歩く 甲州街道
 韮崎宿 → 教来石宿
 (山梨県韮崎市)  (山梨県北杜市)
iー愛ロマンチカ
    
2005.10.3前日宿泊した甲府市湯村温泉を早朝出発し、昨日の赤坂稲荷神社を8:05に歩き始めた。
スタートしたときは空は青く、朝の新鮮な空気がとても美味に感じられ幸せ一杯であった。
旧甲州街道は、もともと道案内板が少ないが
この区間は特に分りにくいくい分岐点が多く、道に迷い右往左往して探すことが多々あった。
参考にしている国土交通省の5万分1甲州街道経路図から、小道の分岐点を見つけるのはとても難しい。

やはり要所には、案内板が必須である。
     
基本的な経路
一般道→県道6号線→一般道→6号線(韮崎宿)6号線→国道20号線→一般道→20号線(穴山橋)一般道
20号線一般道(台ケ原宿)一般道←農道←20号線←一般道←20号線←一般道←20号線(北杜市)20号線
   (神宮川)一般道→20号線(教来石宿)→一般道→20号線→一般道
    
2005.10.3、昨日歩いた赤坂稲荷神社からゆるい坂道を600mほど登り、
右側の「
源泉100%かけ流しの湯湯めみの丘」文字のイヤに目だつ看板の脇を通り、
正面に見えるホテルの建物に向かって進む。

   
先ほどのホテルは、丁字路信号の手前の右側にありまさにラブホテル(写真右)で、
この入口のところには赤坂の道標があるはずと、あやしくうろうろ探したが所在不明。
道の反対側には、「
下今井(横町) ここから双葉町」標識があるが、横町と双葉町の関係不明。
ここから甲斐市の、竜王新町から下今井へ入る。
その看板のすぐ前の細い道角には、傾いた
二十三夜塔(写真左)が必死に生きている。ものの哀れ。
   
ホテルを過ぎると丁字路(写真左)で、手前の右角はセブンイレブンの大きな駐車場になっている。
ここには三軒茶屋跡があることになっているが、影も形も見当たらず。
丁字路の右からくる新道の工事でこの辺りはきれいに整備されてしまったようである。
旧甲州街道は直進し、その先の
2つに分かれる道(写真右)で左手に入り、ゆるい下りの坂(写真中)を進む。
   
左側になまこ壁土蔵を見ながら、道なりに下り左折する。
   
坂の途中で左側に庚申供養碑を見ながら、さらに下る
   
下りきった丁字路(写真中)の左角に、庚申塔の道標が新旧2基並んでいる。
右の傾いた塔には、「右市川駿(河) 左甲府江(戸)」と刻まれていて、
(( )内は地面に隠れている文字で推定)
ここが、甲州街道と市川駿河へ向かう分岐点であることを示している。
旧甲州街道は右折して、ゆるい
上り坂(写真右)を進む。
   
坂の両側になまこ壁建物など古い家並みが続く道を、昔の風情を感じながら歩く。
   
やがて道は下り坂となり下今井(上町)標識あたりで、前方に中部横断道高架(写真左)が見えてくる。
その先の
下今井上町信号丁字路で右からの県道6号線と合流して直進し、中部横断道高架下を進む。
前方に
JR中央線のガード(写真右)が見えるが、旧甲州街道は工事中の右側の歩道を進み、
   
歩行者用ガード(写真左)を潜る。
ガードを出るとこのとき道路工事中で、地形が変わりとても分り難い道順となっていたが、
そのまま前方に進み
下今井信号手前(写真中)で右折し、JR中央線沿いの県道6号線を進む。
ちなみに下今井信号を直進すると、現在の甲州街道
(国道20号線)に出ることになる。
   
ガード下から約300mほどのところの坊沢川手前で、6号線は左へゆるいカーブとなる。
カーブの右側に、高さ3.7m、巾2.7m、奥行3.7mの柵に囲まれた大きな
泣石がある。
1582年(天正10)、高遠城が落城したため、武田勝頼が新府韮崎城に自ら放火して落のびる途中、
勝頼の妻がこの地で燃える城を振り返り落涙したという言い伝えのある岩で、
鉄道開通まで岩の中央部から水が流れていた。
その先でJR中央線塩崎駅を右手に見ながら、山並にかかる雲ののどかな
田園風景を楽しみつつ、
下今井から
志田(下志田)に入る。
  
志田に入ると右側に、寛政年間(1790年代)建立の三界萬霊塔とその左手に二十二夜塔
その先の左側に
なまこ壁旧家などを見ながら進み、上志田に入る。
この辺りに一里塚があったようであるが、今はその形跡は全く見当たらない。
なお三界萬霊塔は、「三界」は過去・現在・未来を意味し、世に生を受けたもの全ての霊を供養するもの。

   
ほぼ直線の道を北西へ進み、宇津谷(東部)に入ると、すぐ左側に社に収められた道祖神がある。
さらに進み六反川を渡り、左手に
国道20号線架橋を見ながら先に進む。
   
田畑信号十字路(写真左)で、迷うところであるが6号線と分れ右折してゆるい坂道を登る。
やがて
宇津谷(金剛地)標識で、道を間違えていないことに安心する。
   
だらだら坂を500mほど登り切り、丁字路手前の青色小屋写真右)で左折する。
2基並んだ
二十三夜塔の前を通り、数十m先の丁字路(写真左)でまた左折して、
  
Uターンし今度は坂道(写真左)を下る。
Uターンするくらいならここまで登りきらないで途中でショートパスしたらよいと思うが、それは現代のこと。
道なりに坂道を下り、突き当たりを右折してゆるい坂道を上る。
右折して100mほどのところで
道は2つに分れる(写真中)が、道標がないのでここでも迷う。
右は金剛寺へ通じ、旧甲州街道は左手の平坦な道を進む。
150mほど進み
下りの急坂の突き当たりの丁字路で、県道6号線と再び合流して、右折する。
    
6号線を150mほど進み、塩川にかかる塩川橋(写真左)を右手にJR中央線鉄橋を見ながら渡る。
韮崎宿:甲府街道と富士川水系の水運の、2つの経済道をもち物資の集散地として発展した。
     地名の由来は、信州の蔦木まで約28kmに渡り続く七里岩が韮の葉に似て細長く、
     その先端であるので韮崎とつけられたといわれている。 本陣1軒、旅籠18軒

   
橋を渡ると塩川橋西詰信号の手前左側に、韮崎市境界標識(写真左)が立っている。
これより甲斐市から韮崎市となり、韮崎宿に向かう。
信号から6号線は右折し、すぐ左折して
JR中央線沿いに時折後へ走り去る電車を右側に見て、進む。
   
淡々と進み、見延道との合流点の下宿信号交差点(写真左)を直進する。
下宿」は、「しもじゅく」と呼び、この辺りから
韮崎宿へ入るようである。
宿場を走る6号線はとてもきれいに整備され、気持ちのよい通りである。
この日は「武田の里まつり 武田勝頼公新府入城祭」の
紫の幟が、街路樹にたてられていた。
韮崎は武田家発祥の地で、甲斐武田氏の守護神の武田八幡宮や、
武田勝頼が真田昌幸に命じて築城した新府韮崎城があったところ。

   
宿場通り中ごろの右側の千野眼科医院前に、平成5年建立の韮崎本陣の跡碑が建っている。
医院手前の
横道(写真中)の突当りにある茶色の門構の公園に、一橋陣屋址碑が立っている。
吉宗の第4子宗尹が開いた一橋家の陣屋で、租税、訴訟、断獄などの民政を行ったところ。

   
宿場通りに戻り先に進み、本町信号丁字路に出る。
丁字路右角の上田商店の片隅に、郵便ポストに隠れて全く目立たない
馬つなぎ石がある。
丁字路を右折すると、JR韮崎駅に行く。

   
信号を直進し、右側の窟観音石碑の立つ参道を進み雲岸寺に立ち寄る。
本堂の右手の岩崖絶壁の中段に、岩壁に張り出したお堂がある。
ここは
窟観音と言われ、僧空海が観音石仏を洞くつに安置したのが始まりという。
聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか数知れない石仏が安置されている。

   
宿場通りに戻り右折し、すぐ左側の文化村公園に小林一三翁生家跡碑がある。
小林一三は韮崎の豪商でかつ大地主で、阪急グループの創始者で知られている。
宿場通りの右側には、窟観音あたりから始まる
七里岩と呼ばれている険しい丘陵が延々と続く。
七里岩ラインと呼ばれる通りをしばらく進み、村松石材店を過ぎたところで
道は二つに分かれる。
ここで七里岩ラインと別れて、左手の道を進む

   
この辺りの地名は水神といい、道はとてもよく整備されていてまだ新しい。
進んで上野電子手前の右側の石垣の上に
行人塚があるが、小さすぎて見落としてしまった。
結局は数人の住民の方に尋ねてようやくわかり、引き返してお参りをさせてもらう。

    
さらに進み、国道20号線と合流する手前左側の3角地帯に、上宿の水神宮碑が立っている。
この辺りまでが、宿場だったのではないかとう思う。
信号を直進して左からの国道20号線と合流し、
直線的な道を北西へ進む。
   
トラックが激しく行き交う一ツ谷の平坦な20号線を700mほど進むと、
右側の公民舘敷地に
寛政年間の庚申塔や寛永年間の石仏群が、ひっそりと並んで立っている。
さらにその先100mほどの右側道角に
秋葉大権現常夜燈が、大切にされて立っている。
   
さらに300m先で道は2つに分れ、20号線と別れ右手の細い道を右方に七里岩を見ながら進む。
分かれ道の三角地帯には、
水難供養塔が建立されている。
こんなところで水難とは、と思うが、20号線の左側を流れる釜無川の氾濫で悩まされていたのであろう。
   
この辺りは下祖母石(しもうばいし)という珍しい地名で、なめこ壁建物の並ぶ道を進み、
20号線と分かれて約1.3kmの左側に、
神明宮がある。
   
さらに100mほど先の火のみ櫓の道路の反対側に、
「南無阿弥陀仏」と刻まれ表面が赤く塗られている、
赤地蔵が立っている。
進むと、古くて由緒あるのか単に手入れが悪いのか
判断に苦しむ建物がある。
    
やがて道は国道20号線沿いにゆるく右へカーブするが、その手前の右側に
道祖神などまだ新しい5基の神々の
石碑がカギ型に並んでいるが、さてなんだろう。
一旦20号線に出て、また20号線の
側道へ下りて進む。
   
道は20号線から離れ、全くのどかな田園の真ん中を進む。
右手の七里岩の中腹に
大きな穴がポッカリ、その左下の岩の上に白い鳥居があり、
必ず何か伝説があるはずだが、不明。

   
祖母石地内を約1.6km進み国道20号線に出て合流し、空に浮かんだ白い雲目指して北へ向かう。
右手の丘陵に武田家最後の居城の
新府韮崎城があったが、現在は本丸跡に藤武稲荷神社がある。
と、右側の草むらの中に、突如まだ新しい
川魚供養と刻まれた石碑が現われる。
特に目立つ川の流れもないのに、どこでそんなに沢山の魚を獲ってしまったのであろうか。

   
左側にやさしい姿の観音像と取り囲んで多数の仏像。何故か観音様を拝見すると心が癒されます。
穴山三軒屋バス停を過ぎて、eneosガソリンスタンドのところの丁字路を左に進み、穴山橋を渡る。
   
釜無川にかかる穴山橋(写真中)はタテとヨコに立体的なカーブを描いた橋で、
正面には多分南アルプスの山々、下方は複数の中洲のある
釜無川の流れと七里岩の肌
渡り切り、正面の
円野町横断歩道橋(写真左)の下を潜り4差路を右折して、20号線を進む。
   
すぐ穴山橋バス停を通り、その先の2つに分れた道で20号線と別れ、右に進む。
全く人通りのないのどかなゆるい
坂道を上り、北へ向う。
   
しばらく進み、左手の小路の角に「徳島翁のおはかみち」と刻まれた石碑がある。
徳島兵左衛門は、私財を投じて日本3大堰の一つといわれる釜無川からの用水路を最初に開削した地元の人。

なまこ壁建物
などもあり、ちょっとした風情を感じさせる通りをさらに進み、
20号線と別れて約1kmで、上円井信号丁字路で再度
20号線と合流する。
  
旧甲州街道は合流点の上円井信号から20号線の右手方向(→)(写真左)であるが、
現在は道が消滅しているのでそのまま20号線を進む。
たわわな柿木の下を潜り、路傍の花を愛でルンルン気分で北へ向かう。
   
小武川にかかる小武川橋を渡ると、左側に北杜市境界標識があり、韮崎市から北杜市に入り、進む。
   
橋から550mほどのところで、20号線は左へゆるいカーブ(写真左)を描く。
そのカーブ地点に右から合流する、
細い舗装道が上円井信号で消滅した旧甲州街道である。
合流して進み、前方の建物のところで
道は2つに分かれ、旧甲州街道は20号線と別れ右手を進む。
   
ひっそりとした道に武川村牧原の標識が立っている。
200mほど進み、右手からの道が合流する地点に、
2基の石碑がありどちらかが庚申塔。
こんな草ぼうぼうの石碑などは初めての経験で、要するに史蹟に対する住民の関心が薄いということ。

    
やがてはっと思わせる武家屋敷のような建物が散在する集落を進む。
中ほどの右手の民家の敷地に立派な
題目碑がある。
道は再び
20号線と合流し、右折する。
   
合流点の横断歩道橋の上で、右の道が旧甲州街道であるが先で道が消滅しているので
左の20号線を進む。
横断歩道橋を渡り民家の角に、大きな
萬霊塔が立っている。
   
20号線を進み、牧原信号交差点を過ぎて大武川にかかる大武橋を渡る。
橋を渡ると武川町下三吹となり、その辺りで旧甲州街道と合流すると思われる。
20号線は北西に向かい、新光合成工場を過ぎたあたりに、
東京から161kmの標識
   
先に進み、前方の上三吹信号十字路(写真左)
20号線と別れて右折し、
武川村三吹(上三吹)標識が立っているゆるい坂道を上り、進む。
時は、15:30頃。
青空も疲れたのかこの頃になると殆ど姿を見せず、灰色の空の下の閑静な住宅の中を進む。

   
上三吹信号から500mほどの右側に、最近整備されたような休憩所が何故か現われる。
不思議に思っているとそのすぐ先に、これも新しい
旧甲州街道1里塚跡碑が立っていて、
この休憩所は、当時旅人が疲れを癒したを模して作ったものと、合点。
さてと、休憩所から見る景色は遠くに山並、そして目の前を流れる尾白川。
左手前方には、
尾白川にかかる橋があり、そこを渡ると台ケ原宿に入る。
なお、一里塚碑には、「甲府ヨリ7里ナノデ、七里塚トモ云ウ」と記されている。
当然のことであるが、江戸日本橋からではなく、地元である甲府から数えている。

   
約100m進み突き当たりで再び20号線と合流し右折して、
100mほどで尾白川にかかる
尾白川橋を渡って、進む。
   
橋からさらに100mほどのところで、右側の釜無川を渡ってくる道と合流する丁字路(写真右)がある。
旅人は必ず20号線を右側通行で歩いてくるので、
史蹟を見る都合上、この丁字路を横断し、すぐ左折して20号線の横断歩道を渡り、
反対側に出て右折して、20号線の坂道を上り、進んでしまう。
いくら行っても史蹟が見当たらず、ようやく雑草かりをしていた地元の人に尋ね、道に迷ったことが分る。
旧街道は20号線を横断したら、左折して前方に見える「
そば うどん めし看板(写真中)から右折する。
確かに看板の脇には、これが
街道と思えない農道(?)がある。
私のような道順を辿ってくる旅人には、この旧街道に絶対にたどりつけない。
せめて丁字路のどこかに、案内板が欲しい。
全く人気のない坂道で、遠くで雑草刈していた年配の地元の人に偶然出会えた幸せをかみしめた。
ただ20号線をこのまま行っても、いずれは台ケ原宿にはたどり着く。

   
旧街道の農道(写真左)は定かな道筋ではなく、なんとなく道らしいところを歩く。
当時は大名行列が通った街道であるから、当然これより格段に立派な道であったはず。
100mほどの右に大小3基の
馬頭観音像の道標があり、左手にその説明板が立っている。
   
私はこういうような人の気配のしないところを、1人で歩くのはなんとも気味悪く、恐い。
いつものことながら、情けなくこんな臆病者は旅する資格があるのだろうか、と思ってしまう。
早く抜けるべく、おびえながら一目散に前へまえへと、急ぐ。
道は2つに分れ(写真左)、案内板がないので右手の坂道を登り、
ふと右の足元に
小さな野仏像を見つけこれが街道の証と確信して進む。
突然、不似合いな
青いシートが現われる。
   
そして左側に、何の説明もなく金網で囲まれて無造作に転がっている巨大な石
察するに、これが
横山の供養塔というのではないだろうか?
田畑の道小川沿の道を進み、左側に橋がかかっているところで舗装道となり、進む。
(小川に沿って歩いたところで、デジカメの電池が予備を含めて完全になくなり、
この日の撮影はここで終了)
この日は、台ケ原宿の梅屋旅館に宿泊する。

   
台ケ原宿 江戸から40番目の宿場で、約170km。宿場は東西約1km(九町半)。本陣1、旅籠14軒。
甲州街道設立以前から交通集落の機能を果たし、1618年(元和4)に甲州街道宿場に指定され整備された。
現在でも造り酒屋、旅籠、商家などが昔ながらのたたずまいで街道の風情を伝えている宿場。

    
翌朝(10月4日)、昨日写真撮影ができなかった地点に6:10について、朝食前に一仕事。
小雨の降る薄暗い中、昨日の道に戻り、舗装道路を進み
20号線に出る
出口の右角に「
古道入口が立ち、ここから昨日歩いた食堂看板までの間は、
甲州街道が開設される前からある古い道で、「はらぢみち」とも呼ばれていた。

   
20号線に出るとすぐ左手で道は2つに分れ、20号線と別れ右の道を進む。
分かれ道の三角地に、「
日本の道百選 甲州街道 台ケ原宿案内板
この辺りから
台ケ原宿通りとなるのであろう、
通りに入るとすぐ左側の一角に、
常夜燈、道祖神、野仏像に混じり右端に男根らしき巨大な石物。
   
直線の宿場通りの両側には、当時の風情を残すなまこ壁などの旧家が多数ある。
通りの中ほどの丁字路の右角に旅人、人足、伝馬などが休憩した
立場址説明板(写真右)がある。
丁字路を左折して左側に「
台ケ原宿説明板と右脇に名水の水飲み場がある。
   
元の宿場通りに戻り十字路を進むと右側に、
大きな1867年
(慶應3)建立秋葉山大権現常夜燈とその右脇に台ケ原本陣屋敷跡碑がある。
その先の右の小路の角に、生産物を備蓄していた
郷倉跡と高札場跡の説明板が立っている。
   
さらに進み左側の民家の塀に問屋場跡説明板、その先に当時のたたずまいの和菓子の金精軒
道の反対側には250年の歴史をもつ造り酒屋の
北原家の当時のままの建物(写真右)があり、
看板の「七賢」は山梨銘醸株式会社の銘柄。

   
これはと思わせる塀を構えた屋敷前を通り、右の石垣上に明治24年開庁された登記所跡説明板(写真右)
続いて、京都宇治新茶を茶壷に入れて将軍家に運ぶ、お茶壷道中ゆかりの
田中荒尾神社
    

また続いて、修験智挙寺跡の説明板(写真左)
すぐ先の右側の旅館松坂屋前に江戸から43里10町余の
旧甲州街道一里塚跡碑が立っている。
    

その先で北杜市白州町の台ケ原から白須下に入り少し進み、左側に当時の「つるや旅館」がある。
あいにく宿泊を断られてしまったが、建物は増築されていて手前が当時の旅籠の建物のようである。
ただ外壁、屋根とも現代のボードで覆われているので、ちょっと味気ない。
ここで6:50。
宿泊した旅館は、つるや旅館と道を挟んで反対側の梅屋旅館。
朝食後、思いで多い旅館を8:00に出発出発して小雨降る中を宿場通りを西へ進む。
すぐ先の
ベージュ色の建物のところで、道は2つに分かれ、直進するのは20号線に合流する道で、
旧甲州街道は建物の前に立っている
白州小学校への→に従い右折する。
台ケ原宿は、この辺りで終わりとなる。
約1kmの台ケ原宿場は当時の風情を残して、よく整備されていると思う。

   
全く人通りのない、白須上のゆるい下り坂の道を、白州小学校前を通り西北へ進み、
急坂(写真左中)途中の右側の題目碑を見て下り、朝もやのかかる景色の中をゆるいのぼり坂の道を進む。
   
前沢に入りさらに延々と道なりに進み、前沢上信号丁字路で20号線と合流し、
右折して神宮川にかかる
にごり川橋を渡る。
   
20号線を西北へ進み、すぐ先のビア樽の上のサントリー工場看板の前を通り、
前沢バス停の先で、
道は2つに分かれる
20号線と別れ、右の道を進み白州町島原の
松原地内を行く。
   
小川のある十字路の左側に大きな常夜燈
道はゆるい下り坂となり
荒田標識の手前の左側に、石仏と一緒に大きな常夜燈
   
20号線の左側を平行に走っている道を進み、十字路を横断してゆるい坂道を上る。
上り口の左側に、「
田舎暮らし情報舘立看板と奧に寄集め材で作ったような門と建物
この看板は、周辺の情報を提供するという不動産会社のPR。
横看板によると、建物は「
」という茶どころと、「アクセル」というリサイクルショップという。合点。
教来石宿:「キョウライシ」と呼び、国の境を清める「清ら石」の祭祀が宿名の語源と伝えられている。
       口留番所「山口の関所」が置かれ、信濃と甲州の国境としての役割を果たした。

    
流川にかかる流川橋を渡りなりに左折して150mほど進み、
下教来石信号で20号線と合流して右折する。
この辺りは北杜市白州町下教来石で、この20号線沿いが
教来石宿場通りで本陣があったというが、
現在は史蹟などの標識など全くないので詳細不明。
約150m行き、
郵便局の角で20号線と別れ右折する。
   
ゆるい下り坂を進み、道なりに左折(写真左)する。
高台にある
平坦道を進み、右手下方には民のカマドの煙が立ちこめるような気分のする風景が続く。
   
左側に、本殿が1844年(天保15)に再建され江戸後期の社寺建築の動向をよく伝えている諏訪神社がある。
神社を過ぎると急な下り坂道となり、そして平坦な
のどかな道を進み上教来石地区に入る。
加久保沢橋を渡り、道なりに北西へ進み
上教来石標識の立つ20号線に出て右折して進む。
   
路傍の左側に釈迦像など古い石像が多数並ぶ20号線を100mほど進み、
道が2つに分れ20号線と別れて右の道を進む。
その3角地帯には、またのお越しをおまちしている「
清流と緑のふるさと白州歓迎塔が立っている。
   
朝から曇天、せめて路傍のピンクを愛でながら進み、なにやら家紋が目立つ旧家を通り過ぎ、
犬目沢橋あたりから
下り坂となる。
  
坂を下りきった右側に甲州24ヵ所口留番所の1つの山口の関所跡碑(写真中)が建っている。
1546年(天文10)武田信玄が伊那進攻時に設けられたと伝えられ、
1836年(天保7)百姓一揆の時、、防がないで開門した罪で番士が解職されたという記録がある。
道を挟んで左側に
西番所跡碑(写真右)があり、その一揆で解職された番士の1人の
「名取慶助がその後若尾に改姓した」と刻み、子孫の若尾法昭氏がお知らせしている。
石碑まで建立して改姓のお知らとは、失礼ながらそのお気持ちはかりかねるところがあります。

  
田園風景の中、は真直ぐ西へ向かう。
ちなみに地形的には、左手の国道20号線、右手の釜無川に挟まれた道を進んでいる。
    
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旅と旅行と