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2005.10.4教来石宿を経て、釜無川の国界橋で長野県に入った。 この日は朝から小雨がぱらつくなどで天気はよくなかったが、 夕方になると強風雨となり、また道を間違えたりして散々な目にあった。 ただ救う神もありで、びしょ濡れで1人歩く私を車で駅まで送ってくれる美人が現われるのであった。 翌5日に間違えた道に戻り、この日は朝から雨。 甲州街道は、旧道の案内標識が皆無に等しく、度々路頭に迷い旅人泣かせ。 |
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基本的経路 | ||||||||
一般道→(釜無川)(長野県)20号線→一般道(蔦木宿)20号線→一般道→20号線→農道→20号線(立場川) | ||||||||
20号線(金沢宿)20号線←一般道(御射山神戸一里塚)一般道←20号線←一般道(重修一里塚)一般道← | ||||||||
→農道→20号線→一般道→県道197号線→20号線(弓振川) |
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山口の関所跡から田畑の道を約500m歩き、国道20号線(写真右)に出る。 20号線の右手は、目の前に釜無川にかかる国界橋がある。 国交省の5万分1の街道地図では、 旧街道はこの20号線を横断して正面に見える事務所建物(写真右)の左側を直進する経路になっている。 ところが現場は、そこは事務所の敷地となっていて道などは存在しない。 ちなみに、他のいくつかの地図でも確かに道は存在することになっている。 旅人には詮索など必要なしと、事務所の脇を不法侵入して進む。 なお20号線の横断するとすぐ左側のセブンイレブンの前に この地の出身の山口素堂の作「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」巨大石碑が建っている。 |
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奧へ進むと草むらに続く道(写真左)があり、輪達の跡がかすかに残る道を釜無川沿に歩く。 数分歩き右側の小さな小屋の先で右折すると橋があり、そこに柵がされていて通行禁止。 要するに釜無川にかかる旧道の橋はこのとき通行禁止となっていた。 |
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もとの20号線に戻り国界橋(写真左)を渡ることになるが、ここに2つの標識があるので迷う。 1つは、「釜無川」と書かれた標識と橋の欄干の柱に刻まれた「国界橋」、 他の1つは、「富士川 新国界橋」と書かれた白い標識。 この詮索もナシにして橋を渡り切ると、長野県富士見町標識(写真中)が立っている。 国境橋は、甲州(山梨県)と信州(長野県)の国境にかかる橋。 道なりに左折して進み、下蔦木信号丁字路の左手には、 |
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金網柵で閉ざされた橋(写真左)があり、これが対岸で通行止めになっていた旧道の橋である。 その先で右側の坂道(写真中)を登り、20号線と別れる。 坂道を登るとすぐ右へカーブし、そのコーナーの右側に多数の石仏像が並ぶ最手前に、 日蓮が三日三晩立って説法したという「日蓮の高座石」碑(写真右)があるが、どの石を指すのか不明。 |
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さらに急な坂(写真左)を直進し、下蔦木集落センター前の「731m」標高標柱を確認して進む。 |
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真福寺角(写真左)で道は2つに分れるので、左を進み鐘楼のある山門前を通り、 次の角を右折して寺院脇を進み、次の分れ道を左折する。 |
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この辺りから野原の中の道となり、またところどころで分かれ道がある。 案内標識もないので何度も道に迷ったのではないかと不安になるが、 常に左手下を走っているはずの20号線から離れないように、分かれ道で左折しながら進むのが旧街道。 しばらく行くと道は下りとなり、右側に諏訪郡では最古の約600年前の「応安の古碑」群が現われる。 |
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下り坂は段々急になり、20号線を左下に見て進み、人家が現われたところの用水路を渡ると、 左角に何故か多数の常夜燈が立っている。 |
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蔦木宿:江戸から43番目の宿駅として、1611年(慶長16)に新しい土地に計画的に作られたもので、外から直接見通せないように北と南の入口にそれぞれ桝形道を設置し、侵入者が直進するのを妨げ安全防備を図った。 なお宿場は1702年(元禄15)以来計6度の大火で多くの建物が焼失している。 |
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その先の半鐘櫓のある丁字路(写真左)の右手前に、 道路の改良工事で宿場南口の桝形道路の位置を北へ10mほど変更したことの記録碑がある。 この辺りから蔦木宿に入る。 丁字路を左折し、改良工事で造成した道(写真右)を進み、20号線に出て右折する。 |
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真直ぐな20号線は宿場通りで、左側の郵便局には「甲州街道蔦木宿 白木屋」屋号表札、 その先の右側には三光寺の参道。 |
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左側には、なんとなく昔の宿場の雰囲気が漂う家並。 右側には、立派な常夜燈の十五社大明神。 |
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さらに進み上蔦木信号丁字路を越えた右角に、蔦木宿本陣跡碑と江戸末期建築の本陣表門がある。 |
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さらに進み、蔦木口バス停の先の丁字路入口に宿場北口の桝形道址碑(写真中)があり、 ここを左折して進み、分かれ道(写真左)で右折して道なりに歩く。 この辺りで宿場通りは終わり。 |
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数分で20号線に合流(写真右)して、左折して西北へ進む(写真中、左)。 |
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20号線は左へゆるくカーブ(写真左)するが、旧道は左手を直線的にバイパスするようになっているという。 ただその位置が現地であちこち探したが、案内標識もなく不明。 たまたま左側へ分れる下り道(写真左)があったので、勝手にここと決めて進み 野原の一本道(写真中)をただただ歩いて右側に庚申塔などのあるところで、20号線と合流して左折する。 |
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このところには神代バス停があり、その先の左手の釜無川にかかる諸水橋(写真左)で、 橋の右前方に「塩沢温泉」看板(写真左)が見える。 釜無川が山梨県と長野県(富士見町)の県境で、川向こうの塩沢温泉は山梨県北杜市となる。 なお塩沢は「鉱泉」のはずで、温泉の文字は誤解を受けるのではないだろうか? 20号線を進み、東京より176km標識を通り越す。 |
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20号線を約1km進み、 左手に下る道の入口角に「金山彦命」などと刻まれた大小の石碑や石仏が多数ある。 |
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さらに20号線を進み、「机」という珍しい地名を通り、石碑から800mほどの瀬沢大橋信号(写真右)の先で 釜無川支流の立場川を渡り(写真中)、すぐ左折して川沿いに下る。 橋の左手には、これから進む旧道(写真左)が見える。 |
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川沿いに進み、道なりに右へカーブ(写真左)して突き当たり(写真中)で右折して、ゆるい上り坂を進む。 |
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左側に1842年(天保13)建立の常夜燈、その先の丁字路角(写真右中)の富士への道標(写真右)、 さらに先の丁字路の左側の石垣のところに供養塔、「左すマ屋 右山浦」道標など(写真左中)、 当時の街道の足跡が確かに残っている。 |
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その先で道は2つに分れ、左折して坂を下り小川にかかる橋(写真左)を渡り、坂道を上る。 突当たりで道なりに右折して高台を進み(写真左中)、左下方に20号線を眺め、路傍に野仏像なども見る。 |
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右手のしらかば園を過ぎ、「坂本」看板辺りから下り坂となり、丁字路(写真左中)を直進して下り続ける。 用水路の橋(写真右中)を渡ると、今度は登り坂となり進み、 上りきってとちの木集落の道を道なりなりに進む。 |
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しばらく進むと右側に鳥居(写真左)が見えるが、どうも廃墟となった神社の名残のようである。 境内前道路には、こういうところでもというとても目立つ歩行者優先看板。 境内の外れに、焼け跡の煤で汚れたような黒ずんだ石柱や道祖神などがあるが、 もしかしたら神社は火事で焼失したのかも知れない。 |
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さらに進み、右側に野仏群、 その先右側に「富士見町上水道」、「第一減圧増」とそれぞれ刻まれた門柱と柵。 遠くに見える山並と近くの畑、点在する家、家。 |
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曇り空の下を歩き、右側の民家の敷地の大きな木の下(写真左中)に、 道祖神(写真右中)と従江戸四七里と刻まれた重修一里塚跡碑(写真右)が並んで立っている。 また敷地に一角に「950m」標高標柱があり、この辺りが一番高そうに見えたが・・・。 |
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その先で丁字路(写真右)となり、本来の旧道は直進するが現在は企業の敷地で道はない。 右折すると20号線の富士見信号交差点に出るが、ここでは左折(写真右中)して敷地を迂回する。 100mほど進み、敷地の角から右折して敷地沿砂利道(写真左中、左)を道なりに延々と約1km歩く。 |
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道は「ここは富士見町 原の茶屋」立看板(写真右、中)から左折して進み、 中部電力富士見変電所前を通り、富士見公園前の舗装道路を横断(写真左)して直進する。 なおこの舗装道路を右折して進むと、20号線「富士見峠」信号交差点に出る。 |
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舗装された道に入ると右側の原の茶屋公民館の敷地に、 「961m」標高標柱でいつの間にか重修一里塚跡の標高より高くなっているが、感覚的には逆。 その先に明治天皇御膳水碑があり、パイプから水がチョロチョロ。隣に立派な常夜燈。 |
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道はゆるい坂道となり、2つに分れたところ(写真左)の右の道を真直ぐ進み、 さらに300mほどのカゴメ工場角の十字路を直進し、左の道端には小さな供養碑が草むらから顔を出す。 道なりに歩き、2つに分れるところ(写真右)では左の道を直進する。 |
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その先の左手の斜面に野仏像や石碑(写真左)が無数に並んでいるが歴史的価値は如何に。 道は右にカーブして坂道を下り、左側に「庚申」塔、「千庚白」碑、「筆塚碑」と並んでいるのが珍しい。 さらに下り20号線に合流する手前右に大きな「富蔵山」碑。富士山のことだと思う。 |
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20号線に出て左折して進み、神戸八幡信号交差点を通り20号線を約750m進んだENEOSスタンド前で、 20号線と別れ斜め左の道に入る。 |
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道の入口右角(写真左)に目印となる大きな馬頭観音碑(写真中)が立っているので分りやすい。 道は急な上り坂となり、右側に供養塔、馬頭観音、仏像などの混合群。 ちょうどこの頃雨がポツリと降る始め、なんとなく本降りになりそうはイヤな予感。 |
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坂を登り切って進むと、江戸から48番目の御射山神戸一里塚が道の両側にある。 西塚(写真左)は、甲州街道で唯一塚とケヤキが当時のものが保存されているもので、 ケヤキは樹齢約380年、幹周囲6.9m、樹高約25mの巨木。 東塚(写真右)のエノキは明治初期に枯れてしまっている。 一里塚碑の脇の標高標柱は「917m」(写真中)で、段々下界に下りて来ている。 |
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道なりに進み、2つに分れる(写真左)ところでは右のKプラスチック工場脇の道を直進する。 富士見ハウス看板(写真左中)前を直進し、道は下り坂となり雍壁脇を道なりに進み(写真右中)、 途中で富士見町から茅野市へ入る。 その先のテニスコート専用駐車場の外れで丁字路(写真右)となる。 旧甲州街道はそのまま直進するが、 大岩が簡単に揺れる不思議から道中の名物であったと伝えられる「ゆるぎ石」を見るため、 丁字路を右折して少し進む。 |
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ゆるぎ石は道の左側の、20号線へ下る急斜面の畑(写真中)の中にあり、上からも下からも近づけない。 ゆるぎ石に近づくには、道脇の小屋の中を通って畑を下る方法しかない。 たまたま近くにいた近所の人が、下の方にいた畑の地主と掛け合ったくれて、 運良く畑を下りてゆるぎ石を見ることができた。 ゆるぎ石という表示もなく、ただ素朴な巨大な岩がデンと座っているだけで、本当にこれが動いた? 私の場合はとても運がよかったが、何の案内表示もなく、民家の畑の中の、 それも容易に近づけないところにあるゆるぎ石を、旅人は見つけることができるのであろうか? はなはだ疑問である。 それにこの畑の地主さんは、ゆるぎ石を観光用にしようなどとは全然思っておられない様子であった。 |
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もとの丁字路に戻り、旧道(写真左)を進み、集落に入ると左道端に小さな野仏像がしっかり立っている。 道は20号線と合流(写真右)し、左折して進む。 |
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金沢宿:当初は現在地から北西よりの青柳宿であったが、度重なる宮川の氾濫や1650年(慶安3)の大火で現在地に移転し、翌年金沢宿と宿名を改めた。 宿場は山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通じる分岐点として、公通上、物資流通上重要な所であった また芝居小屋や美人女性がいる茶屋などで賑わったという。 |
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20号線を300mほど進むと金沢上町に入り、この辺から金沢宿に入るのではないだろうか。 その先の金沢信号丁字路を横断した左角の花畑の中に、金沢宿本陣跡立札がある。 |
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横断して1軒先の左側に、明治まで茶屋として営業をしていた近江屋の建物(写真左)がある。 ここは蓮宇格子や木鼻の彫刻など江戸後期のたたずまいを残している。 その先に、近江屋に劣らないほど古そうな建物(写真右)があるが、 袖看板に「旅館 HOTEL 松阪屋」(写真中)と英語を使っているところをみると、 そんなに歴史ある建物ではないのかもしれないが、これが昔のホテルであったかと思うと一興あり。 |
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20号線を進み、宮川にかかる金沢橋(写真左)の手前右の駐車場のフエンスに面して、 仏像や石碑など(写真中)が十数基も並び、何かの供養碑かも知れない。 金沢宿場は多分この宮川までと思う。 金沢橋を渡り、少し先の矢ノ口信号丁字路を直進する。 |
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信号を横断し右角に、権現神社鳥居と「権現の森」碑が並んで立っている。 参道正面には1654年(承応3)建立の石祠などがあり、 森は信仰の場として、憩いの場として今も江戸時代の名残をとどめているという。 その先で20号線と別れ、左側の農道のような道(写真中)を道なりに進み、丁字路(写真右)に出る。 全く旧道案内標識がないので、この丁字路を右折して20号線に出て、左折してしまった。 このころから急に雨がひどくなり、20号線では風も強くなり、さらに車の飛ばす水の塊を受けて ビニール合羽など全く無用の全身びしょ濡れになってしまった。 カメラを構えるどころか、目を開けることもままならずに木舟地区まで歩きまくった。 もう暗くなり、バスもない、タクシーもない、JRの駅も近くにない。 この猛烈な雨風の中、宿泊予定の上諏訪のホテルまで今夜中に行けるだろうかと不安になったそのとき、 突然天女のような美人が現われ、私を救ってくれたのであった。 続きは後にして、ホテルで冷静に考えてみたらこの丁字路は左折するのが正解と分り、 翌5日上諏訪のホテルから、時間をお金で買い、延々とタクシーでこの丁字路まで乗り着けた。 |
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5日AM10:34雨の降る中、丁字路を左折(写真左)し、道なりに右折し(写真左中)て20号線と平行して進む。 この辺に青柳宿跡碑があるはずが見あたらず、雨といい出発時から不調で先がお思いやられる。 左前方にはピンクのホテルメルヘンで、突き当たりで右折して20号線に出て、左折して進む。 |
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左折した辺り(写真左)に一里塚跡碑があるということであるが、これも見当たらず。 やがて地名は木舟となり、左側に立派な常夜燈と祠が並んで立っている。 昨夜この道の反対側の家の美人の奥さんが、びしょ濡れで1人歩いている私を車でわざわざ追いかけて来て、 車が汚れることも気にせず助手席に乗せ、4km先のJR中央線茅野駅まで送ってくれたのでした。 感謝!感激! 昨夜の余韻を噛み締めていると、東京から189km。 この通りのどこかで旧道は右へ入るはずであるが、例のごとく案内標識がないので入口が不明。 雨中それらしき道を探し、奧に鉄塔の見える道をこれと定めてJR中央線のガードを潜り山道を登る。 どこまでも延々と山道で、どうも方角が戻るようで、間違いと気づき慌てて戻る。 人通りはなく、沿線の民家を5、6軒訪ねたが、何故か応答なし。 偶然、車で通りかかった地元の人から、ようやくその入口を聞くことができたと言う次第。 |
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20号線をしばらく行き、左へゆるくカーブする手前(写真左)の右側にある「タイヤショップ茅野」店脇から、 進行方向と逆に登る坂道が旧道の入口。 20号線と別れ坂道を登り、突き当たりでUターンして進み、 コーナーのところに木の鳥居と大きな岩。なにやら旧道のような気配。 |
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すぐ右折し線路風景を眺めながらJR中央線横断橋(写真中)を渡り、 すぐ左折して線路沿いに下り(写真左)前方に高架道路を見て進む。 |
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ただただ雨の中を歩き、高架道路の下を潜り、早川にかかる小早川橋(写真中)を渡り、進む。 せいぜい数m巾の小川の流であるが、写真の妙でまさに一人前の滝のよう。 |
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横断橋から10数分歩き、道は県道197号線と合流し(写真右)左折し、宮川沿い(写真中)に道なりに進み、 JR中央線ガード下を潜り右折する。 |
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雨の197号線(写真左)を進み、宮川橋脇の宮川坂室信号十字路で20号線と合流し、右折して進む。 十字路の右角の草むらには、1816年(文化13)建立供養塔など多数の古い石碑が林立している。 |
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地名も茅野市金沢から宮川となり、弓振川にかかる橋を渡り20号線を北西へ進む。 | ||||||||
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