていた。 時は11時を過ぎ、もう出る汗もないことに気がつき、慌てて即売所へ飛び込み、 意地汚くワインの試飲を次から次へと渡り歩き、ほどよい以上に酔いがまわったので 最後はとても冷え切った笹子峠の水を、ガブ飲みさせていただいた。感謝感激。 空きっ腹が、液っ腹になり、お腹がジャボジャボ。 正直ここで疲れがどっと出てしまったが、鞭打ってGO! 腹もできたし落ち着いて周りをキョロキョロ見ると、入口の左にギネスブックに登録されたという 「世界一の大太鼓」があるではないか。ちなみに口径4.8m、胴長4.95m、重量約2トン。 |
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阿弥陀海道宿:本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒の小さな宿場であった。 阿弥陀海道堂という珍しい宿場名は、ここに阿弥陀堂があったことから名づけられという。 |
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おいしいワインを心ゆくまで試飲させていただいたことに、心でお礼を言って笹一酒造を出た。 20号線を進むとすぐ、右側の笹子川にかかる阿弥陀海橋からくる道と合流するが、 恐らく先ほど笹子小学校で消滅した旧甲州街道ではないかと思う。 笹一酒造から100mほどで、笹子町吉久保から笹子町黒野田となり東京から106km標識。 この辺りは阿弥陀海道宿の通りであると思われるが、その跡形も気配も全く感じられない。 黒野田に入り200mほどのところにJR中央本線のガード(写真右)があり、 その手前から左側の登り坂の突き当たりに小さな笹子駅の駅舎がある。 旧甲州街道はガードを潜り20号線を西へ進む。 |
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黒野田宿:本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒の宿場であった。 |
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ガードをくぐるとすぐ黒野田宿(写真右)で、なんとなく当時の雰囲気を感じさせる通りかもしれない。 公民館を過ぎると左側に、1855年(安政2)創建と刻まれた由来不詳の笠懸地蔵が立っている。 拝見すると頭に乗っている分厚い石笠の重さに必死に耐えているいうような顔の表情に見え、 安政のころの大地震、大飢饉などで苦しめられている民衆の身替りとなっているのかも知れない。 地蔵を過ぎると東京から107kmの標識がある。 |
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黒野田宿を過ぎ笹子川にかかる黒野田橋(写真左)を渡るとすぐ右側の普明禅院の門柱脇に、 真新しい「江戸日本橋ヨリ25里」一里塚碑(写真左中)が立っている。 道なりに左折して進み笹子川(写真右)にかかる情調的な名前の星影橋(写真右中)を渡る。 月夜に星影でも映るのかと下の川面を見ると、小さな滝がそこにあり如何にも暑中に涼あり。 道は大月あたりからゆるい登りであるが、黒野田からはその勾配が急になる。 |
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(笹子峠) | ||||||||
旧甲州街道の一番の難所で、峠の標高は1093m |
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急勾配の道を炎天下歩き続け、後を振り向くことも、デジカメを構えることも 億劫になりもくもくと歩き続ける。 峠の入口手前の笹子川に面した右側に、広い駐車場のあるファミリーマートが現われる。 ここでペットボトルの水を10本仕入れ、がぶ飲みして頭から振りかけ、 約30分休憩後の13時に、残った5本を峠越えようにリックサックに入れて出発。 20号線はファミリマートの前で2つに分れ、黄色い派手な看板の上部の道標は「←笹子峠」で 笹子峠は左手の道を示し、ここで20号線と分れ左折して県道日影笹子線に入る。 |
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県道(写真左)は国道20号線としばらく並行に走り、150mほど行き道なりに左折して南西へ進んで行く。 周囲は鬱蒼とした林の中の道となり、何度も何度も折れ曲がりながら登っていく。 これから峠を越える約3時間30分の間、人間には1人も出会わないとても寂しい道で ただ車やバイクだけが数台通り過ぎていくだけであった。 |
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しばらく坂道を登って行くと、左側に笹子峠自然遊歩道看板(写真左)が立っている。 この道が旧甲州街道でありここでしばし舗装された県道と分れ、山道を進む。 時には「←矢立の杉 笹子駅→」道標が、薄暗いところに立っている。 |
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小さな流れにかかる板の橋、右側の林の中に明治天皇御野立所跡石碑の前を通り、 丸太の粗末な橋を渡り、枯葉の道なき道を登り続ける。 |
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突然左手のベンチも用意された小さな広場に巨樹木現われる。 「県指定天然記念物笹子峠の矢立のスギ」標柱が立っていて、 武士が出陣のとき矢をこのスギにうちたて武運を祈ったことから、矢立のスギと呼ばれているという。 根廻幹囲14.8m、樹高約26.5mで、幹の中は空洞になっているということであるが、覗くのはご遠慮した。 |
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さらに登り続け行くと、前方に舗装された県道(写真左)が見えて安堵する。 県道を何度も折れ曲がりながら、たまに車が通りすぎ、ようやく前方に笹子トンネルが現われる。 トンネルの奧にはかすかに出口の明かりが見えるので、そんなに長いトンネルではなさそう。 トンネルの前面右側にトンネル(笹子隧道)説明板があり 「昭和13年に完成し抗門左右にある洋風建築的な2本並びの柱形装飾が特徴的。 大月市笹子町から大和村日影間の約10数kmの峠越えは幅員が狭くつづら折カーブの難所であったが 昭和33年新笹子トンネル完成でその大役を終え、静寂の中にある」(要約)という。 |
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説明看板の右手に広場があり、そこからトンネルの上に行く細い坂道が峠へ登る入口(写真左)である。 入口にはいろいろな看板が立っている中で、 左の黄色い看板にはなんと「注意 この付近には熊出没」とあるではないか! 薄暗い坂道を登って行くと、身体を斜めにして歩く坂道、右か左かわらない分かれ道。 (分かれ道は数箇所あるが、トンネルを斜めに横断するように左手、または左前方へ進むのが正解) などなど如何にも熊が出そうな怪しい気配で、慌ててかねて準備していた短波ラジオにスイッチを入れる。 ただこのとき株式投資の解説の時間帯で、男のボソボソ声。 熊さんに株式など理解できるはずがないと、即興作詞作曲の「熊さん、こないで!」を大声で唄い続ける。 音痴な私の声が、人間のいない山に高らかに響いたが、何故か決して恥ずかしくなかったのでした。 |
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ちょうどトンネルの真上が峠の頂上のようで、やたらと方向板の多い峠の標柱が立っている。 昔は、諏訪神社分社と天神様が祀られていて広場には常時、馬が20頭ほど繋がれていたという。 ここで登りの坂道は終わり、これからは延々と下り坂で勝沼、石和まで続くことになる。 |
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熊さんに来ないで!と頼んでいる関係もあり、一目散に峠を下りるとまた分れ道(写真右)。 ここは実は複雑でちょっと迷うところであったが、意を決して左の道を下るとそこに朽ちかけた 「甲州・・・・・」道標がたてかけてあり、間違いないと心強くなる。 下りの道は崖沿いもあり登りより危険なところがある。 眼下にトンネルの頭部と舗装された県道が見えて、熊さんに感謝しほっとする。 経路としては、トンネルの右側から登り、反対側の左側に縦断して下りることになる約200mの距離。 山道を下りたところに、大和村の境界標識(写真左)が立っている。 ただ大月市との境界は地図上は峠の頂上のようであるが・・・・。 |
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県道に出て振り返って見たトンネルの外観は、先ほどの入口側とどこか違うようであったが不明。 トンネルの左側に大月市の境界標識が立っている。 |
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トンネルから県道を100mほど下り左側のガードレールが切れているところに、 「甲州街道峠道」道標があり旧甲州街道はここから入り、県道清水橋まで下る。 |
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谷へ下りながら獣道のようなところを歩き、傾いた道、雑草が深くなり道が不明になると 右下に舗装された県道が見える。 |
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接近したところで一旦県道に出て、雑草の中に立つ甲州道中甘酒茶屋跡碑を写す。 |
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再度獣道に戻り坂道を下り、段々雑草茂って分らない道を進み、 そして突然甲州街道峠道道標のところで、砂利道が出現して矢印の通り進む。 |
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100mほど歩くと、右側に「…道峠道」道標と「甲州街道峠道」白標柱が、下の谷の方を指している。 ところでこの破損した看板は誰かいたずらでもしたのであろうか、 もしそうなら地元の人たちの必死の道の整備を無にするけしからん行為である。 道標に従い、砂利道から右折して林の中の急傾斜の道を下る。 この道の両側はとても深い崖になっている尾根道で、崖っぷちを通るところも多く ときには落下防止の目印のロープが足元に張られているところもあり、下は深いダム。 段々足元が怪しくなる |
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風化して文字が見えない野仏像、深い谷にかかる橋、どうやって歩くのか分らない急傾斜道、 既に崩落しかけている崖ふちの狭い道では、写真をとるどころではなく割愛。 段々下界に近づくと緑が一面で獣道は消滅。 |
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そんなに古くない馬頭観世音碑、登ってくる人のためにある「右甲州街道峠道 左自害沢天明水」 「自害」などと聞くと、自殺の名所でもあったのであろうか。 |
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出口の清水橋に近づく頃は、道を塞いで一面お花畑の百花繚乱。 例えば写真左から、ホタルブクロ、オカトラノオ、ハギなどなど。 |
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笹子峠を越えて、旧道に入ってから坂道を56分歩きようやく県道の舗装道が見えてくる。 臆病な私にはこの旧道はとても恐怖な長い時間であったが、 ただとても変化あり、スリルありなので普通の人にはむしろ楽しい道なのかも知れないとも思った。 それにしても、全くラッキーとしかいえないことであるが、蛇や蛙に全く出会わなかったことである。 |
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今来た旧道(写真左)を振り返り、清水橋(写真中)を渡り県道を道なりにひたすら下りて行く。 曲がりが延々と続く下り坂道に、いつのまにか左足を痛めてしまっていた。 県道を5分ほど下ると、右側に桃の木茶屋跡碑がたっているが、後は崖でよくまあこんな所に、である。 |
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さらに緑の坂道を下り続け、水の流れていない大持沢橋(写真左)を渡り、曲がり角を何度も繰り返すと、 左側に大和村小中学校林の大きな看板が立っている。 後背地は、緑がヒノキで、赤が赤松他雑木林と表示されていて、植林教育の一環なのであろう。 同じような景色の下り坂がさらに続き、右足の痛みもひどくなる頃 右下に下界が開け、懐かしい民家の屋根やねが見える。 |
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ようやく笹子沢川にかかる最近建替えた天狗橋に辿りつく。 この橋を渡ると突き当たりに「←JR甲斐大和駅 国道2号線」道標が立っている。 そこから道なりに左折すると駒飼宿に入る。 ファミリーマート前の峠の入口から、ここまで約3時間30分。 |
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駒飼宿:武田氏の始祖にあたる甲斐源氏の牧場だったことから、この名がついたという。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒の宿場。 |
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左折すると前方は駒飼宿の宿場通り(写真中)で、まだ坂道が続く。 すぐ右側に最近建立されたような芭蕉句碑「秣負ふ人を栞の夏野哉」があり その先の左側の駐車場には、脇本陣跡碑が立っている。 |
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さらに先の左側に駒飼本陣跡碑が立ち、当時の家々の屋号が記されている駒飼宿案内板が並んでいる。 |
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坂道の宿場通り(写真左)を進み、 やまと村営バスの日影バス停の手前から、県道と分れ左折して坂道を下りて行く。 県道とは後刻20号線のところで再度合流する。 |
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坂道(写真中)の途中の右側に、思いがけなく甲州街道駒飼宿碑が立っている。 このようにきちんとした標識があると、本当にありがたい。 その先の右側の石垣の庭には、素人でも芸術的姿に思う松の木がある。 なおこの石垣は、笹子峠の道に入って初めて人間に出会った記念すべきと場所でもあった。 |
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坂道の突き当たりの左折する角に、旧甲州街道道標が立てられていて分りやすい。 道なりに坂道を下り笹子沢川にかかる古道橋を渡り進むと、民家の庭に咲く、アジサイ、アジサイ、アジサイ。 |
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さらに下り続け、前方の中央自動車道ガード下を潜るとすぐ左側の一角にに野仏石が並んでいる。 その一番奧に、首なし地蔵(写真右)がある。 昔強盗に襲われ胴体だけ残った六部(廻国巡礼の行脚僧)を、 村人たちが1708年(宝永5)に塔を建てて供養した地蔵。 地蔵の後にいる人は地元のおばあちゃんで掃除中。耳が遠くて通じずどいていただくことができなかった。 |
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ようやく前方左下に国道20号線(写真中)が見える。 坂を下りて、先ほど日影バス停で分れた県道と合流し、 ガソリンスタンド前の大和橋西詰信号丁字路で20号線と合流(写真右)する。 旧甲州街道は左折して進む。 時は17:02。 下り坂で痛めた右足がひどく、ほとんど引きずるような歩き方になってしまい早々にホテルへ行くことにした。 この周辺にはタクシー会社なし。 丁字路のガソリンスタンド店主にタクシー会社の電話番号を聞いて、勝沼からタクシーを呼び石和温泉へ。 今日は予定より5,6kmほど少なかったので、明日はきつい歩きとなることを覚悟した。 |
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翌19日、タクシー代節約で石和温泉駅から甲斐大和駅までJRを利用し、9:22到着。 こじんまりした甲斐大和駅から、前方には中央自動車道高架を眺めながら20号線まで坂道を下り、 さらに20号線を西へ進み、日川にかかる大和橋を渡り昨日の終点の大和橋西詰丁字路に出る。 |
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丁字路の左手には、昨日下りてきた坂道が県道と合流するところが見える。 旧甲州街道は、大和橋西詰信号から20号線を直進して坂道を西へ下る。 |
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鶴瀬宿:、駒飼から鶴瀬に至る地域は、武田勝頼の妻子とともに自刃した武田氏終焉の地。 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒の宿場であった。 |
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20号線の左側歩道(写真左)を数分歩き、日川にかかる20号線の立会橋と並行に走る橋を渡る。 橋の下に見る日川(写真中)には、この時期殆ど水の流れがない。 |
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橋を渡り突き当たりを道なりに左折して鶴瀬宿へ進む。 次の右折するコーナー手前の左側に 大小の2つの古い石碑の右に、まだ新しい金岡自画地蔵尊の石碑と白標柱が並んでいる。 この地は絵画の巨匠巨勢金岡が岩面に地蔵尊を描いたところで、現在は岩崩で消滅し碑だけとのこと。 道なりに通りを右折すると右側に鶴瀬関所跡碑が立っている。 その先で再度20号線と合流(写真中)する。 |
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20号線を西へ進むとすぐ右側に、大きな鶴瀬地区石碑と白い甲州道中鶴瀬宿碑が並んでいる。 正面に中央自動車道高架が横切る20号線(写真左中)を進み、鶴瀬歩道橋(写真左中)の右側を渡る。 以降20号線は殆ど右側にしか歩道がないので、右側通行で進む。 中央自動車道高架の手前から道なりに右折して、 左側に日川、右側の山手の間の坂道(写真右中)を延々と下り続ける。 この坂道は笹子峠から始まり石和辺りまで延々と続き、日常の生活にもそれなりに影響あるだろう。 時にはダンプカーの爆風におびえながら進むと、トンネル(観音隧道)がある。 旧甲州街道は、トンネル手前の横断歩道の右側から階段で山へ登る道のようである。 ただ道順の詳細が不明につき、このまま20号線を進む。 トンネルに入ると途中で何故か歩道がなくなり 左側のトンネル側壁開口部(写真下)から外へ出て進み、20号線に出なければならない。
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延々と続く下り坂に、昨日痛めた右足が痛く殆ど左足だけの歩行となってしまった。 またトンネルがあり、潜り抜いて進むと、左側に東京から117km標識が立つ。 |
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トンネルから10分ほど歩くと、 前方に魔法使いが魔法をかけて石にした子豚に手をかけているような巨大なモニュメントが現われる。 なんだろうと、本当にビックリして近寄ると顔の辺りに「大和村」の表示で、要するに境界標識であった。 その先右側には「勝沼町」境界標識で、ここから勝沼町に入る。 坂を下りて行くと、柏尾の深沢入口信号交差点。 旧甲州街道(写真右)はこの交差点から右折してしばらく行ってから橋を渡り戻ってくるが、 現在は橋が消滅しているので、このまま20号線を直進する。 |
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横断した旧街道入口の左側に、「近藤勇 柏尾古戦場」碑と柏尾橋説明板が並んで立っている。 さらにすぐ脇の柏尾橋の付け根に小さな広場があり、近藤勇銅像が立っている。 この近藤勇像はなんとなく写実感がなく、日本武尊を思わせるような軽い感じ。 幕府命で甲州に遠征した近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は1868年(慶応4)3月6日この地で官軍と激戦の末破れ 主力の新撰組も壊滅状態となり近藤勇は江戸へ敗走した。その後近藤勇は4月25日に処刑されている。 柏尾橋(写真左中)から深沢川(写真左)を見ると、全面緑一色で水はどうしたのかと探す。 |
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橋を渡って、右からの旧道と合流して20号線を進む。 そしてぶどう狩りの目立つ看板が出迎えてくれて、さすがぶどうの勝沼と認識する さらに進み、右側にある階段を登ると門扉があり、さらにその奧の参詣階段の上に大善寺がある。 門扉が施錠されているため20号線をちょっと戻り、迂回して通用門(?)から入る。 寺院へ行こうとすると遮断ゲートがあり、入場料を払わない人はダメ。 本堂は国宝ということであるが、ゲートまで構えて遮断するやり方には余りにも商売過多で興がそがれた。 |
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勝沼宿:江戸時代からすぐれたぶどう産地として知られていた。 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒の宿場であった。 |
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数分進み柏尾信号で道は分れ、 左折は20号線で甲府・石和方面へ、右折は38号線で勝沼・山梨方面へ、となる。 旧甲州街道は右折で20号線と分かれて進む。 38号線は急な下り坂で、この辺りでは痛めていた右足が殆ど動かない状態になる。 |
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坂の途中の右側に、野仏像と並んで、 1621年(元和7)甲州街道往還筋地名として定められた「国見坂」標柱(写真左中)が立っている。 どうもこのあたりから勝沼宿に入っているようである。 先に進むと丁字路があり、38号線は右折し勝沼ぶどう園駅へ、 旧甲州街道は直進して214号線となり石和方面へ、。 38号線の丁字路角に上行寺がある。 |
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丁字路を過ぎたあたりに、確か脇本陣跡があったはずと行ったり来たり探したが見つからず、 いらいらもつのり右足の痛みが最高になる。 そして前方上町信号交差点手前の、歩道に駐車している車に隠れている脇本陣跡碑をようやく発見。 よくも歩道の真ん中に堂々と駐車しているものとよく見ると、反対側のガソリンスタンドの灯油配送車。 足の痛みのせいもあり、怒り心頭。許せない! ふと碑の奧を見ると、なんとなくゆかしい土蔵の姿。 また道の反対方向には勝沼氏館跡があるが、足の痛みで訪問割愛。 |
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上町信号交差点からは旧甲州街道は34号線となり直進する。 交差点を過ぎた宿場通り(写真左)は旧家と思われる家並みが多く、当時を思わせる雰囲気が漂う。 道の右側に、本陣槍掛けの松がひときは目立つ。 左側には、江戸時代後期の東屋敷と明治時代の西屋敷の2軒分の商家建築からなる仲松屋がある。 |
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宿場通りをさらに進むと右側に、とてもおんぼろな3階建土蔵。 現物ではそうも感じなかったが、写真で見るといかにもみすぼらしい姿。 その先の旧田中銀行前バス停前に、洋風建築の名残がある旧田中銀行社屋(写真右中)がある。 明治30年代後半に勝沼郵便局として建てられ、大正9年より昭和7年まで山梨田中銀行として利用された。 さらに先には一見新しい土蔵があるが、よく見ると古い土蔵に外装を張りなおし住居にして利用している。 勝沼には本当に土蔵が多い。 勝沼の土蔵は、火災時の延焼防止の機能を果たすために作られている、という説もある。 |
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宿場通りは笹子峠から延々と続く坂道で、宿場のはずれあたりにくると傾斜が急になる。 坂の途中の右側に海抜四00m標柱(写真左)と並んでようあん坂碑(写真左)がある。 勝沼宿内で最も急な坂ということで、後ろを振り返って見る坂は確かに急である。 名の由来は、用有と呼び止めたことからとも、天野養庵の家が近くにあったためとも伝えられている。 その先の工場への入口道路の左側に、明治天皇勝沼行在所碑がある。 また奧のフエンス前には勝沼学校門柱が残っていて、この工場は勝沼学校の跡地。 |
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急な坂道をおり勝沼小学校入口信号を横断して34号線を進み、勝沼役場入口信号を直進する。 周囲からは宿場的雰囲気が消えるころ、右手奧に等々力神社、なんとなく武家屋敷風の塀の囲。 |
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そろそろ勝沼とお別れと思ったら、まだ勝沼で重要なぶどう園を紹介していないことに気がつき、 とりあえず道路沿いにあるぶどう園の写真を撮らせていただいた。 さらに進んで行くと、右側に常夜燈。どもうみてもこの常夜燈は、立派な石で下部を継ぎ足したもの。 後世のために残していただいたと理解し、感謝。 |
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等々力信号交差点についたときは、右足が動かないため殆ど歩けない状態。 この交差点あたりが宿場はずれで、高札場があったという。 旧甲州街道は信号を直進しここからは411号線を進む。 横断したとろろにバス停があり、偶然石和温泉駅を通過するバス後から追いかけてきてくれた! 今日は、もはやこれまで。時は12:19. 以降は次回とし、JR石和温泉駅から横浜へ。 |
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