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この区間は、2017年11月24日に歩いた。 | ||||||||||||||||||
今日の出発点の神流川西岸群馬県藤岡市本郷の堤防へは、JR高崎線新町駅からタクシーを利用した。 | ||||||||||||||||||
この結果、前回の終点の神流川東岸の埼玉県児玉郡神川町肥土からは、タクシーを利用して迂回したことになった。 | ||||||||||||||||||
今日の藤岡市本郷の出発点は、タクシーを利用するにしろ徒歩で行くにしろ、現地で目立つ目印となることころがないので、 | ||||||||||||||||||
近くにある本郷地区の道中郷公会堂を目印とする方法がベターと思う。 | ||||||||||||||||||
ただ、この公会堂も、地元のタクシー会社にもよく知られていないようなので心配ではあるが…。 | ||||||||||||||||||
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2017.11.24 7時22分 JR高崎線新町駅に到着。 |
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駅前から、今日の出発点群馬県藤岡市本郷の神流川堤防へ。 | ||||||||||||||||||
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藤岡市の本郷地内でタクシーを下りて神流川堤防へ進み、 突当りで階段を上り、今日の始発点の旧道との接続点の堤防に上る。 堤防から左斜め方向が対岸の埼玉県児玉郡神川町肥土の旧道であるが、 河川敷の藪で対岸は全く見えず正面に神流川がかすかに見えるだけ。 |
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堤防から見る、今来た本郷地内の旧道 |
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堤防を下りて本郷地内の旧道を進み、温室ビニールハウスを過ぎたところにある建物角の丁字路は直進する。 丁字路角に、道祖神(左側)と馬頭観世音碑。いかにも古そう。 |
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なお、丁字路を右折した左側に民家のような道中郷公会堂。 次の丁字路を右折し、すぐ左折する。 |
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道なりに進み、右手畑の真中に「葵八幡と両側に板碑が2基」。 葵八幡と板碑:葵八幡は、木曽義仲の愛妾葵御前を祀ったと言われている。 社の両側の板碑は、1300年代初頭のもの。 向って、左側は浮き彫りにされた阿弥陀一尊立画像の板碑、右側は阿弥陀三尊種子像の板碑。 その先の突当りで、車道を横断して反対側の細い道に入る。 |
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畑道のゆるい坂道を上って下り、本郷地内を道なりに進み、美九里東小学校校庭東南の角に出る。 旧道は、ここから右斜めに進み校庭の西門前辺りに続いていたが、消滅している。 ここでは、直進して校庭沿いに迂回する。 |
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迂回経路ー1 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、本郷地内を道なりに進み、秋山工業の先で小さな川にかかる橋を渡る。 |
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この用水路のような川が、なんと一級河川という!何か謂れがあると思うが、正直ビックリ。 その先で県道13号線を横断して、反対側の細いゆるい坂道を上る。 |
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途中の変則交差点は直進する。なおこの交差点には、迂回経路で後で戻ってくる。 その先で、いろいろな物が置かれていて道は完全に塞がれていて通行不可。 この道は地図にも載っているちゃんとした公道のハズ。 6年前にここを通ったときも、物が置かれてあったがはそれでもわずかに通るスペースがあった。 旧道は直進し約150m進み、 左に曲がって藤岡市の本郷と藤岡との境界道を通った先約100m地点の丁字路辺りに続いていた。 ここでは、今来た道を戻り迂回する。 |
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迂回経路ー2 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、藤岡市の本郷と藤岡との境界道の坂を上り、突当りで広い車道に出て左折する。 |
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藤岡地内の広い車道を左眼下に藤岡モータースクールを見ながら進む。 右側に「手づくり村」吊り看板。 手づくり村:藤岡の庚申山南面を切り開いて作った有料ブルーベリー園。6月中旬から8月初めまで摘み取り体験ができる。 庚申山の裾野の坂道を上る。 |
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上りきった右側に、大きな庚申塔。 次に坂道を下り擁壁の中頃に、昭和42年に菊理媛神(ククリヒメノカミ)を祀って作られた白山神社の参道上り口。 |
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坂を下り切って車道を横断して東平井と鮎川との境界道を進み、東平井信号交差点を直進して鮎川地内に入り、 次の信号で県道13号線を横断して、「茂木歯科医院」立看板の左側を進んで車道に出て右折する。 |
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道なりに進み、突当りの変則交差点は反対側の道に入る。 交差点右側に、「正面西平井口」道標(左)と道祖神。 |
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鮎川地内を道なりに進み、突当りで右折し民家のブロック塀と鮎川公会堂の間を通り、 左にカーブして坂を下り車道を横断して進む。 |
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2011年3月11日 日本観測史上最大の超巨大地震 | ||||||||||||||||||
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当日14時46分ころ、ちょうどこの民家と鮎川公会堂の間の路上で地震にあい、 いつまでも続く激しい地面の波打ちに耐えられず、民家のブロック塀に必死にしがみつきました。 JRが終日全線運休だったため、JR丹庄駅前からタクシーでJR本庄駅まで行き、 その夜は大勢の帰宅難民の一人として本庄市役所のホールにお世話になりました。 新しい毛布に夕食と朝食と、市役所の方にはとてもご親切な対応をしていただき、今でも思い出しては感謝しております。 ありがとうございました。 |
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一面畑の中の道を進み、右手に小さな公園と公衆トイレのある坂道を上り、 突当りの鮎川の堤防道を左折して2本の白鉄柱方向へ進む。 旧道は、この白鉄柱の間の通って河川敷に下り浅瀬伝いに対岸に渡っていたようであるが、 現在は白鉄柱の間は、「進入禁止」のワイヤが張られていて通行不可。 |
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堤防の上から、左斜め方向にある白い建物(緑埜クリーンセンター)の左側辺りに続いていた。 ここでは、鮎川にかかる緑埜橋を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー3 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から今来た道を戻り、千部供養塔前を通り、その先の分かれ道は右手を進む。 千部供養塔(右側):1783年(天明3)の浅間山大爆発のあった9年後に、緑埜の斎藤八十右衛門雅朝が建立したもの。 碑には、爆発当時の模様とその被害状況(各地の降灰量、凶作による物価高騰など)が刻んである。 |
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住宅街を通り、家並の外れで道は左に折れる。 旧道は直進して上信越道を越えた辺りまで続いていたが、この間の約600mが消滅している。 ここでは、迂回する。 |
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迂回経路ー4 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、コスモ石油ガソリンスタンド前で工事中の県道173号線を横断し、道なりに畑道を進む。 |
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突当り丁字路は右手を進む。 丁字路に、苔むす石碑が並び立つ。左から順に、「刻字不詳」、「庚申燈」、「道祖神」。 道なりに進む。 |
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突当りの分かれ道は左手の坂道を上り、国道254号線に出て左折してすぐ右折し、道なりに進む。 |
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タイヨーの脇を通り、建物の外れに吉良上野介陣屋跡井戸。 突当りの陣屋跡案内板の後ろのネギ畑が、吉良上野介館跡。 吉良上野介陣屋跡井戸:忠臣蔵で有名な吉良家の領地が白石にあり、ここに陣屋が置かれた。 領主吉良若狭守の正室は流産癖があるので湯治へ伊香保温泉へ行った帰り、この屋敷に立寄り上野介義央を産んだ。 そしてこの井戸から産湯を汲んだと伝えられている。 井戸水は、毎月一回赤く染まるので「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料水にはしなかったという。(現在も、井戸水は健在。) 当地では、領主吉良上野介を敵役とする忠臣蔵は禁物とされた。(注:異議なし!) 旧道は、突当りを直進して約750m先の白石と三ツ木との境界道辺りに続いていたが、消滅している。 ここでは、老人ホームゆい2号館前を通り迂回する。 |
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迂回経路ー5 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、三ッ木地内の狭い急坂を下り、下り切ったところを左折する。 |
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突当りを右に曲がり、坂道を下り、突当りで県道174号線を横断して反対側の細い道に入る。 |
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道なりに進み、道端右にとても古そうな「馬頭尊」碑。 その先で道は右に折れる。 旧道は、直進して竹林を越えた約100m先まで続いていたが、消滅している。 ここでは、174号線に戻り迂回する。 |
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迂回経路ー6 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左折し、畑の中を通り、突当りの階段で鏑川の堤防に上がる。 |
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旧道は、(堤防上から)対岸の白い建物の右側方向に続いていたが、消滅している。 ここでは、鏑川にかかる松ノ木瀬橋を渡り迂回する。 |
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迂回経路ー7 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から左にカーブし、岩井地内の真っ直ぐな道を進み{右側)マックス岩井工場前を通り、 続いて(左側)真光寺前を通る。 |
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左にカーブして坂道を上り、その先の左にカーブするところを直進して細い道に入り、道なりに進む。 |
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小さな橋を渡ったところで高崎市山名町に入り、左にカーブして突当りの広い車道い出て右折し、道なりに進む。 |
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突当りを右折して県道200号線を進み、(左側)福言寺公民館前を通り、「日比野歯科」看板の立つ交差点を進む。 旧道はこの交差点手前辺りから左斜めに進み、ポリテクセンター群馬の敷地を通り約400m先の三叉路に続いていた。 ここでは、ポリテクセンター前を通り迂回する。 |
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迂回経路-8 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から分かれ道の右手を進み、丁字路を直進し、突当りで丁字路に出る。 旧道は、丁字路を直進し約600m先の上信電鉄山名駅西側道路に続いていたが、消滅している。 ここでは、上信電鉄の踏切を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー9 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から道なりに進み、右にカーブし上信電鉄踏切を渡り、すぐ先の丁字路を左折する。(右折すると山名駅) |
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その先の交差点を直進し細い道に入る。 なお、交差点の左手奥には、山名八幡宮。 山名八幡宮:安元年間(1175~1177年)に、清和源氏新田義重の子で山名氏の祖の山名義範が、 豊前国(大分県)の宇佐神宮の分霊を勧請して社殿を造営し、武運の神として崇敬たのが始まりとされている。 本殿・幣殿は、18世紀半頃の建造で市指定の重要文化財。 細い道の突当りで県道30号線の信号に出て、左折する。 |
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30号線を進み山名町北信号交差点を直進し、その先の(右側)電話ボックスの陰に古い2体の野仏像(分かりますか?)。 すぐ先の柳沢川にかかる小さな柳沢橋を渡り根小屋町地内に入る。 |
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柳沢橋から約200mのカーブミラーの立つ丁字路で30号線と別れて右折し、坂道を下りその先の分かれ道は左手を進む |
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道なりに進み、坂を下り高崎商科大学正門前に出る。 旧道は直進して大学構内を通り、烏川にかかる一本松橋を渡った西側袂辺りまで続いていたが、 この間の約450mが消滅している。ここでは、一本松橋を渡って迂回する。 |
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迂回経路ー10 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右に曲がり、下佐野町地内の道を進み、上越新幹線高架下を潜って「佐野一本松通り」の坂を上る。 |
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坂を上りきって佐野一本松通りを道なりに進み、 しばらく進んだ分かれ道は佐野一本松通りと別れ左手の工事中の細い道に入り、住宅街を進む。 |
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道なりに右にカーブし、しばらく進んで突当りを左折する。 左折する手前右側の下佐野第一公民館敷地内に、放光神社。 放光神社:明治時代に放光寺伝承にもとづき創建された神社であったが、実際にはこの地は放光寺跡ではなかったという。 |
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すぐ先の交差点を右折する。 なお、交差点を直進して上越新幹線高架下を潜ると、百人一首選者藤原定家を祭神とする定家神社。 上越新幹線高架沿いに進む。 |
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交差点から約100m先の分かれ道は右手を進み、墓地の脇を通って突当りを左折し、 上佐野町地内に入りその先の変則交差点を右折、左折する。 なお、交差点を左折すると常世神社。 |
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常世神社:謡曲「鉢木」に登場する鎌倉時代の武士、「佐野源左衛門常世」を祀った小社。 謡曲「鉢木」のあらすじ:一族の不正のために領地を横領され、窮迫生活をしていた武人佐野源左衛門常世のところに、 ある大雪の日、修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)が宿も求めてきた。 常世は、その修行者のために大切にしていた鉢の木(梅、松、桜)を焚いて暖をとらせてもてなした。 常世は修行者に、「今はこんなに落ちぶれているが、鎌倉に事あれば真っ先に馳せ参じるつもりだ」と、心の内を語った。 後に、鎌倉から召集がかかった時、常世は「いざ、鎌倉!」と、やせ馬に跨り古びた鎧姿で鎌倉に駆けつけた。 約束を守った常世に対して時頼は、横領された領地を戻し、 さらに薪にした鉢木の梅、松、桜に因んだ地名の3カ所(上野の松井田、加賀の梅田、越中の桜井)の領地を新たに与えた。 道なりに進み、西光寺の少し手前左側に「佐野の船橋歌碑」(奥の2つある碑の左側の円柱碑) 佐野の船橋歌碑:碑面に「かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」と刻まれている。 碑の裏面には、この歌碑は、かってここに船橋があったと伝えられた場所に、1827年(文政10)に建立された、とある。 (船橋とは、船をつなぎその上に板を渡して浮橋としたもの。) 烏川を挟んだ2つの村の長者の息子と娘が恋仲となり、夜に船橋を渡り人目を忍んであっていた。 それを知った親が、ある夜二人が会えないように橋の板をはずしてしまった。 それを知らない二人は船橋を渡ろうとして、川に落ちて死んでしまったという。 この歌碑は、その若い二人の怨霊を慰めるために建てられたものと言われている。 なお、船橋歌碑の少し先左側の坂道(←)を下った約100m先に、鳥川にかかる佐野橋。 |
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鳥川と佐野橋 |
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西光寺の横を通り、上佐野第一公民館の先の分かれ道は左手を進み、BARBERクリーン店横を通る。 なお、クリーン店角の丁字路を左折すると、太天神天満宮。 西光寺:明治2年の農民運動「高崎五万石騒動」でその舞台の1つとなった寺。 明治維新にもかかわらず、旧態以前とした封建的な藩政を行い続ける藩に対して、五万石農民が年貢の減免を求めて立上がり 足掛け3年間にわたり行った高崎藩領内全村全戸周辺諸藩を巻き込む大規模な農民運動。 |
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太天神天満宮:謡曲「鉢の木」で有名な佐野源佐衛門常世が、父の境遇と似ている菅原道真の霊を祀って創建したと言う。 現天満宮は、昭和49年に再建されたもの。 クリーン店のすぐ先で和田多中町地内に入り、分かれ道は左手を進み、その先の交差点を直進する。 交差点左角に、秩父巡礼道標。 |
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「秩父巡礼の道しるべ」立柱の脇に小さな秩父巡礼道標。その左に大きな馬頭観世音碑。 突当りで右手の細い道に入りマンション前を通り、道なりに進む。 |
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突当りで車道を斜めに横断して左折し上越新幹線高架下を潜り、出たところの車道を右折してすぐ左折し、 新後閑町地内の細い道を進む。 |
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突当りで荘厳寺前の丁字路に出る。 旧道は、直進して約400m先の国道17号線中山道の城南信号近く迄続いていたが、消滅している。 ここでは、城南小学校前に出て中山道を横断して迂回する。、 |
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迂回経路-11 | ||||||||||||||||||
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旧道との接続点から右折し、下和田町2丁目と下和田町3丁目との境界道を進み、城南総合運動場脇を通り歩道橋下を潜る。 |
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城南野球場脇を通って竜見町地内に入り、その先左側に「南無妙法蓮華教」碑が立つ妙法寺(廃寺?)。 妙法寺から約100m先のビブレ高崎マンション角の交差点。 旧道は、この交差点から右斜め方向の約400m先の高松町の城址公園(高崎城跡)の東南の角辺りまで続いていたが、 消滅している。ここでは、国道17号線中山道へ出て迂回する。 |
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交差点左角のラブリー美容室店角に、とても古そうな「道祖神」碑。 | ||||||||||||||||||
迂回経路ー12 | ||||||||||||||||||
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城址公園(高崎城跡)の東南の角辺りが、今回の上道のゴール地点。 | ||||||||||||||||||
上道は、ここから長野県を経て新潟県へ続いていたが、 参考にしている「旧鎌倉街道 探索の旅」ではこの辺りまでしか記載がないので、ここをゴールとした。 |
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なお、厳密に言えば、鎌倉時代の城は和田城(平安末期に和田義信が築城)であって、 高崎城は、江戸時代の1597年(慶長2)に井伊直正により和田城の廃城の跡地に築城されたもので、 規模も数倍大きくなっている。 和田城跡地が不詳であったが、上道は当時の高崎城の東南の角地を辺りも経由していたようであったので、 ここをゴールとした。 |
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参考までに; 歩く 鎌倉街道上道 (高崎→ 鎌倉) | ||||||||||||||||||
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