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旧甲州街道は与瀬神社の二の鳥居の前から中央自動車道に平行に、西へ向かう。 | ||||||||||||||
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数分行くと道は中央自動車道に突きあたり(写真左)行き止まりになるが、 中央自動車道のガード下の階段を下りて右折してガードを潜り国道20号線沿いに進む。 |
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20号線を2分ほど歩くと、右側に「ラーメン関所」という看板の店がある。 この右横から入る道が旧甲州街道であるが、途中で道が切れているということで ここを通り過ぎ、すぐ先にある右の坂道(写真右)を登る。 なおこのラーメン店は、「日本一まずい手打ちらーめん」との断りの看板を出しているが、 確かに手打ちでは品質が安定していないので、まずいラーメンができる時もあるのだろう。納得。違う? |
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坂道を5分ほど登ると右から合流する細い道があるが、 これが先ほどのラーメン店横からつながる旧甲州街道で、右折しUターンしてこの道を進む。 数分歩くと下へ降りる数段の階段があり、道(写真左)は沢へと消える。 ということは旧甲州街道は沢から登ってきて階段(写真左中)を上がってくるということで、 階段を上がった右側に、与瀬宿一里塚(写真右中)の立札がある。 さらにその先には「吉野宿 与瀬宿」の道標も立っている。 |
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細い道を戻り進んで行くと、先ほど登ってた道と合流(右折したところ)する。 |
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ゆるい下り坂を道なりに歩いて行くと、左手の眼下には遠く相模湖が見え、 右の道端にはとても古そうな供養碑や二十三夜塔など、そして左に馬頭観世音石碑がある。 |
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合流して10分ほどのところにも「吉野宿 与瀬宿」の道標があり、相模湖町と記されている。 2分くらい歩いたその先で今来て道と別れ、甲州街道は左側の坂道を下り南に向かう。 |
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ゆるい坂道を数分歩いて中央自動車道の跨線橋を渡り、さらに道なりに進む。 眼下には中央自動車道が見えるが、偶然なのか殆ど車は走っていなかった。 橋を渡ると一見切通のような道を歩く。 |
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橋から数分歩くと道は左にカーブし、手前に「ブレーキ」と書かれた黄色い標識が立っている。 その標識の手前から右に入り枯葉の道を歩くのが、旧甲州街道である。 ただこの分岐点には道標など一切ないので、事前によく下調べをしていかないと分らないだろう。 枯葉の道を数分歩くと、舗装された道に出る。 |
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右折して相模湖の西側の道を、道なりに下り歩いて行くとやがて人家が見えるようになり、 時には左手下に相模湖が姿をあらわしたり、人影の全くないのどかな道を歩いて行く。 |
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舗装道路に出てから6,7分歩くと歩道橋があり、その上からも左手に相模湖を見ることができる。 橋を渡り下り坂を数分行くと、20号線に合流する。 |
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合流点で右折し20号線を西へ向かい、この辺りから吉野宿となる。 吉野宿(神奈川県藤野町)は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒の小さな宿場であった。 この地域は、桂川(相模川の別名)流域のため古くは「桂の里」と呼ばれていた。 すぐの左側に、明治30年築の旅籠「ふじや」の建物を使用した藤野町郷土資料館(写真右)がある。 郷土の生活道具などの資料の展示とともに 吉野宿町並復元模型や5階建本陣建物ミニチュア(写真左)が展示されていて、無料公開。 |
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道路の反対側には本陣跡がある。 本陣は江戸時代に建てられた木造5階建の偉容を誇っていたが、明治29年の大火で焼失してしまった。 吉野家のご子孫の住まい(写真中)が奥まったところにあり、今でも屋号は「本陣」という。 右手はに本陣土蔵、さらに左手には「本陣跡」説明板。 たまたまご子孫の方にお会いし、土蔵を手入れされたら如何でしょうか、との問いに対して 土蔵の維持にはとてもお金がかかるので朽ちるままにせざるを得ないということでした。 ちなみに土蔵は大火で損傷したけれど、当時のままということであった。 |
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真っ直ぐな宿場通りを約300mほど行くと、沢井川にかかる吉野橋に出る。 資料館の町並復元図では、旧甲州街道は吉野橋から下流を迂回した橋で渡っているが現在はない。 |
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吉野橋を渡り20号線を西へ約1.5km行くと、 右手に藤棚でお化粧したJR中央線藤野駅があり、さらに進む。 |
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その先で20号線から左側に別れる細い坂道(写真左)があるが、これが旧甲州街道である。 旧甲州街道は、人家を通り、右上にJR中央線電車を垣間見て、緑の爽やかな道、 |
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仮設のような橋、山道といろいろな表情を見せる。 そして10分弱歩くとJR中央線沿いの道に出る。 |
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線路沿いに歩き、線路の跨線橋に上がると前方に中央自動車道の姿がある。 下方にJR中央線を見ながら橋を渡り、民家の敷地のようなところを横断して再度20号線に出る。 |
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左折して歩くと右側に、関野本陣跡立札がある。 関野宿(神奈川県藤野町)は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒の小さな宿場であったが、 甲斐の国へ通ずる最後の宿場として重要視されていたという。 ただ明治21年とその後の2度の大火で、当時の面影を残す建物は全て焼失しているとのこと。 |
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さらに先の右側に、永世年間(1504〜20)に開創された増珠寺の参道階段があり、 階段の左の法面には関取追手風喜太郎が1819年(文政2)の建立した「安昌久全信士」石碑がある。 喜太郎は1799年(寛政11)にこの関野に生まれ、大関まで昇進し引退後も相撲界の発展に寄与した。 また信心深く、故郷の増珠寺にも五具足、燭台などを寄贈している。 |
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20号線を進み関野町小渕の横断歩道橋を過ぎると、右へ入る坂道があり旧甲州街道はここを登る。 |
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坂道を2、3分登ると、左側に細い道があるのでここを下る。 枯葉の細い道を2分ほど歩くと再度20号線に出る。 |
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さらに歩いてその先の名倉入口信号のところで、左側に下る舗装道路があるのでそこを入る。 |
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緑豊かな小道を数分歩くと、 |
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境川にかかる小さな境沢橋に出る。 この川が相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)との国境で、この橋を渡ると甲斐国となる。 境川(写真左)は本当に小さな川で、これが国境を仕切っている川かと正直思った。 すぐ前方で相模湖に注いでいる。 |
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橋を渡り3分ほど行くと広い道路と合流(写真左中)する。 左手の相模川上流の桂川にかかる境川橋を渡らず、上野原町の標識がある右手の急な坂道を登る。 ちなみにこの桂川も相模国と甲斐国の国境となっている。 また後日分ったことであるが、このとき既に町村合併で上野原町は上野原市になっていた。 |
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道なりに左廻りに登って行くと、右下に今来た合流点付近と、その向うに相模湖の姿が見える。 三曲がりして坂道を登り切る辺りの右側の法面に、 諏訪番所跡木杭と諏訪関跡石碑が並んで立っている。 同じ意味だと思うが、関所の方がなんとなく重々しく感じてしまう。 ここは甲斐国の東口にあたる最重要地点。 説明書きによると、ここは上野原諏訪木といい、番所は1707年(宝永4)に諏訪神社前から、 境川と相模川の合流点の展望のきくこの地に移転して来たもので 42.25坪の番所建物での主な仕事は次ぎの通り。 ・通行取締りと物資出入調べ ・高瀬舟取締りと徴税 ・鶴川「渡し場」取締 ・通行手形改め ・番所坂所在茶店よりの情報収集 多岐に渡る仕事であったようであるが、特に最後の項目「茶店」には感心した。 明治4年に番所は廃止され、建物は渋沢栄一郎の別荘、後小泉策太郎に渡りその後は不詳。 |
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坂を登り切り西北に約7分歩いて行くと、右側に諏訪神社がある。 諏訪の集落は上野原宿の馬宿であったところ。 神社のすぐ先の右側に立派な建物があり、表札を見たらなんと「油屋」さん。 まさか屋号ではないですよね。 |
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その先の右側に民家があり、そのご主人から話聞きました。 民家の右奥にある大木は、推定樹齢800年以上で「街道旅の大松」(写真右)と命名したいう。 そして建物の左側の道路に面したところに、右から順に「旧甲州街道」と刻まれた石碑、 「甲府63km 東京73km」の道標、「交通安全」標識など多数並んでいるが、主人が全て作ったという。 旅する人たちに気を使っていただき、ありがとうございました。 |
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すぐ目の前には中央自動車道の陸橋があり、下を見るとやはりここでも走っている車は本当に少ない。 車も人の姿もない道を西北へ向かって歩く。 |
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2分ほど行くと右側に疱瘡神社があり、 その前に、ここが日本橋から17番目の「塚場の一里塚跡」との説明書きがある。 神社の裏に塚跡があるということで探したが、標識もなくただ竹林があるだけであった。 |
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平坦な道を一里塚から約5分歩くと新町信号交差点で、右からくるの20号線と合流する。 この辺りから上野原宿となる。 上野原宿(山梨県上野原市)は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒で甲州へ入り最初の宿であった。 20号線を150mほど行くと、左奥に牛倉神社が見える。 この神社の祭礼は9月4日から3日間開催され、勇壮な暴れ御輿などで有名で、郡内三大祭の一つ。 |
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この辺からは宿場通りの中心の賑わいを思わせる商店街となる。 さらに進むと右側にあるホテルルートイン上野原が脇本陣跡で その先の東電上野原営業センター右脇を10mほど入った所にある門構えに、旧本陣の表札がかっている。 |
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宿場通りには古い建物が結構残っていて、 道の左側の「三井屋」屋号のかかている建物は確かに当時のもののように見える。 その反対側の松木屋商店も古そうであるが、ただ単に手入れをしていないだけのようにも見えるが・・・。 |
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本町の通りの前方で道は3本に別れ(写真右)、右は33号線、中は20号線。 旧甲州街道は角にある一色屋えんびせんべい店から左に入る。 |
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淡々とした道を、道なりに10分ほど歩くと道は2つに分れる(写真左中)ので、 右の道を進むと前方に茶色の中央自動車道の橋桁(写真右中)が見える。 鶴川入口歩道橋を渡り20号線を横断する。 |
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歩道橋から右折し大月上野原線の坂道を登り、最初の曲がったところに鶴川入口バス停がある。 そこには「甲州街道史蹟案内図」看板があり、上野原宿〜犬目宿までの主な史蹟の案内がある。 道は段々高くなり、左下前方に鶴川にかかる鶴川橋(写真右中)が見えてくる。 旧甲州街道は、橋の手前の方から渡し舟(鶴川の渡し)(春〜秋は徒歩渡し)で渡った。 現在は渡し船がないので鶴川橋(写真右)を渡って鶴川宿へ行く。 |
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鶴川を渡ると右側に休憩所があり、 そこには旧甲州街道鶴川宿の石碑やこれより鶴川宿の標識があり、鶴川宿案内板もある。 鶴川宿(山梨県上野原市)は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠8件の小さな宿場であったが 宿場は大正10年の大火で、殆どの建物が焼失したという。 |
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宿通りを歩くと、「(左)上野原宿 上野山・大捫宿(右)」の道標が立っているが、 この先に大捫宿などという宿はあっただろうか?間の宿かもしれない。 塀の向うに見える白壁土蔵や古い建物などが、大火にあったとは言え昔の名残を思わせる通りである。 |
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宿通りのはずれ(写真左)の手前で、旧甲州街道は左側の民家の間から左折して道なりに進む。 そこから2分ほど歩くと、正面に「通学路」の黄色看板がある角で道は2つに分かれるので 右手の道を進む。 |
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平坦な道を歩いて行くと、左側に茶褐色が一部剥離しているが、しかし重厚な造りの土蔵がある。 きっとそれなりのいわれのある土蔵かもしれないと、思わせる土蔵である。 淡々と分岐点から約10分行くと、中央自動車道の側道(写真右)と合流する。 |
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ここで旧甲州街道は途切れてしまうが、 前方に見える中央自動車道を横断する橋(写真中)を渡るため、 右折して進みその鳶ヶ崎橋を渡り、旧甲州街道を進む。 |
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2.3分行くと右側に、たてかけてある材木の前に看板が立っているが退色と汚れで文字が読めない。 どうにか、「一里塚」という文字が判読できるので、大捫の一里塚の説明板であることが分る。 |
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さらに行くと、左へ分かれる幅広い舗装道路があり、 そのコーナーに「上野原リーサーチ&テクノパール」と刻まれた立派な石標がある。 多分工業団地と思うが、失礼ながらこういうところにも!という感じであった。 さらに進むと、路傍に廿三夜塔などがあり道は徐々に登り勾配となる。 一里塚から7,8分歩くと集落の入口付近となり、 左側に石碑とともに、「(左)上野山 鶴川宿 野田尻宿 犬目宿(右)」の道標があり、 その立杭に「大捫宿発祥の地」と記されている。 |
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集落の通りを歩いて行くと、左側に大捫吾妻神社があり同じ敷地に大捫観音堂がある。 その前の道路に面して、ひと際大きな供養塔がある。 |
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さらに進んで行くと、右側の手摺のところに「捨てるな」の看板。 当然ゴミのことであるが、周囲にはゴミらしきものはなく看板の効果があるようだ。 左手の方向にゴルフ場を見ながら、道はゆるい下り勾配となり中央自動車道の方へ向う。 中央自動車道に出ると、頭上に「談合坂SA」の文字が見えてくるが、 「談合」という言葉は今では諸悪の根源のように使われてしまっている。 本来は、もっとよい意味で使っていたのであろうが、これも時世の流れということか。 |
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左折して中央自動車道に沿い坂道を登って行くと、 左側に絵入りの「発掘調査された長峰砦跡」説明板と芭蕉句碑(写真左)、長峰砦跡石碑がある。 ここは古から交通の要所であったので戦国時代甲斐と関東の武将の勢力争いで、 この地を戦略拠点とするため長峰(山城)を築いたという。 江戸時代になり砦の傍らを通る山道が甲州街道として整備された。 ただ現在は、中央自動車道建設で甲州街道は史蹟とともに消滅・分断されてしまっている。 芭蕉句碑も、自動車道建設で発掘されたもの。 |
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その先の道端には野田尻宿の案内や、道標が立っている。 道標に従い中央自動車道を跨ぐ新栗原橋を渡り、野田尻宿へ向かう。 |
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道は切通のような所を通り、そして開けた道になり右手下方は如何にも農村という懐かしい風景になる。 |
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橋から10分弱歩くと野田尻宿の入口になり、まずは右側に立派な植栽と建物が現われる。 おまけにその玄関には、私が苦手とする大きなガマガエルまで出迎えてくれている。 なんとなく昔の雰囲気が漂いそうな宿場道を進む。 野田尻宿(山梨県上野原市)は、本陣1、脇本陣1軒、旅籠9軒の宿場で、明治19年に大火にあっている。 |
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通りの中ごろに来ると、左側に野田尻宿の石碑と野田尻宿の案内板がたっている。 その反対側には、明治天皇御小休所跡碑が立っているがところが本陣跡。 |
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道は少し蛇行して進むと突き当たり手前の左に、お玉ヶ井と刻まれて石碑がある。 旅籠の女中「お玉」が恋が結ばれたお礼に水不足で悩む野田尻の人たちのために、 土地の一角に澄んだ水を沸き立たせたといい、 またお玉の正体は龍であり、結ばれた相手は長峰の池の主の龍神であったという、伝説がある。 ここには「至る 野田尻 萩野至る」の道標が立っている。 |
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突き当たりの正面角には、派手に多くの説明書を掲示している西光寺がある。 824年(天長6)に創立の古い寺であるが、中央自動車道建設で移転し新築されている。 門前には、かゑる大明神と称するかえる像があり、うしろに立っている説明書がふるっている。 |
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